2008年7月23日

兵庫県多可町地域協議会

平成17年11月に中町・加美町・八千代町の合併により誕生した、兵庫県多可町では、18年度より、旧町の地域特性を残しながら、3つの区(中区、加美区、八千代区)が融合したまちづくりを進めていくため、平成18年2月27日に地域協議会が発足したようです。

その機構は15名程度の地域住民で構成された、3つの地域協議会が7名の大学教員によるコミュニティシンクタンクから助言を受けながら、月1回程度会議を開き、また3つの協議会をつなぐ連絡協議会や町長懇談会などを開催し、町に対して提言を行ってゆくというものです。

小さな町ですが、だからこそ、町の様々な施設の活動状況を協働で視察するところから始め、自分たちの町を知り、具体的な活動方針を掲げ、その方向を自ら提言しているようです。

その豊かな活動の内容がホームページに記されています。
http://www.takacho.jp/chiikikyougikai/

25000人ほどの小さな町ですが、年初に書かれたであろう所信表明からは、その意気込みと真摯さが伝わってきます。http://www.takacho.jp/syuyo_sesaku/h20/sesaku_syosinnhyoumei.html

「成熟社会にマッチした町づくり」~ 多可町の基盤造りを次代への挑戦 ~

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20年度は2年半の準備期間を経て「多可町が本格的に動き出す年度」と位置づけたいと考えます。 それは、旧町からの継続事業がほぼ一段落し、多可町の住民や職員が考え、計画した事業がいよいよ動き始めるからです。 しかし厳しい時代の財政的背景は、国をして、また県をして、多可町独自の町づくりプランを自由には描かせてくれません。

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北海道夕張市の財政破綻の実態は、皮肉にも脆弱な自治体財政の実態を国民共通の認識にまで昇華させ、大きく関心を喚起させました。 これら行財政への関心の高まりをむしろプラスに捉える中で、すべての職員がより自らを律しつつ職務に精励し、特に役職者にあっては町の財政状況の説明責任を積極的に果たさなければならないと改めて心するところです。

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◎ 予算編成にあたって心した基本の方針は、次の3点です。 
Ⅰ. 予算総額の抑制とプライマリーバランスの好転を目指した「縮減型予算」 
Ⅱ. 真に必要な事業に合併特例債等の財源を有効に活用した「財源効率型予算」 
Ⅲ. まちづくり・環境・健康・教育など次代へつなぐ先進施策を盛り込んだ「提案型予算」   
20年度の予算編成作業においては、各分野において事業の継続を目指しながらも予算の削減を行うというアプローチで取り組みましたが、この手法が限界にきていることは、本年度の収支を10億円余りの基金繰り入れでまかなっていることを見ても明らかです。 役職者においても一層の意識改革の徹底を図り、旧町の手法や考え方にとらわれることなく、多可町として何が必要か、柔軟な発想で今のコスト構造と役場組織の対応のあり方等を果敢に変えていく必要性を強く感じております。
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2008年7月22日

街ゼミ

岡崎市中心部の商店街で、2003年から年2回開催され、この夏で11回目を迎える「街ゼミ」こと「得する街のゼミナール」が7月28日から開かれます。


http://www.okazakicci.or.jp/mirai/zemi11.html
http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20080717/CK2008071702000044.html?ref=rankhttp://www.city.okazaki.aichi.jp/sisei/sisei7_15/kouza1.htm



今回から商店主自ら立ち上げた「岡崎まちゼミの会」が中心となって企画運営するようです。


これまでは、市からの助成金を元に活動を行ってきており、広報費にその多くを必要としてきたようで、その多寡が街ゼミの成功の鍵を握ってきたようです。そのためか、市の支援や助言にとてもナーバスになってきたと思うのですが、独立した会を結成したからには、今後はどこまで自立性を増していけるか、資金の多寡ではなく、商店主たちがどれだけ、自分たちの活動の使命やその大切さに気づくか、自信を持って進んでいけるか、、、、

やりたいことを自ら進める、そして、何をやりたいのか、何をやらねばならないのか、それに気づくことであり、そこに邁進することに尽きるのではないでしょうか。

折りしも、コミュニティシンクタンクmocoのmocotomoメッセージで、高松市丸亀町の活性化の記事が掲載されています。http://cttmoco.blog25.fc2.com/blog-entry-17.html

