2008年6月17日

情報力

「市民シンクタンクのすすめ」の著者、高原氏は市民力とは市民の調査力であり、情報力であると書いています。

情報をどのように収集し、編集し、発信するか。情報を区切り、経路を限定することにより、市民を誘導したり、情報を隠してしまうこともできます。
一部の市民やファシリテーターにのみ情報を開示し、まちづくりを検討させておいたために、プロムナードができたら、既存の樹木も見事に伐採されてしまい、木も何もないさびしい空間ができてしまい、通りがかった市民がびっくり、ということもたびたびありますね。
しかし、そのような小さな出来事も市民の目は的確にとらえています。毎日、まちを見ている市民の目があるのです。
1.抱える問題・課題の解決にヒントとなる情報
2.潜在する問題をあぶりだて可視化し、気づきを促す情報
3.複雑に絡み合う事柄を解きほぐして対話への意欲や相互理解を促す情報
4.特定の問題にかかわる人々の「本心」
「市民シンクタンクのすすめ」では、情報の重要な内容はこの4つの視点であると書かれています。しかし、こうした視点は外部の組織による鳥瞰的調査ではとても浮かび上がらないものであり、市民自らが情報を集積することの成果であり、市民の大きな役割となってゆくでしょう。
そして、情報に組み込むべき、7つの枠組み-<時期の設定>(WHEN)、<実践主体の設定>(WHO)、<中心となるフィールド>(WHERE)、<目的や目標>(WHAT)、<実践に到った理由や背景>(WHY)、<実践の主たる対象>(WHICH)、<実践のプログラムや体制>(HOW)が語られています。それらは情報を実現するための枠組みです。
市民力による情報に、7つの枠組みを組み込むことで、情報がダイナミズム(推進力と方向性)を持ち、具体的な政策としてリアルになってゆくのではないかと期待します。市民力によって、実現化と実践力を構築する道が見えてきたように思います。
地域の自治力や市民の行政力が情報力によって生み出されてくる、市民はその入り口に立っているのですね。

2008年6月14日

コンパクトシティ

コンパクトシティと言うとすべてが許されるようになってきました。

ウィキペディア(Wikipedia)によれば、「都市郊外化・スプロール化を抑制し、市街地のスケールを小さく保ち、歩いてゆける範囲を生活圏と捉え、コミュニティの再生や住みやすいまちづくりを目指そうとするのがコンパクトシティの発想である。再開発や再生などの事業を通し、ヒューマンスケールな職住近接型まちづくりを目指すものである。」と説明されています。

雪国青森市では成功しているとも言われています。しかし、声を発する中央官庁とそれに無思慮に従う地方都市があって、人口3万人の村にも、10万人の町にも、40万人の都市にも同じように、中心市街地再活性化構想がうごめいています。

小さな独立したひとつの生活圏が自立し、まちを自ら運営してゆくことが重要なはずです。人口の拡大によって拡散した施設群をまた、旧市街地に戻すことしか考えが及ばなくて、まちの孤立化を助長することになるだけです。中心地までの交通や施設のネットワークも破壊し、旧商店街の人間的なスケールまでも壊滅に追いやってゆきます。

中心市街地の活性化はその周辺の町の豊かさによって保障されるのです。その周辺住民のことを考えずに中心だけを考えてもまちは豊かにはなりません。人も戻ってはきません。

郊外のショッピングセンターは中心市街地の古ぼけた商店街の数百倍の売り上げがあるとも言われていますが、そのショッピングセンターさえ生き残りに大変です。商店主が高齢化しようとも住民のニーズを的確に捉え、新たなマーケットを開拓していかない限り、まちは活性化しないでしょう。

国がゆとりといえば、郊外に施設を展開し、国がコンパクトといえば、それを中心地に戻す。その繰り返しを行っている限り、地方都市の未来はないと感じます。国の施策に従う地方都市、地方都市の政策に巻き込まれ、利用され、NPO団体まで結成させられる中心市街地の商店主たち。この膠着した図式からはとても自由な商業による生きた町など生まれないでしょう。

2008年6月12日

シェアードハウス

日本でも、コレクティブハウジングやコモンハウスが広がってきました。北欧ではすでに20世紀の中期から始まっていた新たな協働社会が日本でも見えてきように思います。
http://www.chc.or.jp/collective/img/20080501bp.pdf

