2008年2月28日

双方向的評価

評価とは一方向的ではなく、双方向に違いないと感じます。

しかし、評価は偏りがちであって、孤立します。評価とは相対的なものであると言えるし、しかし、そのものの絶対評価こそが必要にもなります。

相対的とは、何かと比較し、寄りかからないと、下せないということですね。それはテーマやメッセージやミッションに照らし合わせて、決まるものではないでしょうか。そうした、評価の側面、表裏一体となった評価のあり方をどこかへ置いておいて、どんなに評価をしても、無駄ではないでしょうか。

評価は相対的なものです、しかし、他と比べるのではなく、それ自身のミッションと比べることが必要です。ミッションと成果。そこには互いに双方向の評価が下されなければなりません。点数をつけること自体が間違いを引き起こします。

ミッションのない一方向的な評価が今、社会に横行しています。慎まなければなりません。そのためには自由で、独立し、対等で、表現力豊かな、、そんな視点を持った評価が今要求されています。市民と行政の連携と協働には不可欠です。

評価とは行動のあり方そのもの、と言えるのではないでしょうか。

2008年2月27日

評価への評価

様々なところで評価を下さなければなりません。建築デザインでも実際に完成するまでは仮説によってプランを作成しながら、そのつど評価を行ないながら、進むべき案の方向を決めてゆきます。その最も重要な手法はシミュレーションを実施することです。そこにはまだ見ぬ利用者の姿を思い描くような想像力が必要とされます。

しばしば各項目ごとに◎〇△×をつけたり、5段階で比較することもありますが、正確にその評価を下すことはできないと感じます。更にそれを総計して比較したりもします。ナンセンスですね。

公共施設や市民活動にはそのような評価が今でも行なわれているのではありませんか。あるいは入館者数や貸出数だけを過大にしたり、、、、、。実は大学の授業に対するアンケート評価も同じなのです。無意味とわかっていても必要なのです。評価したという事実があればよいようです。

しかし、大学にはいつも授業に30分遅れてくる教員がいたり(ということはそれを待っている学生がいるわけですが)、板書ばかりでとてもノートが追いつかない授業があったり、やばい映像ばかり流す教員がいたり(実は僕ですが、やばいというのは最近は両面に使うらしいです)、、、そういうことが学生自身の口から直に聞こえたり、WEBサイト「みんなの授業」に書き込まれたりしています。そのような評価のほうがよほど生きた評価です。

つまらない評価を議論し、役に立たない評価を実施しているのは誰でしょうか。そして誰がどのようにそれを利用しているのでしょうか。つまらない評価を議論し、利用している人たちがいる、何より、ここが問題です。

先日のイージス艦の事故でもその後のCGによるリアルなシミュレーションによって、一連の状況が明らかにされています。その明らかになった事実が正確に評価を物語っているはずです。事実を明らかにできたとき、評価は自ずと明らかになります。評価とはやってきたことをきめ細かにシミュレーションすることであり、シミュレーションすることで評価は見えてきます。

仮説、シミュレーション、検証、評価、、、、、、設計やデザインとはこの繰り返しの作業です。何度も繰り返しながら、考えもしなかった評価を生み出すために何度も繰り返します。インスピレーションと言われるとてつもないアイデアが出るまで繰り返します。絶えず、CGやモデル化によって、そしてたいていは想像力によって検証しているのです。

評価とはこのようにして初めて、成果を上げることができるのではないでしょうか。活動を行い、それをシミュレーションし、検証する、絶えず事実を明らかにすることで評価は生きてくるはずです。

2008年2月26日

矢祭町の自治

「私達が求めるものは、矢祭町という美しい自然の中で、安心して豊に暮らせる町であり、住民1人ひとりが大切にされる町であります。そのためには、役場職員が意識改革をし、地方行政の担い手となり、1人ひとりが地域のリーダーとなって地域を支えていく必要があります。」

この言葉は矢祭町「集中改革プラン(平成17~21年度)」の冒頭に書かれています。矢祭町とは「もったいない図書館」で一躍有名になったまちですが、単なる超緊縮財政のまちというわけではないことがわかりました。

そのWEBサイトには自分たちの言葉で綴った自治への取り組みについて書いてあります。タイトルだけをみてもわくわくしてきます。この違いは何なのだろう。
http://www.town.yamatsuri.fukushima.jp/cgi-bin/odb-get.exe?WIT_template=AM040004

市町村合併をしない矢祭町宣言 (2007年5月18日 更新)
自治基本条例 (2007年5月18日 更新)
矢祭町集中改革プラン(平成17~21年度) (2007年5月22日 登録)
矢祭町議会議員の報酬及び費用弁償に関する条例 (2008年1月24日 登録)
矢祭町議会決意宣言「町民とともに立たん」 (2008年1月24日 登録)
 概要:矢祭町議会決意宣言「町民とともに立たん」  矢祭町議会...

