2008年3月27日

答えを求めるということ

何かを成し遂げるには一般的にまず、前提条件を先に決めねばなりません。その条件から導き出される答えを探求することになるのです。多くの場合、その条件は調査や研究によりきめ細かく、論理づけられています。


しかし、実際には答えを求めながら、前提となる条件を捜し求めているように思います。条件とは決まったものではありません。条件もまた多様にあり、そのなかから、どこに価値を見出すのか、どれが最適なのか、、むしろ、答えを求めるよりも、条件を求めています。

こうして、複数の答えと、また複数の条件が出揃ったとき、そして、それらに対する既成概念が解かれたとき、新たな組み合わせが生まれてきます。それがひらめきと言うのかもしれませんし、創造と呼ぶものかもしれません。

条件が動かないまま、議論しても、努力しても、解答を探しても見つからないでしょう。常に答えと条件とをいくつも用意しながら、進める必要があるのです。

内井昭蔵事務所での建築デザインはいつもそのようなものでしたし、先進的な多くの企業でもまた同じなのではないでしょうか。

地域のワークショップも、公共の計画も答えが一つしかないから出口がなくなるのです。すべて同じ原理で進んでいるのですね。他のいくつもの道を提示すると、行政マンからは「きびしい意見」と言われることになります。それは「きびしい」のではなく、「やわらか」なのです、、、、、。この硬いやり方で文化だの、創造だの、交流だの、と言ってもできるわけがありません。

これからの時代、どれも素敵な答えをいくつも用意しながら、邁進するほかありません。それをオルタナティブデザインと呼んでいます。

2008年3月26日

市民立法

地方行政で気になる点の一つが立法府の不明確さです。最近、何人かの市議会議員の人たちと知り合うことができ、その活動も目にしてきましたが、それでもなお、はっきりしません。また、司法はそれ以上に意識することはないので、地方に来ると行政のみが、市の職員のみが地域の政策に関わっているように思えてなりません。

だから地方行政は専横的になってしまうのでしょうか。もちろん議会は運営されていますし、そこでの様々なチェックは行政の最も気になる部分ですが、、、、、。ただ、単なるチェックだけでは限界もありますね。

地方では影の薄い立法府のあり方を模索する動きもあります。

それが市民立法機構です。
「現状の社会と既存の制度には大きなズレが存在しています。このズレを修正するはずの本来の立法活動が停滞しているために、ズレから生じる様々な問題が噴出しています。
 そこで、この停滞する立法活動を活性化させる手段として、市民がみずから政策およびその具体化である法・条例を提案していく方法が〈市民立法〉です。市民立法機構は、市民が各自治体、そして国政へ主体的に参加していく流れと仕組みを応援し、21世紀を“多様な世紀”“平和の世紀”“環境の世紀”と呼べる、新しい市民社会として築き上げていくことを目指します。」

地方行政にはそれを推進する核心が見出せなかったのだけれども、その課題が見えてきたように感じます。それを担うのが、議会なのか、行政マンなのか、あるいは市民なのか、地方自治を市民の立場から考える時期が来たようです。

2008年3月24日

市民活動の視線

市民活動は真摯な個人の姿勢が基盤となります。自らの能力を社会へ還元するという姿勢です。いま、行政の業務が硬直化するとき、この市民の多様で真摯な活動は次代の社会を形成するものとなるでしょう。

行政も市民活動との連携に興味を抱くようになりました。その真意はどのようなものかはわからないですが、業務を人的に支援し、助成金を供出し、また、活動の主催者になって名前を出すこともしばしばです。連携し、協働することは不可欠ですし、つかず離れずその微妙な対応も市民活動が真に自立するためには大切なことと考えます。

しかし、今問題と考えられるのは、市民活動が、市民のため、社会のためというより、行政との協働や支援されることの方に目が向いていることではないでしょうか。本来市民の方へ向くべき視線が分断され、むしろ行政へ向きつつあるのではないかと危惧します。自己満足的活動です。

