2008年9月28日

市民と議員の条例づくり交流会議

議会は市民の代弁者であり、、、、ある意味で、中間支援組織であるとも言えます。行政と市民の間に立って、専門家として情熱と能力と倫理観を持って、職能意識を発揮することが求められます。

この中間支援組織のありかたが地域の姿を決めると言ってもいいかもしれません。多数の市民という保守的な面からしか市民を見ることができない行政と、一方で、さまざまな思惑や権益を持った多様な市民、、、、、そこをつなぐ、組織が重要となります。

ひどい自治体ではここに目をつけ、官製に近い、おかかえ、御用NPOを立ち上げ、行政のやりたい放題を市民に押し付ける役目を彼らに担わせています。擬似ワークショップや霊感商法のような夢見心地のスライド会などが使われます。

市民は自ら為政者を選んでいるはずなのですが、、市長と市議とを別々に選ぶ必要があり、、、、ややもすると、市長選には注目が集まるが、市議選は関心が少ない、といった状況にならないでしょうか。市議の方だって、「どこどこの渋滞を解消する」なんてことを公約にするレベルでもあります。

市議会の正常化、実効化が市民には最も近い道かもしれません。

この夏、市民と議員の条例づくり交流会議2008(第8回)が開催されていました。
http://www.citizens-i.org/jourei/index.htm

「市民と議員の条例づくり交流会議は、2001年から、各地で地域の課題解決に取り組み、条例づくりをめざす、市民や議員、自治体職員や研究者らが、知恵や経験を共有し、互いに学びあい提起しあう交流の場として、毎年夏に開催してきました。

8回目を迎える今年は、市民自治体をめざした、市民と議員の政策づくりを支える仕組みづくり、自治体財政・決算の改革、議会基本条例の現在・さらなる議会改革へ向けて、二元代表制における市民・議会・行政の関係―等々について、各地の実践を共有しながら、幅広い議論・交流を行っていきます。ぜひ、ご参加ください。 」


多くの人たちが市民自治体をめざして、市民と議員の政策づくりへ向かい始めているようです。

2008年9月27日

「地方議会を立法機関に」

政策集団せんたく(地域・生活者起点で日本を洗濯(選択)する国民連合)の北川正恭代表が「全国若手市議会議員の会」の研修会で行った講演でのニュースです。

「地方分権を進めるため、国と対等な「地方政府」が必要と強調。現状では「地方議会が(行政の)追認機関になっている」と指摘し、「監視機関だけでなく立法機関でなければならない」と述べた。議員には、議会のあり方を定める「議会基本条例」などの条例制定に取り組むよう促した。」http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/43407

条例とは、憲法により自治立法権に基づき定めたもので、条例は市民の代表である議員が議会で決定したもので、規則は市長が定めるものであり、また、条例の提案権は市長に専属するものと議員に専属しているものでもあります。条例案を作成後は議会の中の委員会で審議し、公布、施行となるようです。

どの程度の立法が地方議会議員によって立案されているのでしょうか。市民の目線で立案された条例はどの程度あるのでしょうか。

条例とは、市民が選択した市長によるものであるし、また、市民が選択した議員によるものである、、、、、にもかかわらず、議会で追認、承認してしまえば、後は一人歩きの部分でもあります。市民に近いものでもないように感じられます。

日本有数の豪雪地帯、新潟県旧中里村にはかつて、「雪国はつらつ条例」という条例がありました。

目的 - この条例は、雪の障害を克服し、雪と共存するとともに、雪を資源として積極的に活用する施策の基本となる事項を定めることにより、雪対策の総合的推進を図り、もって村民生活の安定向上と活力ある地域社会の形成に寄与することを目的とする。(第1条)

基本理念 - 雪対策は、村と村民が一体となって、克雪、利雪、親雪等の施策を長期的かつ総合的に推進することにより、すべての村民がはつらつとした活力ある村づくりを目指すものとする。(第2条)

村の責務 - 村は、総合的な雪対策を策定し、その施策の実施に努めるとともに、村民が実施する雪対策に対して適切な支援及び調整を行うものとする。(第3条)

村民の役割 - 村民は、お互いに力をあわせ、雪対策に創意と勇気を持って積極的に参加し、自ら雪による支障を克服するとともに、雪の資源を活用して他に誇れる雪国づくりに努めるものとする。(第4条)

かわいい、のどかな、でも切実とした条例ですが、、、
村民の責務を描いたものでもあるようです。村民の知らないところでこんな責務が決められたとするなら大変です。

2008年9月23日

市民協働の根底

市民協働とは何か、その言葉の持つ心地よい響きとは異なり、その議論は混迷しているようです。

本来は、市民が自ら活動を行うことが地域の活性化につながり、また、その活動が、硬直化し、分断化した市民サービスを補完し、つないでゆくことにその意義があるのではないかと感じます。その大切な活動を行政がバックアップすると同時に協働して推進してゆくことが必要とされるのだと考えています。

