人と人、人とまわりのさまざまなものとの関係をつくることからデザインは生まれ、それらが場面や場所となってつながり、建築となり、まちとなる。さらに積み重ねられて歴史となって現れ、文化として伝えられるのだ。 COMMUNITY-THINKTANKとはそうした人やそのさまざまなつながりを考え、見えてくる、市民の、地域の共有の場ととらえている。 「まちづくりは現場で起きている。」そうした認識のもとに、建築、まち、大学、歴史、文化のことなど、気軽に語り、書き記してゆきたい。 島崎義治//YoshiharuShimazaki/
2007年12月21日
誰のためのマネージメント
また、先日不祥事を起こした老舗料亭が「先代に怒られる、申し訳ない」と悲痛な叫び声をあげられていましたが、小さな声を聞き逃していたために、起こった事件でもあったように思います。大きな力が小さな、しかし、現場から起こる声を逃してしまったのです。
もっとも、それ以前に国民や消費者があることは当然ですが、、、。
長久手まちづくり研究会の渡辺さんの経験から、役所へ陳情に行くと、「あなたは市民の代表者ですか」と言って断わられることが多いそうです。代表とは何か。多数を占めることなのか、その多数の声の一面的な方向を見据えることなのか。大きな声は聞くが小さな声は知らないと言うのか、、、、。
大きな声にはへりくだり、小さな弱い声には、それがどれだけ価値あるものか、吟味さえできないでいます。マネージメントの末端も中枢もその資質が問われています。
小さな声を聞き取るアンテナ、陳情をマーケティング資料と考える想像力、個人だとできることが組織の枠にはまるとできなくなる、組織の資質が問われているとも言えます。
一人の市民に対して、あなたは市民を代表しているのかと問うことは、あなたが組織を代表しているのかと逆に問われているのです。 しかし、そのあなたこそが組織を代表しているのです。そう考えることが責任を持ったいい仕事につながるはずです。代表しているのは市長でも、社長でも、上司でもなく、市民一人ひとり。
2007年12月20日
賞味期限
かつては自ら、あるいは年長者に聞きながら、恐る恐る判断していたものをこのデッドラインのおかげではっきりと自信を持って判別できています。しかし、はたして、それは正しいのでしょうか。あるいは正確なのでしょうか。
明確なデッドラインなど設定できるということは、たぶん、昔の手作りの品から、工業製品のように精度の高い、均質の商品になってしまったのかもしれません。
牛乳もかつて手づくりの生の品だったものが、ホモジニアスな、均質な加工乳になって、多くの人に親しまれるようになったようです。また、卵も工場のような人工環境の下で鶏を生む機械のようにして製造され、鶏肉もブロイラーから均質な肉を生産されています。しかし、そのホモ牛乳もノンホモ牛乳が望まれ、本当の自然の卵や鶏肉も望まれるようになっています。それらは季節や牛や鶏の体調によって品質が変わってくるようです。
あいまいな人間的なよさを持った生の品を工業製品のように扱えてこそ、デッドラインも意味あるものとなります。言い換えれば生のあいまいなものい厳密なデッドラインを設定することに問題があるように感じます。
むしろ、生の手作りの良さが特性だった日本の様々なものが、どこかの基準のみを取り入れているだけに過ぎないようにも感じられます。
そして、その明確な基準は僕たち消費者のためのものというよりも、むしろプロ意識を失った流通業者、店頭販売者のための基準ではないかと思われるくらいです。すなわち、それは見る目を失ったただの人へのマニュアルなのですね。
そして、それはPL法に縛られた工業製品にも見られるようになってしまいましたし、ISOの認可に走る組織にも同様に見られるでしょう。マニュアルがないと判断できない社会になってきたようです。
そして、そのマニュアルさえも裏切られようとしています。
2007年12月19日
市民の声
ただ、市民の声を聞くとは、真摯に考えると非常に難しいですね。
学校現場では「運動会を開催するなら自殺する」という児童の声に敏感に即応して、運動会を取りやめています。しかし、同時に「運動会を開催しないなら自殺する」という声があがったら、どうするのでしょうか。
だから、声は聞かないのだという態度なのかもしれません。
