2007年9月28日

問題のありか

多くの問題がどのように自らにどのようにマイナスになるかは容易に判断がつくかもしれませんが、しかし、その問題が何なのか、を客観的に見極めることは難しいものです。


特に、マスコミやメディアも簡単に騒ぐ、結果的にあおることになることも多く、問題にはとにかく非常に敏感になるものです。しかし、敏感になることで、あるいはもう少し言えばヒステリックになってしまうことで、見失うものも多くなってしまいます。



例えば、行政の問題。さまざまな不満があることでしょう。しかし、それが何に、そしてどこに起因するのかはっきりさせることは難しいことです。市民からは、相手がどのようになっているのかはわからない、複雑怪奇な組織に見えてしまっているのではないでしょうか。そして、何より、行政自らが巨大な組織において、何がどのように運営されているか、内部の人たちも、誰も全貌をつかめてはいないのではないかと感じられます。

例えば、歴史や伝統の問題。伝統だからとアンタッチャブルな領域もあるでしょうし、歴史は大切にしなければならないのは明白ですね。しかし、守るべきか新しく突き進むか、この判断は難しいものです。何のための、誰のための歴史なのか。

例えば、制度の問題。目的を果たすために制度がつくられます。すると、制度を守らせることが目的となってしまい、制度を目的に合わせて修正してゆくことが忘れられてしまいます。

2007年9月25日

図書館長公募

長野県小布施町で図書館建設の構想があり、建築計画と同時に、図書館長が公募されています。

小布施町は長野市から長野電鉄で30分ほど北へ行ったところにあり、30年ほど前から、地元の事業家が地元の建築家宮本忠長氏と共に、古い町並みの雰囲気を生かし、展開しながら新たな建築を整備し続け、いい町の雰囲気を持ち続けています。すばらしいまちです。

ここで、新しい図書館建設が進められており、構想が出来上がっています。これから。建築家が選定されるところですが、同時に図書館長も公募されてます。図書館づくりには有能な建築家と図書館長が不可欠なのです。

以下が応募要項です。30歳以上をターゲットに募集されているようです。有能な、創造力あふれる人材は来るでしょうか?
任期付というのはどこでも採用されることが多くなりましたが、3年はちょっと???。
また、給与はどんなものでしょう。
どの程度の権限があるのでしょうか。

「新しい図書館長の募集について交流と創造を楽しむ、文化の拠点となる図書館(交流センター)にするために、中心的に従事する館長の役割は大変重要です。

小布施町では「新しい小布施町立図書館」基本構想を策定し、「学びの場」「子育ての場」「交流の場」「情報発信の場」を4つの柱として、それらを具現化する方法など準備段階から館長に関わっていただきたく考えています。図書館(交流センター)の果たすべき役割や理念を大事にし、運営に積極的に取り組む、意欲・熱意のある人を募集します。
□募集人員 図書館長 1人
□応募資格
 (1)年 齢 昭和53年4月1日以前に生まれた人
 (2)住 所 採用後小布施町内に居住できる人
□勤務条件
 (1)勤務地 小布施町
 (2)給料等 月額376,000円(他に通勤・期末・業績・寒冷地手当あり)
 (3)勤務 日数:定数内職員(一般職員)と同様(休日は不定期)時間:週40時間でフレックスタイム制
 (4)任用期間 平成19年11月1日~平成23年3月31日※任期満了後、更に2年延長の可能性があります。
 (5)その他 年次休暇等は定数内職員と同様
□試験内容 小論文と面接試験を行います。(履歴書、小論文による書類選考後、面接試験を実施)
 (1)小論文 題目「私ならこうする、協働のまち小布施の図書館」※400字詰原稿用紙3枚程度で10月15日までに願書とともに提出してください。※書類選考合格者には10月19日、本人あてに電話で通知いたします。
 (2)面接試験 平成19年10月22日(月)※試験会場時間等の詳細は書類選考合格者に追って通知いたします。
□応募方法 下記のものを願書受付期間中に持参または郵送してください。(郵送の場合締切日必着)
 (1)申込書 教育委員会にあります。(町ホームページからもダウンロードできます。) (http://www.town.obuse.nagano.jp)※「志望の動機」を必ず記載してください。
 (2)履歴書 市販のもの、写真付き
 (3)小論文□願書受付期        」

