2009年10月27日

駅とは。。。パブリックコメントへ

東岡崎駅北口駅前広場整備計画(素案)について 提言書 091018

駅とは何か?それは単なる通勤電車の乗降駅でいいのだろうか。


JR岡崎駅/東岡崎駅計画案






JR岡崎駅や現在構想されている東岡崎駅のようなインターチェンジのような車中心の駅から何が生まれるでしょうか。何も生まれません。

人の姿はどこへ行ってしまうのでしょうか。人の姿など考えられていません。
岡崎の駅とは通勤乗降客が毎日行き過ぎるだけのものでも、彼らを駅まで運ぶバスやタクシーやマイカーの待合場所でもないはずです。

それは町の玄関であり、町の顔だという意識が重要です。

外部から来る人は岡崎がどのような町だろうかと胸をわくわくさせており立つ場所であり、市民は我が町、我が家へ帰ってきたとほっとする場所であるはず。だから、駅とは町そのものであるはず。

市民が集い、町を表わす駅とはどのようなものだろうか?

それは水と緑と歴史文化が輝く(行政の掲げる岡崎のテーマ)駅でなくてはなりません。どこまで視野を新たに、忘れられているものを発掘するか、かかわる人たちの想像力が試されるのです。

自分たちの利権だけで町づくりはできない。地元の商店主の綱引きで方向が定められては市民はたまったものではありません。地域の関係者の狭い視野で考えられては貧困な駅しかできないでしょう。

私なら次のようなコンセプトを構築します。


風土や景観/緑、丘、地勢、風の道、乙川、桜並木、岡崎城
歴史や森/六所神社、龍海院、萬徳寺、永昌寺
そして何より駅とは何かに対する強い理念/中心性、人の集まる広場、マーケット
などコンセプトが不可欠です。

新たな構想は、背後の丘の緑や風の道を駅に引き込み、岡崎の新しい中心をつくるセントラルパークとしての駅となる。

駅とは次のようなものをいいます。岡崎を象徴する東岡崎駅構想を提言します。

1.広場をつくる。













2.六所神社とつなげ、参道を復活させる。(かつて名鉄本線は参道を分断し、敷設されました。)












3.丘からの風の道を取り込みます。













4.町への視線を確保する。岡崎城を意識し、乙川の匂いを感じる。












5.広場にマーケットを設置する。















2009年9月23日

フィンランドの教育

フィンランドメソッドと言われるその教育方法に注目が集まっています。

福田誠治氏の「驚きのフィンランド教育  格差をなくせば子どもの学力は伸びる」を見てゆくと、格差をなくすというそのテーマより、多様な生徒を一つのクラスに混在させ、それぞれを多面的に指導するその驚くべき風景が描かれていることがわかります。それはメソッドというような一つのやり方ではないし、表面的な方法論でもありません。

授業の進め方は学校ごとに、教員ごとに決められている。複数の学年が20-30人程度の一つのクラスであり、家庭のような雰囲気と空間を持った教室のどこでも好きな席で授業を受ける。生徒の進行状況や意欲など、その時々の状況に合わせて、いくつもの授業が一つのクラスで同時並行で行われているかのようです。
標準化された教室、30-40人ほどの生徒が整然と机を並べ、TOPで決められた教科書や教材によって、ひとりの教員が一斉に全員の生徒に話しかける日本の授業風景。そこでは、余計な声や視線や関心はそこには無用のものであり、クラスを一つにまとめ、統括することが教員の務めのような印象もあります。
フィンランドの授業風景はかなりそれとは異なっています。グループで勉強する生徒、一人で考え込む生徒、一人で先に進む生徒、もちろん理解のスピードも、学んでいる内容自体も生徒によって様々です。
教員の視線と支援はその一人ひとりに注がれ、一人ずつ異なる支援を同時にいくつも行わなければならない、、、、その能力は日本の教員のそれとは大きな隔たりがありそうです。
一つのことを全員に同時に教えることさえままならないわけですから、、、、。しかし、よく考えてみると、むしろ、一つの枠に押し込め、一つのシステムで対応しようとするそのようなことの方が難しいことかもしれません。かつては学校や教員を聖域化、聖職化することで、そのような困難でかつ不思議なことができるような錯覚を与えてきたのかもしれません。
フィンランドの授業は大学でのゼミの授業のようなものに感じます。今僕は、3,4年の2学年20人ほどに一つの設計課題を与え、学生それぞれ自ら課題に取り組むことで授業を進めています。設計課題に対するそれぞれの答え、答え方はかなり方向の違ったものですし、それぞれの方向に特化するように個別にアドバイスをしなければなりません。だから同時に20の課題を勉強していることになるし、20の取り組むスタイルがそこにはある。
「高校までは、まわりと同じことをしないと親が心配し、他人と同じことができないと教員から評価されなかった。また、他人と同じでないと目立ってまわりからいじめにも遭っただろう。しかし、これからの社会では他人と同じだったら評価されないよ。」毎年、入学してくる大学1年生に僕はこのように伝えています。
フィンランドでは小学校からそのように教えられ、自ら学び、自ら行動しているかのようです。学校社会という特別の、聖域化したものではなく、HOUSEのような居心地のよさとHOMEの雰囲気の中で、COMMUNITYの多面性を持ったいつもと同じ普通の社会の中に学校はあるのでしょう。

2009年9月21日

「ビーチ図書館」

「大学生が「ビーチ図書館」開設プロジェクト/横浜

砂浜で読書の秋?-。ビーチの利用の幅を広げようと取り組んでいる東海大学の学生による「ビーチライフ創生プロジェクト」(高市慎太郎代表)のイベント「砂浜の図書館」が20日、横浜市金沢区の海の公園に開設され、親子連れらが砂浜での読書を楽しんだ。今年で2回目。21日、10月4日も開設される。 

同プロジェクトは東海大学の学生が中心となって取り組み、「秋のビーチの楽しみ方」を提案するもの。書籍は市民などから寄せられた小説や絵本など約350冊を用意。砂浜には、シートを敷き、背もたれ用の板を砂浜に差し込んで作った座いす約40個で観光客を出迎えた。 砂浜にずらりと並ぶライムグリーンの座いすに当初は困惑気味だった観光客も、趣旨を説明されると、興味のある本を持って靴を脱いで着席。心地よい潮風が吹き抜ける中、足の下の砂の感触を楽しみながら、本を読みふけっていた。 

近所に住む主婦の小林英代さん(40)は「風がとても気持ちいい」と話し、長男の優人君(11)も「家では読まないけど、ここだったら読書も気持ちいい」と満足した様子。 高市代表は「一年を通してビーチが楽しめるよう取り組んでいきたい」と話している。 」(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090920-00000023-kana-l14 より)

「本が焼けるから」と言って閉鎖性を高め、「市民が本を盗むから」快適な環境なのに窓をあかない構造にする。落ち着いた空間が欲しいのに規定の明るさを確保するため眩しいくらいの照明を設置する。静かな読書のための空間があればいいと言って、本の世界とつながる多様な生きた活動を放棄する。

今、それが日本の大部分の図書館の姿であり、利用者のニーズではなく、本を管理する側の条件で計画、運営されています。日本がまだ貧しかった時代の過去の図書館像が今でもそのまま現代に引き継がれています。これでは、誰も図書館や本には興味を示さないでしょう。

そうした中で、「本物の図書館」、「生きている図書館」を目指して、いくつかの試みが行われるようになってきました。この「ビーチ図書館」もまさしく、そのひとつです。

こうしたニュースを耳にすると、温めてきた市民による市民のための図書館設立に向けて勇気と意欲と可能性が立ち上がってゆきます。

2009年9月19日

NPO法人東京コミュニティスクール

NPO法人東京コミュニティスクールはコミュニティスクールを推進し、実際に経営するNPO団体です。その設立趣旨がWEBSITEに述べられています。(長い一文ですが、、、)

「特定非営利活動法人東京コミュニティスクールは、子どもたちとその教育に関わる親、教育関係者、学生、地域住民を対象に、コミュニティスクールの運営を通じて「思考と行動のつながり」をベースにして学ぶ学習スタイルとその教育の具体的な進め方についての研究開発、実践、提案、普及を行うとともに、学びの選択肢の多様化とその選択の自由に関する社会的認知・支援を獲得していくためのさまざまな活動を行い、子どもと大人が共に一人一人の市民として豊かな社会生活を創り出していく活力のある社会の実現に寄与していきます。」(http://tokyocs.org/0130_aboutus/npo_3.html より)

まだまだ、私立のフリースクールのようにも感じられますが、何より標準設計の監獄のような校舎の中で整然と机を並べて行う教育ではなく、アットホームな雰囲気の中で独自の教育が行われているようでフィンランドでの授業風景を思い起こさせるようでした。



ただ、学校教育法第1条に定める小学校ではないため、子どもたちは地元の公立小学校に学籍を置いたまま通い、学期ごとに保護者がここでの出席や学習の記録を学校長に提出することで在籍校で公的な出席記録として認められ、卒業の認定が行なわれるようです。


募集要項や教育費用が以下のように記載されています。


【募集人員】 新1年生~新6年生
【定員】 1クラス12名×6学年 合計72名
【対象と時期】 ・原則として小学校1年生から小学校6年生まで。 ・定員に至るまでは随時、生徒の募集を行ないます。
【選考の基準】 ・保護者とスクールの考えに基本的な相違がなく、グリーンシートの内容への同意があること。 ・子どもが、東京コミュニティスクールで学ぶことに対して前向きに考えていること。 ・子どもが、他の子どもたちやナビゲータとのコミュニケーションがとれること。

【入学考査料】 5,000円(入学選考時)
【入学金】 200,000円
【学費】  60,000円/月(720,000円/年)
【寄付金】 一口20万円 
【その他費用】<教材費><研修旅行、校外学習費用><NPO入会費用>

2009年9月18日

コミュニティスクール

コミュニティスクールとは地域がつくる新しいタイプの公立学校です。有志による設立提案を地方自治体が審査して学校を設置し、任命された校長がマネージメントチームを率い、教員採用権と経営権を持って学校経営を行うというものです。



「教育委員会が日常的に監督しないと教育の質が保てない」「有志による教育だと偏向的、反社会的教育の場になる恐れがある」「教員をリクルートするとなると、教育の公平さが保たれない」「特別の教育は私立学校で行うべきである」「特殊なニーズに公立学校は適合しない」・・・・・・・金子郁容氏による「コミュニティスクール構想」には学校を変革させるために経営的概念を持ち込もうとする金子氏と旧態然とした教育関係者との格闘が描かれています。


出版されたのが2000年ですからそれ以来9年がたっています。文科省でもコミュニティスクールの普及をめざしてすでに266校(20年度)の公立学校で実践的研究を始めています。まずは既存の校長をトップとした教員システムのなかに地域有志からなる学校運営協議会を設置しているのですが、、、、。http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/community/index.htm



教育大学や教育学部を卒業したばかりの教員の卵が、採用されれば1年目から担任を受け持つなど教育システムの歯車となり、「先生」と呼ばれる。子供との力学的関係は明らかであり、教員には間違えることが許されないとプレッシャーとなるでしょう。また、大切な授業では指導要綱から外れることができずお決まりの解説を続けてゆかねばなりません。


コミュニティスクールとはこうした課題を打破し、教育の本質へ向かうための試みであるはずです。地域の様々な人たちが学校の中に入り、もっと異なる世界観を教員に教えてゆく必要があるのではないでしょうか。それによって閉塞した一元的な関係を打ち破ることができるのではないか、それによってしか改革することはできないのではないかと思うのです。


地域に開くとは、これまでの教員と生徒との一元的な関係によって閉塞した学校社会の中に、新たな価値観を持ち込むことではないでしょうか。「新たな」といっても一般の社会の中では至極当然の価値観なのです。


それが地域に開くこと、学校のオープン化です。コミュニティに開き、コミュニティを受け入れることですね。


1980年代、小学校ではオープンスクール化が実験的に試行され、一部の先進的な学校では成功したかに見えましたが、むしろそれ自体が定番化されてしまい、単に教室の壁を取り外すことのできる学校が定着しただけになってしまいました。


生徒と教員が向かい合うだけの一律の関係を持つ教室、がらんどうで、さびしげで、冷たく、しかも音響性能は悪く声が響き渡る教室や廊下、古い企業の事務室のように机が並べられた教員室、こんなところで豊かな活動や仕事ができるわけがありません。


オープン化とはこれまでの学校という価値観で作られるのではなく、多くの価値観を混在させるような、温かで、居心地がよく、誰もがくつろげるような雰囲気の中でコミュニケーションに溢れる空間となることが不可欠です。


絶えず、地域の誰かが訪れて、地域の拠点ともなって、彼らとともに自然体の中で、生徒と教員が向かい合い、混ざり合う、そのような学校がこれから必要なのではないでしょうか。それがコミュニティスクールなんだと確信していました。


グリーンニューディールと言って、IT環境やソーラーなどエネルギー設備に予算をかけてる場合ではないですね。教育環境そのものに真剣に取り組む必要があります。

2009年9月4日

1勝9敗/ユニクロ

柳井正氏は、ユニクロは失敗ばかり重ねてきたと書いています。

成功ばかりだと、保守的になり、形式化をもたらすのであり、それらは市場の変化へ対応が不可欠な小売業には致命的なものであるようです。
詳細に描かれている起業からのプロセスを読んでいると、試行錯誤の多さとそれから学び、実行することへの素早さが大切であるのだと思わずにいられません。
そこに「1勝9敗」の意味があるようです。
また、組織や人事評価についても語られていて、とても興味深い内容も明かされています。現在の社会にとても有用です。


ひとつは組織のあり方。仕事を組織に合わせるのではなく、仕事を行うための組織をその仕事に合わせることが大切さであり、その構成、つまり人員の配置とその目標を絶え間なく、仕事に合わせて変え続けることであるようです。組織は流動化し、外部からは組織の形さえ見えないこともあるそうです。

また、組織は部長とリーダーと社員の3部構成で成り立っています。リーダーとスタッフとはチームを組み、プロジェクトごとに役割を変えて業務を行っているので、基本的には部長とチームによる大変フラットな運営となっています。

人事権とは経営者やリーダーの職務の一つですが、状況に応じて柔軟に、また確実に対応できている会社は少ないのではないでしょうか。

もうひとつは、集団主義ではなく、実力主義となるきびしい評価。人が働く大きなモチベーションとして正当な評価の必要性があげられています。

その評価は意外にも自己申告によるもので、4半期ごとに人事考課をし、その期間に何をどのように成したか、自分の業績を自分でアピールする、、、、それを、面接に時間をかけて評価するようです。それは人材教育にもなるし、モチベーションも上がるし、何より能力の差を見分けることができるということなのでしょう。

90年代後半、首都圏ではまだディスカウントショップと間違えられることもあったユニクロはその直後、フリーズの販売が成功し、新たなカジュアルなファッションブランドとしてそのデザインが確立されます。そのデザインコンセプトがいつ確立したのか、誰のデザインか、考えていたのですが、、、、このフラットでストレートな経営手腕がカジュアルでユニセックスなファッションを研ぎ澄ませていったのかもしれません。

デザインとはしくみを現わし、描くことなのです。

2009年8月24日

うちの集落のスポンサーになりませんか

「うちの集落のスポンサーになりませんか――。新潟県十日町市松代地区の峠、蓬平の2集落が、4月から里山の再生を支援する企業を募集する。


同市、津南町を舞台に3年に1度開催される現代アートの国際展「大地の芸術祭」の一環で企画された。


出資企業には、
〈1〉集落内に設置されたアート作品のスポンサー契約
〈2〉地元の田んぼで収穫されるコメの契約栽培(1~2ヘクタール分)
〈3〉社員研修などとして年3回の体験交流活動――をセットで提供する。
出資金は、芸術祭の運営費や集落での活性化事業などに充てられる。


契約期間は原則3年間で、出資額は集落や契約栽培の面積に応じ、年額302万~494万円。4月から首都圏の企業や大学など350団体を対象にダイレクトメールなどで募集を始める。


出資を募る2集落は、いずれも市街地から15キロ以上離れ、棚田が連なる中山間地に位置する。過疎化を何とか食い止めようと、スポンサー探しに手を挙げた。

31世帯65人の峠集落は、住民の半数以上が65歳以上と高齢化が進む。2006年の芸術祭で日大の学生らと協力して作品を制作。今夏の芸術祭でも、空き家を利用し、住民と学生らが来訪者にコロッケを振る舞う「コロッケハウス」が出展される。(2009年3月24日16時26分 読売新聞)」


未来の見えない農村地域の発する声をどのように受信し、文化や環境などに関心を示す企業が地域の活動にどこまで取り組めるか、楽しみな企画です。

80年代に企業が意欲的に取り組んだメセナ「企業の行う芸術文化支援活動」は一時的なものに終わってしまいました。芸術分野をリードしていたセゾンミュージアムが閉鎖されて、西武百貨店もその先進性や華やかさが失われてしまいました。サントリーミュージアム「天保山」も閉鎖が決まったようです。

今、企業の視線はエコを中心とした環境や福祉に対する「社会貢献活動」に変わってきました。これらも一過性のものになるのでしょうか。

ルーチンワークの多い企業活動、減点主義の経営管理、そうした実務にまじめに取り組む企業にとって、若い学生たちや意欲的な市民がボランティアによって大切なことを学んでゆくように、こうした新たな試みを勇敢に進めてゆくことから学ぶことはとても多いのではないでしょうか。

