
鉄人28号は神戸市出身の漫画家・故横山光輝さんが56年に発表した作品。震災で住宅や店舗の多くが全半壊・焼失した長田を元気づけようと、地元商店街などでつくるNPO法人「KOBE鉄人プロジェクト」が06年に企画し、寄付や市の支援を得て総工費約1億3500万円のほとんどを集めた。 」(http://www.asahi.com/national/update/0727/OSK200907270024.html より)
人と人、人とまわりのさまざまなものとの関係をつくることからデザインは生まれ、それらが場面や場所となってつながり、建築となり、まちとなる。さらに積み重ねられて歴史となって現れ、文化として伝えられるのだ。 COMMUNITY-THINKTANKとはそうした人やそのさまざまなつながりを考え、見えてくる、市民の、地域の共有の場ととらえている。 「まちづくりは現場で起きている。」そうした認識のもとに、建築、まち、大学、歴史、文化のことなど、気軽に語り、書き記してゆきたい。 島崎義治//YoshiharuShimazaki/
東京と関西を新幹線で往復する観光客も、ビジネスマンも驚くほど多いはずです。いつの時代においても日本の重要なインフラであることは間違いでしょう。その東海道を豊かにし、活性化させることが江戸期以来のこの地域の役割であり、課題なのではないのでしょうか。そこに静岡の生き残る道がある、、、、。普通に選択的認知を行えば、そうなるはずなのですが。
衆議院本会議場で万歳を表明する各議員。全会一致で賛同されたようです。
議長を中心に500名近い議員が居並ぶ本会議場はギリシャ劇場や大学の円形教室のようでもあり、建築空間的にはとても議論を行う場ではありません。大学でなら、とても授業にはなりません。
議長がすべてを見渡すことができ、YESかNOか、確実に判断できることにその空間的意義があります。そこでは居眠りをしているかどうかなど問題ではなく、必要な時に意思を表明しさえすればいい場なのです。
その意思を表明する場も、入場した時にはその意思すら決められていて、欠席や退場によってしか自分自身の意思を表明できない非情の場なのです。
国会の本会議場を見ていつも思うことですが、そろそろ、議会の形を変えねばなりません。固定座席を解体し、円卓があちこちに散らばるような形式が必要です。そう、披露宴やドラフト会議のスタイルです。六カ国協議もそうです。(円卓ではなく6角形ですが)
ある時には一つのテーブルに各党首が席を並べ、また、ある時には党の幹部が顔を突き合わせる。そんな、ダイナミックな議場が必要になるのではないかと思うのです。
でも、万歳三唱したり、3本締めしたりする儀式の場なのですね。もう少し、エレガントにテーブルを囲みませんか。
最近こちらの方が本物のような気がしてきました。
空気は窒素と酸素でほぼできていて、窒素が3/4、酸素が1/4であり、組成率は99%ほど、小学校の理科の時間に習いましたが、その後も大きな変化はないようです。一方CO2は0.054%。それほど少ないCO2が地球に影響を与えるのか不思議です。スターバックスが求められる理由は何でしょう?