自治基本条例には次のように記されています。

矢祭町自治基本条例矢祭町は、平成13年10月31日、平成の大合併の波が押し寄せる前夜、全国に先駆けて「市町村合併しない矢祭町宣言」を行った。これは、矢祭町民の郷土を愛し守ろうとする強い意志の顕示である。私達は、先人から受け継いだ郷土矢祭町を将来にわたって、子々孫々に引継ぎ、真に人間らしい生活を享受できる郷土を築くために、法令を以って命令されない限り合併をせず、自主独立の道を歩むものである。ここに、矢祭町の基本的自治権を遵守するとともに、これからの矢祭町を創造するための理念及び運営の基本を明らかにし、もって町民の福利の向上に寄与するためにこの条例を制定する。

第1章 目 標
(適正規模の共同社会)
第1条 矢祭町は、我が国が歴史始まって以来の人口減少を迎える中でも、自立するためのあらゆる施策を講じ、人口減少に歯止めをかけ、適正規模の共同社会を目指す。(郷土づくりの基本方向)
第2条 子どもは町の宝、国の宝。矢祭町は、恵まれた自然環境の中で、夢をもって子育て・子育ちができる、「元気な子供の声が聞こえる町づくり」に努める。
第3条 矢祭町の青年・壮年の世代は、子や孫達の健やかな成長を願うとともに、社会のために尽くしてきたお年寄りが、尊敬され、大事にされ、安心して生きていける町づくりに努める。

(総合計画等)
第4条 矢祭町は、郷土づくりの基本方向に沿って町の将来の姿を明らかにし、これを総合的かつ計画的に実現するため、議会の議決を経て総合計画を策定する。
第5条 矢祭町は、町基本条例に基づいて運営される町政の基幹的な制度と運営の原則を明らかにするために、行政、議会、町民の役割とその相互関係等を別に定める。   

第2章 役 割
(町執行部及び職員の責務)
第6条 町執行部及び職員は、町民の信託に応え、町民の奉仕者であることを肝に銘じ、来たるべき団塊の世代の定年退職にも不補充で臨み、事務事業の執行に努める。
(町議会議員の責務)
第7条 町議会議員は、町民の信託を受けた町民の代表である。議員は、町民の声を代表して、矢祭町の発展、町民の幸せのために議会活動に努める。
(町民のあり方)
第8条 すべての町民は、主権者として町政に参加する権利を有する。町民は、町政の主権者として、郷土愛を高め、自らの自治能力を向上させ、町づくりに参画する。

第3章 態 勢
(町財政の健全化) 第9条 矢祭町は、健全財政を堅持する。人件費や経費の節減をし、以って町民サービスの向上に努め、独立独歩「自立する町づくり」を確立する。     
(町民の参加)
第10条 矢祭町の希望ある将来は、すべての町民の連帯と創造的な諸活動によって確立されなければならない。矢祭町は、町民の不断の努力と連携することによって、魅力ある町づくりを推進する。     附 則この条例は、平成18年1月1日から施行する。

ワークショップの枠組み

一般市民はうかつにワークショップに出かけて行っては危険です。独立したステイクホルダー(利害関係者)が相対しているからでも、議論が熱く沸騰しすぎているからでもありません。

中立的な立場と思われるファシリテーターが実は行政としっかり結びついていたり、利権を同じくするファシリテーターが陰で手をつないで、市民を包囲しているかもしれないからです。

何となく意見を聞けた、聞いてもらえたと思っていては大変なことになります。同じような議論をエンドレスに繰り返していたり、自由な発想を発揮できないでしまったグループも数多く、また、市民活動に決まったやり方をあてはめたり、その評価方法も数字で表そうとしたり、結論もプロセスもお決まりのものなのです。

多くの市民が彼らのお決まりのやり方に取り込まれてしまって、身動きが取れなくなってしまいます。
単なるアリバイ証明のためだったり、ガス抜きだったり、自己満足のためだったり、、、、。