こうした活動を通じて、本当の意味での市民としての自覚や役割も生まれてくるものだと思います。もちろん、行政マンが市民にサービスするのだという自覚と役割も芽生えてくることでしょう。

対等な関係性を築く、その方向性を円滑にし、いつでも誰でも協働できるような基盤(フォーマットやプラットフォーム)がいま求められているのではないでしょうか。

しかし、制度化することによって、自由な活動を阻害する要因にもなりかねません。ましてや、一部の市民会議の中では、、、、、市民に市民としての義務を自覚させ、行政サービスの一端を負わせるもののように変化してきたようです。

ましてや、「基本的には、あなたはこの社会の主体であり、責任持って一緒に生きていくということを問い正す条例」などと暴論が吹き荒れている状況を僕たちはどう考えればいいでしょう。
https://mobile.city.okazaki.aichi.jp/auto/www.city.okazaki.aichi.jp/yakusho/ka2605/pdf/19sikumi12.pdf

2008年9月22日

本物の市民参加とは

今、多くの地方都市では市民参加を前提とした仕組み作りを始めています。

しかし、ややもすると仕組みや制度の形式面を先行しがちです。「岡崎市協働の仕組みを考える市民会議(18年度)」の議事経過を見ていると、他地域の条例を下敷きに、既成の枠組みの中で進めていこうとする行政マンと、理念やこれまでの協働のルールをきめ細かく見ることから「地域独自の協働理念とは何か」というところへ踏み込もうとする専門家との大きな乖離が見られています。それは7回の会議による議論の後でも何も変わっていないようです。https://mobile.city.okazaki.aichi.jp/auto/www.city.okazaki.aichi.jp/yakusho/ka2605/ka2601.htm

市民協働といっても、市民と行政の間にもいつもこのような状況が現れています。行政サイドはさっさと制度を決めて、身動きならないようにしたいのかと疑わざるを得ないのです。また、制度を改善しても、制度ありきの運用ではなく、協働を促進するための本物の運用をどのように考えるかは、この基本理念を議論するプロセスから生まれてくるはずです。

でも、いつも条文ありきの議論であり、制度のための条例しか描けないようであれば、「地域独自の協働理念とは何か」などとても生み出すことはできません。自分の町の状況をしっかりと把握する想像力に欠けるのであり、それを具体化する創造力に欠けているのです。

しかし、地域独自の素晴らしい理念を形に表している町もあります。

北海道、半島の中心に位置するニセコは自然環境に恵まれた住民4600人ほどの小さな町ですが、全国に先駆けて、平成13年4月1日、自治基本条例を制定、施行しています。ニセコにとってまちづくりとは町の運営そのものであって、自治そのものです。そして、その基盤を「情報共有」と「住民参加」においています。

「世の中の動きに合わせて」程度の意識で住民参加に取り組む自治体が、情報を閉ざし、限定した状況下で意味のない、成果の見えない市民協働や市民会議を横行させてしまうのと大きな違いがあります。

ニセコ町では、基本理念は次のように表わされています。

■町の「ミニ憲法」 ~ニセコ町のまちづくりすべてにかかわる条例(自治基本条例)

この条例は、ニセコのまちづくりを進める上での町民共通ルールです。このルールは、日本国憲法や地方自治法などの法の精神に基づき、わたしたち町民がまちづくりの主役(主体)として行動するためのものです。 条例の名前にある「まちづくり」とは、道路や上下水道の整備、市街景観形成などの目に見える「ハード」の側面だけではなく、情報共有や住民参加などの仕組みづくりといった目に見えない「ソフト」の側面も含んでいます。そこから、町民が住むことそのものが誇りに思える「暮らしづくり」を発展させること、それが「まちづくり」に込められた思いです。


■2つの柱 ~「情報共有」と「住民参加」

まちづくりの大切な基盤が「情報共有」です。まちづくりにかかわる情報は、町民の共有財産です。町民の間でまちづくりに関する情報が共有されていなければ、住民参加も意味をなしません。そのため、町が積極的に自らの説明責任を常に果たしていくことが最低限必要なことです。 この条例では、「情報共有」と「住民参加」を車の両輪に同じと考え、一体のものとして、まちづくりのための重要な原則と考えます。同時に、これらにかかわる基本的な権利の保護に努めます。