コーヒーが安いわけではありません。いろいろの自らの好みに合うコーヒーをオリジナルで作ってくれます。ただ、これは何度も通わないとそこまでのオーダーは難しいです。また、店内禁煙です。大統領府、首相官邸、次は大臣政策室が整備されるようです。
大臣になったからといって、すぐさま適材となるブレインを集めることはできないでしょう。大臣になった時点でより高度な専門性が必要となる大臣政策室を立ち上げることは困難ではないか、立ち上げてもうまく機能するのかどうか疑問です。そうであるなら、むしろそれ以前の段階より、議員として、つまり政治家として、政策研究チームを持ってチームとして政治を考えてゆく必要があるのではないかと考えます。
それは、現代の政治家には分析力、構築力とそのスピードとが必要であり、多面化、複雑化した現況に対処するためにより高度でより迅速な対応が必要な時代となったからです。
医療や技術開発だけでなく、芸術やデザインですらすでにチームとして活動することが不可欠の時代になってきています。政治家にも専門家によるチームが必要なのではないでしょうか。
国会法により公設秘書2人と政策秘書1人が認められていますが、チームに必要な人材とはマネージメントを担当する秘書ではなく、政策研究のできる研究員です。ただ、有能な研究員には独立した立場が必要であり、チームに対して顧問としての関係や委託契約を介した関係を持つべきかかもしれません。
もっと、その先を見据えるならば、それは政治家と研究員という関係を持ったチームではなく、研究員の集合体としての政治チームとなるでしょう。もしかするとそれはコミュニティシンクタンクのような地域とのネットワークを持ち、新たな情報収集システムを携える組織かもしれません。
多くの個人の政治家よりも、数を少なくしたチームによる政治です。
選挙には政治家一人の資質が問われるのではなくチーム全体の能力が問われる。市民や国民はチーム全体の能力を見て、投票するようなシステムです。特に地方の政治では市議など、市長と対等に論議を交わすことのできる数人でいいと思うのです。
ビオトープもエコロジーと同じように、むしろ生態系をつなげ、広げてゆくことが重要であり、そのつながりを私たち自身の感性でまじかに感じることが必要なのだと思います。
アートビオトープとは、作品を作ることで、生命の息吹を感じ取ってゆこうとするものであり、同時に自然の息吹を感じることで新たな作品を作ってゆこうとする活動です。アートや芸術のまっすぐな側面が自然の生態系の厳しさ、難しさとあいまって育てられるということではないでしょうか。
アートが作品、すなわち、ものづくりを通して、人と自然との間に立ってつながりを生み出しているのではないかと思います。アートが地域と人とのつながり、人と自然とのつながりを発見させ、地域のの活性化や環境づくりへと向かう活動は大変多くなっています。
アートやものづくりとエコロジーとは、なかよしなのですね。
どれも数字で抽象化されるものではないし、視点が正しくないと見えてこないですし、自らの視線を通さないと見えないものですからね。
市は行財政改革の真っ只中、そこに改革のメスならぬ、コーチの手腕を入れたいようです。財政逼迫という状況の中で市も、市民や活動団体も苦しんでいることがわかります。多くの声も寄せられているようです。
補助金や運営費などの削減や中止が市から提案されていますが、同時に地域の活動の活性化は進みつつあり、また進めなければならないというジレンマもあるようです。
でもそのジレンマの中にこそ、解決の糸口はあるのではないでしょうか。どちらかを切り捨てるのではなく、その両方を解決する斬新で、思ってもいない戦略が求められています。
それには経費削減に長けた経済専門家の経営戦術を必要とするのでも、財政逼迫を市民とともに痛みを分ける交渉術を必要とするのでもありません。
戦術の問題ではなく、行革そのものの、組織のあり方をどのように変えてゆくかが問われているのであり、新たな有機的組織の運営へ向けて職員の視線を変えてゆくことがコーチたる副市長に求められているのではないでしょうか。
そこにこそ次代のタウンマネージメント、新たな民主主義の姿があるのではないでしょうか。
エコとエコロジーは全く異なる概念なんだと感じざるを得ません。
エコロジーとは様々なつながりのなかに私たちがいることを認識する研究領域です。太陽の光が明るさを持ち込み、そのエネルギーを与えてくれる。森の緑が風を起こし、空気を浄化する。鳥や木々の生気を運び、人の生活を潤わせる。そうした人の生活はつながって森のようなコミュニティとなり、大きな力となって生態都市となります。
つながりを生み出してゆくこと、永続的に生み出してゆくことが持続可能な社会の始まりであって、エコロジーとはそのような永遠につながる連携のことではないでしょうか。
人の思いはアートと出会って、形を作ってゆく。そのものづくりのストーリーは次々とつながってゆくことでアートは深い形をなしてゆく。ものづくりのストーリーは正直であり、なすがままであり、自然なものであり、恣意的な間違ったプロセスからは素直な形は生まれないものです。
それらの所作は練習と情熱によって自然な形をなすようになる。それがものづくりの精神です。アートやものづくりと自然とはその筋道のところで似ているのだと思うのです。形を崩すのは人間の大げさな所作であったり、エゴであったり、、、、。
今社会を席捲しているエコとはつながりを排除し、つながりを閉ざすことによって高効率化や高エネルギー化を目指し、研ぎ澄ましてゆくものです。エコロジーとは少し異なるものと思う。そう、エコとはエゴ。