本当のコミュニティシンクタンクはそうした既成の枠組みを解体し、市民活動本来の姿を提供しようとするものです。本当のワークショップとは集まる人が自由に動き、また記録も自らとって、共有するものです。

市民のやり方でやればいい、その本質を評価すればいい。そこから市民のためのまちづくりが始まるのだと思う。

2008年2月25日

まちづくりのプロ

名古屋で開かれた「商人交差点フォーラム」に参加してきました。全国の商店街組合相互の交流であり、またその中間に位置して支援するまちづくりNPOの紹介もありました。
意欲的な取り組みばかりで、「井の中の蛙ではだめだな」という思いをとても強く感じてきました。

金沢市の竪町商店街の人たちはプロでした。
http://www.tatemachi.com/cgi-bin/WebObjects/WebTatemachi

金沢駅から約2kmの立地ですが、最新のセンスで超広域マーケットを持った若い世代対象のファッションストリートであり、近年は振興組合から株式会社に転換し、経営のプロとして、自己資金を持った株式会社が独自の商店街経営を行なっています。
特に、経営と所有を分離し、オーナーは環境づくりとテナントの選別を行い、通りの通行人数の確保と店舗の新陳代謝に努めていらっしゃいます。通りの通行量とフロアのテナント賃料は密接に関連付けられているようで、ここにもきびしい環境が垣間見れます。

地元商店街と地域の行政との密接な関係は不可欠ですが、反面、狭い世界に閉ざされてしまうのではないでしょうか。社会にはきびしい環境ながら、独自性を持って取り組んでいる地域も数多く、そうした既成概念にとらわれない新しい活動に敏感である必要があります。

できないと思っていたことが、外の世界をちょっと見るだけで、いつもの関係を飛び越えてみることで「意外にやれるんだ!」と気づくことって多いです。

2008年2月22日

同人

FESCO事業企業家で友人の筒見憲三氏のブログに「同士」という言葉が書かれています。

http://hoppi.blogzine.jp/blog/2008/02/post_dbad.html


「実体験に基づいた起業論(10)
理念論(4):社員は企業理念に賛同した同志
ベンチャー企業がベンチャーたる所以は何か?
企業は人に始まり、人に終わる。つまり、ベンチャー精神を持った社員がどれだけいるかで、その企業のベンチャー度が計られる。
では、ベンチャー精神とは?多くの先達によって、語り尽されているテーマでもあるが、語り続けるべきテーマでもあろう。
何かを追い求めて、昨日よりも今日、今日よりも明日と、ひたむきに、かつたゆまぬ成長を目指すこと。その目指す先には、何があるのか?
その何かこそが、企業存立の基盤としての企業理念の実現ではないのか。
そして、その企業理念に賛同し、「志」を同じくする者達。
所謂、ベンチャー企業は、そうした「同志」の集まりなのである。」


CTTもソーシャルベンチャー として同じ夢を見ています。そのパートナーを同人と呼んでいます。

2008年2月21日

アウトソーシング

多くの行政や民間企業でもコスト削減のため、外部委託によって運営や製作を行なっています。本社や本庁の業務がスリム化、フットワークも軽くなります。

製作を行うということは同時にそれを支える人たち、素材を育てる人たち、それを消費する人たち、様々な人やものと間接的に、直接的に関係を持ちます。持たざるを得なくなります。

運営も同じです。これらの関係がつながり、繰り返されることによって、ノウハウやネットワークとして蓄積され、技術や文化や伝統となって表れてきます。そこには多くの知恵と文化、そしてたくましさがあります。そこにはその組織の本質が蓄えられるはずです。

しかも、コスト削減という一元的な掛け声だけで、アウトソーシングへ頼ることで、本当に大切なものを失うことをになります。

行政の本質はどこか、図書館の本質はどこか、。

業務をアウトソーシングしてもその本質は手放さないだけのしたたかさが必要です。

2008年2月16日

地域シンクタンク

浜松市では、行政主導でシンクタンク設立の準備が始まっているようです。

1.目的・役割
政令指定都市としての政策形成能力を確保するため、行政外部に地域シンクタンクを設置し、市民、企業、行政、専門家など、地域の様々な主体の英知やエネルギーを結集して調査研究、合意形成、課題解決を図る体制を構築する。 地域シンクタンクは、地域や行政が取り組むべき新しい政策を提言するほか、まちづくり活動への支援、情報や統計データ等の整備・提供を行い、市民の政策形成への参画を図るとともに、こうした取組みを通じて、職員の政策立案能力、市民協働能力、政策実現化能力の向上を図る。