■自治の実践 ~町民の主体的行動と自治の基盤

 『まちづくりは、町民一人ひとりが自ら考え、行動することによる「自治」が基本です。わたしたち町民は「情報共有」の実践により、この自治が実現できることを学びました。』(条例前文より引用) この前文では、「自治」の手ごたえを感じています。この自治をより本物の自治に発展させることが最終目的です。そのために、この条例を自治のための基本となる条例として、わたしたち自身のツール(道具)として使いながら、わたしたち自身が「市民」として主体的に考え主体的に行動します。その中では、町民のまちづくりへの参加が、自治を守り、自治を進めるものと考えています。 また、自治の発展は、町民の暮らしや経済産業の発展にも寄与すると考えます。各種統計調査においてニセコ町の人口が増加傾向にあること、起業や雇用が増えていることなどの背景には、自治の基盤が大きく影響していると考えられます。


■育てる条例 ~自治の発展

 この条例は、最低4年に1回の見直しを行います。平成17年12月にその1次見直しを終えました。 情報共有や住民参加などをとりまく考え方や社会情勢は刻々変化しています。自治のための新たな発想や枠組みも生まれています。国内外における時代の動きを常に捉えながら、その一歩先の将来を考えていくことが必要です。その意味で、町民が将来にわたり育てていく条例として、この条例を位置付けています。条例見直しのタイミングごとに、自治の方向性やさまざまな制度の点検、見直し を行うことができます。

2008年9月15日

市民の資産

市民会議なるものが開かれます。例えば、岡崎市では旧本多邸を修復し、活用のアイデアを募るという市民会議が招集されたのです。しかし、冒頭から紛糾したようです。市民会議と言えば本来は、つまり市民のための市民によるかいぎなのに何故なのでしょう。

その概要には次のように書かれています。
「目的・概要, 最後の岡崎城主子孫の自邸として昭和初期に建築され、歴史的・文化的価値も高い旧本多邸を復元し、有効活用を図ります。 」

実は現存地であった世田谷区でも保存できなかった家屋を岡崎市が譲り受けて、5億モノ費用をかけて、修復するのですが、今年度は設計と造成を行い、来年度には着工するということです。

ヴィジョンもなく、計画を進める、ヴィジョンがないからこそ、市民ではない誰かの権益で進行してしまうのでしょう。そして進んでしまったものを後から正当化しようとする。そのための市民会議なのですが、、、それゆえ紛糾してしまうのですね。

そしてお決まりのように行政直属のNPOによるワークショップを行い、お決まりの方向へ持ってゆく、、、、。小さな個人の邸宅を丘の上に移築したって、活用の内容など限られてしまいます。幻灯会などでどこか遠くの楽しげな風景を照らし出し、参加者を幻惑しているようです。多くの参加者が霊感商法のように感じています。

ガス抜きのために行われる、と考えざるを得ない市民会議ですが、不満がたまる一方です。

でも、誰が決めたのだ、ということになると行政マンは「市議会が決めたのだ」と言う。市長がトップで決定し、行政マンが実直に従ったものを3ヶ月ほどの検討で市議会は承認したのです。市議会が決めたというのは、語弊はあるのですが、、、、。しかし、議会は、市民はこの状況をどのように考えるのでしょうか。
岡崎市にはかつて繁栄したレンガ造の工場群や煙突、紡績機などが豊かに残されていましたが、この春、解体されることになってしまいました。そうした市民の資産は地域に数多く埋もれているのであり、それらは地域の風土や歴史、文化、生活を豊かに物語っています。どの地域にも数多く埋もれている、そうした資産を活用することによって、目に見える価値を再現するだけではなく、目に見えない価値にも目を向けることになります。
大切な資産を解体に追い込んでおいて、他所の土地の住宅を移築して公園の一角に残してもどれだけの意味があるのでしょう。ヴィジョンがないから、独断専行となり、市民は反対するのです。
全体構想を描いて文化資産を考えて行くとき、市民自ら一体となって価値の発掘に努めることでしょう。それが市民であり、コミュニティシンクタンクの役割のひとつであると考えています。

2008年9月10日

メディアの視線

自民党総裁候補が決まり、その報道が熱を帯びています。

あるメディアは5人の候補をそろえ、さまざま質問を投げかけます。そして、最も重要な質問であろう、市民のファックスによる質問を用意していました。「格差の大きくなる中で消費税を上げるのではなく、なぜ、一般税を上げないのか」、「地元の病院では出産できなくて、何時間もかかる大学病院へ行くことになる」、、、、、、。

そこには具体的かつ基本的な、国民の生の声があげられていたのですが、キャスターは「福祉や年金の財源はどうするのか」「消費税はいつ上がるのか」、、、、など抽象的で陳腐な質問を投げかけてしまう。抽象的で陳腐な質問にはそれ相当の答えしか返ってきません。まるで、あらかじめ、質問の内容があらかじめ決まっているかのような、報道番組でした。

一方で、隣のメディアでは候補者の姿などありませんでした、、、、、が、もっと、もっと先を見ていました。

メディアの乱立によって、情報もあふれています。