2007年11月24日

建築という場所

あいかわらず、まちを建築がつくるという人もいます。特に建築にかかわる人たちのなかで。

それはある意味で間違いであり、箱モノと言われる所以ですが、一方で建築というのは根本的には人の活動を生み出す場所であり、生活を営む装置であると考えています。そして、何よりさまざまな文化や歴史や価値観を次代に引き継いでゆくモノです。それは抽象的な理論でも透明なシステムだけでもない、人がそこで 活動するための現実の場所です。



かつて、箱モノと言われた美術館不毛の時代がありました。地方に同じような箱物、内部はホワイトキューブ、外部はデコレーティブな美術館が横行していた時代が少し前までありました。それは同じように劇場でも、会議場でも、図書館でも、、、、、。

しかし、地域と美術活動をつなげる市民を中心とした活動が各地で行われ始めました。

越後妻有トリエンナーレ「大地の芸術祭」、ベネッセによる直島の開発、花巻イーハトーブミュージアムなど。金沢の21世紀美術館も市民が自由に訪れることのできるこれまでにない美術館です。それらの新たな方向が美術館の可能性を新たに生み出していると言えます。

美術館においてはその箱物現象は打開してきたのではないでしょうか。同じようにただの箱である建築が、何かを引き起こすために、ただの箱をどのように組み合わせれば、新たな美術館の活動が生まれるかを十分吟味してあります。

こうした建築によって新たな活動形態が生まれることが大切です。そこが建築家の能力、デザイン力なのです。

2007年11月23日

おもしろさと現実性

建築のデザインやものづくりにおいてよくあることですが、体験的に会得したことを言葉で伝えることは難しいと感じることが多々あります。

ひとつは「おもしろい空間」です。それがどのようなことかということですね。おもしろいとは変わった、普通とは異なる、というようなことに近いです。僕はかつてよりずっと面白い空間を追い求め続けています。

それは普通のモノに対して不満を感じるところからスタートしています。もっと合理的で、スマートなものをできるだけ、常識や決まりごとから逃れるように取り組んでいくことから面白いことが始まるのだと思います。常識や決まりごとは現実の世界のことですが、また同時におもしろい空間も近未来的に起こり得る現実的なことなのです。架空の、絵空事ではありません。

もうひとつは「現実性」です。ゼミの学生からの質問でどこまで現実的である必要があるかを聞かれました。答えが非常に難しいです。現実的であって、その中からどれだけ現実性を超えられるか。

現実的であるべきで、同時に現実から逃れるべきであり、、、、。悩み深いものですね。

2007年11月21日

権威の行方

ミシュラン東京が刊行されて、東京の「食」事情が世界的であることが証明されたといっている専門家、批評家も多いようです。果たしてそうなのでしょうか。案外、フランス文化はアメリカ的であるより、ずっと日本的であるだけかもしれません。

しかし、権威によって明らかになった「食」の序列ですが、その権威を打ち破るようなケンケンガクガクのコメントが、もうすでにWEBネットワークを駆け巡っています。アナログの権威と民衆によるデジタルでの評価。そのギャップが生まれています。当然ですが、、、。

近年、この民衆によるデジタルでの活動が社会を変えつつあります。僕たちのコミュニティシンクタンクもその趨勢に支えられていきます。

このようにアナログの権威を簡単に打破し、情報をあまねく、そして即座に伝えるデジタルネットワークがそのひとつです。この新たな情報ネットワークによって、市民と市民は簡単につながり、情報を共有しています。情報の共有が権威を揺るがし、打ち破るのです。

もうひとつは、上から与えられると考えていた国家の予算、行政の予算が実は民衆の税金の積み重ねであったと理解したとたん、それは与えられるものではなくて、預けてあるものだというような認識が生まれ、漠然とした政策というものを、市民一人ひとりが身近に感じるようになったのではないでしょうか。

このWEBネットワークの時代において、情報と金が市民に開放され、さまざまな既成の権威を打ち破ってきました。

あと、小選挙区制度で幾分デジタル的になってきた(白か黒か、右か左か、二者択一的になったのですね。)政治の世界が市民の手に落ちれば社会は市民のものになるような気がします。
この選挙制度が全面的にデジタル化され、すべての市民に開かれれば(今でも建前的には20歳以上のすべての市民に開かれていますが)、市民は政治を手にして社会を変えることができるように感じられます。