2.地域シンクタンクの骨格 
(1)基本的性格
市民、企業、行政など、浜松地域で活動する様々な主体が地域の持続的発展に向けた課題解決や新政策の創出に取り組む拠点
(2)組織形態
行政外部の独立組織
行政外部に独立した組織として設置し、市民と行政の中間的な立場を確保
産学官民が連携する組織
産学官の協力のもと、各主体が自由に参加でき、連携しやすい組織、運営体制を構築
(3)基本的機能
機能ⅰ自治体政策に係る調査研究及び新政策の提案
機能ⅱ地域づくり・まちづくり活動への支援・協力
機能ⅲ政策関連情報の収集・加工・提供
機能ⅳ人材育成 
(4)運営体制
所長、副所長、主任研究員、研究員、非常勤研究員 ※事業の拡大に伴い体制を強化する

3.平成19年度の取組み
経済界や学術研究機関との連携のもと,産学官の共同出資による外部組織として考えられる様々な可能性(財団法人、社団法人、中間法人、株式会社、地方独立行政法人、NPO、任意団体、大学附置組織など)を検討し、平成19年度中の設立を目指す。

(1)検討事項
・設立の理念、組織形態
・機能・研究内容
・運営体制
・産学官とのネットワーク形成と役割分担
(2)事業内容
・検討委員会及び検討部会の開催
・経済界、大学、既存研究機関との調整、庁内調整
・所長、専門研究員の選定・依頼
・法人設立に関する手続き(定款作成、認可申請等)

4.平成19年度事業費  7,792千円

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地域シンクタンクとはコミュニティシンクタンクのことでしょうか。


準備に800万円もの予算があり、順調に推進できるのではないかと思うのですが、行政に構築される組織の重さのようなようなものを感じます。その原因はどこにあるのでしょうか。


市民の姿が見えてきていないように感じます。市民一人ひとりが持っているフットワークの動きが見えていないのではないでしょうか。今、大学の研究者は課題を求めて、成果を検証するため、社会に、町に出て行きます。抽象的、先進的課題より、より身近なフィールドへ飛び出していっているようです。社会の課題、市民のいろんな活動に触れることで、一気に見えてくるように感じます。

浜松での成果を確認しなければなりません。









たぶん、jここにjれているのだと感じます。



「・検討委員会及び検討部会の開催



・経済界、大学、既存研究機関との調整、庁内調整



・所長、専門研究員の選定・依頼



・法人設立に関する手続き(定款作成、認可申請等) 」

2008年2月15日

情報の発信

新しい図書館構想を協働する辻桂子さんの「真夜中の図書館」にこんなことが書いてありました。実は図書館とはコミュニティシンクタンクなのです。

テレビ討論会 http://mayoto.exblog.jp/5609218/

「今日、僕は図書館に行った。ホールで議会中継をしていた。みんな、三々五々立ち止まりテレビを見ている。議員の質問を聞きながらmemoをとる人、フリップに感想を書いて見せる人、議論を始める人と反応はさまざまだ。最近の一般質問には条例や法律に抵触すると言う問題も少なくない。議員がそんな発言をすると、すぐに条例文が広げられ、解説をする人と質問をする人がいる。議場で傍聴するよりMAYOTOでみんなで聞いたほうが楽しいし、勉強になるらしく議会中継は結構人気がある。政治は継続して見ていないと分かりにくいものだから自治に関心を持つ人が増えるのは、といても良いことだと思う。議会が終わるころには、司書が議会の問題について学ぶための本や情報を並べはじめる。借りて帰る人も多いらしい。」

このように世界が広がるところとはどんな場所だろう。大きなスクリーンがあって社会の姿を映し出し、その真実を語りかける人たちがたたずむ場所。それが情報なのですね。

情報とは真実であり、そしてそれはたえず新鮮でなくてはならないものです。たえず、新鮮で真実の情報を発信する本物の図書館、だから、本物の図書館をつくるのはとても大変で、とても大切なことなのですね。