一方で、先に声を発して自立した町「矢祭町」には名誉市民になりたいと言って町を支援する著名人が多くいるそうです。

彼らは町において、講演会など、啓蒙支援活動を頻繁に行っているそうです。柳田邦男氏、櫻井よし子氏、、、。地域が自由や理想を発信し、その活力に応える支援者。彼らも町の活動から勇気と希望を授けられ、自らの活動に活力を与えているのではないでしょうか。

そうした、互いの活力を相互に交換させ、関係づけてゆくことが社会における自らの立場を社会に向けて発信しているようでなりません。PR パブリックリレーションですね。

PR、地域も企業ももっと深く考える必要がありそうです。

2009年8月23日

郵政民営化は圧倒的な民意ではなかったのかな

今社会は地方分権化へ。しかし、地方のあり方は旧態然としたままで、財源だけ地方によこせという要求は中身のない議論に陥りかねません。 何より、自民も民主も掛け声は地方分権化であり、その違いもわかりにくい。

そして、二党とも同じように郵政民営化に逆行するような方向です。

4年前、世襲制や税金よる施設を借上げる利権としての「特定郵便局」に疑問を持ったものでした。しかも、地方に分散しているというように見えて、都心のある地域には一方的に集中しているのです。

「特定郵便局(とくていゆうびんきょく)は、郵政民営化以前に存在した郵便局の分類のひとつである。郵便局には他に普通郵便局と簡易郵便局があるが、全郵便局の約4分の3が特定郵便局であった。

1871年の郵便制度発足時に、「三等郵便局」制度に由来する。三等郵便局は明治時代に公費で郵便局を全国に設置することが財政的に難しかった中で全国にいち早く郵便制度を浸透させるため、郵便の取り扱いを地域の名士や大地主に土地と建物を無償で提供させて、事業を委託する形で設置された郵便局である。」

しかし、現代では制度が確立し、その状況は変わっています。

「特定郵便局長の任用は自由任用である。25歳以上(一定条件の場所では30歳以上)から55歳以下で公務員としての欠格事由に該当しない場合には応募することができた。だが、特定郵便局長は公募がほとんどなく、事実上特定の関係者(主に局長の親族)しか知り得なかったこと、自営業としての性格も持っていたことから、事実上の公職の世襲という指摘がなされてきた。

特定郵便局の局舎は、それぞれの局により異なるが、国営局舎、自営局舎(個人・企業他)とあり、その他に郵政福祉などの外郭団体が有している場合もある。
かつての国営局舎は国(公社化以降は日本郵政公社)が所有しており、改築等も国(または公社)の費用により行われていた。自営局舎は、その名の通り特定郵便局長が個人で土地、局舎を有しており、書類上、日本郵政公社が借り上げている形になっており、国が局長に対して家賃等を払っていた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%AE%9A%E9%83%B5%E4%BE%BF%E5%B1%80 より)

制度が硬直化し、有益な利益が古い利権となって、過疎化へ進む地方を阻害するものになるのではないでしょうか。利権は利益の見えない所へは手を伸ばさないはずです。むしろ、新たな民によるネットワークを構築すること、それを進めてゆくことが、地方分権化に進む地方自治においても必要なことではないでしょうか。

今しかし、それは「地方分権」という大波の中に忘れ去られようとしています、、、、。

2009年8月22日

ドラマティック

ドラマの様相が変わってきたように思います。
それらはTVの画面の中ではなく、いつでもどこでも見れるようになりました。http://youtubetvdoramadouga.blog111.fc2.com/ などで自由に見ることができます。1週間ごとに間を置きながら見るより、むしろ10-12話程度の1クールの全体像やそのストーリーははっきり見えてくるのです。


歌舞伎のように大見えを切るのでもなく、大根役者のように大げさな身振りをさせるのでもなく、多くのドラマがごく自然な姿勢で、私たちの目線から描かれるようになっています。

医師や政治家の倫理問題、脳科学や物理学への興味、チームやプロジェクト室の記述、現代社会の問題がそのままストーリーとなってドラマが制作されています。

ドラマのエンディングには、「このドラマはフィクションです」とテロップが流れてきます。ドラマとはフィクションのはずなのですが、ドラマとドキュメントとの違いが分かりにくくなってきたのかもしれません。そこには社会の中にごく自然にあるストーリーがしっかりと描かれるようになっています。

ドラマとは決してドラマティックなものではありません。むしろドラマとはストーリーであり、ストーリーを秩序立てて構築し、きちんと基盤をつくり、環境を整備することが不可欠です。それこそが新しいドラマティック=劇的様相なのではないでしょうか。

劇場型政治と言われたり、政治は劇的であると言われたりします。小泉もオバマも。しかし、劇的状況とは、劇薬のようなものではなく、それは、ストーリーがあって、基盤が築かれ、環境が整備されて生まれるものではないでしょうか。「CHANGE」はひとつのドラマである。
それは地域をつくる根本でもあって、もちろん建築をつくる根本でもあって、ストーリーだとか、ビジョンだとか、コンセプトだとか呼ばれています。

2009年8月21日

釧路公立大学 地域経済研究センター

90年代後半より、様々な形で産学連携が進んできました。商工会議所主導によるネットワーク構築、リエゾンオフィスによる大学と地域の連携、TLOによる高度技術の開発、、、、。
釧路では大学主導の地域経済にかかわる研究が行われているようです。

「1999年6月に設立された地域経済研究センターは、地域に開かれた大学の研究機関として、社会科学系の地方の研究機関として、さらに地域のシンクタンクとして、新しい地域研究の取り組みに挑戦してきました。

様々な地域の課題に対してどのような形で地域研究として応えていけばいいのか、限られた体制、資金でいかに効果的な研究プロジェクトを組織し、コーディネートしていけるのか。まだまだ模索しながら取り組む日々ですが、大学が担うべき新たな役割を目指して、たゆまず歩んでいきたいと思っております。

今後とも、地域経済研究センターの地域研究活動によって広がる環のなかから、新たな地域創造の機運が生まれることを願っています。」(http://www.kushiro-pu.ac.jp/center/message.html より)

受託研究や自主研究などの地域研究の一つ一つを共同研究プロジェクトとしてセンター内に立ち上げ、民間や行政、他大学の研究者を客員研究員として迎え、その研究体制を整備しています。また、フォーラムやセミナー、ブックレット活動なども頻繁になされています。

センターでは2008年2月段階で、設立以来、延べ224名もの研究員(外部からが9割以上、地元人材の研究参加が73名)が参加し、21の共同研究プロジェクトを展開しています。柔軟な連携を目指し、地元の人材の積極的参加を求めたり、人材育成を行い、緩やかな地域の知的ネットワークをつくり、幅広い分野の産学連携を展開しています。

行政や商工会議所など公的機関の思惑にかかわらない、つまり助成金で縛られない、純粋で中立的な研究活動が地域の本来の課題を描き出しているように感じられます。東京や関西で大学のオープン化が進む今、地方都市でこそ、大学が主体となった透明な地域研究とネットワークが不可欠です。

2009年8月19日

沖縄県シンクタンク協議会

「沖縄県シンクタンク協議会設立趣意

地方の時代、国際化の時代、情報化の時代がいわれる今日、沖縄県内においても地方自治体や地域の住民による自らの地域に根差した活性化への試みが様々な形で進められている。 

私達、県内のシンクタンクは、このような地域社会の取り組みに対し、地域課題への対応や問題解決の方策を提起するなどそれぞれの企業活動を通じて一定の貢献をしてきたものと自負するものである。

しかしながら、小規模経営の多い県内のシンクタンク業界を取り巻く環境は厳しいものがあり、特に長期的な不況が続く中で多様な地域のニーズに対応するためには、個々の努力はもちろんのこと、私達シンクタンク業界としても情報収集力の向上、研究員の教育機会の確保等経営環境の整備に向けての取り組みが重要な課題となっている。 

このため私達は、これまでの各シンクタンクの有志の話し合いを踏まえ、会員相互の人的交流、情報交換等の活動を通じ、県内シンクタンクの資質の向上。業界の健全な発展を目指すべく、「沖縄県シンクタンク協議会」を設立するものである。」
http://www.thinktank-oki.net/index.html より)

地域のプロのコンサルタントの組合的組織によって新しいコミュニティシンクタンクが生まれています。

沖縄県では、自然環境調査・環境アセスメント、地域計画、経済社会の将来予測、産業振興計画、マーケティング、流通計画、各種イベント・プロモーション計画、地域振興・商店街活性化計画、緑化計画・公園計画・環境整備計画・観光リゾート計画、土地利用・都市構成・市町村マスタープラン、観光振興計画、福祉・保健計画、文化振興計画、コミュニティ計画、地域・環境計画・生態的土地利用計画などをキーワードにコンサルタント活動を行うシンクタンク9者による新たな試みが模索されているようです。

プロによる膨大な情報蓄積と専門的な解析手法によって、「沖縄の自主・自立の将来像を“目に見えるかたち”で描いてみること」を目標に、機関紙を発刊し、講演会を主催されているようです。

具体的な設立時期や活動内容、詳しい組織構成・役割は明確ではありませんが、自治体が主体となって主導するのではなく、専門家集団が独立、自立したスタイルで、地域に根ざしたシンクタンクを目指しておられるようです。
地域での活動を推進し、地域ビジョン構築に向けたリーダーとなってゆく、市民を啓蒙し、環境整備を行う専門家のありようが見えてきます。コミュニティシンクタンクへの一つの手がかりです。

2009年8月18日

ネット献金

ネット上で政治家への献金が行われるようになりました。(http://seiji.rakuten.co.jp/

選挙が組織票よりも浮動票によって左右されるように、政治資金においても、政治が企業から決別し、市民とつながる契機となるかもしれません。

ネットトレイディングのように個人が自由に政治に参加してゆくのか、あるいは抽象的な仮想世界に入ってゆくように政治を考えてしまうのか、、、、。
これまでの市民活動やNPOの献金や寄付も、その行為以上に理念や趣旨を一人ずつ丹念に説いてまわることが重要であると言われてきました。献金とは献金そのものの行為より、むしろ市民と政治家のネットワークが構築できることが重要ではないでしょうか。
企業と政治家のネットワークは利権と癒着によって正義を失ってしまったわけですが、献金するという行為の前に政治家やその理念に身近に接し、共感を持ち、共感が広がって、ネットワークを築いてゆく、それが新しいWEB上であろうが、駅前の演説の場であろうが、政治や活動のあり方に変わりはないかもしれません。
今回新しく始まったネット献金、ネットとラクテンという新しい形態によるものながら、政治家を地域から検索し、選択する必要があります。手順もわかりにくいです。まだまだ、市民と政治の古い関係や体質がにじみ出ているような気がしました。

2009年8月16日

全国知事会の評価

「地方分権化」「道州制」という掛け声は聞こえてきますが、本当に地方に権限が移行するのか、また権限が移行して、それが地方の手に負えるものなのか、見えてきません。

一部の有力知事によってその様子が公になる機会が多くなった「全国知事会」、地方分権と言われる中でその主役の顔が見えてきたことは望ましいことではないでしょうか。

彼ら「全国知事会」が政党のマニフェストの内、地方分権にかかわる部分の評価、「地方分権政策に関する政権公約評価結果」(http://www.nga.gr.jp/news/saisyuu090808.pdf より)を公開しました。

評価の基準は10点満点を3段階くらいに分けて設定されているようです。とりようによっては、どのようにも解釈できる曖昧なマニフェストをどのように点数をつけたのでしょうか。

目指す、充実する、配慮する、、、、数値目標もなく、確実性もない多くの文面を好意的に解釈したのでしょうか。

一方、評価した側、知事のマニフェストはどうかと言えば、、、、、、、、、

ちなみに愛知県神田真秋知事の場合。(http://www.pref.aichi.jp/chiji/manifesto/index.html より)

流行語やキャッチフレーズでいっぱい、市民にわかりやすいと言えるかもしれません。電通や博報堂のような広告会社がかかわっているのでしょうか。

プロ仕様のマニフェストとはいかなるものか、マニフェストが政治に不可欠になってまだ日が浅い日本ではまだ、わかりやすく、本当の政治姿勢が見えてくるものが少ないかもしれません。すべてを表現しようとすると薄れてしまいますし、言いたいことは山ほどあるし、、、、どの世界でも悩みは同じですね。

むしろ、進むべき方向への決意やコンセプト、それが表現できていることが重要なのかもしれません。

「4年前は小泉、今は鳩山」と言って、国民の右往左往を嘲笑するジャーナリストがいますが、国民を見ていないのでしょう。国民はそんなに馬鹿にしたものではありません。言葉が表現する不毛な弁明ではなく、もっと大きな政治への軸線を国民は見出しているのではないですか。

地方分権政策のわずかな違いなど取るに足らないことです。経済成長と言ったって、政治家の言う通り人為的に市場が動くとは思えません。福祉、子育てと言うのは簡単ですが、人間の根源的欲求に取り組まないで、補助金や休暇でどうにかなるものでしょうか。

特定郵便局の利権に代表される、社会を後退させているすべての旧勢力を解体する、小泉元首相の思いが国民に瞬く間に広がっていったのではないかと感じます。それは「郵政だけで決まってしまった」のではなく、大多数の国民がその思いを共有していたのです。マニフェストの一つひとつをチェックして、これは自民、こちらは民主、、、、などと馬鹿げた評価をしている場合ではありません。

「美しい日本」じゃわからない、「友愛」でもわからない。美も愛も人の数だけ存在する。もっとドラスティックに、もっとドラマティックに、そしてロマンチックに政策を語れないと政治ができない時代になってきました。


ところで、愛知県知事のマニフェスト、道路の整備はしっかり、ダムのことはこっそり書いてありました。

「被害の半減をめざした地震防災対策や災害対策を進めます。
○ 河川の改修、流域貯留機能の確保などの総合治水対策や、海岸保全対策、土砂災害対策を進めます。


渇水への対応を強化します。
○ 設楽ダムについて、平成19 年度中の着工に向けた手続きを進めるなど、建設事業を促進します。

陸・海・空のさらなる交流基盤を整備します。
○ 第二東名・名神高速道路、名古屋環状2号線、三遠南信自動車道、名古屋高速道路、名豊道路などの整備を促進します。
○ 西知多道路、名浜道路、名岐道路の早期事業化に取り組むほか、一宮西港道路や名濃道路などの計画熟度を高めます。
○ 伊勢湾口道路や三河湾口道路の構想を推進します。
○ 日常生活圏における道路ネットワークを一層充実します。
○ 愛知環状鉄道の新豊田駅から三河豊田駅間の複線化を進め、平成20 年度の供用開始をめざします。また、沿線開発の促進を図りながら、東部丘陵線の利用を促進します。
○ 地域の足を支えるバスネットワークの維持に努めます。
○ 名古屋港において、世界最大級のコンテナ船が寄港できる次世代高規格コンテナターミナルの整備を促します。
○ 三河港において、自動車専用埠頭の拡張や自動車リサイクルポートの形成、コンテナターミナルの増強を図り、特定重要港湾への格上げをめざします。
○ 衣浦港において、背後圏へのアクセス強化や港湾施設の耐震化などを図ります。
○ 中部国際空港の第2滑走路建設に向けた取組みを、行政・民間が連携した体制をつくり、進めます。○ 県営名古屋空港において、ビジネス機、コミューター航空など多様化する航空需要に応える空港づくりを進めます。」

2009年8月15日

「給食パン」やや小型にしたら食べ残し半減

「学校給食のパンについて、食べ残し分の持ち帰りを認めず捨てている福岡市教委が、1学期にパンを小さくしたところ、廃棄量は昨年に比べて1日当たり約1・2トン減り、半分以下になった。

食べ物の無駄をなくすための珍しい試みといい、1学期全体では44・8トンの減少。学校給食の食べ残しの扱いは各地で課題になっており、ほかの自治体からは「導入を検討したい」という声も出ている。
市教委によると、市立146小学校と69中学校の給食では、文部科学省の基準に沿い、パンの小麦粉を小学1・2年50グラム、3・4年60グラム、5・6年70グラム、中学生80グラムと設定。しかし、1学期は気温が高くて食欲が減退しがちで、入学間もない小学1年や、パンが大きくなる小学3、5年、中学1年を中心に食べきれない子どもが続出。廃棄されるパンは3学期の約2倍に上っていた。

市教委は市内の児童生徒に必要なカロリー摂取量を試算。細身で通学距離も短いことなどから、全国平均より1食約30キロ・カロリー少なくてもよいと分かり、小学1、3、5年と中学生用の小麦粉を毎日10グラム減らした。パンは子どもで2口分ぐらい小さくなったという。」(http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090814-OYT1T00710.htm より)

給食のパンの小麦の分量に至るまで文科省の基準があって、今までそれを遵守してきたとは驚きです。基準があることも、それを守っていることにも、、、。基準値とは大切なものかもしれません。小学生の基準摂取量も決められたものがあるのかもしれません。ただ、それは平均値であり、標準値ですから、すべての生徒に同じように基準値をあてはめる、それが健康の糧にはならないのではないでしょうか。

給食はかつてよりおいしくなったと聞きますが、基準分量を基準時間で、お決まりの作法で食べなければならない小学生も大変です。だから、シェフの給食は楽しくて楽しくてしようがないのでしょうね。(ref:シェフによるスーパー給食 http://community-thinktank.blogspot.com/2009/07/blog-post_14.html