どちらの声も同時に聞くことはできないと言って声を聞かないのではなく、どちらの声にも耳を傾けることが必要なのではないでしょうか。そうすることによって、右でもなく、左でもなく、はたまた中道でもなく、前でも後ろでもない、もっと新たな道筋が見つかるのではないかと考えています。
そこにこそ、想像力-関係あるものとはとても思えなかったものが突如、その強い関係性を気づかせる-想像力が必要なのだと感じます。
2007年12月18日
民度
本来の民主主義から生まれた市民の活動やその蓄積、資産と日本という地域性を持った閉鎖的な自由主義におけるものとは自ずから異なってしまうかもしれません。
民度が高い、あるいは低い。それらは市民の豊かさ、まちの豊かさを表すものだろうか。市民の民度とは何かを考えようとして、筆が進まなくなってしまったのです。約1ヶ月。
地域には様々なつながり、結びつき、その痕跡があります。それらをマネージメントする力を失わないことが重要のようです。単なる多数決を推進してゆくと答えは簡単です。右か左か、白か黒か、答えを出さずに、新たな別のとるべき方向性が発見することが必要なのだと思います。そうしたマネージメント力こそが民度なのではないでしょうか。表面的な民主主義ではなく。
2007年12月8日
まんが図書館
かつて、新しい図書館をいかに活用してゆくかをテーマとしたシンポジウムで、「若者たちにもぜひ、来て欲しい、世代を超えた交流をしたい。」と言った会場の年配の参加者に対して、今の若者文化を許容できますか、と逆に聞いたことを思い出しました。そうした相手の文化や習性を受け入れない限り、言葉だけの「交流」になるからです。
この広島市の例だけではなく、京都の都心の小学校をリニューアルして、オープンしたマンがミュージアム(というライブラリーのような施設)も同じように盛況でした。
若いエネルギーが溢れているように感じました。もちろん若者だけが集まっているわけではありません、老若男女が皆、活気に溢れているのです。
このエネルギーはマンガの読みやすさだけではないように感じます。その場で立ち読みしたり、階段に座ったり、決まった読み方などもない、本は整然と並べられていますがいたるところに置いてあります。その上、マナーは一般図書館よりずっといいようです。
管理から、静粛から、読み方から、そろそろ、決まった既成概念から逃れる必要がありそうです。
2007年12月7日
試行錯誤
彼らと活動を共にするとき、作業の活動の中から見出すものだということを常に自ら実感しています。それは若干時間のかかることですし、もしかしたら思わぬ方向へ行ってしまうかもしれないこと。しかし、そこをはっきり肝に銘じ、こちらの受け皿を大きく広げておく必要があります。
まちもひとも教え、育む、など狭い了見でできるものではなく、決められたストーリーではなく、フォーマットやマニュアル、思い込みもいったん緩め、もちろん答えもなく、共に試行錯誤を繰り返し、そのなかから同じ方向を発見するしかないようです。
2007年11月24日
建築という場所
それはある意味で間違いであり、箱モノと言われる所以ですが、一方で建築というのは根本的には人の活動を生み出す場所であり、生活を営む装置であると考えています。そして、何よりさまざまな文化や歴史や価値観を次代に引き継いでゆくモノです。それは抽象的な理論でも透明なシステムだけでもない、人がそこで 活動するための現実の場所です。
かつて、箱モノと言われた美術館不毛の時代がありました。地方に同じような箱物、内部はホワイトキューブ、外部はデコレーティブな美術館が横行していた時代が少し前までありました。それは同じように劇場でも、会議場でも、図書館でも、、、、、。
しかし、地域と美術活動をつなげる市民を中心とした活動が各地で行われ始めました。
越後妻有トリエンナーレ「大地の芸術祭」、ベネッセによる直島の開発、花巻イーハトーブミュージアムなど。金沢の21世紀美術館も市民が自由に訪れることのできるこれまでにない美術館です。それらの新たな方向が美術館の可能性を新たに生み出していると言えます。
美術館においてはその箱物現象は打開してきたのではないでしょうか。同じようにただの箱である建築が、何かを引き起こすために、ただの箱をどのように組み合わせれば、新たな美術館の活動が生まれるかを十分吟味してあります。