2007年9月22日

非営利組織の経営

組織に大切なもの。それは活動をある方向へ促すもの、すべてが同時に合理的に、効果的に動いてゆくための戦略ではないでしょうか。

そして、それは、非営利組織だから、利益追求を第一としないからこそ、忘れられがちです。ここに、活動非営利組織に運営、経営という概念を与えてくれた考え方があります。

P.F.Drucker 。
彼はアメリカ的と言われる非営利組織を日本にも古くからあると指摘しています。寺やPTA、各種の法人組織、、、、大学、病院、役所。
図書館や美術館も非営利組織と言えますね。

ミッション、ビジョン、イノベーション、マーケテッィング、リーダーシップ、、、そしてファンド、、。しかし、それらはまだまだ日本では一般的ではないようです。利潤を追求する、生きるか死ぬかを争う企業には当然備わっているべきものが、忌み嫌われているようです。 そこには経営的視野、つまりマネージメント能力が排除されています。

募金というボランティア業務も日本では認知されていないでしょう。しかし、そのような行為さえも、市民、支援者一人ひとりにビジョンをメッセージとして伝え、一人ひとりとつながるものであり、マーケットが何を期待しているかを敏感に感じ取る大きな機会なのであり、それはメディアを通じたメッセージ伝達ではとてもなしえない重要な戦略であるのだそうです。


それは市民という抽象的な全体ではなく、市民一人ひとりという考え方につながる、マーケットとビジョンを密接につなぐ戦略を生み出す役目を果たすものなのでしょう。

2007年9月21日

クライアント

クライアント、古い建築の世界では施主とも言われます。若干ニュアンスが違うように思いますが、クライアントと呼ぶほうが、クリアでオープンで広がりがありそうです。

私たちはクライアントから期待を受けます。だから、クライアントのニーズを実現することが業務であるかのように思われます。もちろん、クライアントの利益は守る必要がありますが、そのニーズに従うというより、「ニーズを発見する」ことが重要なのではないかと考えます。それは既知のニーズだけではなく、まだ見ぬ新たなニーズが求められているのだろうと思うのです。

それはクライアントの今に存在するというより、少し未来に隠れていると言えるでしょう。

まだ見ぬものを具体化することはとても困難なことで、想像力が不可欠ですね。だからこそ、そのためにはクライアントの声を徹底して聞く、ことが必要となるのです。聞いて、今の自分が取捨選択するのではなく、未来の自分が考え、未来のクライアントが評価するのだということを想像すべきなのです。

それはまちにも同じようにいうことができるでしょう。まちの今を語るためには、まちの少し未来を見極める必要があるのであり、そこに想像力という見えていないものを描く力が要求されるのです。しかし、その見えないものとはクライアントのすぐ後ろに隠れているものなのではないかと考えています。

僕たちにとって、まちにとって、クライアントとは人そのものと言えます。

2007年9月20日

法令順守

今、コンプライアンス、法令順守ということが盛んに言われます。法を守るということは大切なことですが、このことにより法に沿っていればいいというようになることも逆に心配です。つまり、法に沿うというマニュアル化が問題です。法とはそれほど完璧に何から何まで決めてあるものではありませんし、仮に事細かく決められていれば、それに沿うことも非常に難しくなります。少なくとも人間性が失われてしまうのではないかと感じます。

かつて、まだ国鉄時代に順法闘争という労働争議が行われていましたが、それは、厳密に法に従うととんでもないことになるという、何が悪いのかわからなくなるような行為でした。法が悪いのか、人が悪いのか。

僕たち、設計事務所はとてもまともな労働状況で働いてはいなかった、ものづくり優先、人よりももの(ここではデザインのアイデア)優先で進んでいましたので、ちょっと手を抜こうものなら、冗句で順法闘争だとよく言われていました。