「ここの新機軸は、土地の所有と店舗の経営を分離したことにある。 テナントは集客力を厳しく審査し、お客本位の店作りができる業者に開放する。ビルの立つ土地で昔から商売してきた人は、商店として再チャレンジするか、地権者になり切るかを選ぶ。 一般的に、伝統的な商店街は店舗の経営者が地権者でもある。再開発の権利調整は難航するのが常で、結果的に地権者である商店主の都合が優先された、お客不在の商業施設ができる例も多い。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
再開発で「所有と権利の分離」方式を採用するには、まず既得権を持つ昔からの商店主の「心の再開発」をする必要があった。全国ブランドの店舗と互角以上に戦えない店主は、地権者として生きるよう「心の整理」を迫られる。「再開発=自分の店の繁栄」という図式を否定することからすべてが始まる現実を受け入れなければならないのだ。」

金沢市で成功を収める、堅町商店街も同じような方向性を持っていました。地権者は商店街の整備を図り、行き交う人の交通量の多さでもって、施設を高く売り、店舗は消費者のニーズの少し上を行くことで利益を上げると同時に商店街の活性化に貢献する。この相互のきびしいやりとりが商店街の成功へとつながっているのです。http://www.chusho.meti.go.jp/shogyo/shogyo/shoutengai77sen/idea/4chuubu/2_chuubu_17.html


街ゼミは、行政からの自立を果たして、次の一歩を歩みだしました。行政のシステム化と商店街の活性化とは相容れないもののはずです。行政の発想からは商業など育つことはありませんし、ましてや助成金を求めて、彼らに媚びながら広報しても競争力を持った営みには決してならなかったでしょう。

今度は彼らの多くが自ら自立し、魅力ある店舗を次々と展開してゆくことに成功の鍵はあるのではないでしょうか。同じ志を発掘し、つないでゆくことが、望まれます。旧来のやる気ある店主と地域で新しい店を展開し始めた若者たちが、共に意識を共有することで大きな発展につながるのではないでしょうか。

共有のために、協働のために、古い心を変えなければなりませんね。

2008年7月21日

昇任試験

「名古屋市役所の係長の昇任試験を受ける職員が減り続けている。98年度に1357人いた「行政事務」分野の受験者数は、07年度には522人と、ほぼ3分の1に落ち込んだ。出世より、自分の時間を優先する生活スタイルの変化が大きな理由と市はみている。
「昇任試験のための受験勉強より、子どもとの時間を持ちたい」 ある管理職は部下に係長試験の受験を勧めたところ、こう断られた。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・50歳代のある幹部は「最近の若手は責任を負わなければいけないということにばかり目がいくのかもしれない」とこぼす。市が懸念するのは、市全体を引っ張ろうという職員と、それ以外とで二極化してしまうと組織力が落ちるのではないか、という点だ。」http://www.asahi.com/national/update/0714/NGY200807140003.html?ref=rss

職場こそが実践の場として最も大切な場であると考える人も多いのではないかと思います。仕事を自ら遂行することで、PCDAという仕事のサイクルや、「準備」、「熟成」、「啓示」、「検証」というクリエイティブなプロセスを体験することで、自分でできることを増やしてゆく、、、、山を見つけ、山を乗り越えることで、また、次の大きな山を乗り越える能力が身につくのであり、そして、社会の矛盾を正面から見据えることができるようになるのだと思います。それがキャリアの向上と考えてきました。

昇任試験は与えられた答えを一元的視野で身につけることにつながりませんか?

昇任試験に合格して、幹部と言われる職員が社会に、地域に、何を貢献しているか?、、、、、、、若い世代はそれに気がついているのではありませんか?

それを「生活スタイルの変化」と推測するのは的がはずれていませんか。

社会へ出ても、役所に入っても、決められた答えのある試験が必要なこの特別の社会、、、、、この旧態然とした制度を改革し、本当にやる気と実力ある人が意欲を持って働き、その能力を認めていかないと、お役所仕事は改まっていかないのではないでしょうか。

「市民が本を盗まないように窓が開かない図書館」を推進する職員(うそのような話ですが、、、、、)、「15mもの大きなはぜの木や土手の大きな桜並木」をいとも簡単に伐採し、30年たったら同じような大木に育つと言い切る職員、企画書の「想像性」という言葉を「創造性」の間違いだと言い訳する職員(想像力のないものに創造性など生まれるはずはないと思いますが、、、、、)、「一部の市民に広場の樹木がうっとおしいと言われたら、すべての樹木を伐採してしまおう」と考える職員、「根回ししないで大切な樹木を5月に移植しようとする」職員(季節と準備を考えないで移植が成功するはずがありません)、、、、、、彼らも昇任試験は合格しているのかもしれませんね。

地域の何が大切な価値かを知り、どこに価値が眠っているかを知ろうとする、、、それを守り、発掘し、継承する、、、、その役割を魂に刻むことが、、、、行政マンのプロたる職能だと考えます。