マニュアルの給食から脱するためには専門家たる学校栄養士の勇気と努力が不可欠です。

2009年8月14日

シンクタンクとしての「自民党総研」

自民党総合政策研究所、その設立時は2名の常駐の研究員と9社から派遣された9名の研究員によって、しかるべき提言機能を持ったシンクタンクとしてスタートしたようです。

「大企業と自民党の癒着の代表例。とかくそうやゆされがちな自民党総研だが、産声をあげた27年前の姿は今とはまったくかけ離れていた。  「官僚依存や調整型政治から脱却し、党の政策立案能力を高める」。82年7月、総研の発足とともに発行された設立趣意書には、こんな決然とした言葉が躍る。首相、鈴木善幸の意向を受け、当時の政調会長、田中六助や幹事長の二階堂進が動いた。「目指すは米国のブルッキングス研究所やフーバー研究所だった」と関係者は語る。

「業界トップ企業の加盟は避ける」とのルールだった。政官との結び付きが強いトップ企業から情報が霞が関官僚や族議員に筒抜けとなり、提言機能がゆがめられるのを避ける狙いだった。

スタート当初の活動は活発だった。業務の根幹を成したのは「黄表紙」や「赤表紙」と呼ばれたリポートの発行だ。黄表紙は「総合政策情報」というタイトルで隔週で外交や経済、防衛など複数のリポートを掲載し、党全体に配布された。赤表紙は緊急性のある政策提言をまとめ、機密情報として首相と政調会長にのみ手渡した。

総研設立後間もない82年11月末に中曽根内閣が発足。「日本では珍しいトップダウン型の首相」と言われた中曽根康弘は当初は総研を積極活用した。いくつかの冒険的な提言は首相に実際に採用され、党内における総研の存在感も次第に高まった。中曽根が突然の新方針をぶち上げる度、驚いた党幹部や族議員らは「また総研の仕業か」と怒り狂った。」
http://netplus.nikkei.co.jp/nikkei/news/seiken/seiken/sei090813.html より)

政策中心の政治を行うためには、社会やマーケットを熟知した研究員が、利権から離れて、将来構想を策定する本来の意味を持つシンクタンクが不可欠です。

そして、そうしたシンクタンクとは情報や政策を発信する確かな場を持つことによって、その存在意味を持ち、同時に、利権や癒着の中に埋もれてしまうことで、単なるサロンと化してしまうことも記録からうかがい知ることができます。

その役割を担うもの、地方においてはそれがコミュニティシンクタンクではないでしょうか。

2009年8月13日

静岡空港の魅力を高める有識者会議初会合

「静岡空港:施設に厳しい注文次々--有識者会議初会合/静岡

川勝平太知事や建築家、女優らによる「静岡空港の魅力を高める有識者会議」の初会合が12日、静岡空港内で開かれた。空港施設について「ビルが狭く、使いにくい」「喫茶店がなく、ゆっくりできない」などの厳しい注文が目立った。川勝知事は会合後、記者団に「(空港が)いかに未完成か、よくわかった。やるべきことはいっぱいある」と述べた。

川勝知事の意向で設置され、初会合は委員12人のうち8人が出席した。浜松市出身の女優、鈴木砂羽さんは「全体的にビルの色彩が暗い。明るい色を使った方がいい」と指摘した。また、「将来的には最寄りに新幹線の駅を作るべきだ」との声が相次いだ。
県は今後、会議を重ね、委員の意見を踏まえた対策を検討する。【浜中慎哉】」
http://mainichi.jp/area/shizuoka/news/20090813ddlk22010120000c.html より)

無理やり進めた事業を肯定、前提とし、その後の活用を考える会議や委員会はどの地域でも行われているようです。新たに選定された委員が与えられた状況において恣意的な意見を述べる、、、、お役所仕事の典型です。

機能が十分でなく、また魅力もない空港計画は誰が策定したのでしょうか。多くの有識者や専門家がかかわってきたはずです。彼らこそが空港建設やその妥当性を判断し、お墨付きを与えた首謀者ではないのでしょうか。

彼らは結果には誰も責任を取らず、今も第3者的に過ごしておられるのでしょう。責任を取らないで専門的な判断を下すことの不条理を皆が実感するべきです。

事業の推進段階で委員会に名を連ねていた有識者や専門家の責任を問いただすことから始めなければならないのではないでしょうか。有識者や専門家とは権力や制度に目を向けるのではなく、それのどこに問題があるのか、何を目指すべきか、きちんと市民の側へ立つ責務があります。

きちんと中立的立場に立って責任ある判断を下せることが専門家であり、有識者であることの証であるはずです。

どこでも、そして何度でも起こるこうしたお役所仕事とお抱え委員会、あるいはお抱えGONPO。「今後このようなことは二度と起こしません。」という事故や不祥事のような釈明ではなく、何故起こったのかを明らかにしない限り何度も起こることになるでしょう。

あなた方の責務なのですよ。 責務であるからこそ、静岡県は今でも委員名簿をホームページで公開しています。お墨付きを与えることの怖さを実感することが必要ですね。
http://www.pref.shizuoka.jp/kuukou/contents/ayumi/kaigi/juy.html
http://www.pref.shizuoka.jp/kuukou/contents/ayumi/kaigi/senmon/index.html より)

静岡空港需要等検討委員会
屋井 鉄雄委員長(東京工業大学工学部教授)
塩川 亮 (静岡大学教育学部教授)
中島 英輔((社)日本建設機械化協会建設機械化研究所長)
林山 泰久(東北大学大学院経済学研究科助教授)
兵藤 哲朗(東京商船大学商船学部助教授)

静岡空港専門家委員会
木村 尚三郎委員長(静岡文化芸術大学学長)
中山 慶子委員長代理(静岡県立大学国際関係学部教授)
大泉 光一(日本大学国際関係学部教授)
斉藤 晃(東海大学海洋学部教授)
塩川 亮(静岡大学教育学部教授)
徳田 賢二(専修大学経済学部教授)
中島 英輔((社)日本建設機械化協会 建設機械化研究所長)
橋本 裕子(弁護士)
馬場 信行((社)日本航空機操縦士協会 副会長)
林 圭一郎((財)航空保安協会顧問)
兵藤 哲朗(東京商船大学助教授(流通情報工学課程))
政所 利子((株)玄 代表取締役)
横田 勇(静岡県立大学環境科学研究所教授)

2009年8月12日

ローカルマニフェスト

福岡県大木町、石川潤一町長のマニフェストは、どちらともとれるあいまいな表現ではなく、行間に真実が隠されたようなまがいものでもなく、町の推進政策として、簡潔かつ具体的に、また秩序だてて書かれています。

町長のリーダーシップがよく表わされています。
(http://www.town.oki.fukuoka.jp/chouchou/chouchou_7.htm より)

「大木町のビジョン
・行財政改革を通して未来へ投資
無駄なものはすべてなくし、切り詰めるところはきちんと切り詰め、情報公開を通して住民の皆さんにしっかりと評価してもらう仕組みをつくります。 行財政改革は最重要課題ですが、切り詰めるだけ切り詰めて、「その先には何もない」では夢も希望も持てません。地域の活力、人の元気まで削ぎ落とすことになってしまいます。 行財政改革の最終目標は、住民一人ひとりが未来に夢や希望を持って暮らしてもらい、その夢や希望を住民の皆さんと一緒になって実現していくことです。そのために、コスト削減は徹底的に行い、そこで生み出された財源は、大木町の未来のため、そして、未来を担う子どもたちに、しっかりと投資をしていきます。 行財政改革を進めていくためには、エンジンが必要となります。そのエンジンとなるのが町職員であり、その職員のやる気を引き出すことが私の最大の役割です。職員一人ひとりにきちんと向き合って、できない職員には徹底的に指導します。100人程度の職員数だからやれるのです。
・世界に誇れる循環のまちづくり
高額の税金をかけてごみ処理する方法は、地球温暖化などの深刻な環境問題を起こし、子どもたちの未来に大きなつけを残しています。大木町は住民との協働により、ごみを資源として地域の中で循環利用し、環境を壊さない持続可能な暮らしを築いて次の世代に引き継ぎます。そして大木町で暮らすことが、住民一人ひとりの誇りになるような世界に誇れる循環のまちづくりを目指します。

すぐに行う重要施策
1.着実な行財政改革の実現
2.子育て支援の充実
3.住民視点によるサービスの向上

4年間で行う重要施策
1.図書施設・ホールの整備
2.「もったいない(ごみを出さない)宣言」を通した循環のまちづくりと財源づくりの実現
3.地域のがんばりをしっかり町が応援する制度の創設 
各小学校区に、地元の町職員を中心に校区担当職員を置き、誰でも参加できる「校区まちづくり会議」をつくります。地域課題を掘り起こし、地域計画をつくり、その事業に予算を付けていく制度をつくります。「自ら考え・自ら行動する」ことを通して、地域に愛着と誇りを持ってもらうまちづくりを目指します。

行財政改革の具体策
1.町長の報酬・賞与の削減、交際費の削減
2.職員の管理の徹底、助役の廃止
決済規程の見直しと住民視点による現場の決定権を大きくし、併せて各課で目標をつくり公表することで責任を明らかにするとともに、職員の「やる気」を最大限発揮させます。
3.職員の人件費、物件費の削減

大木町の地域活性化のための具体策
1.町の強みを活かした交流人口の増加
2.高齢者や障がいを持った方の社会参加の促進
3.環境にやさしく、人が元気になる農業の推進

・・・・・・・」

ローカルマニフェスト進捗状況が公開されていますが、まだまだ、定量的な成果であり、その成果も各部署ごとの報告になっています。(http://www.town.oki.fukuoka.jp/chouchou/chouchou_22.htm

「そのエンジンとなるのが町職員であり、その職員のやる気を引き出すことが私の最大の役割です。職員一人ひとりにきちんと向き合って、できない職員には徹底的に指導します。100人程度の職員数だからやれるのです。」

しかし、こうした活動を真摯に遂行してゆく時、一つの部署ではとても取り組むことはできず、融合的、有機的組織へと移行してゆくのではないかと期待します。

どのような大きな都市も一つひとつの町が集積して構築されているように、また、どのような組織も単位となる数人のチームから組織が組みあがっているように、数千人、数万人にも上る肥大化した組織も、100人程度の組織が可能とする改革から始めてゆくことができるはずです。

2009年8月11日

ゼロ・ウェイスト

福岡県大木町は水郷の町柳川市の北に位置し、人口14500人ほどの町です。生活や農業の用地確保のために整備された掘割(クリーク)と呼ばれる水路が縦横に走り、地域の風景を作っています。

「大木町には、・・・・・拠点施設『おおき循環センター「くるるん」(平成17年度に全国で5箇所のバイオマスタウンの指定)』が平成18年11月に本格稼動し、住民の皆さんと行政が一緒になって各家庭の生ごみを分別し資源化する取り組みがスタートしています。 

この「くるるん」は生ごみのほか、し尿、浄化槽汚泥をメタン発酵させ、エネルギーや有機液肥として活用する循環事業に取り組み、全国でも先進的な事例として注目を集めています。

今までのごみ処理の方法は、高額の税金をかけ、地球温暖化などの深刻な環境問題を起こし、子どもたちの未来に大きなつけを残しています。 これからは、ごみを資源として地域の中で循環利用し、環境を壊さない持続可能な暮らしを築いて次の世代に引き継がなければなりません。そして大木町で暮らすことが、住民一人ひとりの誇りになるような循環のまちづくりを目指します。」(http://www.town.oki.fukuoka.jp/chouchou/chouchou_6.htm より)

こうした本物の動きは地方から広がりつつあるようです。

近年、ゴミの特定の種別ごとに分別するようにいくつかのゴミ箱が設置され、私たちも幾分その意識を高めるようになりましたが、そのような市民任せの無責任な政策ではなく、真にゴミをゼロにする事業が始まっています。

「徳島県上勝町にはいま、全国から研究者や議員らがひっきりなしに訪れている。人口約2000人の小さな町に、昨年は約2500人がごみ問題の視察にやって来た。

上勝町は2003年、全国初の「ゼロ・ウェイスト」を宣言した。ごみの再利用や再資源化を進め、20年までに焼却・埋め立て処分をなくすことをめざしている。ごみ収集車は走っていない。住民が自ら、町の「ゴミステーション」に持ち込む。

分別収集の品目は34種類に細分化。「スチール缶→建設用資材」「ペットボトル→繊維・シート」「蛍光灯→断熱材」「雑誌→おかし等の箱」……。分別後の行き先を記した容器に入れていく。分別の手伝いをしている舟井康雄さん(66)は「かつてはごみを山に不法投棄する人もいて困っていた。最初は面倒だと言う人もいたが、今は喜んで協力してくれる」と話す。

「ゼロ・ウェイスト」は1996年、オーストラリアの首都・キャンベラが宣言し、米国やカナダなどの自治体が続いた。日本では上勝町に次いで福岡県大木町が昨年3月に宣言。バイオガスプラントで生ごみなどを発酵させ、エネルギーや有機肥料として再利用している。06年に稼働するとごみ処理量は半分近くに減った。東京都町田市や神奈川県葉山町など首都圏でも「ゼロ・ウェイスト」をめざす動きがある。」
http://www.yomiuri.co.jp/zoomup/zo_090810_01.htm より)

若干のエネルギー効率と補助金によって、新しい製品へと買換えを行い、近視眼的に微量の消費電力を削減しても、製造や廃棄のエネルギーの方がよほど大きいのではないでしょうか。

エコロジーは循環することが基本です。生物が住み合う社会や環境とはすべてがつながり、連鎖するものであるという概念です。同時に、エコノミーもまた循環する、だから見誤るのかもしれません。エコではなく、こうした本当のエコロジーこそが私たちに不可欠です。

これまでは消費の入り口をインフラと称して整備してきました。しかし、これからは消費の出口を抑え、次につなげてゆく必要があります。そこに次代のインフラがありそうです。

2009年8月10日

名古屋がどえりゃおもしれぇことになっとるがや

「4月の名古屋市長選で初当選した河村たかし市長(60)。・・・・・学者でも役人でもない、初の政治家の市長が誕生した。従来の手法とは違う」(幹部職員)と、想定しにくい市長の言動に、市職員に緊張が走る。報道されることを前提とした、パフォーマンスともとれる河村市長の言動は、政策決定過程をオープンにし、市民や市関係者に「同時進行」で自分の考えを伝えようとする狙いがある。水面下で政策を練り上げ、議会に根回しして固めるという、従来の手法とは格段の違いがある。市民にとってどちらがわかりやすいか、説明の必要はないだろう。
・・・・・・・いま、市役所内では、河村市長のマニフェストを詳細に担当部署ごとに振り分け、実現に向けた協議を始めている。市役所全体が動き出しているのだ。」
http://www.yomiuri.co.jp/column/national/20090522-OYT8T00672.htm より)

前置きやあとがきのないスピード感あふれる名古屋弁が政治のプロセスも変えているようです。市民からリーダーへ、リーダーから市民へ、その直接的なプロセスこそが地方の政治に不可欠なものであり、硬直化した行政マンを置き去りにし、そして鍛えなおしてゆくのではないかと感じられます。

組織とはコンセンサスによって動いてゆく、どのように組織の中でコンセンサスを取ってゆくかが重要です。「従来の手法」であるか、「イノベーションを目指す新しい手法」を取り入れるのか。

係員-係長-課長-部長-局長、、、といった書類の承認欄に示されるような順序ではなく、誰もが同じ立場でグループセッションのように交流することでコンセンサスを得てゆく必要があるのではないかと感じます。一方向的な上下の関係がピラミッドをつくるのではなく、横につながる多くのゲリラ部隊(つまりプロジェクトチームですが)が互いに双方向的に認め合ってゆく、そうした組織のプロセスが必要ではないかと思うのです。

そうした真にフラットな組織の在り方が市民や地域とつながり、有機的な組織となってゆくのです。どうせ、実際に仕事しているのは係長クラスでしょう。彼らの溌剌さや敏感さこそが組織の中心となって動く組織をつくらねばならないのではないでしょうか。

2009年8月9日

フランチャイズのゆくえ

コンビニエンスストア 「コンビニ」、それはだれも思いつかなかった消費の根本から生まれ、デパートや量販店、特別の専門店をも凌駕し、今や日本では最大のマーケットとなりました。いつでも、どこでも身近な生活用品を提供するという一種のブルー・オーシャン。

そして「コンビニ」はフランチャイズというシステムによって瞬く間に「いつでも、どこでも」を実現しました。フランチャイズとは一握りの起業家とそれを支える多数の店舗オーナーとのコラボレーションと言えるかもしれません。


「フランチャイズとは、「フランチャイズは英語で「販売権を与える」という意味があります。フランチャイズビジネスにおいては、その権利を与える企業を“フランチャイザー”、“本部”といい、与えられる側を“フランチャイジー”、“加盟店・加盟者”といいます。

つまりフランチャイズチェーンとは、営業の象徴となるマークを利用し、システム化された経営のノウハウを用いて、同じ商品の販売などを行なう権利を提供するするフランチャイザー(本部)と、それを利用して店舗運営をしていくフランチャイジー(加盟者)が構成する集団のことで、お互いに利益を得ようとする共同体といえます。フランチャイジーは見返りとしてフランチャイザーに一定の対価を支払います。フランチャイザーとフランチャイジーの経営責任は別で、それぞれが独立企業です。 」
http://www.franchise-navi.jp/beginner/begin11.html より)

しかし、意外なところ、消費期限のある弁当の販売からほころびを見せようとしています。また、フランチャイジーたるオーナーが会社従業員のように労働組合を結成したとも報じられています。

