2009年6月29日

WiMAX

いよいよ、ユビキタス社会が現実的になってきたようです。

「ブロードバンドと言えば、自宅やオフィスなど限られた場所でしか使えない通信でした。しかし「UQ WiMAX」の登場により、どこでも自由に使えるようになります。それは、進化したフューチャー・ブロードバンドです。「ノートパソコン」はもちろん、身の回りにある家電製品から自動車に至るまで、ネット環境につないでしまう次世代技術、そんな「UQ WiMAX」のつくる未来の生活の一部をご紹介します。」(http://www.uqwimax.jp/より)
建築が未来を語っていた時、60年代には定住型農耕型の日本人が「ホモモーベンス Homo movens 」(移動型人間)になってゆく時代が来る(来ている)ことを黒川紀章によって、80年代には「ノマドNomad」(都市遊牧民)の時代が来るであろうことを伊東豊雄から学んだものです。
その予言通りに、高度成長期には「阿部公房の箱男」のように都市を徘徊する市民が現われ、バブル崩壊後の90年代からはホームレスという新しい住まいの形が市民権を得てしまいました。一つのスタイルと言えます。私のデザイン論の授業でも空間の原始的構造の一つとして紹介しています。。。

このWiMAXによって、ホームレスという住まいにおいてもインターネットによって世界とつながることができるようになったのです。
「神はあまねく存在する」という意味のラテン語の宗教用語であるユビキタスが本来の意味でも実現しつつあると言えます。公共空間でも十分に通常の仕事ができるネット環境が神様からすべての国民に与えられたと考えることもできるのです。
(写真はニューヨークパブリックライブラリー周辺で撮影)

そのうち、業績の厳しい企業ではオフィスから人があぶれ出し、オフィスレスやオフィスノマドと呼ばれる企業戦士が快適な青空のもと公園やガード下で豊かに仕事を進める光景に出くわすことになるでしょう。いえ、優良企業ではすでに始まっているかもしれません。

公共とは?公共空間とは何でしょう?

電車の中でのお化粧を恥と言い、食べ物を食べると品がないと言う。携帯電話の声がうるさいと争いになったり、、、、、、、、、まだまだノマドになりきれていない人が多いようです。

2009年6月28日

ヴォーリズの建築

汐留で開催していたヴォーリズ展に行ってきました。 図面やモデルも豊富にあり、ヴォーリズという建築家の哲学がよく見えてきた展覧会でした。

私はその建築哲学が具体的に何に、どのように現れるのか、今考え始めています。建築の現れる時を建築家の側から見てゆこうとするものです。

ヴォーリズは明治学院大学のチャペルの設計者であり、キャンパスの設計を担当していた頃からずいぶんと魅かれていました。キャンパスの再開発計画が終わって振り返った時に、ヴォーリズと私の建築の師、内井昭蔵は似ているなぁと実感したものでした。

ヴォーリズはミッション建築家ですから、キリスト教精神にあふれていたのでしょう。その精神性という言葉は明治学院の白金キャンパスの再開発にも考えていたことでした。

私たちも「キリスト教精神に基づき」をテーマに設計してきたわけですが、近年、精神性という抽象的な言葉が具体的に何を指すのかをずっと考えてきました。

ヴォーリズの精神性、心とは何を指すのか。それは建築の形に現れるものでしょうか。

展覧会のパンフレット「ヴォーリズ建築の100年」に掲載されている、ヴォーリズ事務所の代表を務めていた石田忠範氏の論考「ヴォーリズ建築のこころとかたち」には興味深い言葉が残されていました。

「当事務所はただ一人の舞台(one-man-show)でないことは今更贅言を要しないことである。・・・・・いつも統制のとれた団体(well-articulated)で必要な専門家達が各自の専門の受持を担当し、、、、」というヴォーリズの言葉に対し、

統制のとれた団体(well-articulated)とは上からの統制ではなく適切に分節された組織体であって、各人は単独ではなく、全体との関連において成立している存在であった。ヴォーリズは人を組み合わせて建てあげることにおいて、真に建築家であったのであると、説明しています。

建築が、それを設計する組織のありかたによるものと考えていたことも、多くのスタッフをうまく組み合わせ、それらの意見をよく聴いた内井と同じです。そうしてつくるからこそ、きびしい表情の建築ではなく、いろいろのものが混在した、柔らかな建築となるのだと感じています。