(ポジティブシンキングしなくては、、、、、)

2008年7月20日

誇大広告と美化

今、キャンパスのあり方を考えています。 15年間、明治学院のキャンパスの再開発に携わり、次代の教育空間とは何かを考え、あり方を模索しているのです。もうそろそろ、戦後の復興期に開発された横並び式のキャンパスの次を考えなくてはなりません。(しかし、信じられないことですが、文科省の推奨プランは今でもそのようなものなのです、、、)

キャンパスを考えるには教育そのものを考える必要があり、高校生と高校教員の本当の関係、、、、それを新たにする必要があります。そのためには古い教員や制度も同時に改革する必要があるかもしれませんが、それが、内部から改革が起きない原因なのでしょう。

しかし、地域との連携の中で、地域の人たちが学校に入ってきます。高大連携が叫ばれ、新たな高等教育が始まります。常に改革を進めるための可変性を持った豊かな空間が必要になります。その可変性が実力ある教師を選別します。エコロジカルな社会に向けて、人と人、人と自然、人と社会の関係が社会生態系の中で混在してゆくはずです。

文科省の推奨する横並び式の制度とキャンパスは近いうちに、このような外部の力によって瓦解することでしょう。

そんなことを考えながら、学校教育を考えていたら、以下のようなサイトに出会いました。どこでも現状を肯定することで、瓦解を防いでいるようです。 教育も、まちづくりも同じですね。

「誇張や美化はやめましょう  (教育 / 2008-07-19 )」
http://blog.goo.ne.jp/madographos/e/7bd16681be1cbca2edaaf47f450c1df6

学校から発信する文書に,誇張や美化はありませんか?
学校の姿を,本当に見えている姿以上によく描いてはいませんか?
学校がこぞってホームページを開設し,色刷りのパンフレットを作成します。そこにも商業主義の波が押し寄せます。誇大広告になっていませんか?

ことばは,大切にしなければなりません。できるだけ,真実を包み隠さず伝えなければなりません。それがたとえ,学校にとって不利なことであったとしても。ただ,残念なことに,今の世の中では,誇張や美化のない誠実な学校に,生徒は集まらないのです。

2008年7月19日

PCDAからの脱却

PDCAサイクルは、第二次大戦後に、品質管理を構築したウォルター・シューハート(Walter A. Shewhart)、エドワーズ・デミング(W. Edwards Deming)らによって提唱された。PDCAサイクルという名称は、サイクルを構成する次の4段階の頭文字をつなげたものである。
Plan (計画):従来の実績や将来の予測などをもとにして業務計画を作成する。
Do  (実施・実行):計画に沿って業務を行う。
Check(点検・評価):業務の実施が計画に沿っているかどうかを確認する。
Act (処置・改善):実施が計画に沿っていない部分を調べて処置をする。
この4段階を順次行って1周したら、最後のActを次のPDCAサイクルにつなげ、螺旋を描くように一周ごとにサイクルを向上(スパイラルアップ、spiral up)させて、継続的な業務改善をしていく。

(『ウィキペディア(Wikipedia)』より)


コミュニティにかかわる運営や業務の形態を調べていて、コミュニティビジネスやコミュニティシンクタンクなどにおいても、このサイクルが援用されていることが多いことに気がつきました。


それは、とにかく、「DO」、何かを一方向的に進めることになりがちではないでしょうか。効率性や管理性においては、その方向でいいかもしれませんが、現代の多様で、複層的な事象を進めてゆくには、もっと、DOの部分を真剣に取り組む必要があるかもしれません。

「クリエイティブ資本論」では、社会をクリエイティブという視点からその趨勢を解明しています。


クリエイティビティとは統合する力。情報と知覚と素材を取捨選択して新たな価値を生み出す組み合わせを表すものであり、一人の天才の領分ではなく、普通の力、、、、つまり、気づくこと、聞くこと、言葉を理解すること、そして共通点を見出すことである、、、

それは、これまでの時代においても生産性や成長をもたらしてきたものであるが、技術革新や新しいビジネスの分野だけではなく、多元的、多面的なものであり、現代の時代においては創造の過程は個人的なものだけではなく、社会的なものであり、創造する組織が必要とされる説く。クリエイティビティを促す新しい構造が生まれつつあるというのです。

クリエイティブな思考は4つの段階、「準備」、「熟成」、「啓示」、「検証」、から生まれ、
「準備」では意識して課題に取り組み、正攻法で論理的に取り組む、、、「熟成」段階は意識下の精神と無意識がつくる方法によって問題について熟考、(つまり、想像力のことかな、)、、そして啓示段階でひらめき、新しい統合が見える段階となり、、、「検証」はその評価と修正となる。