こうした、「法」はさまざまに身近に存在しています。そして、その法が大きく振りかかって、身動きが取れない状況に落ちることもよくあることです。

法や約束事に縛らないことも、豊かなマネージメントをする上では考えねばならないことですね。法など吹き飛ばすほどの戦略が求められていると言えます。

2007年9月19日

個と公の関係

ホールやラウンジの片隅に電話を設置してあるスペースがかつてどこにもありました。しかも、周りから見えないように、しかし、その場所がほのかにわかるように、また、話す人の声が隣に直接響かないように、そのデザインには、工夫を凝らしたものでした。


しかし、今や携帯電話の普及でそうした個を露出させないような奥ゆかしさは陰を潜めてきました。

先日、東京への帰りののぞみの中はまるで新橋の飲み屋のように(実際に新橋で飲んだことはありませんが)、仕事(出張)帰りのサラリーマンの憩いの場となり、個が、プライベートが前面にでてきていました。

最初に話し出した二人組の話はやけにプライバシーが気になったものですが、また、うるさいなぁと思ったものでしたが、そうした会話が車内全体に広がるにつれて、気にならなくなり、むしろ活気のある、ピンクノイズのように心地よい空間を作り出していました。そこには静かに本を読む人も、仕事に疲れて休む人も含めて、多様な生活、活動があふれていたはずです。

パブリック、人の集まる公の空間とは、つまり町や広場や街路や、、、私たちの身近な多くの空間がパブリックと考えられていますが、程度の差はあれ、それは個の空間の重なりでもあります。また、それは音だけではなく、においや視覚情報、空気、雰囲気なども重なり合った壮大な世界となっています。


そうしてこそ、抽象的な、無性格な空間ではなく、魅力ある身近な公的スペースが生まれるのではないでしょうか。そこに、市民の集まる意味が出てくる。それがパブリック。

そのパブリックな空間を程よく、関係付ける、バランスをとるのがコミュニティであり、文化であるのだろうと考えています。ピンクノイズのようなパブリックを目指して。

2007年9月18日

入り口としての図書館

静岡市の図書館をよくする会(草谷代表)との交流の中で図書館協議会の代表を努める平野雅文氏とお会いしました。静岡では図書館行政において、同じビジョンを持つ、多くの同士がいろいろな側面から協働することで、大きな成果を挙げています。

彼らの主催する昨年度の講演会の資料を聞かせていただきました。
ひとつは平野氏の「動物園の入り口を、図書館と考える」、もうひとつはこの平野氏と阿曽千代子氏、常世田良氏の鼎談、「図書館って本当に必要ですか?」と題する講演でした。

平野氏は、動物園へ行くときに、いろいろと情報を調べていく、書籍や絵本、音の入ったCD、写真集などから動物園を想像してでかけていくそうです。用意周到、知識欲の旺盛な方です。つまり、いろいろな情報から「仮想動物園」を描いてゆくことで、本物の動物園以上の大きな楽しみを堪能されているようです。

彼にとっては、図書館とは仮想の動物園であり、同時に仮想のさまざまな可能性を持ったものなのです。入り口としての図書館の向こうには膨大な世界が広がっている、使いようによっては膨大な活動の場所となるのですね。

すべてのものに、こうした入り口を考えてゆくとき、多様に積み重なった豊かな図書館の働きが見えてきます。今、仮想の膨大な可能性を自ら狭めるのではなく、広げてゆくことが必要のようです。

社会と自分との接点はいろいろとあります。社会へ入る入り口、をみつけること、そして用意しておくことがとても重要なことです。そのひとつが動物園である。

でも動物を語りだす時の彼の熱意は、それはもしかしたら図書館の司書ような役割を持ったものと感じられました。

読むための図書館ではなく、「語ること」 そこにこそ図書館の使命があるのではないでしょうか。

2007年9月11日

組織の意思

報道番組はどこのTV局でも力を注ぎ、それぞれ、独自性を持っています。一人のキャスターの個性がその方向性を描いているようにも見えますが、キャスターをプロデュースし、番組の方向性を生み出している、生み出し続けているバックオフィスが大切なのだと思っています。そのオフィスの中にこそ、リーダーが存在し、チームでの活動の中から独自の政策が生まれてくるのではないでしょうか。