市民に向かわない自己満足的な活動は自分たちの狭い領域のなかで閉じてゆきます。それも心地よいことかもしれませんが、、、しかし、市民相互が開き、交わることで互いに大きな社会とつながることができます。活動が次の活動を生み出し、活動の成果は社会に還元されてゆきます。

地域で独自に自らの活動を展開している市民ボランティアは驚くほど数多くいらっしゃいます。行政の近くにいて行政のお仕着せのコーディネートやわずかの助成金で動いているボランティアではなく、地域で活動する彼らこそがまちの資産となり、活力となって真の市民社会をつくるのです。市民活動は自立し、社会へ目を向けてゆかなければならないのではないでしょうか。

2008年3月23日

共有型の組織へ

行政とは市民へのサービス業務が中心となりますが、現況に柔軟に対応すること、明瞭ではない将来像を明確にすること、と考えられます。

すなわち、過去を継承しながら、市民の現在とまちの将来とを同時に描くことといえます。そのためには市民一人ひとりの状況を深く理解し、対応できる組織形態が必要であり、それは例外や多様化に対応できる組織といえます。民間の企業の一般的な組織とは異なる、特異な形態が必要になるはずです。

しかしながら、どこの都市も同じような組織形態をとって、どれも縦割り行政と言われます。縦割りにして、部門ごとに集中することは、本来、責任の明確化へつながるはずなのですが、、、、。どこも均質化するのは中央政府の指導があるからでしょうか?

部門化しすぎていることによって、それに当てはまらない業務が出てくること、その部門化が重複していることによって、責任が明確ではないこと、業務に無駄が出ることが生じています。
小さな都市公園ひとつ整備するにも、複数の部署が連携できず、協働する市民の声は分断されてしまっています。

同じような部門が重なり、責任は明確にならず、市民がたらいまわしになることもしばしばです。また、説明責任が他の部門の責任になり果たされないこともしばしばです。この硬直化した業務形態は働く職員にとっても、サービスを受ける市民にとっても、不本意なことではないでしょうか。

内部においても問題が噴出しているはずなのですが、、、。組織のリデザインが、センスある再配分が不可欠のようです。事業の分野を中心に配置され、それを継続することは重視されていない。しかし、その分野は社会の変化に伴い、絶えず変化するのですから、対応できないのは当然です。

縦割りではなく、水平に考えてゆくことが必要であり、それに合わせて直線的な昇任制度を廃すべきと考えます。

地方中核と言われる37万人都市の岡崎市の行政組織です。地方に権限が委譲される時、何となく動くいている組織ではなく、確固としたブレインが必要となるはずです。

■企画政策部
企画課 政策推進課 秘書課 広報広聴課 IT推進課
■総務部
総務文書課 行政改革推進課 人事課 防災課 契約課
■財務部
財政課 財産管理課 市民税課 資産税課 納税課
■市民文化部
市民課 市民協働推進課 安全安心課 文化国際課 青少年女性課 国保年金課 額田支所(総務課・市民生活課・維持管理課)
■福祉保健部
福祉総務課 社会福祉課 児童家庭課 保育課 長寿課 介護サービス課 健康づくり拠点推進室 保健所総務課 生活衛生課 保健予防課 福祉事業団 社会福祉協議会
■環境部
環境総務課 環境保全課 自然共生課 廃棄物対策課 ごみ対策課
■経済振興部
商工労政課 観光課 農務課 農地整備課
■土木建設部
技術管理課 土木用地課 道路維持課 道路建設課 公園緑地課 河川課
■都市整備部
都市計画課 高規格道路推進室 区画整理課 組合指導室 建築課 市営住宅課 建築指導課
■下水道部
下水総務課 下水施設課 下水工事課
■岡崎市民病院
額田宮崎診療所 額田北部診療所 看護専門学校
■消防本部
総務課 予防課 消防課 通信指令室 中消防署 東消防署 西消防署
■水道局
総務課 営業課 工務課 浄水課
■出納室
出納室
■議会事務局
総務課 議事課 議員控室
■教育委員会
総務課 施設課 保健給食課 学校指導課 スポーツ振興課 生涯学習課 康生地区拠点開設準備室 中央図書館
■その他
監査委員事務局 農業委員会事務局