「日常生活の使用に対して、住み心地のよい、健康を守るによい、能率的な建築を求める、熱心な建築依頼者の求めに応じて、その意をくむ奉仕者となるべきである」という基本的な設計態度や、

「人と人をつなぐディテール」として床と壁の取り合いは掃除をしやすく丸く収めたり、腰には汚れにくい木製パネルとしたり、チェアーレールをつけたり、壁と天井は一体的空間に見えるようにモールでつないでいたりしたディテールの考え方も述べています。

ヴォーリズの心のありようは、建築家のスタンスとなって、しっかりと具体的な建築の形として現わされています。 きめ細かな人の居場所としての建築を私たちはここから感じ取っていたのでしょう。

建築のありようを伝えるもの、それは具体的な建築の素材であり、それらと私たちとをつなぐディテールなんだと改めて気づかされました。ヴォーリズも内井もそこに共通点があるのではないでしょうか。(ref→ySAS Yoshiharu Shimazaki Architect Studio

2009年6月27日

CO2削減について

日本ではCO2排出量削減に一生懸命です。すべての活動がCO2に換算されて、あたかも抽象的な偏差値のようにも感じられます。それどころか貨幣価値のように基準となって、ものの価値を代弁し、売買の基準にさえなろうとしています。(表はhttp://automoney.sakura.ne.jp/lohas/200/ent258.htmlより)


しかし、このようにCO2の削減量だけにとらわれていいのでしょうか。私たちは騙されていないでしょうか。私たちは世界を欺いていないでしょうか。












これはデンマーク、コペンハーゲン中央駅から電車で20分ほどの住宅地です。
世界に目を向ければ、ユーロッパもアメリカも都市さえ豊かな自然環境を保っています。東アジアも豊かな水田地帯を持ち、都市も少ないながら身近な緑を大切にしてきました。
今議論していることは日本の貧しい都市環境には全く触れず、目の前の排出ガスのことばかりで、エネルギーの合理化、省エネルギー化のことです。CO2で語られることは私たちが住まう生態系にかかわる仕組みを論じているものではなく、エネルギーをどれだけ最小にできるかという経済の仕組みそのものと言えるからです。それはエコロジーのことではなく、エコノミーにつながることなのではないでしょうか。

一人ひとりの価値観が変わってゆくことは大切なことですが、CO2削減がゲームのように単なるエコノミーにかかわることであれば、コスト削減による余剰のコストはどこかで使われ、CO2に変化します。また、それを規制すると世の中のキャッシュフローが滞り、不況となって、政府の対策としてキャッシュが出回り、またそれもCO2に変化するのではないでしょうか。どちらにしてもエコノミーの領域である限り、CO2から逃れられないのでは?

一方、計算上はマイナスばかりを集計するのですから、日本の削減量は素晴らしいものになるはずですが、、、、、しかし、実態はそうはうまくはいかないのではないでしょうか。国民が躍るだけになりはしないでしょうか。残るのは貧しい都市環境ということになります。

環境への視点とは生きた生態系の中で様々なつながりを想像することです。農産物の生産量を上げるために農薬を使う、そのために虫や鳥や生物までもいなくなる、当然それは人間の生命にも及んでくる、、、、社会はつながっているのです。それがレイチェル・カーソン「沈黙の春」での貴重な提言です。

CO2だけにとらわれると、
原子力発電の少ない中部電力が東京電力より削減率が悪くなり、車や冷蔵庫などはわずかな省エネ商品への買い替えに走り、こうこうと眩しくまた、ちらちら目が疲れる蛍光灯ばかりになって水銀の廃棄処理に困ってしまったり、、、、、、。

CO2ばかりに目を向け、独り歩きをし、数値目標に徹底して取り組む側面は日本人の得意とするところですが、どこかに間違いがあるのではないでしょうか。

2009年6月26日

地域の防災

豊かな町には、古いが人間的な町並みが潜んでいるものです。どこの町にも見られるのだと思います。

しかし、その多くの町は道路の拡幅などで解体の恐れがありますし、それが当然のように行われます。それを審議するはずの有識者でさえ、道路は法規の上の広さが必要であり、町の解体も当然であるという認識です。彼らにとって道とは昭和25年に制定された建築基準法による幅4.0m以上の平坦な通路ことでしかないようです。