一人の個性や演技によって作られるのではなく、その背後の集団の能力によって、大きな活動が推進されることが不可欠のようです。

かつて、硬直化した大きな企業は部門を越えたプロジェクトチームやプロフィットセンターをつくり、独立させ、自律させ、自らのイノベーションを行いました。

今こそ、そうした組織体の中にあってメリハリのある、独自の政策を生み出せるチームを抱え、育成する必要があるのです。それは行政や大きな組織体のトップではなく、実際に活動の中心となっている中間的な組織、行政でいえば、図書館長、企画課長、市民協働課長など、中間的リーダーに不可欠とされるものになります。

単純な一方向的な組織体ではなく、考え、行動する組織体、組織としての図書館長によって、どのような館長が来ようとも豊かな活動が保障されるのではないかと考えています。逆に言えば、組織としての図書館長が自ら館長を厳選すればいいのです。

それは誰がどのように入れ替わっても存在し続ける「モー娘。」のようでもあります。

2007年9月10日

リーダーシップ

昨今、ボトムアップということが言われます。とても、心地よい言葉であり、社会にとっても、組織にとってはとても大切なことです。それは組織がフラットで横につながる、とても創造的な組織といえるでしょう。


僕の身近な組織や社会にも、ボトムアップといわれ、一生懸命に動いているスタッフが大勢います。誰が責任を持って将来を見据え、今を語るのか。そこが問題なのではないかと考えますが、しかし、このことによって、責任者がいなくなってしまったかのようにも感じます。責任といっても職を賭してという意欲のことを言ってるのではなく、自らの行動をどのように評価し、次の一手をどこへ向けるかという実践的な側面が大切なのです。

リーダーが将来像なく、スタッフへやるべきことを丸投げし、同時に責任をも丸投げしているように感じることもしばしばです。それをボトムアップといっていないでしょうか。

ボトムアップで、任されたスタッフは意欲にあふれるはずですが、しかし、大変な責任を負っているはずなのです。この部分が中途半端になっている組織は多いですが、ここからはビジョンは生まれてこないでしょう。

大学という組織もそのような中途半端な組織ですが、また、行政も同様にそのようなものではないかと感じています。リーダーシップが必要とされながら排除されているのです。でも、個々のリーダーシップ、そしてそれを束ねるリーダー、今どちらの組織にも必要なのではないでしょうか。

2007年9月7日

縦割り組織をつなぐもの

役所で担当してくれる部署が見つからず、結局なにも出来なかった経験のある方は多いと思います。行政だけではなく、大きな企業においても同様かもしれません。

「私は三年前から二月二十二日のランチタイムに市役所の職員の方及びお昼にたまたま市役所に訪れて下さった市民の方に向けてロビーコンサートをしていますが…、第一回を行うのは、とても大変でした。ロビーは、どの課が担当するのかが解らず、まず生涯教育の講師登録をさせて頂いているので、生涯教育課に相談に行くと→コンサートだから広報へ→と言われて広報に行くと→建物の使用許可は財産管理課へと言われ→財産管理に行くと、ロビーにも、色々あって、正面ロビーは複数の課が管理しているので、たぶん駄目ですが、奥の情報ネットワークセンター、一階ロビーはIT課が管理しているので、IT課へと言われ→IT課に行くと、ロビーの使用には財産管理へと言われ…でも今財産管理からIT課に行く様に言われたと…、生涯教育から始まって、あっちこっちと言われて、いったい何処でどなたに伺えばよろしいでしょうか?!と…くたびれてしまった私は、せっかくお話しを聞いて下さってるIT課の当時係長さんに、半ば怒って質問した所…『あちこちへと…それはお気の毒に…解りました情報ネットワークセンター一階ロビーでしたら私の判断でお貸ししましょう(^-^)vと、話が決まり、千人のハープコンサート予定の2016年まで毎年、行える様になりました(^-^)v」

というような大変な思い、理不尽な思い、半ば不信感のような思いを感じた人も多いでしょう。しかし、むしろこのような経験を通してこそ、行政の複雑な(というほどではありませんが)分業システムに風穴を開けることが出来るのではないでしょうか。