だから、たえずやり方を検証し、見方を検証し、枠組みを問い続けることが不可欠です。それはCTTの基本理念でもあります。

2008年2月8日

メディアシンクタンク

関西のテレビ番組では午後、いくつかのコメンテーターによる番組があります。司会者と数人のコメンテーターによって、問題をスクープし、様々に批評を行ないます。次の大阪府知事もかつてはコメンテーターとして出演していました。東京では対立軸がはっきりした討論会の様相を表すのではないでしょうか、あまりないように思います。

番組の中でそのままコメントする、それは同時に社会に放映される、その影響はとても大きく、コメンテーターの資質も問われるますが、いやおうなく、社会問題も明らかにしていきます。それらはバラエティといわれるものではなく、社会や行政の問題に限られた方向性を持っています。市民の声がどこにあるかは判断が難しいですが、提言がそのまま、リビングを経由して社会に出てゆきます。その大きな影響力からは、シンクタンクと呼べるものではないでしょうか。

何事も同時進行で問題の本質を明らかにし、真実を流してゆく、そのことが重要なのです。
でも、大阪の問題大きいのかなぁ。

大阪には5兆2486億円の負債があると言われます。
一方で資産が6兆8427億円(ちょっと怪しい気もします、とらぬ狸、、、とも言います)

歳入3兆1229億円で、内税収1兆0852億、府債2427億円。

それに対する一般会計が3兆1229億円、その内、人件費が89285人に対し、9085億円。3セクも含めたたぶんココが最も厄介な部分かな。施設を売却しても人員までは売却できない、、、。
特別会計が1兆1,938億円だけど、特別事業からの収入があるのかどうか。赤字ばかりの事業にしか見えないけれど、、

ref:http://www.pref.osaka.jp/zaisei/joukyou/08baransu/baransu.pdf
http://nisimura.fugi.jp/h18-yosan.htm

でも、橋下氏の背後には強力なメディアシンクタンクがついているのです。

2008年2月6日

わからないままの議論

中国生産の冷凍食品の安全性が話題になっています。
昨年の12月28日に症状が出て後、1月28日に公表されました。1ヶ月放置されていたことも驚きですが、毒薬品がどこに付着していたのかさえ、わからないまま議論が白熱しています。場所は具と皮とパッケージしかない餃子で理解に苦しみます。当事者はすべてをわかっていて、メディアや国民を右往左往することに価値があるのかもしれません。

問題のありかがどこにあるかがわからない場合は多々あります。また、それを明らかにしないまま、明らかにさせないまま議論させることも多々あります。もちろん、議論することによって、問題が現れたり、その原因を知る場合もあります。しかし、情報開示が不十分のままの議論は不毛な結果にしかなりえないのではないでしょうか。

こうした結果は僕たちの周りにもしばしば起こっていることです。

それは起こっている事象を正確に記録できないことになるのではないでしょうか。(そうでなければ、人を欺こうとするものですが、)

問題が起こった場合にその場に居合わせることのできる人は限られていますが、多くの人や分野の人たちがそれを共有することで、むしろそのことによってしか、問題の解決はないと考えています。それがコミュニティシンクタンクの原点です。

大学もその記録する能力はまったく欠けています。偽装の発覚した企業も同じようです。まちづくりにかかわる市民も同じです。自らの現場で起こっている問題を記録する、記録すれば自然と課題は明らかになると思うのです。

現場に立ち、起こっているさまをありのまま記録する、記述する、それがコミュニティシンクタンクの最初の役割ではないかと考えます。

2008年2月5日

コミュニティービジネス

コミュニティシンクタンク設立へ向けて協働している松井弘氏は「野鳥の会」会員であり、医療的ケアのできる障害者施設の設立を目指している「蕗の薹」を支援しています。多くの市民活動にも敏感なアンテナを持ち、いつも多くの情報が入ってきます。

地域住民が主体となって取り組むコミュニティービジネスを対象とし、愛知県は13の事業所を優良モデル事業者として認定したそうです。「まちづくり部門」では岡崎市の「オフィス・マッチング・モウル」が認定されています。
http://www.m-mole.com/

「オフィス・マッチング・モウルは、アートの精神を軸にした地域活性化事業に積極的に取り組んでいます。地方都市に拠点を置く私たちは、地方の抱えるさまざまな問題に日々直面しています。そして、地方の持つ可能性についても実感しています。私たちは地域の活性化にアートの持つさまざまな力――人を引き付け、人と人を結び付け、新しい視点を切り開いていく力――が役に立つと考えています。アートの力を使って、地域を活性化する方法を、地域を良くしたいと考える地元の人たちといっしょに実現していきたいと考えます。お気軽にご相談ください。対象は、行政、商工会議所、商店街など。 」(WEBサイトより)