こうした建築によって新たな活動形態が生まれることが大切です。そこが建築家の能力、デザイン力なのです。
2007年11月23日
おもしろさと現実性
ひとつは「おもしろい空間」です。それがどのようなことかということですね。おもしろいとは変わった、普通とは異なる、というようなことに近いです。僕はかつてよりずっと面白い空間を追い求め続けています。
それは普通のモノに対して不満を感じるところからスタートしています。もっと合理的で、スマートなものをできるだけ、常識や決まりごとから逃れるように取り組んでいくことから面白いことが始まるのだと思います。常識や決まりごとは現実の世界のことですが、また同時におもしろい空間も近未来的に起こり得る現実的なことなのです。架空の、絵空事ではありません。
もうひとつは「現実性」です。ゼミの学生からの質問でどこまで現実的である必要があるかを聞かれました。答えが非常に難しいです。現実的であって、その中からどれだけ現実性を超えられるか。
現実的であるべきで、同時に現実から逃れるべきであり、、、、。悩み深いものですね。
2007年11月21日
権威の行方
しかし、権威によって明らかになった「食」の序列ですが、その権威を打ち破るようなケンケンガクガクのコメントが、もうすでにWEBネットワークを駆け巡っています。アナログの権威と民衆によるデジタルでの評価。そのギャップが生まれています。当然ですが、、、。
近年、この民衆によるデジタルでの活動が社会を変えつつあります。僕たちのコミュニティシンクタンクもその趨勢に支えられていきます。
このようにアナログの権威を簡単に打破し、情報をあまねく、そして即座に伝えるデジタルネットワークがそのひとつです。この新たな情報ネットワークによって、市民と市民は簡単につながり、情報を共有しています。情報の共有が権威を揺るがし、打ち破るのです。
もうひとつは、上から与えられると考えていた国家の予算、行政の予算が実は民衆の税金の積み重ねであったと理解したとたん、それは与えられるものではなくて、預けてあるものだというような認識が生まれ、漠然とした政策というものを、市民一人ひとりが身近に感じるようになったのではないでしょうか。
このWEBネットワークの時代において、情報と金が市民に開放され、さまざまな既成の権威を打ち破ってきました。
あと、小選挙区制度で幾分デジタル的になってきた(白か黒か、右か左か、二者択一的になったのですね。)政治の世界が市民の手に落ちれば社会は市民のものになるような気がします。
この選挙制度が全面的にデジタル化され、すべての市民に開かれれば(今でも建前的には20歳以上のすべての市民に開かれていますが)、市民は政治を手にして社会を変えることができるように感じられます。
21世紀は肥大化した権威の時代ではなく、もっとやわらかな市民の時代なのではないでしょうか。
2007年11月14日
巨大組織の末端

前から気になっていたのですが、京都中心部には郵便局がひしめき合っています。赤い点が郵便局です。その数は東京の比ではないはずです。多いほうがいいに決まっている?でしょうか。
民営化により過疎地の郵便局は廃止の危険性が高いと言われています。しかし、このいびつなネットワーク、しかも、その各店舗の性能に対する不満は利用者から頻繁に聞かれるところです。これだけ、きめ細かなネットワークが張り巡らされていながら、身動きが取れなくなってしまっているようで少し気がかりです。
このように、僕たちの周りには多くネットワークが張り巡らされています。
デジタル社会の基盤となる光ネットワークもそのひとつですが、現場は案外心もとなく、また非常にアナログの世界です。地域の様々な(小さな)阻害要因をひとつずつつぶしながら、インフラを積み上げています。(信じられないことですが、、)
巨大な組織のネットワーク、僕たちのまわりのネットワークを気にかける必要があるようです。その巨体を支えているのは末端のネットワークの小さな構成要素なのですが、案外もろいと感じるのです。
2007年11月10日
官と民と公
今回は真夜中の図書館の著者辻氏と協働で進める図書館プロジェクトについて意見をお聞きしたかったのです。