道とは向かい合い、隣り合い、コミュニティを育むものであって、車のシステムに人の生活を合わせるのではなく、人の生活に合わせて道をつくり、町をつくるべきなのです。

防災のために道を広げられ、結果的にコミュニティは解体されてゆきますが、豊かに住まう人やコミュニティの安全を守るのが防災であるはずです。

町のスケールに消防ポンプ車やゴミ収集車を合わせればいいのです。高層ビルができれば新たにはしご車が購入されるのですから、小さな町には小さな車があればいいのです。

消防バイク、ミニ消防車、小型消防車、、、消防車も多様化しています。

http://www.signalos.co.jp/html_sharyou/sharyou_index.html


消防車とは消防ポンプ車のことです。地域の消火栓や消火水槽から放水するために駆けつけるのです。地域には水槽や消火栓があればいいのではないでしょうか。ポンプを配送すればいいだけです。常備していてもいいでしょう。



災害から人を守るのは濃密な人と人の関係、コミュニティであることは神戸の大震災から私たちが学んだことではなかったのでしょうか。やるべきことは道を広げてコミュニティを解体することではないはずです。

イタリアの小さな町、ロコロトンドでは、こんなかわいいごみ収集車に出会いました。

2009年6月24日

市民記者

市民の市民による市民のためのメディア「JANJAN」では市民記者を募集しています。

http://www.janjan.jp/

■ すべての市民は記者である ■
「記者」というと難しい仕事のように思われるかもしれませんが、けっしてそんなことはありません。『JanJan』は「すべての市民は記者である」ということに気づいたことから誕生しました。みんながニュースを発信する市民メディアです。
自然のこと、家族のこと、地域のこと、日本のこと、世界のこと、どんなことでも、あなたがみんなに知らせたいと思うことはニュースです。
ニュースの書き方は新聞や雑誌の真似をする必要はありません。友だちに話す要領でよいのです。記事を書く時間がない方は、情報を送るだけの市民記者でも結構です。その情報に基づいて編集局が記事を作成します。

その市民記者規約 4条には遵守すべき〈市民記者コード〉が記されています。

(1)記事は市民記者個人の責任で書きます。
(2)情報は正当な方法で収集し、事実関係を十分確認します。
(3)盗作など他人の著作権を侵害しません。
(4)名誉毀損、人権侵害や言論の暴力的な記事は書きません。
(5)差別的な記述や品格を欠く記述はしません。
(6)取材対象から金品を受け取るなど不当な行為はしません。
(7)編集権は本社にあることに同意します。

プロの記者同様の責務と規範があるようです。サイトに掲載されている記事も大メディアの記者のような気分が表れています。

一方で、YOUTUBEのような画像投稿による自由なサイトも生まれています。それによって、今イランや中国の内陸で何が起こっているのか、私たちは身近に知ることができます。検閲し、編集するのは市民自ら、という考えです。

しかし、そこには、とにかく知らしめるのだという、ジャーナリスト魂が見えています。大も小もない、格も見栄も何もない、メディアそのものの心意気が溢れています。

社会はもっと市民のすぐそばで起っていることを期待しているのではないでしょうか。
本当のジャーナリズムが求められているのではないでしょうか。

所詮、メディアの情報とはその多くは様々な所を通り、検閲され、編集され、出てくるものなのでしょうから、、、、。

2009年6月23日

市民の現実性

政治家は現実的であると言われています。政治家自身もそのように述べて、規制の権益の中に飲み込まれてゆきます。

実は市民も現実的であると自ら言います。現実のさまざまな、目の前の権益に飲み込まれ、つながりを保とうとします。「私たちはここで生活をしているのだから、、、」だから、飲み込まれてしまうということです。行政ににらまれてはいけないし、コーディネーターと仲良くしないと、、、、。飲み込まれないあなたはよそ者、そんな意識が見え隠れします。目の前の現実性を問えば問うほど近視眼的にまちを見てしまいます。

権益や帰属意識に飲み込まれると、誰が見ても古ぼけた建て替ざるを得ない駅の改築も前に進みません。目の前の人や権益や因習に飲み込まれるから進まないのです。考えるべきはそのような権益でも帰属意識でもなく、もっと広い視野を持った、駅を総合的に考える展望です。

駅とは通勤客の単なる乗降場所ではありません。まちの玄関であり、顔であり、人々が集う居場所であります。まちそのものと言えるのです。 まちづくりも、公園づくりも、駅を改築することも、目の前の狭い現実性ではなく、地域の文化や風土、そこに集う人たちの本質を問うことが不可欠です。