2008年3月22日

企業家精神

停滞した企業のあり方に企業家精神が必要であることはかなり前から言われています。それは80年代、日本企業躍進に影響を受けた巨大なアメリカ企業に示されたものでしたが、企業家精神というその言葉はどこにも、いつの時代にも、そしてどのような組織にも必要のように思います。

この企業内における企業家精神を賞賛したこの本は内井昭蔵事務所に所属しながら、独自にコンペや独立意識を持たせてくれた貴重な啓蒙書です。

いまやその意識は企業よりも、ソーシャルベンチャーたる市民活動に不可欠なものであり、同時に豊かな社会の基盤を担う行政に不可欠なものといえます。


行政と企業家精神、そこにこそ、未だ複層的なピラミッド型組織を形成する行政組織のこれからのあり方があるのではないかと思えます。

企業家精神とは戦略的思考が必要です。つねに目の前に意味を見出し、方向を見定めてゆくあり方です。

ここには、組織の階層を少なくし、遊撃的で独立した、連携を持てる組織をつくること、組織を安定させるべき制度を組織から切り離し、個人に独立したものとすること、経営資源を分割、分類するのではなく、共有化へ向かうことが示されています。

立法府のあり方があいまいで、外部にシンクタンクを持たない地方行政は中央政府よりもずっと官僚化が進んでいるのではないでしょうか。戦略なき戦術を展開する地方行政にはこの企業家精神による組織改革が不可欠ではないでしょうか。

そこには行政にかかわる専門家が個人レベルにおいて、政治性を持って、戦略的に行政に参画することが必要なのであり、コミュニティシンンクタンクこそが彼らに政治性と思想性を与えるものなのではないかと考えています。

2008年3月21日

連携と協働のダイナミズム

市民連携のダイナミズムはボトムアップにより、一つ一つがつながりをもつこと。自由な個の集団がイメージをかきたて、大きな渦をつくり、新たなソーシャルイメージを確立してゆくことから始まります。


つまり、つながりが解体を生み出し、また新たなつながりを導くように、次第に大きく展開することでしょう、それがダイナミズムです。運動力学、市民活動の力学ではないかと考えます。

そのためには市民が独自性を持って、独立した意識を持って、個々のつながりを築きながら、集結することが必要になります。それがコミュニティシンクタンクの基本的な姿です。

それは社会のありようを決めてゆきます。そこには市民だけではなく、行政にかかわる職員や専門家それぞれが、個々の立場を持ってつながってゆくことも必要になります。それがコミュニティシンクタンクの次の目標であり、そうした人的資源を有効に活用、引き込むのがその先の、もうひとつの姿なのです。

先日文化財課でおきた自由なワークショップのような意見の交流から感じ始めたことですが、行政サイドを市民のなかに巻き込んで、僕たちの真っ正直な、熱い議論の中にいったん取り込んだことがきっかけで、協働の本当の目指す方向が見えてきました。

協働や連携とは、市民活動と職員としての、職務としての表面的業務が問題なのではなく、個人として参画し、社会のなかで協働することが真に求められていることではないでしょうか。組織に所属しながら、個々の個性のつながりを持ち、個の力を、能力を社会に還元するのです。それは市民にも行政にも求められることです。

このように一人ひとりを巻き込みながら、渦を巻き起こしてゆくことがコミュニティシンクタンク形成へのスタートになります。それは戦術と戦略、管理と企画、今と未来、とが混在した行政のシステムをゆるやかに解体へと向かわせ、真の創造意的組織へと引き上げるに違いありません。

