2007年12月21日

誰のためのマネージメント

かの前首相が参院選に敗れた後は、「野党のみなさまの声をよく聴いて議論を重ねてゆきたい」と述べるようになっていました。次の首相もそのように述べ、述べざるを得なかったのでしょう。しかし、この言葉は野党が小数であるときにこそ述べねばいけない言葉ですね。それがリーダーの資質でしょう。

また、先日不祥事を起こした老舗料亭が「先代に怒られる、申し訳ない」と悲痛な叫び声をあげられていましたが、小さな声を聞き逃していたために、起こった事件でもあったように思います。大きな力が小さな、しかし、現場から起こる声を逃してしまったのです。

もっとも、それ以前に国民や消費者があることは当然ですが、、、。

長久手まちづくり研究会の渡辺さんの経験から、役所へ陳情に行くと、「あなたは市民の代表者ですか」と言って断わられることが多いそうです。代表とは何か。多数を占めることなのか、その多数の声の一面的な方向を見据えることなのか。大きな声は聞くが小さな声は知らないと言うのか、、、、。

大きな声にはへりくだり、小さな弱い声には、それがどれだけ価値あるものか、吟味さえできないでいます。マネージメントの末端も中枢もその資質が問われています。

小さな声を聞き取るアンテナ、陳情をマーケティング資料と考える想像力、個人だとできることが組織の枠にはまるとできなくなる、組織の資質が問われているとも言えます。

一人の市民に対して、あなたは市民を代表しているのかと問うことは、あなたが組織を代表しているのかと逆に問われているのです。   しかし、そのあなたこそが組織を代表しているのです。そう考えることが責任を持ったいい仕事につながるはずです。代表しているのは市長でも、社長でも、上司でもなく、市民一人ひとり。

2007年12月20日

賞味期限

07年最大の話題かもしれません。そして、今後日本の重大な課題のようにも感じられます。


かつては自ら、あるいは年長者に聞きながら、恐る恐る判断していたものをこのデッドラインのおかげではっきりと自信を持って判別できています。しかし、はたして、それは正しいのでしょうか。あるいは正確なのでしょうか。



明確なデッドラインなど設定できるということは、たぶん、昔の手作りの品から、工業製品のように精度の高い、均質の商品になってしまったのかもしれません。


牛乳もかつて手づくりの生の品だったものが、ホモジニアスな、均質な加工乳になって、多くの人に親しまれるようになったようです。また、卵も工場のような人工環境の下で鶏を生む機械のようにして製造され、鶏肉もブロイラーから均質な肉を生産されています。しかし、そのホモ牛乳もノンホモ牛乳が望まれ、本当の自然の卵や鶏肉も望まれるようになっています。それらは季節や牛や鶏の体調によって品質が変わってくるようです。


あいまいな人間的なよさを持った生の品を工業製品のように扱えてこそ、デッドラインも意味あるものとなります。言い換えれば生のあいまいなものい厳密なデッドラインを設定することに問題があるように感じます。

むしろ、生の手作りの良さが特性だった日本の様々なものが、どこかの基準のみを取り入れているだけに過ぎないようにも感じられます。

そして、その明確な基準は僕たち消費者のためのものというよりも、むしろプロ意識を失った流通業者、店頭販売者のための基準ではないかと思われるくらいです。すなわち、それは見る目を失ったただの人へのマニュアルなのですね。

そして、それはPL法に縛られた工業製品にも見られるようになってしまいましたし、ISOの認可に走る組織にも同様に見られるでしょう。マニュアルがないと判断できない社会になってきたようです。

そして、そのマニュアルさえも裏切られようとしています。

2007年12月19日

市民の声

市民とはさまざまです。右も左も、前も後ろも、、、、。そうしたなかで「まちづくりとは鍋物のよう」だと言うのは簡単なことです。しかし、実際には鍋物をつくってもひとつの好きな具だけをつまんでいることが多いのです。さもなくば、鍋をかき混ぜているだけです。

ただ、市民の声を聞くとは、真摯に考えると非常に難しいですね。
学校現場では「運動会を開催するなら自殺する」という児童の声に敏感に即応して、運動会を取りやめています。しかし、同時に「運動会を開催しないなら自殺する」という声があがったら、どうするのでしょうか。