2009年6月22日

ブックオフと地域の古書店

ブックオフで アンドレ・プットマンの古書を105円で手に入れることができました。
価格:¥ 1,890 国内配送料無料
ハードカバー: 152ページ
出版社: 阪急コミュニケーションズ (2007/11/1)
ISBN-10: 4484072297
ISBN-13: 978-4484072296
発売日: 2007/11/1
商品の寸法: 17.6 x 13.6 x 1.8 cm

プットマンとはシャルロット・ペリアン、アイリーン・グレイとともに世界的に有名な女流インテリアデザイナーです。 ただ同然でこのプットマンを売るとは、、、、手放し方にも問題があるようです。

一方で近くの古書店では、森鴎外など地元にゆかりの作家本から、現象学、芸術建築系まで含めておいてあります。私が行けなかった3年前の展示会のパンフレットが定価3000円→4000円で出されていて今迷っています。が、新品同様で、たぶんそのうち買うことになるでしょう。
この古書店は神保町で見られるような、本が積んであって何がどこにあるかわからないような古本屋ではありません。ブックカフェのようなう雰囲気さえ漂わせていて、表にはコンセプトを象徴するかのように「ソトコト」のバックナンバーが置いてありました。私もこれを見てこの店に興味を抱かされました。
何かのこだわりが違うのでしょう。それは何だろうか。全体の利益はブックオフのほうが大きいかもしれないけれど、この小さな古書店の持つ役割は大きいように感じられます。少し高くても、自分が欲しいものをきちんと用意してくれている古書店は不可欠です。ここでは、いつも多くの人たちが立ち読みをしています。中身を見て買うのですね。

資本主義とは様々なものの価値を一律の貨幣価値という抽象的な数値に置き換えた。そのことによりものの価値が相対的になり、多様なものの価値が誰にでも一目でわかるようになって、利用価値が大きく広がったのです、、、、、。しかし、同時に捨てるものも大きかったはずです。

地方の図書館でも書籍や資料の本質的な価値は判断せず、貸し出し回数が少ないということだけで貴重な資料を地元の古書店に出してしまうことがあるそうです。地元の郷土史資料など、そうめったに借りられることはありませんが、個人が所有するものなどではなく、共通で所有すべきで、図書館が手放す類のものではないはずです。

このように未だに、中身を見ないで、その価値の本質を見ないで、画一的評価や基準、尺度を運用するすることにどれだけの意味があるのでしょうか。

2009年6月21日

コミュニティシンクタンクとは


「コミュニティシンクタンク」で検索すると本ブログがYAHOOで3位、GOOGLEで4位にランクされています。組織の数が少ないのか、まだ概念が浸透していないのか、、、、。現実のシンクタンク活動は難しいのかもしれません。

Yの一位は「コミュニティシンクタンクふじ」富士市の市民によるシンクタンクです。
設立趣旨は

「・ 市民ニーズ(課題)を吸い上げ、それに関する調査研究に基づき政策提言を行う  ・ 行政から特定課題を受託し、それに関する調査研究に基づき政策提言を行う  ・ 独自に考え出した事業を社会実験的にコーディネートし、自ら実施する  ・ 行政が実施する各種施策について市民の意向を調査し、その内容を検証、評価することを目的に、」と掲げられています。

現在は主に以下の活動がおこなわれているようです。


Gの一位は「評価三重」。事業評価を基本業務として組織されたシンクタンクです。

その趣旨が
「私たちは、「評価」に関する情報を調査・研究し、「評価」に関するシステムを開発し、「評価」に関する私たちの知見を普及するといった地域からの情報発信を通じて、あらゆる公益に関わる市民活動団体・NPO及び行政の組織マネジメントの向上や事業の質的向上に資することを目指します。」と記載されています。
ただ、数年サイトの更新がされておらず、ここのところの活動が定かではありません。

市民が自ら企画運営するシンクタンクの難しさは実際、「moco」を設立してわかってきました。市民のありようから地域に根ざした課題が眼前に現れてきます。たぶん、市長も行政マンもとても認識できていないでしょう。近視眼的な地域の権益者も同様です。

一方で、市民の立場は脆弱でまわりの関係性に制約を受けます。制度、因習、おつきあい、、、、。それらを振り切って、真正面から発言したり、提言したりすることはとても困難だと感じました。本当はすべてを捨てて、社会のために取り組まなければならないのですが、「そこに生活する身」にとっては厳しいことになるようです。