2008年3月14日

価値のフロー

地域の経済において、本来持つべき価値を生産することが地域ファンド、地域フィナンシャルの大きな役割であり、キャッシュフローを生み出す必要があるのです。多くがキャッシュフローのために地域を活性化に向けて活動しているといって過言ではありません。

しかし、経済とはある意味で搾取である、だから、地域、コミュニティにおいては、利益を生まないもの、ないしは利益は社会に還元するというのが基本的姿勢とされているのではないでしょうか。NPOの趣旨もそこにあります。(たまにコミュニティで搾取が行われる場合もありますが、、、、、。)

先日、地域の市民図書館企画を持ち込んで、銀行マン(といっても地域の政策にかかわる銀行の職員でしたが、)からあっさりと断られてしまいました。そこには多様な価値よりも単純な方程式が必要とされていたのです。利益を生むか生まないか。回収-投資=利益となる、、、これが地域ファンドと思われている金融ファンドの基本姿勢です。

繊維工業で発展してきた地域がその紡績工場を閉鎖する。その業績が下火になったからといって、簡単に解体し、新たにショッピングモールをつくる。利益は生みだされるかもしれませんが、そこに価値は生まれるのでしょうか。でも数年で最新のショッピングモールは古びてゆきます。単純な方程式では価値が下がってゆきます。

地域には、キャッシュフローではなく、価値のフロー、価値が価値を生み出す新しいしくみが必要なのではないでしょうか。

それは金融や銀行に所属する人たちとは異なるデザイナーの、イノベーターの直感が必要となります。それは価値の発見と言えるでしょう。

地域においては、価値を見いだすことができるかどうか、そこが問題です。もう一度価値のフローを廻し始めなければならないのです。薄っぺらな倉庫のようなショッピングモールではなく、重厚なミュージアムのような倉庫、ここにこそ価値の新たな転換が生まれてくるのです。

町の進むべきイメージと、その素材、、、そこにギャップがあってもいけないし、思い込みがあってもいけない。まちづくりとはそれらの再生だと言えるでしょう。価値のフローと再生。そこにコミュニティシンクタンクの役割があり、本当の地域ファンドを生み出す可能性もあるのではないかと考えます。

ソーシャルイメージ

まちのイメージを持つことは大切です。それは量ることや分析することではなく、抱くもの、抱いているものではないでしょうか。

今、橋下知事がメディアによってとりあげられ、大阪の疲弊した問題点が浮かび上がっています。しかし、商都大阪の知事は横山ノック知事と橋下知事を除いて、これまで官僚出身者が担ってきたそうです。ここに間違いの一因があるようです。

都市計画的にも、大阪は東京の姿を目指したのではないかと感じられます。例えば、山手線と環状線。ループによってまちを一巡りすることはとてもシンボリックなイメージを生みだします。しかし、地勢的にも、トポロジカルにも、皇居のような中心性があって、求心性に大きな意味を持つ放射状のネットワークをもった東京ではなく、均質な碁盤目状で、どこでも等価値の資本主義的都市であるニューヨークを目指すべきではなかったでしょうか。商都大阪の目標はニューヨークであったと感じます。東京を対象とするから目標や夢を間違えてしまった、あるいは目標や夢を矮小化してしまった、のではないでしょうか。

一方で地方都市は江戸期以来の藩政による独自の文化と気質が根付いています。僕は大阪で生まれ、京都で学び、東京で実践してきましたので、この地方独自の藩政の雰囲気はまったく感じ取ることができませんでした。

しかし、このすばらしさも、現代ではその多くが中央政府の気分を敏感に感じ取り、それにストレートに従うようになってしまいました。中央政府が分散化といえば、まちを拡散化し、郊外の山の上に中央病院や美術館をつくる。中央政府が中心市街地といえば再び集めだす。自治がないのです。

そして、それらの致命的なことは、それに伴い、知らないうちに歴史や文化、人の活動、、、、様々なものを解体してしまうことではないでしょうか。ここにはセンスもオリジナリティも、意地もありません。少なくとも矢祭町の自治の意気込みを感じてみましょう。

