
福田誠治氏の「驚きのフィンランド教育 格差をなくせば子どもの学力は伸びる」を見てゆくと、格差をなくすというそのテーマより、多様な生徒を一つのクラスに混在させ、それぞれを多面的に指導するその驚くべき風景が描かれていることがわかります。それはメソッドというような一つのやり方ではないし、表面的な方法論でもありません。
授業の進め方は学校ごとに、教員ごとに決められている。複数の学年が20-30人程度の一つのクラスであり、家庭のような雰囲気と空間を持った教室のどこでも好きな席で授業を受ける。生徒の進行状況や意欲など、その時々の状況に合わせて、いくつもの授業が一つのクラスで同時並行で行われているかのようです。
標準化された教室、30-40人ほどの生徒が整然と机を並べ、TOPで決められた教科書や教材によって、ひとりの教員が一斉に全員の生徒に話しかける日本の授業風景。そこでは、余計な声や視線や関心はそこには無用のものであり、クラスを一つにまとめ、統括することが教員の務めのような印象もあります。
教員の視線と支援はその一人ひとりに注がれ、一人ずつ異なる支援を同時にいくつも行わなければならない、、、、その能力は日本の教員のそれとは大きな隔たりがありそうです。
一つのことを全員に同時に教えることさえままならないわけですから、、、、。しかし、よく考えてみると、むしろ、一つの枠に押し込め、一つのシステムで対応しようとするそのようなことの方が難しいことかもしれません。かつては学校や教員を聖域化、聖職化することで、そのような困難でかつ不思議なことができるような錯覚を与えてきたのかもしれません。
フィンランドの授業は大学でのゼミの授業のようなものに感じます。今僕は、3,4年の2学年20人ほどに一つの設計課題を与え、学生それぞれ自ら課題に取り組むことで授業を進めています。設計課題に対するそれぞれの答え、答え方はかなり方向の違ったものですし、それぞれの方向に特化するように個別にアドバイスをしなければなりません。だから同時に20の課題を勉強していることになるし、20の取り組むスタイルがそこにはある。
「高校までは、まわりと同じことをしないと親が心配し、他人と同じことができないと教員から評価されなかった。また、他人と同じでないと目立ってまわりからいじめにも遭っただろう。しかし、これからの社会では他人と同じだったら評価されないよ。」毎年、入学してくる大学1年生に僕はこのように伝えています。
フィンランドでは小学校からそのように教えられ、自ら学び、自ら行動しているかのようです。学校社会という特別の、聖域化したものではなく、HOUSEのような居心地のよさとHOMEの雰囲気の中で、COMMUNITYの多面性を持ったいつもと同じ普通の社会の中に学校はあるのでしょう。