しかし、コミュニティシンクタンクとはそこを明らかにせねばなりません。

Y4位、G5位にランクされているNPOセンターではコミュニティシンクタンクを次のように定義されています。

「1.コミュニティ・シンクタンクとは(1.3.1)
 コミュニティ・シンクタンクとは、地域や生活の現場に根ざして、生活者の視点、納税者の視点、社会的弱者の視点、地域コミュニティ再生の視点から、住民の生の声、地域内外の英知や専門知を総合編集して、地域の問題・課題を解決する政策形成力をもったシンクタンクである。
また、社会実験・協働型政策形成・政策評価・フォローアップという、結果責任を回避しない倫理感をもった実践・行動型のシンクタンクでもある。 行動のイメージとしては、住民や行政、関係者を巻き込んで試行的な実験を行いながら、政策の有効性、優先性の判断を決定するとともに、政策の立案・決定・実施に至るプロセスで行政との協働関係を構築、あるいは市民と企業、行政の協働関係をプロデュースする。
また、政策評価だけではなく政策の提案後、あるいは事業実施後も可能な葉にで(本文のまま)フォローアップを行なうというイメージである。 行政からの独立性や対等性・対抗性としては、NPOとして活動実績、テーマの先駆・先見性、住民や専門家のバックアップ力、そして提案具現化力がその担保になろう。」

また、その機能も次のように記述されています。

「2-2 機能
 コミュニティ・シンクタンクの役割と機能を整理すればおおよそ次のとおりである。

○住民、NPOの政策立案、形成力の支え(住民自治のサポーター)
・ 市民活動団体の課題解決のために行なう調査研究を、専門的な立場から支援する。
・ 住民・NPOに対する政策支援・政策形成力の強化機能
・ 地域活動、市民活動に関する情報センター、「まちづくり」センター
・ 地域の情報センター、地域学の研究所
・ さまざまな市民活動、活動人の力を総合するための舞台
○地域に根づいた政策研究機関として、公的課題(行政課題)についての調査研究を行なう。
・ 行政へのアドバイス、コンサルティング、市民的視点からの代替案の作成
・ 地方行政システム、地方行財政改革、地方分権の監査役
・ 政策に関わる情報デタベース機能
○新しい形のインターミディアリー組織(市民、企業、行政をつなぐ)
・ まちづくりをすすめる市民と企業・行政のパートナーシップのコーディネイト
・ 新しい「まちづくり」システムの開発、参加のデザイン開発
・ 議会、企業、大学、マスコミ、シンクタンクとのパートナーシップ  」

こうした本質的部分に取り組むためには、市民の声を集積しながら、いったん市民の立場を留保しつつ、代弁的な、中立的な、専門的な立場を前面に出して、コミュニティシンクタンクを運営する必要があるかもしれません。

市民活動団体についても次のように定義されています。
「市民活動団体の定義
 私たちは、NPO(NonProfit Orgnization)の日本語訳として「市民活動団体」を用います。 

ここでいう「市民活動団体(NPO)」とは、政治団体・宗教団体を除く次のような団体と考えます。

(1)目的性・公的利益性 公益(不特定多数)もしくは共益(特定多数)の寄与を目的とする団体。
(2)継続性・民間性 目的の社会的達成のため、民間により公式に設立・維持(その活動の継続性を確保)される団体。(ただし、任意団体も含み、かつ法人格は不問)
(3)自主性 有志による自発的かつ民主的な運営と、意思決定の自主性が保たれ、かつ活動に関して開かれている団体。
(4)非営利(利益不配分)性 目的達成に必要な活動資金(事業費・専任スタッフの報酬等)を得るための事業からの収益は、役員など個人に対して配分せず、本来活動のために再投資する団体。 なお、市民とは「より良い地域社会づくりに参画すべく志を持つ人々」と考えます。」

そこに住まう身の市民自ら、NPOセンターが指摘するようなコミュニティシンクタンクとして、真に中立的組織<インターミディアリー組織>となって、公的課題(行政課題)についての調査研究し、成果をあげてゆくには今しばらく熟成が必要のようです。