ちょうど、それはデザインや創造行為と同じプロセス、しくみです。社会の多くの事業や活動においても、実際にはこのように神の啓示を待っているようです。技術も経済も、芸術も皆同じなのであり、さらに言えば、僕はまちづくりにおける集団的活動もPLAN-DO、そしてACTのような直線的方向ではなく、共有による創造性が大切だと考えてきました。それが啓示であり、共有する課題の発見につながります。

まちづくりという多数による集団による創造行為もまさにこのような熟成から啓示を待っている。PLAN-DOなど、ベルトコンベアに乗っかったような、それを検品するような、単純なサイクルでは、現代の複雑な社会や多数の市民や、新たな答えを求める活動にはむしろ、ブレーキとなるものではないかと感じます。

新たな創造、、それは難しいものではなく、「普通の力、、、、つまり、気づくこと、聞くこと、言葉を理解すること、そして共通点を見出すことである」ことのようです。

2008年7月18日

条例か機構か

条例などをいくら立法しても市民によるまちづくりは推進できないでしょう。まず、条例を制定することではなく、まず、市民中心の組織やしくみを考え、試行してみることです。法律は後からついてくるものではないでしょうか。首長も議員も法律をつくれば、いいと思っているようでなりません。そんな記事とブログに出会いました。法律をつくってから、しくみの検討なんてありえないだろうと、、、、、、どこでも行われていることなのでしょう。

「花巻市は、四月一日に施行したまちづくり基本条例に基づいて市民参画・協働推進委員会を設置した。委員十五人を決定し、十四日に初会合を開く。市民による市政への参画と協働のまちづくりに向けた環境づくりのほか、参画の方法や参画状況の評価など市民参画の具体的な仕組みについての検討がスタートする。 

同条例は、市政運営の基本ルールを定めたもので、市民が主体となって参画し行政や議会と協働してまちづくりを進める内容をルール化。同委員会の設置は十五条で規定されており、市民の市政への参画や協働が適正に推進されるよう活動する。メンバーは団体からの推薦者や学識経験者、公募委員の計十五人。 

条例には、市政への参画方法としてまちづくりにかかわる重要な計画の策定や条例の制定には、意向調査やパブリック・コメント(意見公募)、ワークショップ、意見交換会などを行って、市民の意見が反映されるよう配慮することを明記している。

委員会では、実施した市民からの意見吸い上げの方法が良かったかどうか評価するなどしながら、より良い市民参画の在り方を模索していく。初会合となる十四日は、市側が委員会の役割などについて説明するほか、今年度の市民参画と協働の推進方策について意見交換する。」
(岩手日日新聞社より:市民主体のまちづくり 委員15人を決定~花巻市 (07/07))

新聞社という公共の組織が本当に物事の本質をつかまえているのか、、、、、。記者のジャーナリストとしてのプロ意識はどこへ行ったのか。誰が真実を伝えるのか、、、、。
市民によるまじめな報告(ブログ)の方が真実を率直に明らかにしているように感じてならないのです。

こんなことは全国で行われているのだろう。どうしたら、本当の民主主義が生まれるのか、、、、、。市民受けを目指す市長と利権の代表で表面だけを理解する議員とルーティンワークをこなすだけの職員からは生まれないだろうな、、、、、、、、、、、、、。

この市民参画・協働推進委員会は3回だけ、開かれるようです。

市民のブログより⇒
花巻市役所本館303号室。午後2時~午後4時半。第一回「花巻市市民参画・協働推進委員会」の見学に行ってきました。委員の出席は、15名のうち、大学の勉強があるからとの理由で2名欠席の13名。傍聴人は6名。報道機関から2名。市からの出席は3名。

委員15名のうちわけ。市からの要請で、農協代表、商工会代表、福祉協議会代表、PTA代表、老人クラブ代表、婦人会代表、区長代表の7名と、学識経験者3名の10名。公募委員はわずか5名。そのうち2名が授業のために欠席なので、いわば本当の意味の市民代表は3名だけだった。

市長挨拶で、「この委員会は、まちづくり基本条例の実質的な推進のエンジンになる・・・自分達の町は自分達のもの、自分で作っていくまちづくりの意識を、多くの市民が持てば持つほど良くなっていく・・・そういう市民を育てるのが・・・批判だけのオンブズマンだとかの市民じゃなく、自分達で町を作っていく、行政と一緒になって作り上げていく。そういう市民を・・・・・」と。

Q:公募委員のMさん(前回の基本条例作成の委員長)  2人の委員は、学業のため欠席、と言いましたが学生さんですか?今回は仕方ないとしても、今後も出席できないのであれば、早めに他の応募して落選した人に変わってもらった方がいいのではないですか?