21世紀は肥大化した権威の時代ではなく、もっとやわらかな市民の時代なのではないでしょうか。

2007年11月14日

巨大組織の末端

京都の中心部です。下辺中央がJR京都駅、右辺上端が東山3条、中央上端少し上に京都御苑があります。横幅約4kmほど。

前から気になっていたのですが、京都中心部には郵便局がひしめき合っています。赤い点が郵便局です。その数は東京の比ではないはずです。多いほうがいいに決まっている?でしょうか。

民営化により過疎地の郵便局は廃止の危険性が高いと言われています。しかし、このいびつなネットワーク、しかも、その各店舗の性能に対する不満は利用者から頻繁に聞かれるところです。これだけ、きめ細かなネットワークが張り巡らされていながら、身動きが取れなくなってしまっているようで少し気がかりです。


このように、僕たちの周りには多くネットワークが張り巡らされています。

デジタル社会の基盤となる光ネットワークもそのひとつですが、現場は案外心もとなく、また非常にアナログの世界です。地域の様々な(小さな)阻害要因をひとつずつつぶしながら、インフラを積み上げています。(信じられないことですが、、)
一方で、コンビニは京都でももっと多いですが、各店舗ごとに経営者が独立し、独立採算しています。だjからこそ、競争も盛衰も激しいのでしょうが、しかし、それぞれの経営者は健全であり、元気です。

巨大な組織のネットワーク、僕たちのまわりのネットワークを気にかける必要があるようです。その巨体を支えているのは末端のネットワークの小さな構成要素なのですが、案外もろいと感じるのです。

2007年11月10日

官と民と公

岡崎図書館倶楽部が主催する図書館協会理事で浦安市図書館の元館長として有名な常世田良氏の講演会の最後の20分に立ち合うことができ、その後直接お話を伺いしました。

今回は真夜中の図書館の著者辻氏と協働で進める図書館プロジェクトについて意見をお聞きしたかったのです。

日本には公(パブリック)がない、官と民しかないことが問題なのだと、公とは官のことではないと、再認識することができました。また、官を主導する図書館支援者もいるし、また民の活動に図書館の行方をシミュレーションする活動かもいます。そして、僕自身、今そのハザマにずっぽりと、白か黒かのハザマにずっぽりとはまっています。
しかし、彼はその間でいい。、グリーンでもピンクでもいいと言います。

もともと、公(パブリック)がないのだから、これからつくることになるのです。だから、官でも民でもどちらでもいいというのではなく、新たに築く必要があるのです。すこし自由になれた気がします。

パブリックとは何か、その意識、価値観、その文化をはぐくむ必要があり、その先頭にたって突き進んでゆくのがコミュニティシンクタンクなのではないでしょうか。

2007年11月6日

ワークショップの行方/多様性を融合すること

かつて、新図書館のワークショップに立ち会った時のこと。

子供図書館部分のありかたが問題となった。ある人は子供図書館は明る開放的にと言い、別のある人は閉鎖的にと言いました。その人は自らを幼児研究家と名乗り、見られることによる情緒の不安定になることを避けるべき、そのためには閉鎖的に計画するべきと持論を述べられ、その場は、閉鎖的な方向へと傾いてしまった。幼児研究家という肩書きを皆が感じ、そのような方向へ向かわせたのかのしれませんし、それで間違いがなかったのかもしれません。

しかし、今でもそのことを後悔しています。子供図書館とは暖かで快適であるべきです。開放的な空間でも閉鎖的な空間でもなく、子供図書館として、異なる、そして本来のあり方を新たに見つけるべきだったと。

子供とはどうあるべきか、様々な考えがあります。しかし、ワークショップでは既成の考えから一旦離れて、白紙の状態で考える必要があるということですね。そうでないと、二者択一、右か左かどちらの考えを採用するかに追い込まれてしまいます。どちらも正解ではないのです。