2009年6月20日

「アニメの殿堂どう思う?」

日本の新しい芸術分野を発信する「国立メディア芸術総合センター」(仮称)の計画に賛否が渦巻いて、政争の道具にも利用され始めました。

発信拠点か予算のムダか?(http://www.asahi.com/politics/update/0614/TKY200906130280.html

このようなステレオタイプの言葉こそが大切なものを見失わせることになります。意図的に見失わせるのではないかとも感じられます。

有能な学芸員/キュレーターが研究を行い企画を推進する美術館では絶えず発信を繰り返し、市民を、利用者を巻き込んでいきます。それは東京都現代美術館、仙台メディアテークなどの活動からも明らかです。地域の子供たちを積極的に受け入れてきた金沢21世紀美術館では金沢アートプラットフォームを立ち上げ、展示空間や活動領域を地域の中へと展開し始めています。

まず117億の建築体が先にあるのではなく、企画運営を行う組織を確立し、適切で有能な館長を確保することです。どのように芸術を支援するのか、それをどう生かすのか、コンセプトを打ち立て、それらの活動を生み出すソフトとハードを具現化する建築を企画する必要があります。

トキワ荘で社会の古い通念を解体し、新たな人間的な夢を表現してきた漫画家たちや日本では限界を感じ、海外で認められたメディアクリエイターたちをこんな固いコンクリートやガラスの箱に閉じ込めては伝えるべきものが伝わらないように感じます。

東京都現代美術館開館時には、現代アートを理解しない多くの利用者から批判も大きかったと聞きます。世界で認められていた絵が漫画だとして認められなかった、、、、。そのような国民や社会に対し、エヴァンゲリオンの社会性を分かってもらう必要がありそうです。

メディアとは常に新しい感性を身にまとってゆくものです。メディアとはいったい何なのか、本当の新しいメディアを伝えてゆくことが不可欠です。

2009年6月18日

別府現代芸術フェスティバル

湯の町別府では、「混浴温泉世界」と題し、現代別府芸術フェスティバルが6月14日まで開催されていました。湯煙の立つ町のいくつかの場所を舞台に、芸術作品をまちに入り込んでゆくひとつの接点として考えられています。アートレジデンス、ダンス、音楽、裏町散策など。

芸術とはよくわからない行為と思われているかもしれませんが、案外、まじめで素朴な視線をもって、まわりのいろいろの環境と対峙しているのです。そのまじめさが、古い利権や制度に結びついた帰属意識いっぱいのまちづくりから見るととても新鮮で、素直で、すがすがしく感じられます。そして、そのまじめさゆえに成功するのでしょう。

多くの地域や町では、芸術活動を取り込んでまちづくりへ向けた情報発信を行っています。それは創る人である芸術家を育てるだけではなく、見る人、取り込まれる人の感性を磨いています。現実に作品を創る人の真剣な姿から学ぶことはとても多いのだと思います。こうした活動が実際のまちの、地域の活性化にも大きな役割を果たしています。

そして近年、それらを支える人、パートナーと呼ばれる地元企業やサポーターと呼ばれるボランティアの人たちが注目されるようになりました。越後妻有、大地の芸術祭でも頑なだった地域をほぐし、成功へ導いたのはこうしたボランティアの真剣な姿だったと言われています。

何ものにもとらわれない、自由で独立した意識を持ち、やりたいという意欲で取り組む彼らこそが地域を真摯に見つめ、目の前の現実性によって硬く凝り固まってしまった地域性や帰属性を解きほぐし、閉じた目を大きな世界に向ける役割も担っているのではないでしょうか。

2009年6月15日

消費者の需要

ユニクロを展開するファーストリテイリング g.u.から990円ジーンズが発売されました。
「消費者の需要を発掘する」 というのが柳井氏の発想です。消費者の需要によって商品を販売する、というのとは少しニュアンスが異なります。
消費者の需要を調査することによって、売れる商品が誰にでも開発できる、ということはありません。商品開発においてマーケティングは重要な項目の一つですが、マーケティング調査とそれから得られる回答が誰にでも得られるものではないだろうと考えます。
発掘するとは、条件(コンテクストやマーケティング)を想定し、仮説(コンセプト)を立てて検証することです。その検証を独特の企業理念、経営理念で直感しているのでしょう。このことはすべての商品開発やデザインにも当てはまることです。予条件ですら公平ではありません。それは誰にでも予め、同じように与えられるものではないからです。何を発掘するするか、腕と知恵、つまり技術力と企画力にかかわってきます。

だから、消費者が求めたことではなく、経営者柳井氏が求めたことなのでしょう。

しかし、それは本当に消費者のためなのだろうか。あるいは社会のためなのだろうか。それを実現していいのだろうか。これからの企業は文化性や人間性をも織り込んだライフサイクルコスト(Life Cycle Cost)が要求されるように感じてならないのですが、、、、。
990円ジーンズが大量生産、大量消費の産物ではないことを祈るばかりです。それらは大量廃棄につながっているのではないかと考えるからです。