日本には公(パブリック)がない、官と民しかないことが問題なのだと、公とは官のことではないと、再認識することができました。また、官を主導する図書館支援者もいるし、また民の活動に図書館の行方をシミュレーションする活動かもいます。そして、僕自身、今そのハザマにずっぽりと、白か黒かのハザマにずっぽりとはまっています。
しかし、彼はその間でいい。、グリーンでもピンクでもいいと言います。
もともと、公(パブリック)がないのだから、これからつくることになるのです。だから、官でも民でもどちらでもいいというのではなく、新たに築く必要があるのです。すこし自由になれた気がします。
パブリックとは何か、その意識、価値観、その文化をはぐくむ必要があり、その先頭にたって突き進んでゆくのがコミュニティシンクタンクなのではないでしょうか。
2007年11月6日
ワークショップの行方/多様性を融合すること
子供図書館部分のありかたが問題となった。ある人は子供図書館は明る開放的にと言い、別のある人は閉鎖的にと言いました。その人は自らを幼児研究家と名乗り、見られることによる情緒の不安定になることを避けるべき、そのためには閉鎖的に計画するべきと持論を述べられ、その場は、閉鎖的な方向へと傾いてしまった。幼児研究家という肩書きを皆が感じ、そのような方向へ向かわせたのかのしれませんし、それで間違いがなかったのかもしれません。
しかし、今でもそのことを後悔しています。子供図書館とは暖かで快適であるべきです。開放的な空間でも閉鎖的な空間でもなく、子供図書館として、異なる、そして本来のあり方を新たに見つけるべきだったと。
子供とはどうあるべきか、様々な考えがあります。しかし、ワークショップでは既成の考えから一旦離れて、白紙の状態で考える必要があるということですね。そうでないと、二者択一、右か左かどちらの考えを採用するかに追い込まれてしまいます。どちらも正解ではないのです。
どちらが正解なのか、自らの主張を強力で競争的な理論構築によってぶつけ合うのがディベートであるとすると、それとは180°異なり、
多くの利用者が参加し、多様な考えを提出する中で、これまでにない本来の意味を見つけ、新たな価値観を生み出す作業がワークショップという集団的創造行為なのですね。
2007年11月4日
サポーターとプレイヤー
しかし、まちづくりの現場のなかには、サポーターという言葉のすぐ横にはプレイヤーという言葉があるようです。「サポーター」とそれとは異なる「プレイヤー」とあえて語られるとき、その二つの間には大きな断層が感じられるのです。心地よいと感じていた言葉が一瞬でたいへんショッキングな言葉へと変貌します。
まちづくりにおいて、サポーターとはボランティ活動によって行政を支援する市民たちでしょう。では、プレイヤーとは誰なのでしょう。それは、行政マン、図書館など公共施設の職員、公共施設(そんなことはないはず)、あるいはシンクタンク、、、???
すべてがプレイヤーであり、同時にサポーターであるでしょう。
サポーターとして特別視されているかのような市民のみなさん、あなた方のそばにはプレイヤーという得体の知れない主体があるのですよ。
2007年11月3日
ワークショップの役割
「ワークショップ 偶然をデザインする技術」には、ワークショップの現在の目的が自己啓発、身体表現、社会的合意、創造力開発系の4つの方向性により説明されています。
工房(ワークショップ)での多くの人の活動を通して行われた意見の収集や創作活動が、今や多様化し、様々な分野で応用されてきたのでしょう。
しかし、まちづくりなど一部の分野では市民の総意を表わす手段であるはずのワークショップに大きな猜疑心が投げかけられています。行政の思惑、その強者にすりよるコーディネーター、それによりかかる極一部の市民など、問題は見えつつあります。
「ワークショップ 偶然をデザインする技術」では、ワークショップの本質が創作のプロセスになぞらえることによりうまく説明されています。
創作においてはまず、様々な検討を行う、つまり多くの情報をインプットする。そのまま、それらの中からどちらかの方向を選ぶのではなく、それらを一旦、おいて、自由な気分や別の作業にふける時に、新たなアイデアが浮かんで来ることも多い。