Q:公募委員のSさん 委員を募集してる記事を見て、応募したが。募集しているという事しか、情報がかかれていなくて、いつ頃、何回あるのか、(交通費とかの)手当ては出るのかそれとも無償のボランティアなのか、どういう内容を審議する委員会なのかが、探したがまったく情報がなかった。こういう情報の無い公募は、応募しようとすると負担が大きくてためらってしまうが、わざと情報公開しないでのは無いのか。市に近い、委員会の情報を持っている人以外を排除するために、情報公開しないでの公募は、一般市民を締め出す一種のフィルターがけじゃないのか、と思ってしまう。


この委員会の目的について、市の説明「花巻市市民参画・協働推進委員会」の目的第2条 委員会は、次に掲げる事項について、執行機関の諮問に応じ調査及び審議し、または執行機関に意見を述べるものとする。
(1)市政への参画方法の研究や改善に関する事項(ここが一番大切な部分です。の説明あり)
(2)市民参画と協働の推進に関する事項
(3)市民参画の評価に関する事項(この3つがこの委員会の協議の核心部分ですの説明あり)
(4)条例の見直しに関する事項第3条 委員の構成について(略)第4条 委員長・副委員長について(略)第5条 委員会は、委員長が招集する。第6条 庶務は地方振興部で処理する市の説明の中で、市政への参画方法の研究や改善、について審議すると最初に言いながら、審議する回数は年3回のみ。次回は10月、その次は2月の3回のみ。

そしてできれば今日、平成20年度市民参画手続き6案件、
「国土利用計画花巻市計画の策定」
「花巻市公共交通実施計画の策定」
「花巻市都市計画マスタープランの策定」
「花巻市高齢者保健福祉計画・第4期介護保険事業計画の策定」
「第2期花巻市生涯福祉計画の策定」
「岩手中部地域水道ビジョンの策定」
を審議(承認?)してもらいたい、と言うので、

M委員が質問。
Q1 年3回では(1)市政への参画方法の研究や改善に関する事項ができない
Q2 市民参画手続き6案件 は、1つ案件に1日かけて良いのではないのか。市民へのアンケートやパブリックコメントにどう言う意見が寄せられてるか、それらがどう反映されているか検証するには、1案件に1日かかると思うが。

A1 3回というのは目処で、増やすのは委員長の考えでいくらでもできますが。みなさん忙しそうなので、多くする事はできないと思います。
   Q:M委員 委員長の一存で増やせるそうですが、委員長どうでしょうか?
   A 委員長は、市の職員の席を見るが、返答はなし。
A2 市の回答なし。かわりに公募委員のHさんが、市民参画手続き6案件については、市がアンケートをとり、パブリックコメントを集め、各種委員会の有識者に意見を聞いてまとめたものを、もう一度審議するというのは、市に対して失礼じゃないのか、と意見を述べた。

市政への参画方法の研究や改善に関する話し合いと言いながら、実際は市民参画手続き6案件をドサクサ紛れに通してしまおう、というわかりやすいたくらみにはあきれる。

M委員:10点 市の推薦委員からの攻撃の孤立無援の中で、市側の隠された本音を引き出した活躍は、満点だろう
推薦委員7名:残念ながら3点 何より、基本条例も、参画条例も知らないで出てきたのが分かる。今回は顔合わせだけだろうと思ってきた人が多いみたいなので、分からなくても仕方の無いところもあるが、発言も無く質問も無いのは、いないのと同じ。メモをとってる人もほとんどいなかった。明らかに、来たくは無いが仕方なく時間つぶしに来た、としか見えなかった。 ただ、婦人会の代表は、女性の議員とこういう委員会に女性を増やすために来た、という積極さは見えたので4点。
学識経験者:4点 言動から、基本条例や参画条例について分かっている事は明らか。ただし、発言がほとんど無かったし質問も無かった。いくら頭がよく、知識が豊富でも発言が無いのはいないのと同じ。学識経験者を委員に入れるのは、豊富な知識と頭のよさで委員会を良い方向に誘導してもらいたい意図があるのに、リーダーシップもとれずただ座って時間つぶしをしていたので、4点。
委員長:4点 市の職員の顔色ばかり気にして、リーダーシップが取れなかった。H委員:6点 基本条例・参画条例について分かっていないで来たのは明らかだが。積極的な発言が多く会議を活性化させた、ので6点。
S委員:7点 今回の委員会で、積極的な発言をしたのは公募委員の3名だけだった。S委員は、基本条例・参画条例についてよく勉強していたし、会議を良い方向に導こうとしての発言が目に付いた。欠席学生2名:0点 言うまでもないが、勉強している他の公募した人たちが落とされ、意見を言う機会を奪われたのですから、欠席は自分だけの問題ではないのです。2回目の委員会で、委員の皆さんがどれほど勉強しなおして来るか、楽しみです。