消費者の安ければいいという発想をどこかで打ち破る新しい価値観が必要なのですね。(もちろん、誰にでもできることではありませんが、、、誰にでも取り組めるものではあります。)

2009年6月14日

タウンマネージャー

まちづくり福井株式会社では、タウンマネージャーを募集しているようです。


「タウンマネージャー募集!福井市中心市街地のまちづくりや商業の活性化を行っていただける方を募集します 」
◇業務内容  福井市中心市街地のまちづくりや商業(個店)の活性化を支援する業務全般
◇募集人員 1名
◇雇用期間 平成21年7月~平成24年3月 (年度毎の更新となります)
◇勤務地 福井県福井市中央1丁目4-13 響のホール6階  福井市中心市街地活性化協議会(まちづくり福井株式会社)
◇応募資格 学歴不問・年齢不問 百貨店やSC等で商業やサービス業での実務経験を有する方、店舗等のマネジメントの経験を有する方
◇給与等 396,000円 (当協議会の規程によるものとします)
◇社会保険 個人負担となります
◇交通費 実費支給
◇勤務時間 12時~18時 週3日(基本出勤曜日/月・水・金)
◇応  募  【締  切】  平成21年6月10日(水)  必着
        【提出書類】 ○ 履歴書○ 職務履歴書○ レポート  テーマ 「中心市街地の商業活性化の可能性」(800字程度)

週3日×6時間でこの給与は特別待遇ものですね。


このタウンマネージャーに必要な能力とは何でしょうか。百貨店やSC等で商業やサービス業での実務能力や店舗等のマネジメントの能力があれば、地域の運営ができるのでしょうか。あるいはまちづくり会社においてその役割のごく一部を担えばいいということなのでしょうか。

このタウンマネージャーなる概念のもととなるTMO(Town Management Organization )とは有名な街づくり三法、なかでも中心市街地活性化法(中心市街地における市街地の整備改善及び商業等の活性化の一体的推進に関する法律)において定められたまちづくり機関であり、商工会、商工会議所や特定会社若くは公益法人であって政令で定める要件に該当する組織のみが対象となりました。

それゆえ、TMOとは、まちの運営を横断的・総合的に調整し、プロデュースする「タウンマネージメント」という本質的な視点からではなく、中心市街地における商業まちづくりをマネージメントするための限定的な視点から運営されているのではないでしょうか。

このまちづくり福井株式会社もTMOのひとつで自治体が50%を超える出資者となって運営されています。ここでも他の地方自治体と同じように中心市街地というごく限定的な地域を対象とした「活性化基本計画」が構想されています。


中央政府の多大な助成金が地方自治体へ、それが直接、都心再生協議会など地元の利権を背負ったTMOへ下請けされ、委託を受けた中央のシンクタンクがどこにも同じような基本構想案をでっちあげる。でっちあげられた構想案はその逆の道筋でストレートに中央政府へと上げられる。


ここにはタウンマネージメントという、本来、地域が有機的に自立し、連携し、地域全体の活性化を促すという、市民にとって不可欠な基本能力が欠如していることがわかります。通産省や建設省によって提起されたTMOではなく、まち全体、地域全体のビジョンを宿した組織と構想が必要です。

2009年6月6日

市議会傍聴報告

岡崎市議会本会議一般質問を傍聴しました。手前が市議39名の座席、正面中央が上から議長席、演壇、記録席、左右は市長、副市長はじめ40-50名程度の市長部局からなる執行機関席です。

日本の議会を見るたびに暗くて、さびしげで、なんて威圧的なんだろうと不思議に思います。ドイツの連邦議会はボンにあったときからベルリンにある今も、日差しも明るく入り、暖かい感じのする生命感あふれる会議場です。ストックホルムの市庁舎は民族の歴史や文化を感じさせるばかりでなく、ノーベル賞授賞式が開かれます。

一部に若干の私語はあるものの静かに始まりました。午前中は一人50分の質問応答時間が二人分。
一人目は野党市議。「憲法25条を暮らしに生かす市政について」をテーマに、1)高すぎる国民健康保険料の引き下げ、2)子どもの貧困をなくすこと、3)高齢者福祉の充実について、、、3つの質問です。