イメージもなく、マスタープランを語るから、まちの将来像が見えてこないのです。これにかかわる専門家もマスタープランという巨大で抽象的で、つかみどころのないものでしかまちを語らないから、何も伝えられないのです。イメージの貧困なところに将来は見えてこないように感じます。

お決まりのマスタープランではまちは滅びます。まちのソーシャルイメージを語りませんか。

2008年3月13日

講堂の保存活動に向けて

昨日、岡崎市教育委員会生涯学習課文化財班へ有志で宣言した嘆願書を持って、岡崎市の日清紡工場地内の旧愛知二中、ならびに近代的建築群の保存交渉に行ってきました。

切迫感と危機感、だめもと感で交渉の場に立ったのですが、先方にも事前に検討を加えていただいており、なんとか保存に向けて第一歩を踏み出せたようです。
文化財班での交渉では担当の河合氏も交え、具体的なアイデアが飛び交い、さながら自由なワークショップのようでした。膠着化した交渉ではなく、専門化が夢を語り合う場となり、修復工事の実践的な事例、タービンなどの織物工業機材の展示計画、資料館群としての計画、倉庫のレンガの解体利用、保存から活用計画への展開、、、、、、、、今後の展開もすこし予感することができました。また、僕たち有志5人が専門家としてチームを組んで今回の課題に取り組める体制もお願いしてきました。ここが最も重要なポイントかもしれません。
ただ、理論的には大成功でしたが、実践的にはまだまだどうなることか、開発計画の工程は迫っており、予断はまったく許しませんが、ひとまず次の段階の具体的な戦略にとりかかり始めました。

次は、企画とプレゼンテーションにその成果がかかっています。魅力的なプランでもって先方のコンセンサスを得てゆくことができるか、、、、、そして、どれだけ市民の価値を引き出せるか。

新しいアイデアを醸成し、市民を巻き込んでゆきたいと考えています。

2008年3月12日

イマジネーション

想像力=イマジネーションとは、何かと何かをつなぐことであって、思わぬ何かがつながっていることに気づくことではないかと思います。

この自由な発想とは突然、あるひらめきのようにわが身に降りかかってくるのものです。それがイノベーションやデザインをうみだす素なのではないでしょうか。

絶え間のない、無限のような、無尽蔵な発想の中から、、、いったん、既成の枠組み、しがらみ、規制、自制を開放することで何かが動き出します。こうした無尽蔵の発想のなかから、規制の枠組みをいったん留保するときにこれまでにないアイデアが浮かび、またそこに新たな価値を見いだすのです。遊びのなかから新たな発想が得られるのもこの転機によるものです。(現象学的哲学でアポケー(判断停止、ポケーっとすること)と言いますが)

現代社会で必要とされているのはこうしたイノベーションやデザインを一人の天才ではなくて、集団として、遂行できる組織体なのではないでしょうか。規制の枠組みを視野に入れながら、その視野を大きく広げることのできる、自由性が不可欠です。そこに新しい祖機体の存在価値があるようです。

それは一人だからやりたいようにやれる、のではなく、一人でも集団でもコンセンサスを得ながら、でも新たなトライを進めてゆくのです。そうした自由な発想の集合体が今必要とされています。ワークショップも本当はそのひとつです。不特定多数による創造です。(いつも言っていますが今の行政などのワークショップは枠組みを解放するものではなく、押しつけるものになっています。)

コミュニテシシンクタンクとは柔らかな、集合による想像力をもち、そうしたイノベーション(新しいしくみづくり)とデザイン(新しいかたちづくり)をうみだす集団的創造組織なのです。楽しくなくてはいけません。