2008年7月17日

市民研究員募集します。

「吹田市は平成20年6月、まちの個性や魅力を発揮するため、先進的で実現性の高い政策提言を行う「吹田市まちづくり創造政策研究所」を設立しました。市民を中心に学識経験者、市職員が「研究チーム」を結成し、市政を取り巻く課題の解決に一丸となって取り組みます。」

行政主導の市民参加型のまちづくり活動がまた、ひとつ生まれたようです。どのように運営されているのか、市民の立場と権限、自由はどのように与えられているのか、、、、興味がつきません。

その吹田市まちづくり創造政策研究所が市民研究員を募集しています。
市民研究員が5 つテーマからなる研究チームを構成し、運営されるようですが、それ以外の詳しい活動内容は公表されていません。

地方都市の場合は、市民を巻き込みながらも、しかし、制限を設けたり、管理性を強くし、一定の枠の中に押し込め、形だけは市民参加を謳うことが多い中で、大都市近郊の吹田市で、様々な思惑を持った市民をどのように惹き付けてゆくか、巻き込んでゆくか、どのように提言してゆくのか、注目したいと思います。

http://www.city.suita.osaka.jp/var/rev0/0001/1524/guide2008.pdf

2008年7月15日

ひつまぶし

名古屋の神宮前でひつまぶしを初めて食しました。名古屋のうなぎは関西系?と感じました。味の濃さは関東系?、、、ゼミの学生はマイたこ焼きプレートでパーティをします。となると、関西系ですね。

関西で育ち、学び、東京へ出てきたときに、多くの文化の違いに驚きました。西と東、常に2元的に語られてきましたが、関西にとっては2元論でも、東京から見れば多元論の一つであったのです。

今、愛知から社会を見るようになっています。その視点はいくつかの2元論が混在しているようにさえ感じられます。

名古屋では愛地球博以来、市民活動の活発な動きがそのままの勢いを保っているようにも見えます。この市民活動を統括してRCE、つまり、持続可能な開発における教育の拠点を名古屋に作ろうとして、ユネスコに認められたようです。しかし、その内実は、アカデミックと企業との先導の上に生まれ、上からの統制はうまく展開できないようです。

僕は京都のようなアカデミック中心でもない、東京のような企業の利益中心でもない、第3の方向性、すなわち、市民自ら、自らをつないでゆく、自立的組織を提案したのですが、、、、、。大きな力を必要と考え、先を急ぎたい人たちにはまったく見えなかったようです。

名古屋という都会でありながら、ちょっと田舎っぽい、それだからこそ、その特性をもっと強く表し、2元論からの脱却を図る必要があるのではないでしょうか。洗練された2元論ではなく、その泥臭い多元的発想が次代をつくるはずですが、、、、、。

次は名古屋のモーニングセット。と思っています。

2008年7月14日

まちづくり市民委員会

釧路市総合計画の策定等の基本的事項に関し、広く市民から意見を求めるため、釧路市まちづくり市民委員会が市長の要請のもとに開設されていたようです。

平成18年2月に、開会のための委員会が開催され、8月にはまとめの委員会が開かれ、要請者である市長に提言を行っています。また、委員会は公募を中心とした100人ほどの市民を中心に運営され、産業経済・都市基盤、市民生活・健康福祉、都市整備・生活環境、教育文化・生涯学習、市民交流・地域づくり、の5つの分野において、2月から7月にわたり月2回程度、7回の小委員会が開かれています。

100人の市民が集められ、短期間にどのような提言が行われたのか興味のわくところです。
コミュニティシンクタンクも、次第に輪が広まってゆくときには、どのように意見を集約し、どのように提言してゆくか、同じような問題を抱えてゆくことになるでしょう。

その運営は次のように説明されています。ここでも多数決が採用されています。民主主義といえば簡単に同意が得られるものかもしれませんが、、、また、未来を語ると言っても、今の社会の本質を見抜けないと、未来さえわからないものなのですが、、、、。果たして、成果はいかがなものなのでしょうか。