そして、その社会のもっと先には、多様な協働が見えてきます。

友人である建築家北野氏は障害者と健常者が互いに助け合って生活するためのシェアードハウスに取り組んでいて、そこには社会全般に広がるべく本質的な、普遍的な社会が見えてきます。

障害者と健常者の協働から、福祉、高齢化、少子化、ジェンダーなどの現代の問題に向けて、個人の問題から社会で議論すべき、解決すべき多くの問題へとつながります。そこには多様な立場と価値観を大きく変換させて、ともに住まう、生きる本当の地域社会が生まれてくるはずです。

シェアードハウスからシェアードコミュニティへ。

2008年6月11日

ワークショップ難民

地方都市におけるワークショップは危機に瀕しているようです。まるで、羊飼い(ファシリテーター)が柵のなかで羊を遊ばせておくだけのように見えるのです。羊たちは機嫌よさそうに戯れていますが、声を上げると柵の外に追い出されてしまいます。

本来ワークショップとは羊の戯れにあわせて、柵を形づくるものです。また、羊の活動が活発であれば、柵など不要となってしまうかもしれません。羊の本当の姿を知り、その環境はどのようなものがいいのか、その方向を発見することが重要なのですね。

ワークショップの本質とは枠組みを緩めて、身体を使って、求めるものを体現しながら、答えを見つけようとするものです。どこへ行くか分からないけれども、本当の行く先を捜し求めようとするものです。


ワークショップはどこでも、だれでも今や数多くの機会に行われるようになりました。ワークショップはバブルの様相を呈しています。

今、迷いのない、忠実な羊飼いと、従順な羊が地方都市の中で囲い込まれています。

2008年6月10日

インスピレーションをつくる組織

組織や集団によって、何かを成し遂げる、創造行為を行うことについて考えています。

デザインやアイデアが、あるとき突然どっと生まれてくるように、組織や集団によって、ひらめきやインスピレーションのような、イノベーションを引き起こすことはできないか、そのプロセスや合意形成はどのようなものだろうと考えています。

まちづくりにおいて、多くの人の声がどのようなかたちになってゆくのか。その手段の一つとして、市民によるギャザリングを始めました。ギャザリングとは車座のようなものです。

ギャザリングとは、もちろん聴くことも大切ですが、自ら語ることで見えてくるものがあると考えています。仕事でアイデアに行き詰った時、何気なく人に語った時、それまでの疑問やつまらないこだわりが消えていったり、次のアイデアが生まれてきたりします。

声を発することで、ある意味、客観的に自分自身を見ることができるようになるのでしょう。

アイデアやインスピレーションが、いろんな試行錯誤が飽和した時、でも少し視点を変えることで、新しい何かを生み出すことができます。

また、問題を解決するためには、右か左か、盾か矛か、裏か表かというような二者択一の単純な解決方法ではなく、どちらでもない、しかも、どちらの考えとも共有し、解決できる別の第3の方向が必要となるのです。

それを生み出すのが、そこに問題を共有して集まる多くの人たちであり、彼らの持つ多くの切り口(分野や価値観、立場、情熱)が集まって、飽和して、ある新たな方向が生まれるのだと考えています。

アイデアやインスピレーションがある時、偶然生まれてくるときがあると思います。でも、本当は偶然ではなく、考えた挙句に、出尽くした後に、ちょっと視点を変えた時に新しいアイデアが生まれてくるのだと思っています。ギャザリングとは、集団でそういう創造を作る場です。

答えのないものに挑戦しているのです。だから、新しい答えを見つけるために手探りで進んでいます。

さらにギャザリングの機能につながりをつくることがあげられます。地域で活動する人たちは分野は違えどもどこかでつながっています。また、地域は遠く離れていても考え方においてつながっている場合もあります。

実はギャザリングを行って、図書館と子育てと少子化、ジェンダー、高齢化問題、そして障害を持つ人の福祉も、実は同じ根を持っているのだと思ってきました。あつまり、つながることによって、一人で取り組むより遥かにすばらしい成果が期待できるのです。また、地域で活動している人たちはそれぞれ多くの人とつながっていて、多くの人の疑問や問題を持っています。多くの市民の声を集めるというのは市民の全体集会を開くことではなく、こうしたつながり、人と人のネットワークのなかから、市民一人ひとりの声を集めることなのではないかと思っています。

コミュニティシンクタンクとはこのように課題を共有し、つながりを広げてゆくことで、次の何かを生みだす組織であると考えています。