2008年3月11日

政策連携

政策連携Public-Private Partnerships とは、上山信一氏の言葉です。

ここでは、単なる組織の連携ではなく、また市民運動でもなく、次代の組織のあり方を提案されています。

その構成は、組織ではなく個人、つまり、エンジニアやコンサルタント、弁護士や会計士、ジャーナリストや研究者など、、、専門的スキルを持ったプロ意識を持った専門家に帰すものであり、自身の所属する組織にも所属しながら、独立した意識を持って、個人の自由な発想を引き出す環境を持つものであるという。

問題解決のために自由な才能が集まりあうイメージです。

一般には組織は「継続的にまちづくり活動のできる、自律した組織として活動し、かつ各セクターとの連携の下、 一体的な事業の推進を行うべく、、、、」という一般的かつ陳腐な方向へと向かい、たいていは継続的事業推進のためにNPO法人化されることになる。それは、長老などを理事に迎え体裁を整えることになる、、、だいたい筋書きは決められています。

「それは問題の解決策が決まっているとき、単なるロビーイングのときには有効であるが、問題の分析はできても解決策を持ち得ない。しょせんは既得権益の擁護機関であり、イノベーションに不可欠な現状否定能力を持たないからである。」というのが既存組織に対する上山氏の発想であります。

上山氏の説く政策連携はとても専門的で大きな領域を考えておられるようです。しかし、専門家という個人を真摯に活動を行なう市民に置き換えてみることが必要のように感じます。市民も一人の専門家としての経験と、そして倫理観と誇りを持っています。

このように考えてゆくとき、上山氏の政策連携Public-Private Partnerships は僕たちの考えるコミュニティシンクタンク、つまりCommunity Partnershipをつくりあげる組織に形を変えてゆきます。

広い意味での専門家としての個人が自由に、そして同じ志を持って、やわらかな価値観を統合することがコミュニティシンクタンクのかたちです。それは市民政策集団とも言えるものになるはずです。

2008年3月10日

旧講堂の保存

旧愛知県立愛知二中の木造の講堂が岡崎市の日清紡工場内に保存されています。

しかし、工場が閉鎖され、その行方が危うくなっています。3月末をめどに解体される恐れも大きく、その保存への行動を起こすことになり、協働している稲垣氏が現場を訪れてこられました。

「日清紡構内には講堂のほかにも、巨大な煙突(15メートルに縮めて保存予定)や、大正13年建築のレンガ造りの倉庫群や、木造の事務所、1950年代の自家発電機など、産業遺産として価値の高そうなものがありますが、ほとんどがこの4月に失われるそうです。・・・・残念です!」

そう、その古い歴史的建築だけではなく、そこにはそれぞれが素晴らしい歴史となってたたずんでいます。そうした身近な資産や歴史を忘れたままで、また中心市街地で行われているように身近に眠るかつての堀の石垣を解体していて、
まちの豊かさが継続できるわけはありません。

まちの本当の資産を放っておいて、かつての街道の跡を再現したところで、うわついた観光主義でしかありませんし、今やそのような贋物に騙される観光客もいないでしょう。

人々の意識、企業の意識を鋭く、敏感にし、その意識を革めてまちの資産をつないでゆく必要があります。そこには同時にまちで活躍する企業家の姿もつなぐことができるでしょう。本物に出会うことで見えてくるものって多いです。その出会いこそが本物のまちづくりへとつながり、本物の観光=ツーリズムへとつながるはずです。

2008年3月9日

大本営の発表

まちづくりの現場でははからずも、かつての旧日本軍のように、いつも大本営発表が行なわれています。

人が集まってなかろうが、活気にあふれていなかろうが、人々が冷めていこうが、「多くの人の活気にあふれた」「意識が次第に高まってきた」、「意欲的にまとめられた」、、、、、、、。行政に雇われたファシリテーターの常套句です。市民はもちろん、雇っている行政までもが騙されているのです。

ワークショップでは何が行なわれているのだろう。どのように行なわれているのだろう。人々は次もまた参加してくるのだろうか。本当に疑問に感じます。ワークショップで示される人々のきめ細かな感情を感じ取らないとワークショップなど成果は上がらないはずです。