冒頭から早口で原稿を読み上げられるので聞き取るのが精一杯でしたが、聴衆は原稿を見ながらの確認のようで、皆がいっせいにページをめくる姿は微笑ましくもありました。

数多くの質問が投げかけられ、精力的に取り組まれていることは想像できましたが、福祉などにかかわる基準となる現状の数値を執行機関に細かに質問され、その数値の低さから問題点を執行機関に理解させ改善を求めようという意図のようでした。しかしながら、その膨大な質問量に対する時間の不足と執行機関との認識の相違からほとんど議論になりませんでした。現況数値の応答などあらかじめ公開されていれば不要のものと考えられ、実質的議論に欠けるものでした。

二人目は与党新人議員。まず挨拶に1分半。最近自転車通勤を始められたようでエコに取り組んでいるとのアピールでした。質問量ははるかに少ないものでしたが、50分で2度の質疑応答に対し、十分な議論を行うにはこの程度だなと感じさせられました。

1)芸術文化の振興について、2)伊賀川周辺水害対策について、3)消防団員の福利厚生及び健康促進について、、が質問内容です。

芸術関係のホールの一元的な企画や広報、販売方法について尋ねられました。取り組み方によっては深く、そして重要な課題です。が、担当部長からジャズやクラシックをテーマとしていること、インターネットを利用した広報や販売についての説明、ピアによる委託のこと、有識者による委員会によるスケジュール決定などが説明されました。表面的な回答で具体的な戦略に欠けるものでしたが、質問者はいたく納得され、「インターネットでの一元的広報は良く存じていました。」と応えてしまいました。知っているなら質問するな、と言いたいところでしたが、、、。

最後は10分ほど時間が余り、市長から防災についての方針が述べられましたが、原稿を読み上げるだけの議員の主張とは異なり、自身の言葉による問いかけがずっと深い意識を投げかけたように感じられました。ゆっくりとした、しかし強い意識を持った主張が必要のようです。

市議が足を使い、地域を駆け回って、大切な市民の声を集める役割なのであれば、つまり民生委員や自治会長的レベルのものであれば、もっと多くの市議が必要ですし、一人50分×39名×年間4回のやりとりでは全く不十分です。また、市議団が市民の声を集積し、十分な企画や政策を策定する役割なのであれば、少数精鋭であって、何人かの研究員や秘書も必要でしょう。あるいはグループセッションのような組織として政策に関与する必要もあるように感じます。

市議会や市議団はどちらの方向を目指すのか、国会の相似形のような、形式的な市議会にはどのような意味があるのか。ディベートすらない、ブレンストーミングなどとはとても呼べない、静かな会場が、もっとホットに、固定デスクを取り外すくらいに、実質的な議論の場となり、アイデアの宝庫となることが必要なのではないでしょうか。

2009年6月3日

GONPO

特定非営利活動法人、NPO法人とは市民活動に一定の枠組みを与えた貴重な組織形態です。それは市民自らの手によって生まれた活動団体であることを意味し、その活動が独立し、また自由であることを保証するものです。

しかし、なかには、行政が立ち上げ、あるいは密接にかかわり、支援するNPO組織も少なからず存在しています。本来、行政と市民の中間に立場をおき、市民をサポートすべき中間支援組織と呼ばれる組織に、行政サイドに立ち、なかば出先機関のようにふるまっているNPOがあります。それらはたいていは弱者である市民側には立たず、行政の意向に従い、市民の動向をある方向へ誘導しようとします。

今、社会ではそれらを官製NPO、GONPOガンポと呼び、一般のNPOとは区別する動きが始まっています。

GONPOとは、まち育て、人育てなどと言いながら、管理し、誘導し、行政側で決まっている既成の事業をあたかも市民で決めるなどと市民を集め、既定路線を追認させようとするものです。まちづくりの正義も倫理性もあったものではありません。

行政からの委託費用で運営が賄われ、行政から自立し、対等な関係にあるなどとはとても言えない、行政の出先機関のように、市民を囲い、誘導する組織です。市民はよく目を開き、偽善を見抜かなければなりません。

市民の声が行政に届かないで滞り、また行政からの情報が正確に市民に浸透せず、それらは、むしろ市民と行政が真に協働するための阻害要因とも言えるのです。真のまちづくりへの第一歩はその阻害要因を除去することのように感じられます。

このGONPOによる行政の市民管理は今後、各地に蔓延するかもしれません。行政にとって、開きたくない部分を開いているかのように見せる都合のよい組織だからです。