どちらが正解なのか、自らの主張を強力で競争的な理論構築によってぶつけ合うのがディベートであるとすると、それとは180°異なり、

多くの利用者が参加し、多様な考えを提出する中で、これまでにない本来の意味を見つけ、新たな価値観を生み出す作業がワークショップという集団的創造行為なのですね。

2007年11月4日

サポーターとプレイヤー

サポーターという言葉は快い響きです。ただ、そのサポートを強要したり、ある方向へ誘導したりすることがよくないのだと思っていたのです。



しかし、まちづくりの現場のなかには、サポーターという言葉のすぐ横にはプレイヤーという言葉があるようです。「サポーター」とそれとは異なる「プレイヤー」とあえて語られるとき、その二つの間には大きな断層が感じられるのです。心地よいと感じていた言葉が一瞬でたいへんショッキングな言葉へと変貌します。



まちづくりにおいて、サポーターとはボランティ活動によって行政を支援する市民たちでしょう。では、プレイヤーとは誰なのでしょう。それは、行政マン、図書館など公共施設の職員、公共施設(そんなことはないはず)、あるいはシンクタンク、、、???



すべてがプレイヤーであり、同時にサポーターであるでしょう。



サポーターとして特別視されているかのような市民のみなさん、あなた方のそばにはプレイヤーという得体の知れない主体があるのですよ。

2007年11月3日

ワークショップの役割

今、ワークショップに注目が集まっているようです。大学など登校して学ぶところではないというのが僕の信条ですが、行きたくても来れない学生も多くなってきたようです。わが大学でも不登校気味の学生に対し、ワークショップを取り入れることで打開を図ろうと、有志が集まって研究会が立ち上げられました。


「ワークショップ 偶然をデザインする技術」には、ワークショップの現在の目的が自己啓発、身体表現、社会的合意、創造力開発系の4つの方向性により説明されています。


工房(ワークショップ)での多くの人の活動を通して行われた意見の収集や創作活動が、今や多様化し、様々な分野で応用されてきたのでしょう。


しかし、まちづくりなど一部の分野では市民の総意を表わす手段であるはずのワークショップに大きな猜疑心が投げかけられています。行政の思惑、その強者にすりよるコーディネーター、それによりかかる極一部の市民など、問題は見えつつあります。



「ワークショップ 偶然をデザインする技術」では、ワークショップの本質が創作のプロセスになぞらえることによりうまく説明されています。


創作においてはまず、様々な検討を行う、つまり多くの情報をインプットする。そのまま、それらの中からどちらかの方向を選ぶのではなく、それらを一旦、おいて、自由な気分や別の作業にふける時に、新たなアイデアが浮かんで来ることも多い。

遊んでいるとき、何かにふけっているときに現れるインスピレーション、ひらめき。それを生み出すシステム、それがワークショップなのかもしれません。

いろいろなアイデアを出していった時にそれは既成の価値観のなかで考えていても新たなものは出てこない。でアイデアを生み出していても、  だから創作活動を行うということはひとつのアイデアを考えることではなく、別の新たな社会の価値観を生み出すことなのである。



それと、同様に、ワークショップでの重要なことは、多様な意見が生じてきたときに、枠を緩めることが必要です。規制の枠を変えない限り、ワークショップの多様な情報は生かされない。拘束ではなく、自由。既成のこだわりを捨て、いろんな過去の意味を捨て中立的立場に立って、進めてゆくことが必要である。

緩めたときに多くの情報が生きた形に生まれ変わる。そこにこそワークショップの意味がある。

古い価値観を守ろうとする組織には不向きだなぁ。大学も行政もNPOも。

2007年11月2日

経済から文化へという貧困さ

岡崎をこよなく愛し、行政や出先機関のようなNPOの捕虜となっているような市民へいつも危機意識を提言されている建築家北野氏との書信の中でいつもいろいろなことが気づかされます。


「今ふと気づきました。僕は文化が町を活性化するなどということは間違いだと。
それは年金によって生活の安定した高齢者にはそういう場合もあるかもしれませんが、多くの人たちは生活をする必要があります。その生活を豊かにする必要があります。肉体的にも精神的にも、社会的にも、生活のためにも。