三河・佐久島アートプラン21/佐久島体験 祭りとアートに出会う島の企画・制作・運営を担当されています。アートマネージメントによって地域にかかわる活動を行なっておられるのですね。他の地域では地域の活性化のため、すばらしいアートマネージメントが増加しつつあるにもかかわらず、愛知県にはこれまでは見られなかった分野で僕にとってはとても身近であり、期待したいです。

また、その活動内容も明快で力強いです。会社組織によるビジネスなので当然のことかもしれません。しかし、目的意識とその手段はとてもパブリックで中間性媒体となってアートにかかわっておられます。

ちょっとあいまいな、自立できない市民活動も見習う必要があるかもしれません。有限会社や株式会社が利益や利権を追い求め、NPOが社会貢献をする、、、、この自明の論理は疑う必要がありそうです。

2008年2月4日

ワークショップの課題

ワークショプとはオフィスの紙の上で考えていただけのものを、工房で皆が集まって作っていこうとするものです。様々に活用され、多くの場面で大きな効果を果たしています。大学での一般授業にも取り入れようとしています。(ところが講義ばかりしてきた教員にはそれがとても難しい。)


ワークショップとは身体を共に考え、その考えをコミュニケートする



身体性、能動性、多数性をキーワードに、自己を開示し、表現を行ない、交流を生み出し、開発を目的とするのではないでしょうか。身体性を用いて、表現をつくるのが演劇や即興音楽の世界、能動性を用いて、自己開示を行うのが芸術療法や精神療法、参加の意識がもたらし、多数による解決を図るのがまちづくりに応用されるワークショップではないでしょうか。

しかし、多くの手法として消費され、ワークショップは画一化してきたようです。当初の多様性も創造性もできないまま、自己閉鎖に向かっているような気もします。


参加者は何を成し遂げてきたのか、その記録はすべてコーディネーター、ファシリテーターに委ねられてしまいます。それはいつも自ら模造紙に書き込んでまとめられていきます。書き方、まとめ方が決まっています。せっかく集めた参加の意識も想像性ある方向も皆書く人の能力に、価値観に決め付けられてしまいます。

常に、新しい発想がワークショップの魅力であるはずが、固定化し、マニュアルに従ったワークショップが横行しているのが現実です。そこには参加の意識も、創造力もない、ワークショップとは見せ掛けなのか、あるいは運営する能力がないのか、、、。


それは結果的に参加者の意識をないがしろにすることになるでしょう。

この不毛な作業を打開させることが早急に求められています。参加者自らが記録を行ない、進んでゆくことが必要ではないでしょうか。そこにこそ、身体性と能動性と多数性とを持ったワークショップの本質があります。

そんなものはまとまらない、と言われるでしょう。しかし、最初からシナリオがあり、まとめる方向が用意されているから不毛となるのです。どうなるかがわからないからこそ、ワークショップの価値がある。
いつまでも創造力のないものを創造と詐称するわけにはいかないのです。

2008年2月3日

沈黙の春

レイチェル・カーソン著「沈黙の春」は環境問題や環境を身近に考えるための入門書としてよく知られています。周囲のさまざまな状況を化学物質で沈黙させることで人間の効率性を最大限にしてきたそのおろかさを描いています。そして、その本当の恐ろしさは数年後、数十年後、僕たちに降りかかってくることです。

この何日か、またこのレイチェル・カーソンの警句を思い起してしまいました。

これは1950年代のアメリカ、60年代の日本、そして現代の中国だけに起こっている状況ではなく、また、遠い化学物質の世界のことだけではないように感じます。

生物の多様性をダーウィンの単純な進化論のように論理で説明することなど無理なことで、簡単に処理してしまうことは難しいことです。(僕はダーウィンは信じられないですが、日本には今西錦司によるすばらしい進化論があります。)

多様性を受け入れる原理があるとすると、まず、すべてを受け入れてからその方向を考えることでしか答えは見つからないように思います。まず答えありきの、問題-解答が一元的で受け入れる前に答えを決めてしまっている今の社会のやり方は、誰かを、どこかを、排除して対処することに結びついてしまいます。