(1) 貴重な時間を大切に
 ・「市民100人委員会」は、委員皆さんの貴重な時間で成り立っていますので、会議に遅刻や欠席をする場合は、必ず事前連絡をお願いします。
 ・もしも、ひとりの委員が長話をはじめてしまうと、貴重な時間が直ぐに無くなってしまいますので、発言は要点をまとめて手短にお願いします。
 ・また、スムーズな会議進行のため、議題にそった発言をお願いします。
(2) 他人の夢も大切に、譲り合いの精神で
 ・「市民100人委員会」は、それぞれの委員が釧路市の将来に対する夢を語り、それを実現するための計画を作るものですので、相手の意見を良く聞くことはもちろん、相手の夢を否定したり、相手を問い詰めたりしてはいけません。
 ・また、議論が白熱したときも、常に冷静にお互いを尊重し、譲り合いの精神を忘れないようにお願いします。
(3) 将来につながる発言を
 ・「市民100人委員会」は、委員の自由な発言や発想を最大限尊重しますが、同時に発言の「言いっぱなし」をするのではなく、問題点の解決に向けた対策も検討できるような会議を心がけてください。
(4) 意見がまとまらないときは
 ・「市民100人委員会」は、たくさんの委員の集まりで、それぞれの委員の思いがあり、一つにまとめることは難しいと思いますので、委員会の意思決定は、多数決の原理を基本とします。
(5) 市民に開かれた会議に
 ・「市民100人委員会」は、市民みんなのものですので、会議は原則公開とします。
(6) 委員と行政はまちづくりのパートナー
 ・「市民100人委員会」は、委員と行政が対峙するするのではなく、お互いが「まちづくりのパートナー」という意識を持って会議を進めます。

2008年7月13日

生きている図書館

今、「生きている図書館 Living-Library」が話題です。http://living-library.org/readers-reports.html

元マフィア、移民、性転換者、、、、。市民が普段近づきにくいと感じている人たちを図書館に招き、話を聴きたい入館者に「本」として貸し出す。「生きている図書館」と名づけられた活動が欧州から世界各地へ広がっている。

偏見や人権と言った視点からの本物の教育活動かもしれませんが、実はあまり驚きませんでした。

それは、東近江市図書館長だった才津原哲弘さんが展開していた図書館は一人ひとりの利用者を見つめ、彼らに本の背後の世界、本当の世界を提供するために、様々な人たちを図書館に招き、講演や講座、展示会など、多様な生きた図書館の姿を作っていたからです。

日本には本物の図書館はほんの数パーセントと言われています。その他は本を並べてあるだけの施設になっています。生きた情報や世界として、それらを提供しようとする意識に欠けているのです。

「図書館の自由に関する宣言」には、
「図書館は、基本的人権のひとつとして知る自由をもつ国民に、資料と施設を提供することをもっとも重要な任務とする。この任務を果たすため、図書館は次のことを確認し実践する。
第1 図書館は資料収集の自由を有する
第2 図書館は資料提供の自由を有する
第3 図書館は利用者の秘密を守る
第4 図書館はすべての検閲に反対する
図書館の自由が侵されるとき、われわれは団結して、あくまで自由を守る。」と宣言されています。

どこにも書物とは書かれていません。つまらない既成概念によって、自ら枠を決めてしまっているのです。書物の本当の姿とは、紙の上のインクのしみ(文字のことですが)のことではなく、読まれることにより、浮かび上がるその背後の豊かな世界のことであると思います。

そして、予算が削られようと、職員が不安定で不合理な非常勤職員で占められようと、指定管理者制度が導入されることにより業務が丸投げされようと、、、、、すなわち、自由が侵害されようと、それと闘う館長はごくわずかです。そのごくわずかの本物の館長だけが本物の図書館をつくっているのだと言えます。

「生きている図書館」はコミュニティシンクタンクだと感じました。図書館の社会的役割はコミュニティシンクタンクが担ってゆくのでしょう。

2008年7月12日

社会の縮図

コミュニティシンクタンクの役割のひとつに市民活動を行う人々によって地域の課題を共有することがあげられます。そこには課題を解決する何かを求めて、多くの人たちが集まります。どれだけの課題が共有できるかがコミュニティシンクタンクの能力であり、また発信力となります。同時に推進力にもなるのです。

彼らは目の前の現象に真摯に取り組んでいます。しかし、それだけだは、自らの活動はスムーズに進んでいきません。彼らの多くは、地域の風土や歴史だけではなく、現実の社会の制度やしばりによって、その活動を制限されていることもわかってきます。彼らの背後には社会のしくみが見えてくるのです。そのしくみから課題を発信してゆく必要があると考えています。

ボランティアセンターで、ニーズとボランティアをつなぐコーディネーターの背後には、ボランティアの不足という表に現れる現象の陰に上部組織の意識の少なさが見えてきます。