消費者にとっては、「いつでも、どこでも」の替わりに定価でもいいから購入するわけですが、オーナーにとっては本部から決められた卸単価でいつもの商品を購入し、それを定価で販売するコンビニ経営はうま味のない経営かもしれません。

しかし、弁当の販売数など、一般の経営者なら、天候や気象条件、地域性、購買履歴など神経を研ぎ澄ませて、需要を予測するのではないでしょうか?仕入れた弁当が大量に余るなど経営者失格です。

そして、定価の破壊は「コンビニ」店舗という、その経営をもっと大きな競争の海の中に飛び込ませてゆくことになりはしないでしょうか。また、労働組合は「オーナー」という自らの立場を単なる従業員とおとしめるものではないのでしょうか。



オーナーが自らを全国展開企業の支店長と考えるか、それとも独立企業のオーナーと考えるか、、、そこに大きな分かれ道があるように感じます。従業員としての待遇を守るのではなく、オーナーとしての使命を死守することが必要なのではないかと感じられます。

そこにこそ、経営という大きなモチベーションがあるのではないでしょうか。「コンビニ」と言えど、スタッフの対応も、品ぞろえも、店の雰囲気も様々です。1オーナーがやるべきことも山のようにあるはずです。

セブンイレブン本部もそのように考えているようです。
「私たちのフランチャイズ・ビジネスは、加盟店さまと本部が対等の立場で、独立性を保ちながら取り組む共同事業です。その信頼関係の基盤になっているのが、3つの制度とシステムです。まず、小規模な資金で事業をスタートさせ、安定した事業運営を進められるように考えられた決済・融資の仕組みである「オープンアカウントシステム」。加盟店さまと本部が売上げ総利益を一定の割合で分け合う「荒利分配方式」。そして、オーナーさまに年間の総荒利益額を保証する「最低保証制度」。セブン-イレブンのお店の安定した運営と着実な成長は、ここにベースがあります。」(http://www.sej.co.jp/corp/aboutsej/franchise.html より)

2009年8月8日

旧峯岸水車場/三鷹市

「20年の研究実る 立川・小坂教諭 昨年申請、先月認定

三鷹市大沢の「旧峯岸水車場」が、今年度の機械遺産に認定された。認定に向けた陰の功労者が、立川市錦町の小学校教諭小坂克信さん(60)だ。約20年前から社会科の授業を通じて関心を持ち、研究を始めた。このほど研究をまとめた冊子も完成し、二重の喜びに包まれている。


同水車場は江戸時代後期から、野川の河川改修で取水できなくなる1968年までの約160年間稼働。


明治30年(1897年)当時、都内には水車が710台あったが、同水車場は当時の状態で保存されている唯一の存在とされる。98年には都有形民俗文化財に指定された。通称「新車(しんぐるま)」と呼ばれ、現在の所有者の三鷹市が一般公開している。


小坂さんは約20年前、社会科授業に関連して玉川上水を調べた際、都内に多くの水車があったことを知った。「水車に見られる木工の技術の高さや芸術性、自然エネルギーや地域の食生活という観点から学ぶ点が多い」ことが研究を始めたきっかけだった。」
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyotama/news/20090805-OYT8T01094.htm?from=dmst3 より)



地域の資源やエネルギーによって社会が動いていたころ、多くの町で水車がその活動を担っていたようです。繊維の地域、岡崎など三河地方もすぐれた産業の町でした。そのころの遺構が残っていたり、今も動いていたりします。思っている以上に多くが残されていますが、そのほぼすべてが顧みられず、解体を待っている状態です。そこには煉瓦の工場や煙突、川に寄り添って作られた個人経営の工場や水車、そこで稼働していたがら紡など固有の紡績機械など、それら大切な資産もすべて同じ運命をたどってしまいます。

先進的地域では、古くは1970年代紡績工場を保存し、新たな施設、アイビースクエアとして継承した倉敷市をはじめ、今ではどこの町でも自らのアイデンティティを探し求めて、試行を始めています。価値がどこに見いだせるか、見出さなければならないか、必死の思いなのです。


一方で、未だ地域の資産を理解できずに解体し、東京の古い洋風木造邸宅を移築保存しようとする岡崎市。民意を無視し、まち育てセンターなるGONPOを使い、東京の建築史研究者に翻弄されています。→ref:岡崎市旧本多邸活用検討委員会議事録

彼らは結果ありきの活用検討委員会や市民会議で自らのアイデンティティを解体させようと自虐行為に取り組んでいるかのようです。地域の文化や歴史が理解できないだけではなく、それらによって生じる経済のシーズすらも放棄しています。


こういうニュースが流れるたびに、このまま地方分権してゆけるのか、疑問を感じます。地方自治が自立するために不可欠なもの、弱者や市民に強く、権力や権威に弱いその体質を改めてゆく必要があるようです。


江戸時代末期、志に燃え独自の視点を持ったいくつかの藩と、そのような時代においてすら、それでも時代に翻弄され揺れた藩、、、、。その構図は地方自治の時代になった時に再び浮かび上がってくるのではないかと案じています。

地方分権時代とは地域平等の時代ではなく、リーダーや市民のありようによって地域格差が広がる時代と言えそうです。

2009年8月7日

市民立法から市民行政へ

市民立法機構第2回総会における基調講演でキッコーマン社長茂木友三郎氏がアメリカでの地方自治の様子を講演されています。(1998年5月に開催されていますが、、、、)

「今、地方分権が盛んに議論されていますが、地方分権だけでは地方自治は成り立たない、生まれてこない。ただ中央の権限を地方に移しただけでは地方自治にはならないのであって、それプラス草の根民主主義がなければ駄目だと思います。 それでは、草の根民主主義の基礎は何かといえば、やはり私は市民意識だと思います。別の表現をすれば、市民社会に対する人々の帰属意識ですが、そういう市民意識が草の根民主主義の基礎になっているのだろうと思います。・・・・・

・・・・・
この町議会は、小さな町なので、助役の家で開会するわけです。さらに、小さな町なので立法と行政が分離しておらず、町長が町議会の議長を兼ねていました。そして町議会議員が二人いて、三人でモノを決めるわけです。三人で決めるということは、町議会議員が二人賛成すれば、それで決まり。二人が一対一になると町長が決めるという仕組みです。

また、みんな仕事をもっているので、議会が開かれるのは夜の七時からです。この町議会の議員は全て時間給で、欠席すると給料はもらえません。こうして、夜の七時から十時まで議論をするわけです。」
http://www.mmjp.or.jp/gyoukaku/toron/199807_2.htm より)

地方分権という新たな中央集権主義にならないように、地域単位の民主主義、草の根民主主義が不可欠です。

矢祭町の原点はここにあるようです。こうした市民の意識と柔軟なシステムは市民自ら、議会にかかわることができ、立法機能や行政機能を市民の領域へともたらしてくれるものではないでしょうか。

それらは市民による行政ユニットや市民マニフェスト、市民標準規格など新たな制度が予感されます。

2009年8月6日

身体的空間としての建築

建築の基盤となる考え方、場所性と身体性。どちらも大切なものですが、現代は場所性優位の時代と言えるかもしれません。

妹島和世さんから始まった、透明感あふれる建築の姿。そこに生きる人の活動を融合し、展開してゆくすばらしい建築です。そうした有機性を持った建築を僕も目指しています。

しかし、ガラスあふれる、がらんどうの現代建築の多くは似ているようですが、彼女の建築とは全く異なります。多くの組織事務所や建設会社、あるいは建築家が、オフィスビルや学校や図書館さえも、流行のごとく、表層的な側面だけ彼女を追随しました。

フラット、透明感、軽やかさ、言葉さえもう消費しつくされたかもしれません。後を追うことはつくるのも考えるのも簡単です。

20世紀のはじめ、ミース・ファン・デル・ローエにより構想されたガラスの摩天楼は彼自身の設計によってレイクショアドライブ・アパートメントやシーグラムビルなどとなって具現化され、それらがその後、経済至上主義の建築に流用され、無機質なオフィスビルとなって世界の都市を席捲してしまったように、ちょうど今つまらないガラスの、がらんどうの、軽く見せる建築ばかりになってしまっています。

そうした建築は現代の人を蝕んでいないでしょうか。 それらは元気で明るく、活動的で多様な活動志向を持った人を想定し、動的な建築として設計されてはいないでしょうか。

しかし、現代では多くの人が精神的に病んでいるようにも見えます。子供も青年も、そして高齢者も。現代の建築は彼らにとっても、とても厳しく、また危険なものになってしまいました。

本当のバリアフリーとは何かを考える必要があります。それは、車いすを使う市民も、白いつえを突く市民も、明る過ぎて、遮るものがなくて、音が響き過ぎて、紫外線が入り過ぎて、精神的な圧迫感を感じている市民にも、誰でもが心安らかに佇める居場所となる空間のことではないでしょうか。

バリアフリーと言って、単に平坦であったり、スロープで代用したりするだけ、本当のバリアフリーは考えていないのです。ガラスによる内外の透過性は本当のコミュニケーションを考えたものではありません。

それこそ本当に軽さを持った、人の衣服のようなフィット感とやさしさを持ったインテリアのような建築であり、そのような人を支え、包むような空間が必要のように感じています。

それは人の身体性を豊かなものであると考え、それらによって形作られた意味によって作られた建築です。多くの意味を持ち、それを多様な人たちに読み取らせる(アフォーダンスと言いますが)仕掛けのある建築です。そこにこそ建築家の職能があるのではないかと考えています。

もう一度、一つひとつ空間の意味を身体性から創りださなければなりません。ポストモダニズム、30年前にロバート・ベンチューリやチャールズ・ムーアが始めたこの運動を今私たちもやらねばならないのかもしれません。真剣な真のバリアフリー空間をめざして。

2009年8月5日

自閉症と創造性

「アスペルガー症候群の天才たち―自閉症と創造性」には創造力の源が描かれています。

「本書は、天才といわれている著名な6人の歴史的人物を取り上げ、彼らが自閉症あるいはアスペルガー症候群であったことを論じている、天才と自閉症の関連を述べた病跡学の書である。
しかし、本書は、病跡学の本にとどまらず、人間の持つ創造性とは何か、その創造性を高めるのに自閉症であることがどのように影響を与えているかを、個々の事例を基にして探求している。

さらに本書では、もっと大胆に自閉的思考がないと人類はこのような文明を築けなかったのではないか、と主張する。自閉症は、障碍ではなく、特有の認知スタイルを持った人類の発展に必要な存在であり、そうであるならば、自閉症の進化論的意味が問われなければならないことになる。このことも本書の論点の目玉である。 (マイケル・フィッツジェラルド 著、石坂好樹、花島綾子、太田多紀 訳 )」

「アスペルガーの偉人たち」はもう少しポピュラーな芸術家について書かれています。ミケランジェロ、ニュートン、スウィフト、ゴッホ、サティ、アインシュタイン、キンゼイ、アンディ・ウォホール、グレングールド、パトリシア・ハイスミスなど天才と呼ばれた20名の芸術家たち。それを紹介するブログがありました。http://harubonbon.seesaa.net/article/83406553.html
曲を思い描いた時には曲のすべてが五線譜と音符に表わしていたと言われる作曲家や対象を様々な角度、視線から同時に描けた画家など、天才の多くは一般の人たちとは異なる認知回路を持っていたのかもしれません。
日本には天才は現れないと言われます。彼ら自身の他と異なることへの苦しみは大きいのかもしれませんが、むしろ、画一的な教育や古いコミュニティでの偏見、病気や障害と断じる精神医学など権威、、、、どこかで誰かがその才能をつぶしてしまっているのかもしれません。

2009年8月4日

PR ピー・アール

企業が社会との関係を広く知らしめることから、「広報」の意味を持つようになったPRパブリックリレーションズ。

「PR(パブリック・リレーションズ)とは
PRはパブリック・リレーションズ(Public Relations)の略語で、文字通りに解釈すると「企業や団体が、公衆=パブリックとの間に(良好な)リレーションズ=関係をつくっていくこと」を意味します。社会の一員である企業・団体にとって、周囲との調和を取ることが大切であり、そのために自分のことを良く理解してもらうために語り(広報)かけ、同時に社会の意見や考え方を聴き分析して正しく認識すること(広聴)が必要です。こうした双方向のコミュニケーションをPRと呼んでいます。」
http://www.dentsu-pr.co.jp/what より)

PRとは自己ピー・アールと呼ばれるように一方的な売り込みの行動だと思っていたのですが、それでは成功しないようです。どの組織も広報と言えば、一方的な情報の発信、その戦略を考えがちですが、公衆とわが身との関係を分析し、わが身のスタンスを決めることから始めなければならないわけですね。

同じような言葉にパブリックコメントPCがあります。こちらは言葉通り一方的なもののようです。

「意見公募手続とは、行政機関が命令等(政令、省令など)を制定するに当たって、事前に命令等の案を示し、その案について広く国民から意見や情報を募集するものです。これは平成17年6月の行政手続法の改正により新設された手続です。 なお、これまでは「規制の設定又は改廃に係る意見提出手続(平成11年閣議決定)」に基づいて意見提出手続(いわゆるパブリック・コメント手続)が行われてきましたが、行政手続法に意見公募手続の規定が設けられ閣議決定の趣旨が引き継がれたことから、平成18年4月1日にこの閣議決定は廃止されました。」
http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/gyoukan/kanri/tetsuzukihou/iken_koubo.html より)

2009年8月3日

自分たちの生きる場所を自分たちでつくるために

それが金沢21世紀美術館が地域に、社会に飛び出し、生きた実践の場でアートを展開したプロジェクト「金沢アートプラットフォーム」のテーマです。

「近年、多くのアーティストが美術館という中立的なアートスペースを飛び出して、社会と直接的に関わる活動を多様に展開しています。どのような活動を通して社会に影響を与えることができるのか、どうすれば見えない未来に向かって新しい提案を行うことができるか―アーティストは、このような問いを抱え、生きた社会を実践の場として捉えながら、アートの可能性を探っています。

このような姿勢を持ったアーティストには、いくつかの特徴がみられます。表現者として先立つよりも、場や基盤をつくるコーディネーターのような立場に身を置き、仕組みや状況の建設へ向かうこと。また、協働的であり、関わり合う人たちとの了解、合意、ときには逆の反応である反発などを含めた相互関係を重視すること。展覧会などの形式や、美術、建築、デザインといったジャンルに捕われず、横断的に表現の可能性を捉えていること。そして、非日常であることよりも日常や場所との親和性、継続性に重点を置いていること

―そこでは、協働性と現場主義が優先され、さまざまな人たちと関わりあうことが求められます。」
http://www.kanazawa21.jp/exhibit/k_plat/index.php より)

金沢21世紀美術館では先進的、創造的なアートをテーマとし、地域の活性化に向けて一般の市民への教育普及を行ってきただけではなく、特に将来を担う子を積極的に美術館へ招いてきました。
美術館を中心に意欲的な取り組みを行ってきた21世紀美術館ですが、今、キュレーターもアーティストも美術館の枠を離れて、地域に飛び出していったのだと言えます。19人のアーティストが市内19ヶ所で 美術館アートバスやまちバスで巡ることができるようになってます。

「アートプラットホーム」とは、文字通り、駅のプラットホームをイメージし、そこでは、アートを介して人々が出会ったり、情報が行き交うことで新しい出来事の誘発を可能にします。それによって、会社、家庭、学校、地域、といった社会のさまざまな枠組みのあいだに新たなバイパスをつくること、人々のあいだに対話を生み出し、都市がいきいきとした活動の場となることを目指しているのです。」


社会に求められている重要な役割が美術館の世界で行われています。そこには利権や因習や制度を離れて、人々が共に住まうかたちが現れているのではないでしょうか。
それはどの組織にも共通に必要なことであり、図書館も市役所も議会も、そして大学もまちに出てゆくことが不可欠な時代になりました。

2009年8月2日

広汎性発達障害 (Pervasive Developmental Disorders)

大学では、今FD(Fuculty deveropement)やSD(Stuff deveropement)が義務付けられています。ようやく古い組織にも時代の視点が入り込んできました。

そのFD・SDセミナーが開かれ、臨床心理学を指導し、臨床心理士でもある同僚から学生指導におけるPDD(広汎性発達障害)などの問題について講義を受けました。

彼らは人とのコミュニケーションが苦手だったり、変わっているとからかわれたり、言葉の比喩や言い回しが理解できなかったり、など周囲から理解されることがなく、孤立化しています。また、特別の分野には強い興味を示し、マニアックな一面もあるようです。

日常の中でパターン化されたことは進められるが、少しの変化に対する対応、柔軟さや臨機応変さが欠けているとも言われます。
また、そうした症状のコアな状態を自閉症と言うようです。自分の世界に閉じこもることを自閉症と考えていたのですが、そうではないようです。閉じこもるという状態はPDDをはじめ、様々な状態や症状の結果そうなるとのことです。


こうした少数の人たちへの理解を進めることが重要と言われます。彼らへの教育は早期に症状として認知することが重要であり、情報を構造化し、視覚化する訓練を受ける必要があるのだそうです。

しかし、それはむしろ人間の本質を表しているような気がします。多くの人がある程度はPDDの気質を持ち、孤立化しているのではないでしょうか。情報の構造化も視覚化も誰にも不可欠な能力であり、誰もが訓練を受ける必要があります。