遊んでいるとき、何かにふけっているときに現れるインスピレーション、ひらめき。それを生み出すシステム、それがワークショップなのかもしれません。
いろいろなアイデアを出していった時にそれは既成の価値観のなかで考えていても新たなものは出てこない。でアイデアを生み出していても、 だから創作活動を行うということはひとつのアイデアを考えることではなく、別の新たな社会の価値観を生み出すことなのである。
それと、同様に、ワークショップでの重要なことは、多様な意見が生じてきたときに、枠を緩めることが必要です。規制の枠を変えない限り、ワークショップの多様な情報は生かされない。拘束ではなく、自由。既成のこだわりを捨て、いろんな過去の意味を捨て中立的立場に立って、進めてゆくことが必要である。
緩めたときに多くの情報が生きた形に生まれ変わる。そこにこそワークショップの意味がある。
古い価値観を守ろうとする組織には不向きだなぁ。大学も行政もNPOも。
2007年11月2日
経済から文化へという貧困さ
「今ふと気づきました。僕は文化が町を活性化するなどということは間違いだと。
それは年金によって生活の安定した高齢者にはそういう場合もあるかもしれませんが、多くの人たちは生活をする必要があります。その生活を豊かにする必要があります。肉体的にも精神的にも、社会的にも、生活のためにも。
かつても30年ほど前、中心商店街の活性化のため、古い木造建築である岡崎藩の藩校「允文館(いんぶんかん)」を壊して、巨大なショッピングセンターである岡崎シビコができた時には、文化や歴史では何もできなくて経済でまちを活性化しようとしたはずです。しかし、それが実を結ばず、しだいに枯れてきました。すると、今度は文化だと言って、大きな文化公共施設を町の真ん中に建てます。無理やり、市民を引き込んで、それは間違いないものだと主張します。市民を巻き込んで一蓮托生にします。市民を豊かにするより、大きな古い木を切ろうが、伊賀川の土手を壊そうが、人が集まろうが、集まらなかろうが、、 そんなことはどうでもよく、とにかく前に進むことが重要なのです。
それはシビコを作る時に、周りの小さな商店街がどのようになろうか眼中になかったのと同じです、、、。
すべて同じ発想です。
経済か文化かではなく、経済も文化も、という発想で、福祉も歴史も同時に町に取り込んでゆく必要があるのではないかと思います。それがコミュニティです。
ところが、岡崎では、文化の次は都心再生です。
今度はこの言葉に振り回されるでしょう。これにかかわる都心ではシンクタンクなどと称する組織を作って利益を誘導するため行政から補助金を集めています。今度はこれで岡崎はずたずたになるでしょう。すでに中央図書館や婦人会館が廃止に追い込まれています。
政府が1万人の町にも、5万人の町にも、10万の町にも、38万の町にも、80万の都市にも同じように、都心再生を促す(金をばら撒いて)からです。また、同じような規模でも岡崎と豊橋ではその状況は大きく違うことでしょう。
(北野氏の推奨するように)これらにかかわらないことも大切ですが、むしろ、市民がなすべきことは文化や経済などと区別せず、団塊の世代などと祭り上げるのでもなく、そうした区別なく、地域のありかたに目を向けるべきではないでしょうか。そのような目を持っていらっしゃる方も大勢います。図書館倶楽部にもいらっしゃいますし、もっと他のところでも活動をされています。それが岡崎の素晴らしいところです。
そういう人たちが活動できるように、活動を展開できるように進めてゆくこと、バックアップすること、協働すること、応援することが大至急に必要のことのように思います。
行政の管理下の元で楽な活動を行うことは容易いです、また、まったく無視をすることも忍耐力があれば容易いことです。ただ、僕が考えていることは行政と反目することではありません。
まず、自分たちが必要と思うことをやりぬく覚悟とその情熱、使命感です。そこにこそ、本当の哲学があるのです。哲学と言うより「人の姿勢」です。それを持っている多くの市民を僕は知っています。彼ら彼女らと意識を同じくすることが必要です。また、有能な、柔軟な行政マン、行政ウーマンにも僕は出会っています。行政もいろいろです。そういう人たちを市民が見つけ、確保してゆくことも必要です。そういう、岡崎を愛する普通の行政マンは支えてくれると思うのです。期待しましょう。」