だから、声は聞かないのだという態度なのかもしれません。

どちらの声も同時に聞くことはできないと言って声を聞かないのではなく、どちらの声にも耳を傾けることが必要なのではないでしょうか。そうすることによって、右でもなく、左でもなく、はたまた中道でもなく、前でも後ろでもない、もっと新たな道筋が見つかるのではないかと考えています。

そこにこそ、想像力-関係あるものとはとても思えなかったものが突如、その強い関係性を気づかせる-想像力が必要なのだと感じます。

2007年12月18日

民度

「ミュージアムが都市を再生する」(上山信一+稲葉郁子)のなかで、民度やソーシャルキャピタルの重要性が述べられています。「民度」とは地域住民の自治参加意識の高さを示す言葉であり、「ソーシャルキャピタル」とは、アメリカでの民主主義の土壌のひとつのして上げられているように、社会で自由に様々なグループをつくることで形成されるとのこと。


本来の民主主義から生まれた市民の活動やその蓄積、資産と日本という地域性を持った閉鎖的な自由主義におけるものとは自ずから異なってしまうかもしれません。


民度が高い、あるいは低い。それらは市民の豊かさ、まちの豊かさを表すものだろうか。市民の民度とは何かを考えようとして、筆が進まなくなってしまったのです。約1ヶ月。

地域には様々なつながり、結びつき、その痕跡があります。それらをマネージメントする力を失わないことが重要のようです。単なる多数決を推進してゆくと答えは簡単です。右か左か、白か黒か、答えを出さずに、新たな別のとるべき方向性が発見することが必要なのだと思います。そうしたマネージメント力こそが民度なのではないでしょうか。表面的な民主主義ではなく。

2007年12月8日

まんが図書館

「広島市南区の比治山公園に市まんが図書館ができて十年。三カ月で十万人が来館した当初ほどではないものの、土、日曜は家族連れなどで閲覧席は満杯で、立ち読みや床に座り込んで読むような状況が続いている。」

かつて、新しい図書館をいかに活用してゆくかをテーマとしたシンポジウムで、「若者たちにもぜひ、来て欲しい、世代を超えた交流をしたい。」と言った会場の年配の参加者に対して、今の若者文化を許容できますか、と逆に聞いたことを思い出しました。そうした相手の文化や習性を受け入れない限り、言葉だけの「交流」になるからです。

この広島市の例だけではなく、京都の都心の小学校をリニューアルして、オープンしたマンがミュージアム(というライブラリーのような施設)も同じように盛況でした。
若いエネルギーが溢れているように感じました。もちろん若者だけが集まっているわけではありません、老若男女が皆、活気に溢れているのです。

このエネルギーはマンガの読みやすさだけではないように感じます。その場で立ち読みしたり、階段に座ったり、決まった読み方などもない、本は整然と並べられていますがいたるところに置いてあります。その上、マナーは一般図書館よりずっといいようです。

管理から、静粛から、読み方から、そろそろ、決まった既成概念から逃れる必要がありそうです。

2007年12月7日

試行錯誤

12名のゼミ生とともに岡崎六供町の調査を進めています。岡崎市商工会議所が運営している岡崎大学懇話会の助成による調査、研究であり、12月8日がその中間発表で、来年2月19日に最終発表です。

彼らと活動を共にするとき、作業の活動の中から見出すものだということを常に自ら実感しています。それは若干時間のかかることですし、もしかしたら思わぬ方向へ行ってしまうかもしれないこと。しかし、そこをはっきり肝に銘じ、こちらの受け皿を大きく広げておく必要があります。
試行錯誤によって、ファジーさも多様性も幅広さも受け取ることができるように感じられます。どこへ行くかはわからないけれど、それこそが本当の答えなのだと感じています。


まちもひとも教え、育む、など狭い了見でできるものではなく、決められたストーリーではなく、フォーマットやマニュアル、思い込みもいったん緩め、もちろん答えもなく、共に試行錯誤を繰り返し、そのなかから同じ方向を発見するしかないようです。