長年積み重ねられた旧態然とした役割の分担では扱いきれなくなってしまった行政の縦割りをつなぐもの市民独自の多様な活動ではないでしょうか。この有能なIT課の係長さんのおかげで一つの活動は日の目を見たかもしれませんが、実際には各課が反発し、衝突した方が次ぎにつながったかもしれません。

しかし、このことはどのような組織や企業でも同じかもしれません。
進んだ企業ならば、プロジェクトチームを作り、新たな遊撃的なチーム、たとえばプロフィットセンターがつくられて、各部門を超えた業務が推進されたことでしょう。

まちづくりにおいては市民の部門を超えて、内部に入り込むことによって、つないで行くしか道はないのです。ここに、真の市民と行政との協働の意義があるのだと感じています。

2007年9月4日

メディアの役割

メディアとは、MEDIUMの複数形であるMEDIAのことであり、それが示すとおり、中間に位置するもの、媒体を表わしています。しかし、この中間的立場にいることが非常に難しく、試験体、被写体、に大きな影響を与えてしまうことはよく言われている問題でもあります。


昨今のメディアの報道や取材においては異常な状況が生じていますし、また、たとえ、メディアが客観的で無色透明であったとしても、逆にその価値を見出すこともできないのではないかと感じられます。生の姿を描写すること、それがとても難しいと感じられます。


メディア、媒体とは中間に位置するというだけではなく、少し視点を変えると、何かと何かをつなぐことが重要なのですね。では何をつないでいるのでしょうか。メディアが成熟すればするほどわからなくなってくることもしばしばです。新聞社はそのスタイルが昔のあまり変わらず、伝えたいことはシンプルに見えますが、TVは多様化が進み、その主張はあいまいになっているように感じます。


メディアのこちら側には視聴者がいて、市民や国民があり、向こう側には社会や情報が潜んでいると言えるかもしれません。ただ、メディアの向こう側にある存在を社会や情報であるというのは簡単ですが、何を、どのように伝えるか、伝える側の姿勢がメディアの、そして同時にコミュニティシンクタンクの課題でもあると考えています。

2007年9月3日

図書館とまちづくり

図書館づくりとまちづくり、そこにはただならぬ関係の存在が見えてきます。

図書館づくりを真剣に考えてゆくと、地域に浸透するネットワークを考えることになります。市民一人ひとりに情報を提供するのだという強い姿勢が図書館の生命であり、そのことによって逆に図書館には町のさまざまな情報が集積することにもなるのです。

また、生涯学習拠点や福祉施設や病院においても、どのような施設においても、あるいは組織においても、同様に、市民一人ひとりを考えてゆくことで、そのつながりの中に組み込まれてゆくことができるのでしょう。市民一人ひとりとつながりを持とうとする時、そのつながりによって、まちのつながりの中に組み込まれてゆきます。

だからこそ、図書館を考えることは、まちを考えることであり、それはCITYHALLを考えることにもなります。(庁舎というべきですが、日本にはそのほとんどが行政上の手続きを行い、管理業務を行うだけの事務所であるので、行政本来の、また市民本来の活動拠点としての庁舎が必要と考えています。)

図書館とCITYHALL(庁舎)のあり方は共通の方向性を持っているのではないと考えるようになりました。また、同時にそれは図書館長と行政の長(各部署の責任者くらいの意味ですが)の役割にも共通することで、マネージメント力、プロデュース力を発揮できるそのしくみと場が不可欠です。

一人ひとりの市民を考えてゆくとき、中央、周縁、拠点、移動、訪問、さまざまに必要となる形態が展開してゆきます。それが図書館の基本であり、同時にそれはまちづくりの基本であると感じられるのです。