「ちょっと待っていて」というと、詳細な待ち時間を尋ねられたり、「何度言ったらわかるのだ」に対し、その回数を答えたり、、、、、。それはPDDのほんの一面かもしれませんが、むしろ「ちょっと待っていて」や「何度言ったらわかるのだ」の方こそ、現代の社会においては通用しないのではないでしょうか。「何時にどこで」、「どこがわからないのか」を明確にする必要があるように思います。

人の認知の基本に立つこと、それは習慣や間違いに気付く大きなチャンスなのではないでしょうか。

2009年8月1日

集団行動が苦手な高校生の手紙

「集団行動が苦手」 (http://www.yomiuri.co.jp/jinsei/shinshin/20090801-OYT8T00297.htm?from=os4 より)

「16歳の女子高校生。学校へ行くのがとてもつらいです。集団行動が苦手で、社交的ではないので、親しい友達が少ないです。もっとみんなと仲良くなりたいと思っていますが、うまく話せません。

私は人と話す時、相手の顔色ばかり気にします。嫌われたくないので、話を合わせてしまいます。こんな自分がとても嫌で、前向きな気持ちになれません。もっと自分を主張できるようになりたい。・・・・・(東京・I子)

◇(精神科医 野村総一郎氏の回答)
青年期に、いや、ある程度年をとってからでも、あなたと同じ悩みで苦しんでいる人はものすごく多いですよ。私の見るところ、現代社会には「明るく元気に!」という姿勢が過度に強調される傾向があって、内向的な人が多少無理を強いられているという側面があります。

あなたも自分を主張し、楽しく騒がねばという思いが強すぎて、かえって暗くなっている。うまく話せないから皆と仲良くなれない、焦りがある。しかし、これを解決するためには自分の性格を変えねばならないと思っても、空回りするばかりではないでしょうか。

性格は変えるより、その強みを生かそうとする方が大事なのです。あなたは相手の顔色を見て、相手に合わせる。これは確かに苦しいけど、それこそがあなたの強さかもしれない。むしろこれを徹底して、相手の話をよーく聴き、誠実さで勝負してみては? おとなしく社交的でない素のあなたで十分なんです。大切なのは今のあなたを生かしたままの粘りだと私は思います。」

現代建築もオープン化、透明化へ。コミュニティは昔からおつきあいと村八分の世界。地方自治も中心市街地活性化や定住自立圏構想など中央からの一方的な通達に一面的に応えるばかり。一方向的、一元的社会が広まりつつあります。

一方で新しい有能な企業組織は個人プレーとグループセッションによる独自性を重視した業務を進めています。それは新しいアイデアや企画が必要な分野には以前より不可欠な方向でした。

人も組織も、地域も自らの特性も持っています。それを見極めることが不可欠ですが、実際は高校生I子さんのように「相手の顔色ばかり気にします。嫌われたくないので、話を合わせて」しまっているのではないでしょうか。

今精神科医による組織の分析が必要かもしれません。

2009年7月30日

神戸復興のシンボル「鉄人28号」

「阪神大震災の復興のシンボルとして、神戸市長田区の公園に建立される漫画「鉄人28号」の巨大モニュメントの頭部が27日、大阪府岸和田市の製造会社からこの公園に搬入された。鋼鉄製で直径2.5メートル、重さ約0.9トン。9月末には、5階建てビルの高さに相当する約15メートルの鉄人が長田の街にそびえ立つ。

鉄人28号は神戸市出身の漫画家・故横山光輝さんが56年に発表した作品。震災で住宅や店舗の多くが全半壊・焼失した長田を元気づけようと、地元商店街などでつくるNPO法人「KOBE鉄人プロジェクト」が06年に企画し、寄付や市の支援を得て総工費約1億3500万円のほとんどを集めた。 」(http://www.asahi.com/national/update/0727/OSK200907270024.html より)
それは大きな道祖神のようでもあり、また現代におけるパブリックアートのようでもあります。
道祖神とはコミュニティ全体で豊穣を願う信仰のシンボルでもあり、同時に村の領域を作り、地域や道の境界を形づくるものでありました。
パブリックアートも、立川ファーレで見られるように単調で無色な町並みの中に場所を意味付け、領域を形作り、町を身近なものにするオブジェとして様々な場所で見られます。
また、オブジェではありませんが、東京の山手線の高田馬場駅では鉄腕アトムのテーマ音楽が流れていて、音による場所の意味付け、すなわち風景づくりが行われています。
震災の復興のシンボルとしては、気合が入り過ぎていて安定感が悪そうで、耐震性能上若干心配ではありますが、、、、。

2009年7月29日

体温のないマーケティング

おちまさと氏の「企画の教科書」は企画を生み出す生の瞬間をとらえていて、デザインが生まれる瞬間、イノベーションが生まれる瞬間を描こうとしている私にとって実に興味深い、現場から生まれた教科書です。

挿絵や口調は面白おかしく書かれたように見せていて、実のところ、本当に真髄を表わしているように感じられます。多くの人、企画など言葉でしか知らない行政の職員やこれから社会に出てゆく大学生などにも大人の教科書として使えるようなものです。

企画とは、そのアイデアの創出はデザインの方法やイノベーションの態度そのものです。

「記憶は企画の構成パーツ」と言いい、企画とは記憶をつなげ合わせ、複合化することを意味しています。イマジネーションとは何か一気に壮大なアイデアを作り出すことではなく、一つひとつの記憶の連続であり、ジグソーパズルのようにつなぎ合わせてゆくようなものと僕も考えています。

そして、成功する(した)企画とは社会の特性を打ち破るもの、感動を与えるような大きな変化をもたらすもの、多くの人の興味を持つ普遍性を持つこと、そして、社会を裏切り、やられた感を生み出すこと、であると説いています。



それこそが価値のイノベーションのことですね。


そしてなにより大切な視点がマーケティング、消費者に対する構え方です。これはいろいろな場面で役に立つでしょう。

マーケティングはマスとしての消費者ではなく、一人ひとり顔のある消費者の複合体であるという認識を持つことから始まりますが、マスの消費者としてしか見ていないもの、それを彼は「体温のないマーケティング」と言います。

データとしての数値でそのまま商品を企画するのは誰でも、コンピューターでもできる。まず数値を疑うことから始めるのだそうです。

それはマーケティングやその分析とは結果ではなく、これからの手段であり、戦略になるということです。

平均化された数値を鵜呑みにすることはないでしょう。そこにどんな問題が潜んでいるのか、懐疑的、分析的になるはずです。そして、どこに消費者の本音があるのか、そこを自らの目で掘り下げることが企画の真髄と言えそうです。

それを彼はこう表現しています。
「受け手の明確な意思がないのに、送り手が勝手に『こんなもんでいいでしょ』と思いこむ、これこそが体温のないマーケティングなのです。おばあちゃんが『私は分からないけど、若い人はこう言うのが好きなんでしょ?』と近所で買ってきた甘いだけのケーキを出す感じです。」

市民の多数意見というものを自ら作り上げ、それをそのまま実行する行政の在り方とは180度異なる戦略と言えます。しかし、それが、本当の消費者の姿を発掘しないと生きていけない民間の切実な戦略のあり方なのです。

2009年7月28日

ボートマッチ VoteMatch

ボートマッチ(VoteMatch)とは有権者と立候補者、または有権者と政党の考え方の一致度を測定することができるインターネットを活用したサービスであり、日本では2007年7月に行なわれた参議院議員から行われたようです。


「「日本版ボートマッチ」は、あなたの政治的立場や意見に最も近い政党を知ることができる投票支援ツールです。「スタート」をクリックすると、現在の重要な政治的、社会的な争点一つ一つについて、意見を尋ねていきます。

「賛成」「中立」「反対」「わからない」の中から、自分の考えに最も近いものを選んでください。結果画面で、 これらの争点に対する主要な政党の立場とあなたの意見の一致度が分かります。

「日本版ボートマッチ」を利用することで、どのような政策がいま重要視されているのかが、わかります。また様々な質問に答えることで、あなた自身を知るチャンスにもなるはずです。ぜひご利用ください。」
http://vote.yomiuri.co.jp/より)


25の政策について判断を下してゆき、どの政党と考えが近い、どの政党と離れているかが、最後に点数とグラフによって一目でわかるようになっています。また各政策ごとに自分自身と各政党との考えの違いがわかるようになっており、各政党の政策が立体的に説明されているようで、(メディアが作った)これまでの政策の争点をよく理解することができました。


意外に面白かったです。


政策、政争とは右か左か、○か×かという定形型に陥りやすく、国民が政治を選択する上で明確にどこまで問えるか疑問です。私たちは投票所へ行って、政党や立候補者を現実に選択しなければならず、絶対的な選択ではなく、相対的に誰が好ましいかを判断するしかない、、、、、のですね。


それを国民の大きな責務であると言うマスメディアの責務もそれ以上に大きいように感じます。国民に責務を煽る恐怖型のジャーナリストも中には見受けられます。所詮選挙は相対性理論。向こうもぶれているし、こちらもぶれている、その揺れているギャップの中で理想をすり合わせしてゆくしかないことも、今回のボートマッチでよくわかりました。


1憲法
現行の憲法を維持すべきである

2選択的夫婦別姓
選択的夫婦別姓制度を導入すべきである

3公務員の天下り禁止
公務員の関連企業への再就職(天下り)を全面的に禁止すべきである

4組織犯罪の防止強化
共謀罪を導入すべきである

5地方への補助金廃止
国から地方への補助金を全廃すべきである

6警察官の大幅増員
警察官を大幅に増員すべきである

7北朝鮮への経済制裁
北朝鮮に対する経済制裁を継続すべきである

8大企業への課税
大企業への課税を強化すべきである

9増税による財政再建
財政再建のためには歳出削減だけではなく増税もやむを得ない

10高校・大学教育の無償化
高校・大学教育の無償化を進めるべきである

11愛国心教育
国を愛する心を養う教育を実施すべきである

12病院による介護の転換
老人介護の担い手を病院から老人保健施設など居住サービスの提供者や各家庭に転換すべきである

13後期高齢者医療制度の廃止
後期高齢者医療制度を廃止すべきである

14消費税の年金財源化
基礎的な年金の財源は消費税を充てるべきである

15年金制度の一元化
自営業者の所得比例年金を含む年金制度を一元化するべきである

19パート・派遣社員の均等待遇
パートタイム労働者や派遣社員と正社員との均等待遇を法律で義務づけるべきである

20農家の所得補償
すべての農家に対して所得補償を行うべきである

21大規模農家の支援
農業への支援は、規模の拡大や効率化を進める農家を優先的に行うべきである

22脱ダム
ダムに頼らない治山・治水(緑のダム)を進めるべきである

23高速道路の無料化
高速道路の利用料金を無料化すべきである

24環境税の導入
二酸化炭素の排出を抑制するため環境税を導入すべきである

25企業・団体献金廃止
政党・政治家への企業・団体献金を廃止すべきである

(Powered by Japanese VoteMatch Working Group 技術協力: 静岡大学情報学部佐藤研究室)

2009年7月27日

イオンの農業参入

イオンが農業に参入するようです。首都圏に2.6ヘクタール。まだ第一歩のようですが、農業に風穴が開くかもしれないと期待されています。

「イオンは企業が自治体から農地を借りる「農地リース方式」を使い、茨城県牛久市の2.6ヘクタールの土地で小松菜や水菜、キャベツなどを9月から生産する。参入のための新会社を10日付で設立した。生産した野菜は青果市場を通さず自社の物流網活用などでコストを削減し、店頭価格を抑える。初年度は約300トンを収穫し、茨城県や千葉県などの「ジャスコ」15店でPBとして販売する。」(http://www.nikkei.co.jp/news/sangyo/20090719AT2F1704F17072009.html より)

徹底した減反政策という閉鎖性回路や農業の担い手がいないにもかかわらず、農地は開放されてこなかった閉塞感などが私たちと農業や農家とを遠ざけてきたのかもしれません。が、イオンがその代替となることで、身近なものになるかもしれません。

早朝出勤や休日出勤、長期休暇なしが当たり前の農業にとって、企業がどのように 経営するのか期待も大きいでしょう。

一方、生産者が有機農業を通じて、「つくる」「ふれあう」「知る」「買う」などをキーワードに消費者との関係を独自に構築しています。

また、農業を媒体として、地域の農業にかかわる生産者やメーカーの横のつながりを展開しようとしている人たちも多くなっています。

イオンと地域の生産者、その経営理念は直線性と多面性、低価格と付加価値、と異なるのかもしれませんが、作り手の「野菜を丹精こめてつくる」という理念は変えられないでしょう。こうした活動が地域のコミュニティや農業コミュニティを活性化させ、生産者と消費者とが豊かな関係を築けるのかどうか、日本の未来がかかっています。

かつて、都では白川女(しらかわめ)が、現代においても常磐線や京成線からは、千葉や茨城の農家の「おばあちゃん」たちが大きな背負子や風呂敷を背負って、とれたての野菜を都内で行商しています。とてもみずみずしくおいしいです。それは私たちと農を身近に感じさせる接点であり、その豊かさを実感できる場所でもあります。

2009年7月26日

公務員の道

「地方公務員の中途採用試験で、年齢制限を撤廃する動きが急速に広がっている。横浜市では、昨年度の「社会人採用試験」で受験可能年齢を31~59歳と広げた結果、この春に50代前半の職員も誕生した。厳しい雇用情勢が続く中、地方自治体に新たな活躍の場を見いだす道も開かれつつある。」

「横浜市では、「組織を活性化し、市政への多様なニーズに応える」(人事委員会事務局任用課)ため、2006年度から実施している社会人採用試験を受験上限年齢59歳に引き上げたところ、2723人の申し込みがあり、95人を採用したといいます。合格者はメーカー、金融、情報システムなど様々な業界からの転職者であり、「自分の能力やキャリアをどのように生かすか明確なビジョン持っていた」という。」(http://job.yomiuri.co.jp/news/special/sp_09072301.htm?from=yoltop より)

民間で鍛えてきた専門的能力を持つ彼らが閉鎖性組織の解体のきっかけとなるのか、それとも硬い殻の中に取り込まれてしまうのか。

肥大化し、硬直化した組織を解きほぐし、再構築することなど至難の業ではないか、むしろ金融マネージメントや情報システム、医療ネットワークや環境保全ネットワークなどこれまで行政にはなかった総合的かつ専門的な領域に携わる職員を特別に配置することでしか、組織の横断と融合とが図れないのではないかと切実に感じています。

組織改革の旗手であるトップと中途採用で組織に組み込まれる触媒体とがどのように地方自治に風穴を開けるか興味深いところです。

2009年7月25日

ブルー・オーシャン

競争のない世界を創造する。という「ブルーオーシャン」が今、経営者や起業家の間で話題となっているようです。かつては大競争時代が予見されていたのですが、この流れもひとつの競争の表れかもしれませんし、それはもっと厳しい競争の形と言えるかもしれません。

「企業が生き残るために、既存の商品やサービスを改良することで、高コストの激しい「血みどろ」の争いを繰り広げる既存の市場を「レッド・オーシャン」、

競争者のいない新たな市場でまだ生まれていない、無限に広がる可能性を秘めた未知の市場空間を「ブルー・オーシャン」と名づけています。

この「競争」とは無縁のブルー・オーシャンという新しい価値市場を創造し、ユーザーに高付加価値を低コストで提供することで、利潤の最大化を実現するというのが、この戦略の狙いです。」(http://www.climb-plus.com/word/word.php?category=1&line=5 より)

シェア拡大(低価格化)という体力勝負でもなく、差別化(付加価値化)という努力型でもなく、マーケットの枠組みを変えたり、新たなマーケットを開発するという、顧客啓蒙型と言えるかもしれません。

新たな価値の創造に直結した変革、バリュー・イノベーションという困難な課題を成し遂げるのは現実的には大変です。 しかし、一定の枠組みの中で行動や発想を考えるのではなく、市場の境界も業界構造も一定ではなく、そこで活動する企業などの行動や発想しだいで変わると考えることで案外簡単に現実化できるかもしれません。それは再構築主義(reconstructionism)と呼ぶことで理解が進みそうです。

詳しい分析や理論よりも、そこで紹介されている「シルク・ドゥ・ソレイユ」や「イエロー・テイル」、「ニューヨーク警察本部」の成功例がよりわかりやすいでしょう。「iモード」も紹介されています。

デザインや設計も相反する条件を同時に解決できる方向を指し示すことができるものです。新しい価値やアイデアを生み出すために、既成概念を捨て、自由な視点を求めて、日頃は遊んでいるかのようにも見え、あるいは書斎にこもりっきりというような仕事ぶりです。

徹底的に描きあぐねた後、ふとした拍子にとらわれていたことから解き放たれた時、新たな価値を生み出すアイデアが見えてくるものです。

二つの相反する価値を折衷するのではなく、つまり、x軸とy軸のどこかに答えを見つけるのではなく、そのどちらでもないz軸の方向に総合的な新たな回答を発見する。それがデザインなのです。

デザインとはイノベーションと言えるのではないかと考えています。

最後の章にイノベーションに不可欠な、戦略実行にともなう組織面の4つのハードルが書かれています。

・意識のハードル:現状に浸りきった組織
・経営資源のハードル:限られた経営資源
・士気のハードル:やる気を失った従業員
・政治的なハードル:強大な利害関係者からの抵抗
そして「常識」を書き換える。

どのような分野にも、どのような戦略にも、同じように越えなければならないハードル、阻害要因があるようです。

組織においても、また地域においても、多くのステイクホルダー(stakeholder / 利害関係者)があって、利権やなれなれしさを要求してきます。企業が顧客の本当の姿をとらえることによって、ブルー・オーシャンを発掘するように、地域においてはステイクホルダーの本当の姿を見極める必要があるようです。