そこではまちの何かが作られ、知らないうちに、それはいやおうなく進んでいきます。ここには、メディアがその場に入り込み、一部始終を客観的に報道する必要があるでしょう。それには市民によるジャーナリストやコラムニスト、カメラマンがミニコミ誌を作るようにまちを探っていかなければなりません。

実はまちにはフリーペーパーやタウン誌など様々な情報誌がいたるところに置かれて、まちの情報が市民に提供されています。それに多くの市民ボランティや学生が奔走し、今豊かな情報社会ができています。しかし、そのターゲットを店舗や飲食店だけではなくて、まちで活動する人々へ、まちづくりの現場へ向けることで、自らのまちへ視点を開くことで、自分たちのまちの本当の姿、今起こっていることの真実が得られると思うのです。

それにはこれまでの報道という形式を変えねばならないでしょう。市民自ら、今日の自分を語るのです。そのなかに、「今日もワークショップで裏切られた。次は行かないぞ。」とか、「いつも同じ議論が堂々巡りしていて、、、、」とか「何か知らないうちに決まっていたね、、、」とか、真実を公に語ることで、まちの本当の姿が明らかになる。真実の、生の情報からしかまちの将来は築けないと思うのです。

情報の手段が多くの人に解放された今こそ、市民たちがそれぞれメディアとなって、真実を伝えるジャーナリストとなって活躍することができるのではないでしょうか。自分たちの目で自分たちのまちを知る必要があります。

2008年3月5日

コヤケの小言

「コヤケの小言(つぶやき)」とは僕の高校時代の恩師のことばです。

http://nostalz.exblog.jp/
『「コヤケ」は奈良方言。「小宅」、貧しい家のこと。「オホヤケ(大宅=財産家)」に対していう。「小言」は親とか大家さんのように上に立つもの、権威あるものが言えば「コゴト」になるが、ここでは「小さな物言い」というぐらいの意味。肩書きも権威も持たない庶民のことばは「つぶやき」にしか聞こえないだろう。 』

当時はことばよりも、文字や記号があり、数字や公式があり、多くのものがことばよりも先に表れてきていました。ことばがコミュニケーションのためなどというものではなかったのですね。しかし、今の彼のことばを読むと、人とことばがつながれていることがわかってきます。言葉の向こうには発する人が必ず見えてくると実感します。

ことばがひとつひとつをつなぎ、意味をうみだす。そのすぐ向こうに一人ひとりの人がいる。一人ひとりの言葉のすぐ向こうには、ひとつひとつの社会があり、そのすぐ向こうにあるのが「環境」というこれからの社会ではないでしょうか。

つまり、一人ひとりの言葉のそばに環境がある。

数値や記号じゃない言葉のそばには、数値や記号じゃない人がいて、そのそばには一人ひとりの環境があるのではないかと考えるのです。

今、多くの問題や提言が寄せられだし、コミュニティシンクタンクはもうすぐ離陸します。その声の一つ一つに、それぞれに向かい合って、対峙しなければなりません。ひるまず、こびず、その判断する基準は一つ一つの言葉であり、人であります。

地域ファンドって、何だろうと考え始めました。コミュニティの基本となることばなのかな、と感じています。

2008年3月2日

ベンチャーとしてのNPO

NPOはその社会的、非営利的性格から「経営の透明性」を確保しています。そのため、特に意思決定と監督の責任を持つ理事会と事業を展開する事務局とがはっきりと分離されています。

理事会の責任としては
1.明確な目的と目標の設定とその事業計画の管理
2.事務局長を選出とその活動の評価
3.事務局活動の確認と評価
4.3~5年程度の長期戦略や計画の策定
5.主要事業の実施計画の承認
6.財政計画や人事計画の策定とその実施支援
7.資金調達、資提供者の紹介
8.対社会的な広報
9.理事会の自己評価
10.労働環境の整備等法令遵守の確認
一方、事業を展開する事務局の役割としては
1.1年の活動計画の策定と進捗状況の管理
2.業務体制や顧客満足度など事業評価
3.ニーズの把握と事業展開の検討
4.資金調達と資金源の開発のための広報活動
5.財務、会計の管理
6.人材配置や活動場所の確保など日常業務活動の運営管理
7.理事会との連携活動
8.他組織や他地域NPOとの連携、協働
があげられており、理事会と事務局とは明確に役割分担がなされなければならないようです。