市民と制度をつなぐもの、あるいは縛るもの、それは制度を定義する法律だけではなく、むしろ、それを運用する機構であると考えられます。ここにすべての人材と資金がフローしてゆきます。社会のありようを決めるもの、そのひとつが、様々な形で存在する中間支援的機構であり、大きな役割を担っています。

ある地方都市の福祉機構の現況と事業予算を取り上げてみます。職員の少なさと役員の多さに驚かされますが、、、また、事業予算にも驚かされます。この機構の5億3500万円もの事業計画20項目の内、1000万円以上の事業項目を予算の順に並べてゆくと、、、、、。

「岡崎市社会福祉協議会は、岡崎市福祉会館(岡崎市朝日町)及びぬかた会館(岡崎市樫山町)に事務所があり、職員47名、役員48名(平成19年5月31日現在)で構成されています。
(事務局)
会 長-事務局長-事務局次長-
・庶務係  庶務・経理等
・地域組織係  ボランティアの育成・啓発 等  手話通訳・要約筆記者派遣事業 等
・介護支援推進係 (地域福祉サービスセンター) (在宅介護支援センター)  在宅介護の相談・地域生活自立支援事業 等
・介護サービス係  ホームヘルパーの派遣、ケアプラン作成 等
・額田支所  額田地区内各種事業(相談、訪問等)  ふれあいデイサービス事業 等」

19年度事業予算項目です。(上から順に1000万円以上を列記)
1 法人運営 148,561,000
2 介護保険サービス事業 133,616,000
3 地域福祉サービスセンター事業 58,560,000
4 共同募金配分金 48,420,000
5 障がい福祉サービス事業 28,487,000
6 老人介護支援センター事業 22,942,000
7 ボランティア事業 22,147,000
8 退職金積立事業 20,888,000
9 福祉サービス利用援助事業 10,907,000

2008年7月2日

ノーマライゼーション

日本では、公共性のある建物を高齢者や障害者が円滑に、安全に利用出来るような整備の促進を目的として、平成6年にハートビル法が制定されています。その後、その主旨をより積極的に進めるべく平成15年4月1日に改正法が施行され、また、平成18年12月に同法(不特定多数利用の建物が対象)と交通バリアフリー法(駅や空港等の旅客施設が対象)が統合されバリアフリー新法として施行されました。

こうした法令による上からの約束事は、課す立場のものも守る立場のものも、とにかく、やっておけばいい、ハードだけが先行しがちです。人の思いや介助のないハード面のみの設備だけでは、現実的にはほとんど役に立たないものです。どこでもよく見かけることですが、曲がりくねった点字ブロックの上を、およそ考えられないようなルートを視覚障害者は歩かされています。

詩人の栗木宏美さんは自ら手足に障害を持ち、医療行為のできるケア施設建設を目指しています。彼女は幼いころより、さまざまな偏見によって、社会と大きな壁で隔てられていたと言います。

彼女は心のバリアフリーを心がけて欲しいと訴えます。同じ心を持ち、共通の認識を持つことが必要となります。その共通の認識の部分で法律が多くの人の意識をマネージメントできれば、真のノーマライゼーションをもった社会を築くことができるのではないでしょうか。簡単なことではないかもしれませんが、、、。

なにも目に見えて障害のわかる人たちだけではありません。ちょっとした心と身体のわずかの違いは誰にでもあるものです。少数派の彼女たちのことを考える余裕を持つことこそ、すべての人に優しいまちづくりができるのではないかと考えます。この夏、北欧3国へ、行ってみるつもりです。

2008年7月1日

報道がヒステリックに

最近報道番組がヒステリックになっていたように感じられてなりません。


地球温暖化、、、社会の崩壊、、、、キャスターが声を張り上げます。まるでかつてのプロレス中継のようです。

報道やメディアの役割、それはヒステリックに、声高にメッセージを語ることではなく、、、、温暖化といわれるその現象、社会の崩壊といわれるその状況を的確に冷静に伝えることではないでしょうか。そして日本のあまねく、広い地域で、丹念に取り上げてゆくことではないでしょうか。

しかし、もはや、その絶叫はステレオタイプのごとくになって、本当の原因はどこにあるのか、どのように存在しているのかなど、見失わせてしまい、また、地球温暖化や社会の崩壊、とステレオタイプに打ち出される報道の陰で身近な大切な問題がカモフラージュされてしまっているのではないかと危惧しています。
かつてのプロレス中継のようにショー化してしまっては、地球温暖化も社会の崩壊も止まらないように強く感じています。