目の前のステイクホルダーをひとつはずしてみればいいのではないでしょうか。
まずは、環境整備と意識改革。ブルー・オーシャンへの道のりです。

2009年7月24日

選択的認知と選択的非認知

「問題が起きていることを認めないと、「選択的認知」といって、自分に都合のいい情報ばかり認識するようになって、問題解決からどんどん遠ざかってしまいます。虫歯の例はその典型で、初期なら、ほんの少し歯を削るだけで済んだはずなのに、悪化させて神経を抜かなければならなくなったりするのです。

それでは、問題を認めると、どのような、いいことがあるのでしょうか。
問題を認めると、逆に、それを解決するための「選択的認知」を始めるようになります。なぜなら、その問題は不快なので、なるべく早く解決しようとするためです。 」

問題は当事者が認めるまで悪化するのだと勝間和代さんは書いています。

(http://www.asahi.com/business/topics/katsuma/TKY200907190104.htmlahi.com/business/topics/katsuma/TKY200907190104.htmlahi.com/business/topics/katsuma/TKY200907190104.html より)

問題が起きていることを認めていながら、それゆえにその問題を隠蔽したり、正当化しようとする動きが多々あります。 むしろ、選択的非認知。

それは自閉性組織の末路です。そこにはいくつものベールに包まれ、真実を覆い隠している何かがあります。専門家や有識者で構成されるお雇い委員会の所在です。閉鎖性回路をさらに強固にしてゆきます。

「公共事業の無駄の判断は難しいものです。東京に住んでいる身としては、静岡空港は無駄に見えますが、静岡県の何人かの住民にとっては必要不可欠なインフラなのかもしれません。」(JMMへの投稿より抜粋/メリルリンチ ストラテジスト菊地正俊氏)と言われる、 先月開港した「人と自然にやさしい」人工台地のような富士山静岡空港。これだけの環境破壊をやれば1900億円くらいはかかったでしょう。専門家もその数字の妥当性を認めています。

何人かにとって必要不可欠であることは間違いないでしょう。しかし、何人の住民がどこへ行くためのインフラなのでしょうか。一日12-3便、それも千歳、小松、福岡、熊本、鹿児島、那覇、ソウル、シャンハイ行きだけで利用者の要求を満たすことができたのでしょうか。

空港建設の経緯は、昭和62年 12月 空港建設予定地を榛原・島田に決定し、平成10年 11月 本体工事起工式 がとり行われたにもかかわらず、ここで県民から反対運動がおこり、平成13年 9月 臨時県議会にて住民投票条例案を否決し、平成14年 1月 空港タウンミーティング、空港専門家委員会での検討を経て空港の必要性を検証し、そして、開港しました。

その空港専門家委員会では様々な検討がなされていますが、問題は1点、1900億円に対する需要効果のはず。(報告書 https://www2.pref.shizuoka.jp/all/file_download1130.nsf/7DBA66CFCC0F65E849257398002C6F13/$FILE/iinkaitorimatome.pdf
空港専門委員会 http://www.pref.shizuoka.jp/kuukou/contents/ayumi/kaigi/senmon/index.html )

突っ走る閉鎖性組織、それを諌め、止めるのは倫理観を持った有能な専門家であるはず、、、、、。彼らの役割は静岡のアイデンティティを常に発掘し、その確かなビジョンを構築することにあります。それを社会に還元することが専門家や有識者の大切な役割です。

僕は東海道新幹線で毎週東京と愛知を往復していますが、通り過ぎる駅はと言えば、掛川も静岡も富士も三島もどの駅もみな同じ形、さびしい駅ばかりです。しかも静岡のアイデンティティ富士山、その山麓の工場地帯のひどさは相変わらずです。これでは誰も寄り付かない。弥次さんも喜多さんも嘆いていることでしょう。

東京と関西を新幹線で往復する観光客も、ビジネスマンも驚くほど多いはずです。いつの時代においても日本の重要なインフラであることは間違いでしょう。その東海道を豊かにし、活性化させることが江戸期以来のこの地域の役割であり、課題なのではないのでしょうか。そこに静岡の生き残る道がある、、、、。普通に選択的認知を行えば、そうなるはずなのですが。

2009年7月23日

衆議院解散

「衆院は21日午後、解散された。 政府は21日午前8時の定例閣議で、憲法7条(天皇の国事行為)に基づく衆院解散を閣議決定した。

皇居で天皇陛下から解散詔書への署名を得た後、午後1時からの衆院本会議で、河野衆院議長が詔書を朗読して、衆院は解散された。

これを受け、政府は臨時閣議を開き、第45回総選挙を「8月18日公示―30日投開票」の日程とすることを正式決定する。

衆院の定数は480(小選挙区300、比例代表180)。 総選挙は、小泉政権下で自民党が圧勝した2005年9月以来、4年ぶりの実施となる。8月の衆院選は戦後初めてだ。」(http://www.yomiuri.co.jp/election/shugiin2009/news1/20090721-OYT1T00410.htm?from=top より)

衆議院本会議場で万歳を表明する各議員。全会一致で賛同されたようです。

議長を中心に500名近い議員が居並ぶ本会議場はギリシャ劇場や大学の円形教室のようでもあり、建築空間的にはとても議論を行う場ではありません。大学でなら、とても授業にはなりません。

議長がすべてを見渡すことができ、YESかNOか、確実に判断できることにその空間的意義があります。そこでは居眠りをしているかどうかなど問題ではなく、必要な時に意思を表明しさえすればいい場なのです。

その意思を表明する場も、入場した時にはその意思すら決められていて、欠席や退場によってしか自分自身の意思を表明できない非情の場なのです。

国会の本会議場を見ていつも思うことですが、そろそろ、議会の形を変えねばなりません。固定座席を解体し、円卓があちこちに散らばるような形式が必要です。そう、披露宴やドラフト会議のスタイルです。六カ国協議もそうです。(円卓ではなく6角形ですが)

ある時には一つのテーブルに各党首が席を並べ、また、ある時には党の幹部が顔を突き合わせる。そんな、ダイナミックな議場が必要になるのではないかと思うのです。

でも、万歳三唱したり、3本締めしたりする儀式の場なのですね。もう少し、エレガントにテーブルを囲みませんか。

2009年7月22日

アニメの殿堂 その後

「文化庁は17日、アニメやマンガの「殿堂」国立メディア芸術総合センター(仮称)のあり方について、一般から募集した意見の概要を公表した。1週間の募集で387件の意見が寄せられ、センター建設への関心の高さを示した。

 「コスプレ体験と記念撮影ができるコーナーを設ける」「手塚治虫らがいた『トキワ荘』を再現」「アニメやマンガの名シーンを原寸で再現したテーマパークに」など、楽しめる施設を求める意見が目立った。管理運営にかかる費用は国がある程度負担すべきだとの声や、センターは「不要」との意見も34件あった。
 「希少書籍や絶版本の保存・データ化」「海外の研究者への資料提供や助成」など研究拠点としての要望や、人材育成の一環として「センターでのアニメ作品の制作」「アニメーターのハローワーク的な事業の実施」を望む声も寄せられた。 」(http://www.asahi.com/national/update/0717/TKY200907170404.html より)

恐れるべき方向へ行きそうな気配です。アニメの殿堂とは作家の過去の姿を復元するものでも、テーマパークでも、お遊びの疑似体験コーナーでもないでしょう。 国民の感度が悪いのか、ばかげた、それ故簡単に具体化できる意見だけを抽出しているのでしょうか。

「国立メディア芸術総合センター(仮称)」と呼びましょう。 アニメの殿堂とメディアが騒ぐから間違えるのであって、政治記者では書けないレベルのものかもしれません。

東京都現代美術館を設立するときに、ロイ・リキテンスタイン(Roy Lichtenstein)を理解できなかった国民の文化度がそのまま現われているのでしょうし、はたして奈良美智や村上隆、ヤノベケンジなど理解されるのでしょうか。

文化庁のメディア芸術プラザでは現在進行中のいくつかのメディア芸術展覧会が紹介されています。
http://plaza.bunka.go.jp/information/exinfo/

対象をどこに置き、どのような学芸員を募集し、どう活動させるのか。
いつも、規模と場所が先に決まり、独り歩きをし、大切な活動方針は先送りされる、、、、。

2009年7月21日

CO2 狂想曲

丸山茂徳  『地球温暖化論に騙されるな』

まずは著者自身も断っている。こういうことを書くからといってCO2削減や省エネルギー自体を問題にしているのではないと、、、、。

最近こちらの方が本物のような気がしてきました。

空気は窒素と酸素でほぼできていて、窒素が3/4、酸素が1/4であり、組成率は99%ほど、小学校の理科の時間に習いましたが、その後も大きな変化はないようです。一方CO2は0.054%。それほど少ないCO2が地球に影響を与えるのか不思議です。

わずかなCO2によって温暖化が起こっているのなら、気温の上昇が海水温上昇によるCO2の増加を引き起こし、さらにそのCO2が温暖化を引き起こしてゆく、更なる温暖化を呼びCO2の生じる割合は加速度的に大きくなり、不可逆的なサイクルに陥ります。46億年のこれまでの歴史のなかでそういうことはなかったのでしょうか。

本書は科学のいろいろの側面を描いてあります。CO2温暖化論とは、スーパーコンピューターを使ったシミュレーションによる警告です。気温の変化にもっと重大な影響を持つ雲の発生は発生量を定量化できないゆえにネグレクトされているそうです。温暖化により、グリーンランドの氷がすべて解けて海面が6m上昇するという予測も、一元的な入力だけだは、スーパーコンピューターの神話的側面と言えるだけでシミュレーションとは言えないでしょう。

CO2削減論やその戦術には単なる経済的視野のもの、自己広告的なものも多数含まれています。バイオマスの専門家である私の友人は低炭素化社会に向けた運動や事業には玉石混淆、嘘も多く、「見分ける目を持たねばならない」と言っています。

一元的で盲目的な加速度の行く先はどうなるのでしょうか。科学者が言っているのだから間違いがないというのは間違いでしょう。むしろ。まだまだわからないことの方が多いのではないかと思います。わからないことをわかったことのように決めつけてゆく、脚色してゆくことの方が怖いことです。

科学といえど、政治的な、あるいは経済的な政略に理論を誇張することもあるのではないかと感じられます。科学理論もいろいろの理論を無節操につまみ食いしてゆけば、新たな、そして歪んだ理論も構築できてしまうのではないでしょうか。

世界で政治的リーダーシップを取れない日本が唯一取れるテーマ、それが「京都議定書」の遵守であり、地球温暖化防止に向けた活動かもしれません。環境省もここぞとばかり驚くほど強い口調で不安を駆り立てるかのように主張しています。宗教的ですらあります。テーマが抽象的でステイクホルダーが見当たらないのかもしれません。http://www.env.go.jp/earth/ondanka/stop2008/full.pdf

一元的な犯人探しで、一度決めたら一途に邁進。それがどのような意味を持とうが家計簿の1円までもそぎ落としてゆくように取り組む。不要なものは落とせばいいが、却ってデメリットもあるはず。

ここに大きな問題が潜んでいるようでなりません。もっと、根本的なエコロジーの考えや生活スタイルが重要だろうと感じます。

一心不乱にCO2の削減に取り組んでゆく姿は百鬼夜行のようでもあり、もっとゆるやかに社会と接する必要があるのではないでしょうか。低炭素化社会を語る一部の経済至上主義者に騙されずに、本当のエコロジーを見つめてゆきませんか。

2009年7月20日

黙示録

建築の黙示録は写真家宮本隆司氏が廃墟となった建築を撮影したものです。

浅草松竹映画劇場や汐留駅、サッポロビール恵比寿工場など多くの朽ちた建築の姿をカメラに収めています。


なぜ、と思われるかもしれません。しかし、朽ちた姿からは意外に新しく、斬新な印象を持ってしまうのです。


表層の身にまとっていたものをすべて落とし、完全な形をしていた時には気がつかなかった建築の面白さが見えてくるのです。特に構造体、空間構成、透過性。それから、光、写真ではわかりませんが、たぶん風なども感じられるのでしょう。劇場などの場合、オーディトリアムは完全遮光、遮音の閉じられた世界ですが、廃墟の中では屋外の中庭のような光あふれ、視線の集まる空間となっています。


なぜ、廃墟か?現代では忘れられてしまった、躍動的な、構造的な建築の姿が新たな空間として見えてくるのです。新しい建築の発見、、、つまり、もう一度孵化過程へ。


黙示録とは、新約聖書の最後の一書であり、95年ごろローマの迫害下にある小アジアの諸教会のキリスト教徒に激励と警告を与えるために書かれた文書とのことです。

この世の終末と最後の審判、キリストの再臨と神の国の到来、信仰者の勝利など、預言的内容が象徴的表現で描かれたもので、ヨハネ黙示録が有名です。


つまり、「終末と未来」とを象徴的に現すものであり、将来を啓示するものなのです。


廃墟の中にこそ本質が見え、あるべき姿が見えているということなのですね。そこに私たちが魅かれるのです。

ハドリアヌス帝の離宮だったローマ郊外のヴィラ・アドリアーナ。私の一番好きな建築です。

2009年7月19日

富山水ビジョン

福井平野を飲み込むようにして流域を形成している九頭竜川の水系図です。この地域は、その名の示す通り、暴れる水との闘いであったようです。

しかし、同時にその豊かな水系の恩恵にもあずかってきたようで、きめ細かな入り組んだ水系のネットワークからは自然としての、文化としての、生活としての水の豊かさが伝わってきます。

こうした地域の状況は北アルプスの山の麓に位置する北陸地方では共通するようです。

富山県でも水系に着目し、地域のビジョンを描こうとしています。

「富山水ビジョン」策定の趣旨は
「本県が豊かな水の恵みを受けられることとなったのは先人たちの努力の賜物であり、今後ともふるさとの貴重な財産として県民全体で守り育むことが大切

21世紀は「水の世紀」と言われ、水施策の総合的な推進が重要な課題

「天然の円形劇場」ともいわれる本県は、ほぼ独立した水循環系を有しており、水ビジョンの推進により健全な水循環系の構築においてモデル県をめざす」とされ、

その役割として
「水に関わる各種施策を総合的、横断的に推進するための指針
 健全な水循環系の構築に向けて各主体が取り組む際の指針」が示されています。

水ビジョンの推進により健全な水循環系の構築においてモデル県をめざそうとするものです。

水とは富山の人たちの生活のしくみ、コミュニティのありようを作ってきたのです。その水に取り組むことで多くのものを横につなぎ、総合的に取り組むための手段とすることもできるようです。

http://www.pref.toyama.jp/sections/1711/mizu/mizu_vision/vision_yakuwari.html


それを視覚的に表わしたものが、左の図です。
川から、用水路へ、排水路へ、そして、地域の水田の用水路や地域の洗い場へ、、、そしてまた川に帰ってゆきます。いくつもの種類の水系が組み合わさってより密接な、生活文化に溶け込んだ末端神経のようなネットワークが地域のコミュニティの中で築かれています。

水文化という視点からきめ細かく表わされた素晴らしい調査と研究です。ビジョンに描かれているように水のネットワークから導かれる、「人づくり」「地域づくり」「仕組みづくり」の視点を持つことによって富山の将来は保障されるように感じます。



膨大で緻密な、志の高い報告書ですが、最後の今後のまとめが、今後の取り組みについてがイマイチ消極的です。水ビジョンとは県民にとって好ましいはずのものですが、、、工業団地や産業団体にいらぬ配慮があるのかもしれません。

このまま水系を守り、そして活用してゆく、そこに富山の、北アルプスを抱く地域のアイデンティティがあるのではないでしょうか。もっと積極的に県民に方向性を与え、同じアルプスのを水源とする福井や石川までを含めた大きな取り組みにすべきではないかと感じさせられました。



施策展開の基本姿勢

1 水循環に関する情報ネットワークの構築富山県における地域の水環境保全活動等を、インターネットやイベント等を活用して情報発信する。水循環に関するポータルサイトを構築し、本県独自のバーチャルミュージアム※としての水博物館や環境科学センターなどの行政機関、富山大学などの高等教育機関、さらには、㈶環日本海環境協力センターなどと連携しながら、水循環に関する情報を国内外に向け発信する。



2 推進体制水に関する施策は、広範囲で多岐な分野が密接に関係するため、循環資源である水に対する共通の認識に立ち、連携を取りながら推進する。流域を単位とした取り組みや地域に密着した取り組みなど、国や市町村との連携や役割分担により施策を推進する。

3 県民の参画と協働施策の推進にあたっては、自治会や地域団体、民間団体、ボランティア組織、NPOなど様々な形での県民の参画と協働を得る。節水や水の有効活用、水質の保全、水源の涵養、防災活動、水を通じた交流と連携など、水の役割や大切さ、様々な水問題、水に関する事業や取り組みなどの情報の収集・発信に努める。

4 進行管理学識経験者や関係団体代表等で構成されている「水ビジョン推進会議」を定期的に開催し、各種施策が適正かつ効果的に実行されているか、幅広い視点からの助言等を得て施策を推進する。水ビジョンの基本目標に向かって、各種施策がどのように実施され、成果を発揮しているか、定期的に検証していく必要がある。このため、「水ビジョン推進会議」において、設定した目標指標の到達度を評価し、施策の進行管理を行う。

2009年7月18日

地方分権の先鋒

地方分権の先鋒、東国原知事と橋下知事。いくら権限や財源を地方に取り込んでも、それを行使する体制ができているのかどうか、、、。宮崎県と崖っぷち大阪府の地方分権の取り組みは進んでいるのでしょうか?