しかし、NPOがその活動を志したとき、どの企業もそうであるように、経営者が同時に実践していたと思います。経営と実践は一体のものだったのではないでしょうか。しかし、このように多くの責任を理事や理事会に頼らざるを得ないとするとその活動は誰のためのものなのでしょうか。

逆に、その多くは理事とは形式化、形骸化したものであって、実質は経営も実践も事務局が担っているということなのでしょうか。

志あふれる、しかし、基盤が脆弱なベンチャーにはNPOという組織形態は適切ではないのではないかと危惧しています。どこかで無理をしている、フットワークが重い、コミュニケーションがとりにくい、戦略を立てる理事会の言いなりになってしまう、、、、などなど志を持って始めた事業のその意味がなさないのではないかと心配します。


NPOとは大組織、確立した組織に適切な形といえますね。そして多くの指定管理者には法人格が必要とされています。しかし、ベンチャーが参入していかなければ、社会活動の新たな展開は見えてこないのではないでしょうか。

利益を求めないのではなく、余剰の利益を構成員に分配するのではなく、社会へ還元するという非営利の社会的活動にとって、どのような組織体が、法人化が望ましいのか十分考える必要がありそうです。

2008年3月1日

ファシリテーターの選別

偽装をしていると、消費者を単に欺いているだけではなく、その間の自分たちのやるべき手法が止まってしまいます。社会や課題の変化に対応して、真摯にトライを重ねなければならないのに、偽装で済ませているといつものやり方をいつもの場所で行なうだけでいいからです。進歩も反省も、修正もない。

ワークショップといういつも同じ手法、適当にグループに分けて、最後には出てきた意見を模造紙に自分たちの言葉で書き上げてゆきます。しかし、何が決まったのか、どの方向へ行ったかは、何もわからないのですね。そして、次の会は前のことはどこかで決められてしまっていて、また別のことをやらされてしまいます。

そのようなワークショップでは、埋もれた意見を探し出すことやともに何かを決める、といったことが重要なのではなく、彼らにとっては、あらかじめ決まった方向へ、市民を向かわせてゆくことが必要なのです。

そんなものでも「参加者の賛同が大きく、盛り上がりを感じる」などといったファシリテーターの感想が広報されていて、誰もが大いなる疑問を感じざるを得ません。市民を見ていないのか、見えていないのか。見ようとしないのか。誰もが同じようにできるわけではありませんので、これはファシリテーターの能力にも原因があるでしょう。

いつも同じやり方で市民の声でまちをつくっているなどと言って市民を欺いていると、自分自身にも見えなくなってしまうのですね。市民の声を聞き取ろうという技術も高まらないです。市民の声はそのあげ方も、出されたものも多様です。だから、それを聞くにはどうすべきかを常に努力していないと、技術も能力も、倫理観も簡単に失われてしまいます。

今社会では多くの人は自分自身を出せないのではないかと思います。そのため、多くの分野では様々な手法や取り組みが開発されてきています。しかし、人を欺く、まちづくりワークショップだけがいつもの手法を何年も繰り返しています。
だから市民は答えの出ない議論に奔走させられることになるのです。

いつも同じファシリテーターに託するのではなく、常に選別する必要があります。
失われた技術は大きいですよ。市民にとっても、ファシリテーターにとっても。そして、何よりそれを雇っている行政の損失も大きいはずです。

ファシリテーターが市民を選別するのではなく、市民が大きく目を見開いて、ファシリテーターを選別する必要があるのです。