かつても30年ほど前、中心商店街の活性化のため、古い木造建築である岡崎藩の藩校「允文館(いんぶんかん)」を壊して、巨大なショッピングセンターである岡崎シビコができた時には、文化や歴史では何もできなくて経済でまちを活性化しようとしたはずです。しかし、それが実を結ばず、しだいに枯れてきました。すると、今度は文化だと言って、大きな文化公共施設を町の真ん中に建てます。無理やり、市民を引き込んで、それは間違いないものだと主張します。市民を巻き込んで一蓮托生にします。市民を豊かにするより、大きな古い木を切ろうが、伊賀川の土手を壊そうが、人が集まろうが、集まらなかろうが、、 そんなことはどうでもよく、とにかく前に進むことが重要なのです。

それはシビコを作る時に、周りの小さな商店街がどのようになろうか眼中になかったのと同じです、、、。
すべて同じ発想です。

経済か文化かではなく、経済も文化も、という発想で、福祉も歴史も同時に町に取り込んでゆく必要があるのではないかと思います。それがコミュニティです。

ところが、岡崎では、文化の次は都心再生です。

今度はこの言葉に振り回されるでしょう。これにかかわる都心ではシンクタンクなどと称する組織を作って利益を誘導するため行政から補助金を集めています。今度はこれで岡崎はずたずたになるでしょう。すでに中央図書館や婦人会館が廃止に追い込まれています。

政府が1万人の町にも、5万人の町にも、10万の町にも、38万の町にも、80万の都市にも同じように、都心再生を促す(金をばら撒いて)からです。また、同じような規模でも岡崎と豊橋ではその状況は大きく違うことでしょう。

(北野氏の推奨するように)これらにかかわらないことも大切ですが、むしろ、市民がなすべきことは文化や経済などと区別せず、団塊の世代などと祭り上げるのでもなく、そうした区別なく、地域のありかたに目を向けるべきではないでしょうか。そのような目を持っていらっしゃる方も大勢います。図書館倶楽部にもいらっしゃいますし、もっと他のところでも活動をされています。それが岡崎の素晴らしいところです。
そういう人たちが活動できるように、活動を展開できるように進めてゆくこと、バックアップすること、協働すること、応援することが大至急に必要のことのように思います。

行政の管理下の元で楽な活動を行うことは容易いです、また、まったく無視をすることも忍耐力があれば容易いことです。ただ、僕が考えていることは行政と反目することではありません。

まず、自分たちが必要と思うことをやりぬく覚悟とその情熱、使命感です。そこにこそ、本当の哲学があるのです。哲学と言うより「人の姿勢」です。それを持っている多くの市民を僕は知っています。彼ら彼女らと意識を同じくすることが必要です。また、有能な、柔軟な行政マン、行政ウーマンにも僕は出会っています。行政もいろいろです。そういう人たちを市民が見つけ、確保してゆくことも必要です。そういう、岡崎を愛する普通の行政マンは支えてくれると思うのです。期待しましょう。」

2007年11月1日

知ることと知らないこと

一般的なまちやひとのこと、風土や歴史のことだけで、まちを分析する**総合研究所など中央のシンクタンク。


まちの情報が**総合研究所の自社のフォーマットに書き込んでゆかれるのだろう。まちを研究し、分析する手法には共通の理念もあるし、類似性もあるでしょう。どこの町にも共通する本質的な問題も確かにある。しかし、それは個別の地域固有の問題を語り合う中から、共通の概念として得られるのであり、フォーマット化された書類の上での出来事ではないと思うのです。

しかも、この中心市街地再活性化構想はいったんつくられると、若干の見直しはするもののそれを無条件に推進されることも多い。自分たちの歴史や風土など巨視的、抽象的視点によって吹っ飛んでしまうのである。


しかし、一方で、まちづくりにおいて、さまざまな関係を知りすぎているから、まちづくりにはかかわれない、という人に出会うことがあります。 僕たちがどれだけ市民や行政の動向-市場調査を深く行いたいのか、行わなければならないのかがわかっていないのですね。まちや地域、その市民を知るということがどれだけ尊いことかが見えていないように感じられます。

さまざまな関係を知りすぎているといっても、行政に委託されていると行政サイドの関係しか知り得なかったり、企業サイドの関係しか知り得なかったりするものです。しかし、基本は市民サイドであるはずです。

まちづくりとはまちに潜むそうした関係を十分知った上で、なおかつその関係(利害や利権に関係する人たち、専門家にはステイクホルダーと呼ばれています。)の中立にたって、かかわることこそ、まちづくりの基本精神なのではないでしょうか。