宮崎県ではいくつかのビジョン策定が行われているようですが、行政改革自体はまだまだ、意識の改革、それも談合事件からの脱却、信頼回復期との捉え方です。しばらくは、マンゴーに頼るしかなさそうです。

行政改革は3つの改革が実施されています。(http://www.pref.miyazaki.lg.jp/parts/000085554.pdf より)

1 意識改革「お役所仕事」からの脱却や入札談合事件等の不祥事により失墜した県政の信頼回復のため、公務員倫理の確立や法令遵守(コンプライアンス)を徹底するとともに、職員一人ひとりの意識改革を推進し、柔軟な発想と明確なコスト意識を持って職務を遂行するという組織風土の形成を図ります。

○ 公務員倫理の確立(「職員倫理規程」等の制定、コンプライアンス推進体制の整備、「公益通報制度」の充実強化、 公共工事の入札・契約業務等に係る談合の記録、公表)
○ 組織風土改革の推進(各職場で、ワンランクアップの県民サービス向上の取組み、「部局マニフェスト」の実施、「職員提案」の実施、職員の自主的な地域活動参加を促す指針の作成、程度)
○ 人材育成の推進( 自己啓発支援、職場研修及び職場外研修の充実、職種間交流や外部との人事交流)

2 経営改革  はコストダウンだけですべてを黒字にしようとする大胆な試みです。県立病院の経営も経費削減で患者や医師が戻ってくるなら、苦労はありません。

3 協働改革  といっても、知事と県民との交流が中心で、「県民ブレーン座談会」、「県民フォーラム(公開討論会)」の開催。職員の姿が見えてきません、、、、、。

一方、大阪府ではもう少し改革が進んでいるようです。意識の改革から、実践へ取り組み始めているようです。部局長マニフェストと3人の副市長による6つの部局横断課題のマネージメント。
http://www.pref.osaka.jp/kikaku/b_manifesto/home.html より)

「大阪府では、この4月から、組織強化を図るため「戦略本部体制」をスタートさせています。
私は、この体制の下で、大阪府庁という組織が一丸となって「変革と挑戦」を続けるような仕組み、府民の視点で施策の効果を点検し、改善点を見出し、反映させる仕組みを確立したいと考えています。
その肝となるのが「部局長マニフェスト」です。
これは、部局長自身が、府としての大きな方向性の下で、自らの部門が遂行する戦略目標や具体的な成果指標を掲げ、知事である私との間でその実現を “約束”し府民の皆さんに公表するものです。」

それはアウトプットとアウトカムを区別して考えられたものです、、、、。

しかしながら、その重要なアウトカムを(課題→アウトカム)の順に見ていると、

1.大阪の地域力の再生→住民や地域団体等の地域活動への参加拡大により、府民の「地域力再生」の実感の向上を目指します。

2.大阪・関西発“地方分権改革”の推進→地方分権に関する府民の認知度・期待度の向上を目指します。

3.都市魅力創造→府民の大阪への「愛着心」や「活気・にぎわい」などの満足度向上を目指します。

4.新エネルギー都市大阪づくり→「エコカーの普及」についての府民の実感の向上を目指します。

5.障がい者雇用の促進→「障がい者が働き、自立した生活を送ることができる社会づくり」に対する府民の実感の向上をめざします。

6.大阪の高校教育のあり方→大阪の高校教育に関する府民の満足度の向上を目指します。

となります。でも、認知度、期待度、実感、満足度、それらは具体的な成果ではありませんね。

意識の改革だけが先行するのではなく、意識と実践とを同時に改革してこそ、改革が進むのではないかと考えます。実践の中でこそ、鍛えられると思うのです。府民の期待も、財政の窮乏も待ってはくれないはずです。

横断課題を全局をあげて取り組む意欲があるのかどうか、そのためには何を解体し、何を融合しなければならないのか、、、、、組織の創造的改革なしに、創造的な回答を提示することは不可能です。

「これまでの府政運営では「目標設定と責任の所在が曖昧」「PDCAサイクルの機能が不十分」といった課題がありました。
「PDCAサイクル」とは、Plan(立案・計画),Do(実施),Check(検証・評価),Act/Action(改善・見直し)の頭文字を取ったもので、計画から見直しまでを一環して行い,さらにそれを次の計画に活かす仕組み。この点を改善し、府としての組織目標を全庁で共有し、その達成を目指すため、「部局長マニフェスト」を制度化しました。 部局長マニフェストは、施策の取組段階ごとに目標を設定し、PDCAサイクルを常に意識しながら、その達成を目指す仕組みです。」

PDCAサイクルとは高度成長期に、製造業での生産管理や品質管理の効率化を推進するために考案された戦術であったはずです。いまどき、「PDCAサイクル」なんて言っているのは地方自治体くらいじゃないでしょうか。Plan→Do→Check→Act/Action、そんなにまっすぐには進みませんし、Planの前に膨大な分析が入り、Doの前に何度もCheckが入るものです。

やはり、まだまだ民間の先進企業の業務意識や体制とのずれは大きいのではないでしょうか。

地方分権

今、多くの政治家が地方分権、道州制に動いています。

それ自体は異論のないものと感じられますが、財源がどちらへどの程度傾くかだけが焦点のようで、具体的な行政改革、組織の改革は進んでいないようです。宮崎県も、大阪府も。

しかし、権力が地方に降りてきた場合に、きちんとそれを受け取る準備はできているのでしょうか。


官僚のあり方には弊害が生じてきていますが、国家のありようを問うために目指して勝ち取った国家公務員(今でもどれだけの人がその気概を持っているのかわかりませんが、、、)に勝る能力と意欲が地方公務員にあるのかどうか。地方公務員による官僚組織はもっとかたい殻を持った組織と言えるのかもしれません。

そうした集積し、巨大化したその組織を現実の動く機能的な組織に変えることができるのか、肥大化した、無用の長物をどこまでスリムにし、活動的にできるのか、、、、いくら、国以上に首長の権限が大きいと言えども首長一人の個性や能力で改革できるのか、持続して行けるのかはなはだ疑問です。


組織の改革、とは難しいものです。私の建築の師「内井昭蔵」は個性を生かしながら組織の仕組みを作っておりました。創造的な建築を作るためには創造的な組織のあり方が不可欠であると。


創造的な地方自治のあり方とは何か、それを実現するための組織のあり方とは何かを考える必要があります。それが首長の責務です。


組織とはコンセンサスで成り立っているものです。そのコンセンサスを得てゆくプロセスはすべての組織の宿命です。係員、係長、課長、部長、局長、、、、と書類の右上に配列される承認印が示すような、かたい殻の中の一元的、一直線的なプロセスではなく、多元的な、多次元的な、プロセスが必要ではないでしょうか。

そこにピラミッド形式の組織のあり方を緩めてゆく手がかりがあるように感じています。


地方公務員には「国家のありよう」といった国家公務員の崇高な志は必要ありません。むしろ、市民や地域がどうあるべきかと視点を下し、自分たちのライフデザインをどうするのか、それをともに考える土壌が必要です。

地方自治とは市民に直結しています。市民一人ひとり、職員一人ひとり、が上下の関係を捨てグループセッションのようにコンセンサスをとってゆくことが必要ではないでしょうか。個人を生かし、個人がチームとしてつながり、セッションのように合意形成してゆく、そんなイメージを抱いています。

2009年7月17日

43歳、働き盛り。3人の子の父親です。

「43歳、働き盛り。3人の子の父親です。」

「43歳、働き盛り。3人の子の父親です。」

「43歳、働き盛り。3人の子の父親です。」

「43歳、働き盛り。3人の子の父親です。・・・・・・・・・・。」

都議選での選挙カーによる連呼のひどさに驚いたものです。

何をやりたいのか?コンセプトは?マニフェストは?それとも体力勝負なのか?
67才現職議員に対抗する戦術だったようです、、、、、、。

彼らは政治家としての自負はあるのでしょうか?政治家だから目前の敵より1票でも多く、ということなのでしょうか。

もう、選挙のやり方を変えましょう。きちんと政策を語り、将来を語る能力を証明しましょうよ。

問題意識はどこにあるのか
どのように地域の情報を集積しているのか
ビジョンは何か
その構築力、論理力はどうか
どう具現化するのか
そのビジョンをどのように展開するのか

そのような論理構築能力を証明するための選挙活動とはどのようなものでしょうか。
未だ、選挙ポスターのさわやかな笑顔と選挙カーの鶯嬢の透き通るような大きな声。
選挙看板に付属するボタン押したら、あるいはネット上のデータからクリックしたら、ビジョンを自ら語る映像が流れてくることなど簡単な社会になっているはずです。
もっと、もっと対話も必要です。

ただ、様々な議員がいてもいいのかもしれません、肉体派、子煩悩派、お色気派、、、、、。都民の声を御用聞きのように拾い上げるのにはそれもいいかもしれません。しかし、あげられた声は誰が共有化した課題としてまとめるのでしょうか。

都の職員なのでしょうか、知事なのでしょうか。そうであるなら、都議など不要であり、民生委員や自治会長で十分です。待遇と権限を担保してあげれば、都民の生きた声は多面的に集まってくるでしょう。

議会とは何か、議員とは何か?そこに尽きるのでしょう。

地方自治法には15の役割が記述されています。
 条例を設け又は改廃すること。
 予算を定めること。
 決算を認定すること。
 法律又はこれに基づく政令に規定するものを除くほか、地方税の賦課徴収又は分担金、使用料、加入金若しくは手数料の徴収に関すること。
 その種類及び金額について政令で定める基準に従い条例で定める契約を締結すること。
 条例で定める場合を除くほか、財産を交換し、出資の目的とし、若しくは支払手段として使用し、又は適正な対価なくしてこれを譲渡し、若しくは貸し付けること。
 不動産を信託すること。
・・・・・・・・・・・・・・・・

たいていは1と2と3、それも決まられたものを採決するだけ、、、、。のような印象を持っています。

自ら市民の声を聞き、、、、、そのすべてを議会で一般質問するような議員もいますが、、、、そうではなく、声に潜む課題を自ら抽出し、いくつかの課題を連携、総合させて、新たなビジョンを描き、法制化してゆく。それが議員の役目ではないのでしょうか。

調査、分析、ビジョン構築、シミュレーション、評価、実行、、、、一人ですべてを行わなければならないスーパーマンであるはずなのです。少なくとも地方議員は。

働き盛りというだけではとてもこなせないものですし、ましてや3人の父親で子煩悩であるだけで、少子化問題に取り組めるというほど甘いものではないはずです。

2009年7月16日

スターバックスによる評価

岡崎市は大きく南と北に分かれています。南は最近の町であり、北は古い城下町からの町。北は自らを都心と呼び、その再生に向けて多大な税金が注がれています。

岡崎市南部、竜美が丘にスターバックスが開店しています。なだらかな斜面にゆったりとした住宅地が広がっています。近くには大きなショッピングセンターや裁判所や警察署などが位置します。

スターバックスの店舗は近隣都市も含めて、最近は急激な増加傾向にあります。直営店ではなく、フランチャイズによる店舗の増加が著しいとも言われます。しかし、37万人都市岡崎にはそのショッピングセンター、イオン内の店舗を含めて2店舗だけです。

スターバックスが求められる理由は何でしょう?

コーヒーが安いわけではありません。いろいろの自らの好みに合うコーヒーをオリジナルで作ってくれます。ただ、これは何度も通わないとそこまでのオーダーは難しいです。また、店内禁煙です。

逆に、スターバックスは何を求めて出店するのでしょうか。安くもない、喫煙などできない規制の多い店舗が受けいれられる地域はどこなのか、そうした新たな価値感を持つ人や地域はどこなのか。

この環境に合う場所や場面を作り出すことに適切な地域に出店をするのでしょう。それにあう豊かな地域はどこなのか、それを消費してくれる市民はどこにいるのか、企業はすべて調査しています。シビアです、、、、。

ごまかすGONPOとごまかされる市民、時代に取り残される地域と次代へ向かう地域、、、、違いを見極めなければ、再活性化など不可能です。
新たな可能性を発掘するためのワークショップを合意形成のために無理やり押し付けられ、近視眼的な市民にそんな違いなどわかるはずもありません。ワークショップごっこに戯れている場合ではないはずです。

地域への評価、それは市民も行政マンも知らないところで、しかし、プロとしての的確な判断が下されているのです。違いとその可能性が見えている確かな企業が身近にいるのです。

違いと可能性を示すこと、それがコミュニティシンクタンクの役割です。近視眼的市民には厳しいものを突きつけることになるでしょう。

2009年7月15日

大臣政策室

舛添厚生労働相は厚労省に大臣直属の政策スタッフ組織「大臣政策室」を設けることを発表した。政策室はIT関連企業社長など民間人を含め、大臣が任命した「政策官」で構成。12人中7人を総務、法務、財務、経済産業など他省庁から集め、縦割りにならない意思決定を目指す。(http://www.asahi.com/politics/update/0701/TKY200907010328.htmlより)


大統領府、首相官邸、次は大臣政策室が整備されるようです。

大臣になったからといって、すぐさま適材となるブレインを集めることはできないでしょう。大臣になった時点でより高度な専門性が必要となる大臣政策室を立ち上げることは困難ではないか、立ち上げてもうまく機能するのかどうか疑問です。そうであるなら、むしろそれ以前の段階より、議員として、つまり政治家として、政策研究チームを持ってチームとして政治を考えてゆく必要があるのではないかと考えます。

それは、現代の政治家には分析力、構築力とそのスピードとが必要であり、多面化、複雑化した現況に対処するためにより高度でより迅速な対応が必要な時代となったからです。

医療や技術開発だけでなく、芸術やデザインですらすでにチームとして活動することが不可欠の時代になってきています。政治家にも専門家によるチームが必要なのではないでしょうか。

国会法により公設秘書2人と政策秘書1人が認められていますが、チームに必要な人材とはマネージメントを担当する秘書ではなく、政策研究のできる研究員です。ただ、有能な研究員には独立した立場が必要であり、チームに対して顧問としての関係や委託契約を介した関係を持つべきかかもしれません。

もっと、その先を見据えるならば、それは政治家と研究員という関係を持ったチームではなく、研究員の集合体としての政治チームとなるでしょう。もしかするとそれはコミュニティシンクタンクのような地域とのネットワークを持ち、新たな情報収集システムを携える組織かもしれません。

多くの個人の政治家よりも、数を少なくしたチームによる政治です。

選挙には政治家一人の資質が問われるのではなくチーム全体の能力が問われる。市民や国民はチーム全体の能力を見て、投票するようなシステムです。

それはブレインとしてのシンクタンクのような機能と役割が要求され、地域に根差した政治家にはコミュニティシンクタンクの登場が必要になるでしょう。

特に地方の政治では市議など、市長と対等に論議を交わすことのできる数人でいいと思うのです。

2009年7月14日

シェフによるスーパー給食

「残さず食べてもらえる給食を目指す東京都足立区の区立梅島小に25日、西麻布で高級イタリアンレストランを営む片岡護シェフ(60)の給食が登場した。

 大好評だったのがトマトソースのパスタ。レストランで出すものと同等だが、値段の手ごろなパスタを使うなどの工夫で予算は通常の1食254円に収まった。

 3回お代わりした4年生の嶋圭太郎君(9)の感想は「軟らかく、ちょっと硬くてもちもち」。自然に出てきた「アルデンテ」の表現には、片岡さんもびっくり。 」(http://www.asahi.com/national/update/0625/TKY200906250276.html より)

西麻布でイタリアンレストランを経営するシェフが1食254円の給食を提供したようです。給食などの安い予算ではとてもできないという感覚があったので驚きです。

シェフによる給食は、このほかにも多くの小学校、町でスーパー給食として取り入れられているようです。フレンチからイタリアン、和食中華ラーメンお好み焼きから、、、様々なシェフがいます(http://www.chojin-chef.jp/deproject/kyuusyoku/index.html より)

食物の栄養価の数値から食を作ってゆくのではなく、生きた食事を提供するという本来のプロの腕によって「おいしさ」が求められたのです。子供たちにはおいしさだけではなく、料理を作る楽しさが実感できたかもしれません。

建築も同じです。建築家に頼むと高くなるから工務店やハウスメーカーに頼む、建設会社に任せてしまうと考える人も多いかもしれません。安易にできてしまうかもしれませんが、安易さは隠れた不備や思わぬ欠陥も生じてしまいます。
住まいや建築とは、発注者と建築家とがともに一緒になって作ってゆくものです。手間を惜しまない建築家ならば、住まいにかかわるその人のビジョンを作り出します。
少し時間はかかるかもしれませんが、思いの込められた住まいは長く愛されるものになります。
プロフェッショナルとは、いかなる条件においても、最大の利益を生み出す力を持っています。その職能こそ、今後多くの社会で、多くの場面で必要になってくるものではないかと思うのです。

2009年7月13日

琴光喜と内川

琴光喜と内川、彼らに共通するのは、「愛子さま」がファンであること。

誰もが朝青龍や白鵬と言い、誰もがイチローやマツイやナカムラを応援するなかで、彼女の審美眼は印象的です。

多くの人たちがスーパースターやアイドルに「流され」がちで、また、メディアでの露出度の高いチームを応援する。メディアは常勝チームを作り、その均質化へのサイクルを加速する。