未来の図書館の形を考えるとき、同時にまちのあり方、まちづくりのあり方をも提言することになり、そこに社会的な役割が生まれてくるのではないかと考えています。

中間性媒体としての図書館長

前原の辻氏を訪れて、今回も2つの図書館を訪問しました。
前原市図書館は辻氏が活動して生まれた図書館です。図書館自体はまだまだ、小さく、これから新たな運動を進めてゆくということですが、ここには、参考なるネットワークが作られていました。
公民館を中心に、その一部を市民が借り受ける形で小学校区ごとに文庫が開かれています。地元の活動家が長い間の活動の中で育んできたもの、地域の均衡化のために望まれて生まれたもの、その出発点はそれぞれですが、連絡協議会儀によって、横にも、図書館ともつながれているようです。
その将来は困難な問題も抱えているかもしれませんが、市民の独自の図書館の将来像となる萌芽を感じてきました。
また、伊万里市民図書館、犬塚まゆみ館長にお話を伺ってきました。質問事項をいくつか用意し訪問したのですが、お会いした途端、細かな質問より、犬塚氏ご自身の考えを聞きだそうと方向を改めました。


すばらしい図書館にはこのような、しっかりした考えとそれを語ってくれる館長がいるものです。また、いづれも、訪問者を暖かく迎えてくれます。今回も時間を忘れるくらいに語っていただきましたし、私たちの考えもじっくり聞いていただきました。
彼女はもちろん、伊万里市の市職員です。しかし、言葉の端々には、行政と図書館と市民という独立した図式が感じられました。その言葉通り、今やどこの図書館の悩みである非常勤職員の任期を行政と闘い20年としたそうです。
こうした背景の下、リーダーとして、スタッフに考えさせる余地を残し、スタッフを育てながら図書館運営が行われています。

また、伊万里市民図書館の館長室は貸出カウンターのすぐ横、ガラス張りの部屋になって、誰でも入れるようになっているし、また、全館を身近に見渡せるようになっています。館長室が前線基地のようになっているのです。



しかし、このように闘っている館長は多くはないようです。むしろ、行政を代弁し、職員としての立場を守り、市民と闘っているのが多くの図書館長なのではないでしょうか。

予算を確保する、やりたいことをやる、スタッフの待遇を確保する、、スタッフを育てる、選書を自ら行う、、、、、など。つまり、図書館長もひとつの中間性媒体として、独立した行動をとっているのです。そうした図書館長の下にこそ、本物の図書館は生まれるのだろうと思います。



こうした本物の図書館こそ、まちのさまざまな情報が集まり、拠点となって、まちをつないでゆくのです。
それこそ、図書館。
市民が図書館をつくると言いますが、しかし、図書館長こそが図書館をつくるのです。

2007年9月2日

中心と周縁/前原記

いくつかの仕事が重なっていた8月の後半、図書館活動家で、真夜中の図書館の著者、辻桂子氏と交流を進めるため、福岡県前原(まえばる)市を訪問しました。 前原市は福岡市の中心部から地下鉄空港線で約40分くらいの位置にあります。今は福岡市のベッドタウンにもなっていますが、近くの糸島は僕自身はずっとあこがれていた「海の階段」と名づけられた篠原一男の設計となる住宅があることで記憶の中にあったところでしたが、入り江や半島が重なり、別荘地やマリーナが点在する豊かな景勝の地で、 居住環境としてもすばらしいところです。












前原市は後背地を山で囲まれ、そこから地形の流れが中心部から半島の平地部へ、その先の海も感じられる、すばらしい町でした。山側はベッドタウン化による宅地化が進んでいますが、その流れが今中心部の高層マンション乱立へつながり始め、この前原も町の将来構想を考えるときが来たように感じられます。山から海への大きな流れをこの開発が台無しにしているようです。町の中心地に立つと地形の流れに沿って、風の道を感じることができます。

町の特性を見極める必要があるのですね。 中心部と周辺地、海に向かって広がる周辺地をどのように関係付けるか、同時に地元住民と新規住民のコミュニティをどうつなげるか、問題のようです。

辻氏は前原市で長い間、図書館建設活動を進められて、小さな図書館建設後も更に図書館のあり方を研究されています。

図書館のあるべき形、前原市での図書館の構想、そうしたものを語るうちに、それは町自身を語ることが必要になることがわかってきます。図書館もその姿を変えつつあります、変えてゆかねばなりません。しかし、それをしっかり考えることがまちづくりにつながるように改めて感じてきました。

中心部、周縁部、そのまちのつながりをつくるのは、そうした多くの市民を受け入れる図書館ではないでしょうか。

新しい未来の図書館を形づくる構想が協働で始まりました。