そういう固定的な考え方は、化学物質のように僕たちの身体の中にも、精神にも、まちのなかにも、社会の制度にも蓄積されてしまっていることでしょう。

2008年2月2日

呉服店からレストランへ

古い中華料理店に入ってきました。表は地下もあるコンクリートの2階建て、なかに入ると昔ながらの京都の町屋で奥の座敷でいすに座って食事をいただきました。坪庭や離れもあり、通り庭と一番奥の蔵がバーとなっていて、様々に文化が融合された空間を感じてきました。

京都の中心地では町屋を営んできた古い呉服店などが閉鎖に追い込まれていますが、同時に古い町屋はその存在を失ってしまいます。

 
しかし、京都の中心地ではこの古い町屋の価値が高まっているようで、これまでのようにつまらないマンションやビルに建て替えられてしまうのではなく、近年は主のいなくなった後にレストランやブティックが入って継承しています。もちろん町屋の歴史のなかに、新しいインテリア感覚を挿入しながら、次の文化を生み出しています。

古い町屋の持つ雰囲気が消費者に受け入れられ、経営者がその価値をやっと認識できたのではないでしょうか。壊すよりも古いもののよさを評価できたのです。一部の新しい建築が刺激を持って新たな文化を生み出しているにもかかわらず、壊した後にできる多くの新しいビルが興味をひかない、陳腐でつまらないものであって、生産性も文化性も持たないことがやっとわかってきたように感じます。建築とは装置であり、新たな価値を生み出すものです。そして、それが継承されて文化となって社会に残ってゆくものです。


かつては呉服店が新しさと古さを併せ持って、生活を生み出していたのであって、たとえ、呉服店が閉鎖されても、その時々に誰かが文化を引き継げばいいのではないでしょうか。ただ、引継ぐ視点、歴史や文化などその視点をしっかりと持っていれば、まちも同時に引き継がれるのではないでしょうか。

古い町屋だけではありません、京都では昔の古い小学校が文化センターやギャラリーとして継承されています。当時は学校も、そして呉服店も、そして京都では多い老舗のコーヒー店やパン屋さんも、心をこめて作られています。新たな精神と情熱を持って、文化を、そしてまちを刺激していたのでしょう。

まちにはマスタープランという、まちを地域ごとに性格付けし、分類しただけの区画割であるゾーニングがいまだに幅を利かせています。それには新しい精神も情熱も文化も、そして本物の歴史もない。とはいっても企業家の野心もない。

早く気がつかないとマスタープランが更新されるたびにまちが壊れてゆくでしょう。そんなプアなマスタープランが横行しています。

2008年2月1日

プラットフォーム

ロハス・ビジネス・アライアンス(LOHAS Business Alliance)はLOHAS(Lifestyles of Health and Sustainability)分野のビジネスに関わる企業に情報を提供し、交流や連携の場となる団体のようです。http://lohas-ba.org/index.html http://www.lohas.com/

「LBA 健康で持続可能な社会へ。LOHASビジネスを活性化するコミュニティ&プラットフォーム」とタイトルされる、この組織の印象がコミュニティシンクタンクCTTの組織のあり方をうまく描いているのではないかと、興味を持ちました。

そのミッションステートメントは次のように書かれています。
「LOHAS(Lifestyles Of Health And Sustainability)の価値観に基づくビジネスを活性化するプラットフォームとなる活動を通じて、LOHAS分野での事業創造・発展に寄与し、人々の健康と持続可能な社会の実現に貢献します。」

NPO?パートナーシップ?株式会社?
よくわかりませんが、会員となる企業を募り、WEBによるニューズレターを発信し、定期的にセミナー+交流会を開催、分科会と呼ぶ勉強会をコーディネートします。LOHASにかかわる起業家と支援者(ベンチャーキャピタルなど)をつないだり、ビジネスプレゼンテーションなどの企画も行われているようです。また、ソトコトなど6社のメディアがパートナーとして参画していることもおもしろいです。

会員を中心とした非常にフラットな組織で、自由性も独立性ももちろん感じられます。しかし、同時にLOHASという価値観のもとに明確なビジョンと目的意識を持ち、それが会員全体の強い志向も持っています。

何より新しい軽やかなフットワークが感じられます。
市民と行政のほどよい関係という重い課題を担わされるCTT。明るいテーマが必要だなぁ。