それはストレス解消のためなのか、コミュニケーションを保つための保身術なのか。あるいは、安心感なのかもしれません。

子供の頃、人と同じ感性や価値観を持っていることで、仲間はずれにもならず、孤立することもなかったかもしれませんが、それを顧みず、内面に深く入り込んだ彼女の洞察力は私たちにとって、貴重なものとなるでしょう。むしろ、子供たちの間で羨望の的となって欲しいのですが、、。


それは「オタク」と言われる「アマチュア専門家」としての能力の現れかもしれません。

「オタク」と「プロフェショナル」との違いは何でしょうか。大きいようにも感じられますし、「オタク」の知識の方が膨大な場合もあるでしょう。「プロフェショナル」は実践の中で鍛えられ、責務を負ってゆきます。閉じていては「プロフェッショナル」とは認知されないのではないでしょうか。

「オタク」がその自閉性を解き、「アマチュア専門家」として発言権を持ち、市民権を得てゆく時、日本の社会は大きく変わってゆくのではないでしょうか。

そこには均質性を持った市民や国民ではなく、メディアなど到底予測もつかないような、多元性を持った社会が見えてくるように思うのです。

オタクを研究するオタクもあるようです。こちらはプロフェッショナルと言うべきかもしれませんが、このような分類型の分析は面白くないですね。むしろ面白さは「オタク」の方が持っているものです。

オタクは遍在する――NRIが示す「5人のオタクたち」 (1/2)
オタク分析のパイオニア・NRIが新定義を打ち出した。オタクにはアニメやコミックマニアだけでなく自動車好きや旅行好きも含まれるとし、「5人のオタクたち」という典型像を示した。
 野村総合研究所(NRI)オタク市場予測チームは、オタクの特性を分析して再定義し、10月6日に発表した。オタクはいわゆる「アキバ系」だけではないとし、行動や消費の特性を抽出。アニメやコミックに加えて旅行、自動車マニアなどもオタクに含め、主要12分野のオタク人口を172万人、市場規模を4110億円と推計した。(http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0510/06/news068.html より)

2009年7月7日

裕次郎23回忌

「87年に52歳で亡くなった俳優、石原裕次郎さんの二十三回忌法要が5日、東京都新宿区の国立競技場であった。一般向けには最後の法要で、ファンらが午後10時の閉門まで長い列をつくった。主催者の石原プロモーションによると計11万6862人が献花した。

グラウンドには、裕次郎さんの墓がある横浜市鶴見区の総持寺の本堂を模した高さ約17メートル、間口約36メートルのセットが組まれた。」(http://www.asahi.com/national/update/0705/TKY200907050141.html より)

本尊を総持寺より持ち込み、法要が行われたようです。

言わば、それは移動寺であり、ウォークする寺です。本尊のあるところ御仏がおわすということですね。キリスト教プロテスタントでは、聖書あるところすべて神の御心があり、十字架のような偶像や教会のかたちにはこだわらないのと同じようです。寺そのものです。

かつて、アーキグラムがインスタントシティやウォーキングシティを都市のメタファーとして提案していたことも思い出されます。建築までもユビキタスであるということを改めて認識できました。

仏の心を確かめる場所、その場所こそが法要の場所、寺であるのです。

東京遷都が模索されていた頃、師内井昭蔵は移動国会を提案しました。

内井は木構造の巨大なドームを解体、組み立てできるシステムを考案し、国会議事堂として、さまざまな場所での議会開催を考えていました。遷都という神がかり的なものではなく、現実的な、そしてより実効性のある多面的な国会像を提供したのでした。

先日まで東京国立博物館で開催されていた「阿修羅展」。美術品として博物館で展示されるのではなく、ウォークする移動寺として興福寺自体が東京へやってきてくれるとよかったのですが、、、、、、。

建築も都市もウォークするのですから。

2009年7月6日

アートビオトープ

アートビオトープという言葉が生まれています。アートビオトープ那須では自然の息遣いを感じるなかで作品を作ったり、講義を学んだり、さまざまな活動を行う環境を提供しています。

http://www.artbiotop.jp/


ビオトープBiotopとはBios(生命)+Topos(場所)というギリシャ語から生まれた概念です。本来は生物の生態域、普通に自然の中に持続している生物の生態域のことを言い、それらを保護、保全、復元、創出してゆこうとするものです。


近年、日本では、屋内や身近な環境の中に閉じ込められて人工的に作られている生物の飼育室や実験装置のような矮小化された小さな概念となってしまっています。残念ながら、、、、。

ビオトープもエコロジーと同じように、むしろ生態系をつなげ、広げてゆくことが重要であり、そのつながりを私たち自身の感性でまじかに感じることが必要なのだと思います。

アートビオトープとは、作品を作ることで、生命の息吹を感じ取ってゆこうとするものであり、同時に自然の息吹を感じることで新たな作品を作ってゆこうとする活動です。アートや芸術のまっすぐな側面が自然の生態系の厳しさ、難しさとあいまって育てられるということではないでしょうか。

アートが作品、すなわち、ものづくりを通して、人と自然との間に立ってつながりを生み出しているのではないかと思います。アートが地域と人とのつながり、人と自然とのつながりを発見させ、地域のの活性化や環境づくりへと向かう活動は大変多くなっています。

アートやものづくりとエコロジーとは、なかよしなのですね。
どれも数字で抽象化されるものではないし、視点が正しくないと見えてこないですし、自らの視線を通さないと見えないものですからね。

2009年7月5日

軽井沢訪問記/ヴォーリズ、レーモンド、吉村順三から原広司

ナショナルトラストサポートセンター主催のタリアセン(軽井沢塩沢湖畔)見学会に参加する機会がありました。

タリアセンには44年会館(旧軽井沢郵便局)や朝吹山荘(ヴォーリズ設計)、夏の家(レーモンド設計)など軽井沢の歴史を作ってきた大切な資産が移築保全され、レストランや美術館として活用されています。その活動の中心となっている軽井沢ナショナルトラストの藤巻氏に貴重な説明をいただきました。

旧軽井沢郵便局の保存活動をきっかけに藤巻氏はじめ地域の有志が軽井沢の別荘や教会などの文化資産を守るため、活動始めました。地域が自分たちの文化や歴史を後世にきちんと残そうと、それが自分たちの歴史であり、同時に自分たちの将来を形作るものとして考えられているのだと感じました。

また、軽井沢を歩いていると、いくつかの別荘建築には教育員会から委託された臨時職員の方たちがはりつき、残された施設を広報し、管理している様子も見られました。周辺の古びてきた別荘を今後どうしようか、愛情を持って自分たちのことのように真剣なまなざしを向けています。

どの地域も今、自分たちのアイデンティティがいかなるものか、生き残りの手段として切実になっています。5億円もの費用をかけて、東京の古い住宅を元藩主末裔の住宅というだけで、旧本多邸を研究者から押し付けられ、買わされ、一方で地域の歴史や文化資産には目もくれないという岡崎市は特殊事例でしょう。



この機会にいくつか、建築を見て回りました。順に、レーモンド設計の聖パオロ教会、ヴォーリズ設計の浮田山荘、吉村順三設計の山荘。
どれも存在感があり、今に引き継がれ、今後も軽井沢を形成してゆくことでしょう。











その存在感とは何か、、、、建築の姿が立ち現れる瞬間をどのように設計論として記録してゆこうか考えています。ここを歩くと、その答えのひとつと考える「素材と私たちの関係」が強くつながれていることがよくわかります。
どれも私たちに熱く、強く語りかけてきます。建築家が選んだ素材、それらを取り込むための構法やディテールが真摯に、大胆に現わされているのです。
語りかけられた私たちは敏感に反応し、そこに風土や文化、愛情や思いなど、、、、、、地域の普遍性を感じてしまいます。そうした素材と私たちの関係、その発想は師内井昭蔵から最も影響を受けた視点ですが、この素材と私たちの関係を生み出すことが建築が立ち現れる瞬間の一つではないかと考えています。

最後に86年、原広司によって設計された田崎美術館。

ここは素材そのものというより、光あふれる空間の中にほのかに模様を刻まれたガラスが幾重にも重なるように配置されています。軽井沢の透明感あふれる空気がデザインされ、再現されているように感じられました。

地域の透明感、これも風土です。かつて、それを求めて人々はやってきたわけですから。

しかし、その透明感も、ここ軽井沢でも失われつつあるように感じられました。それらを濁すような、けばけばしく、張りぼての見せかけの商業建築や別荘群が目についてきたのです。

古い文化や歴史の上に、そこに新たな感性が真摯に重ねられながら、地域は熟成してゆきます。
(ref→http://architect-studio.com/topic.html

2009年7月3日

サイクルトレイン

「えちぜん鉄道「サイクルトレイン」の運行について
公共交通機関の利用促進策、また、健康長寿バイスクル事業の一環として、えちぜん鉄道において、自転車を電車に持ち込める「サイクルトレイン」を運行しています。」
http://www.pref.fukui.jp/doc/sokou/bicycle/cycletrain.html より)


まだ、期間や期日限定であったり、サイクリング愛好者や観光客対象のイベント的な様相ですが、多くの心ある鉄道機関で試行されているようです。


秩父サイクルトレイン実行委員会+西武鉄道 http://navix.city.chichibu.lg.jp/

岐阜県養老鉄道 http://www.yororailway.co.jp/cycle/cycle.htm

滋賀県近江鉄道 http://www.ohmitetudo.co.jp/railway/cycle/index.html

茨城県関東鉄道、地域のふれあいパートナーと謳われております。 http://www.kantetsu.co.jp/train/cycletrain/cycletrain_index.html

群馬県上毛電気鉄道 http://www15.wind.ne.jp/~joden/otokujoho/sub1.html

上毛電気鉄道では新たにパーク&ライドシステムが試みられています。
「自家用車等で駅まで行き、公共交通に乗り換えるパーク&ライドシステムを導入しております。上電利用者に限り、駅駐車場を無料化しております。

通勤、通学の方はもちろん今日だけ上電を利用したいといった方も対象として、駅駐車場を無料化しております。 ぜひ、自家用車と合わせて環境に優しい公共交通もご利用下さい。」


車社会一辺倒だと思っていた地域でも、本物のエコに向けて次代の試みが行われています。地方から社会を変えることができるかもしれません。サイクル&ライド、サイクルonライドで通勤する有能なサラリーマンの姿も日常的な光景になることでしょう。

ヨーロッパではすでに行われていますが、、、、。

2009年7月2日

副市長公募

豊岡市では副市長を公募しました。東京や神戸でも公募の説明会が行われています。http://www.city.toyooka.lg.jp/www/contents/1244178688617/index.html


豊岡は出石や城崎を含み、人口約89000人、市の職員約990人ほど、コウノトリの町として有名な兵庫県北部の山間の町です。

中貝宗治市長は、副市長をコーチと位置付けています。プレイヤーとしての職員と監督としての市長との間に立って、コーチの役割を果たすのだというのです。一見、中間管理職的な印象も受けますが、、、、難しい役どころです。



「豊岡市役所の職員たちは、素質は充分で、故郷を愛する強い気持ちをもっています。このチームを、民の目でさらに鍛えて、市民との連携をさらに強化すれば、目標は必ず達成できると信じています。そこで今、私たちの夢の実現に向けて、副市長として、夢を共有し、一緒になって汗を流していただける人材を探しています。求めている副市長像は、「優れたコーチ」です。」

市は行財政改革の真っ只中、そこに改革のメスならぬ、コーチの手腕を入れたいようです。財政逼迫という状況の中で市も、市民や活動団体も苦しんでいることがわかります。多くの声も寄せられているようです。

補助金や運営費などの削減や中止が市から提案されていますが、同時に地域の活動の活性化は進みつつあり、また進めなければならないというジレンマもあるようです。

でもそのジレンマの中にこそ、解決の糸口はあるのではないでしょうか。どちらかを切り捨てるのではなく、その両方を解決する斬新で、思ってもいない戦略が求められています。

それには経費削減に長けた経済専門家の経営戦術を必要とするのでも、財政逼迫を市民とともに痛みを分ける交渉術を必要とするのでもありません。

戦術の問題ではなく、行革そのものの、組織のあり方をどのように変えてゆくかが問われているのであり、新たな有機的組織の運営へ向けて職員の視線を変えてゆくことがコーチたる副市長に求められているのではないでしょうか。

そこにこそ次代のタウンマネージメント、新たな民主主義の姿があるのではないでしょうか。

2009年7月1日

エコとはecology ?

エコとは何でしょうか。


日本のエコ住宅って、外壁を密閉化し、内部の空間をできるだけ外気から閉ざし、高効率空間を作ろうとするものなのではないでしょうか。それは単なる省エネルギー住宅であったり、高密閉住宅であったり、徹底した工業製品化された住宅であったりします。

エコカーって、積載したエンジンの稼働力と遠くの町の発電所から送られてくるエネルギーによって動いているだけでは?

エコ家電って、ランニングコスト重視と言い、買い替えばかりを押しつける高度成長期と何ら変わりないのでは?などと考えてしまいます。


最近、どの企業も環境に対してなかよしだとか、やさしさだとか、配慮だとか、声高に語ります。そして、自己の効率度が一番であると社会にアピールします。


しかしながら、一つの交通手段の効率度を強調しても社会は変わらないでしょう。様々な交通体系、交通手段を連携させ、つながりをつくってゆくことが重要なのではないでしょうか。鉄道だけですべてを論じるなんて不可能です。

営業する自らの地域が何故、車社会から逃れられないのかを考えたことはあるのでしょうか。

同じ系列会社であるバスのサービスはどうなっているのでしょう。自らの利益のためにコミュニティバスに制約をかけたり排除しているようなことはないでしょうか。

現在禁止している電車の中にそのまま自転車を持ち込むことを許せば、あふれんばかりの自転車置き場の問題も、環境問題も、そして健康の問題も一気に解決してしまいますね。エコとは単なる企業の利潤追及の場ではないはずです。

どれもこれもエコがecology を起源とするものなのか、economyを起源とするものなのか分からなくなってきました。

エコとエコロジーは全く異なる概念なんだと感じざるを得ません。

エコロジーとは様々なつながりのなかに私たちがいることを認識する研究領域です。太陽の光が明るさを持ち込み、そのエネルギーを与えてくれる。森の緑が風を起こし、空気を浄化する。鳥や木々の生気を運び、人の生活を潤わせる。そうした人の生活はつながって森のようなコミュニティとなり、大きな力となって生態都市となります。

つながりを生み出してゆくこと、永続的に生み出してゆくことが持続可能な社会の始まりであって、エコロジーとはそのような永遠につながる連携のことではないでしょうか。

人の思いはアートと出会って、形を作ってゆく。そのものづくりのストーリーは次々とつながってゆくことでアートは深い形をなしてゆく。ものづくりのストーリーは正直であり、なすがままであり、自然なものであり、恣意的な間違ったプロセスからは素直な形は生まれないものです。

それらの所作は練習と情熱によって自然な形をなすようになる。それがものづくりの精神です。アートやものづくりと自然とはその筋道のところで似ているのだと思うのです。形を崩すのは人間の大げさな所作であったり、エゴであったり、、、、。

今社会を席捲しているエコとはつながりを排除し、つながりを閉ざすことによって高効率化や高エネルギー化を目指し、研ぎ澄ましてゆくものです。エコロジーとは少し異なるものと思う。そう、エコとはエゴ。

2009年6月29日

WiMAX

いよいよ、ユビキタス社会が現実的になってきたようです。

「ブロードバンドと言えば、自宅やオフィスなど限られた場所でしか使えない通信でした。しかし「UQ WiMAX」の登場により、どこでも自由に使えるようになります。それは、進化したフューチャー・ブロードバンドです。「ノートパソコン」はもちろん、身の回りにある家電製品から自動車に至るまで、ネット環境につないでしまう次世代技術、そんな「UQ WiMAX」のつくる未来の生活の一部をご紹介します。」(http://www.uqwimax.jp/より)
建築が未来を語っていた時、60年代には定住型農耕型の日本人が「ホモモーベンス Homo movens 」(移動型人間)になってゆく時代が来る(来ている)ことを黒川紀章によって、80年代には「ノマドNomad」(都市遊牧民)の時代が来るであろうことを伊東豊雄から学んだものです。
その予言通りに、高度成長期には「阿部公房の箱男」のように都市を徘徊する市民が現われ、バブル崩壊後の90年代からはホームレスという新しい住まいの形が市民権を得てしまいました。一つのスタイルと言えます。私のデザイン論の授業でも空間の原始的構造の一つとして紹介しています。。。

このWiMAXによって、ホームレスという住まいにおいてもインターネットによって世界とつながることができるようになったのです。
「神はあまねく存在する」という意味のラテン語の宗教用語であるユビキタスが本来の意味でも実現しつつあると言えます。公共空間でも十分に通常の仕事ができるネット環境が神様からすべての国民に与えられたと考えることもできるのです。
(写真はニューヨークパブリックライブラリー周辺で撮影)

そのうち、業績の厳しい企業ではオフィスから人があぶれ出し、オフィスレスやオフィスノマドと呼ばれる企業戦士が快適な青空のもと公園やガード下で豊かに仕事を進める光景に出くわすことになるでしょう。いえ、優良企業ではすでに始まっているかもしれません。

公共とは?公共空間とは何でしょう?

電車の中でのお化粧を恥と言い、食べ物を食べると品がないと言う。携帯電話の声がうるさいと争いになったり、、、、、、、、、まだまだノマドになりきれていない人が多いようです。