2007年11月1日
知ることと知らないこと
まちの情報が**総合研究所の自社のフォーマットに書き込んでゆかれるのだろう。まちを研究し、分析する手法には共通の理念もあるし、類似性もあるでしょう。どこの町にも共通する本質的な問題も確かにある。しかし、それは個別の地域固有の問題を語り合う中から、共通の概念として得られるのであり、フォーマット化された書類の上での出来事ではないと思うのです。
しかも、この中心市街地再活性化構想はいったんつくられると、若干の見直しはするもののそれを無条件に推進されることも多い。自分たちの歴史や風土など巨視的、抽象的視点によって吹っ飛んでしまうのである。
しかし、一方で、まちづくりにおいて、さまざまな関係を知りすぎているから、まちづくりにはかかわれない、という人に出会うことがあります。 僕たちがどれだけ市民や行政の動向-市場調査を深く行いたいのか、行わなければならないのかがわかっていないのですね。まちや地域、その市民を知るということがどれだけ尊いことかが見えていないように感じられます。
さまざまな関係を知りすぎているといっても、行政に委託されていると行政サイドの関係しか知り得なかったり、企業サイドの関係しか知り得なかったりするものです。しかし、基本は市民サイドであるはずです。
まちづくりとはまちに潜むそうした関係を十分知った上で、なおかつその関係(利害や利権に関係する人たち、専門家にはステイクホルダーと呼ばれています。)の中立にたって、かかわることこそ、まちづくりの基本精神なのではないでしょうか。
2007年10月31日
商店街の公園計画

市民による市民のまちづくりを目指すには市民の声と意欲が欠かせません、しかし、その方向がどのような方向へ行っても、まとめあげる能力を有し、どのような方向へ行こうともそれこそが求めるデザインなのだと、考えうる、真に市民をバックアップする本当のコーディネーターも必要となるものです。
2007年10月30日
下山学区推進委員会

2007年10月29日
市民の視点と伝統
けっこう斬新なのですね。
観客の目を意識するかしないか、できるかできないか、そこに大きな岐路があります。伝統と言って閉ざしてはいけないのですね。そう言えば小泉時代の劇場型政治を揶揄する人もいますが、やはり観客の目が舞台に新しさをもたらしていたように感じられます。
観客の、そして、すなわち市民のそれぞれの目、こそ、時代を作るエンジンと思うのです。歌舞伎のような古いしきたりの世界ですら、むしろ、古いしきたりの世界だからこそ、新しさを求めて、多様な目を意識するのではないかと感じています。
市民の目、それも古いしきたりの世界を解体する契機となることでしょう。
2007年10月19日
コミュニティシンクタンクの役割
あるひらめきやインスピレーションで何か面白いもので飾ることがデザインではありません。デザインとはモノの本質を表現すること。相手の考えていることを描いて見せ、共に考えてゆくことがデザインの出発です。
具体的なアイデアを介して語り合う、デザインとはそんな道具のようなものでもあります。相手の欲するもの、その声を聞きながら常に形に表してゆきます。
コミュニティシンクタンクもそのように社会の声を形にしてゆくことがその役割であり、そこに現れた形の中に社会の本質があるのだと考えています。
デザインもコミュニティシンクタンクもコミュニケーションのひとつのあり方なのです。
2007年10月18日
市民マップ
描いて表してみることが重要なのと感じています。ウォーキングマップもその一環としてやっています。
もっと、まちの地図、マップを描いてゆくべきです。 まちのマップ、その根幹を成すものは、市民活動のマップ、それは人のつながりを描くことになります。人を描くのにもマップが必要となり、それはまた、同時に町の問題のありかも示してくれることになるでしょう。
市民マップが描かれるとき、自分がどこに位置するのか、周りにどのような力になる活動があるのか、障害となるものがどのように存在するのか、自然とわかってくるのではないでしょうか。また、自分自身の居場所がどのようになっているのか自覚することで、活動の視野がもっと大きく開かれることでしょう。
それは市民に支えられたコミュニティシンクタンクの重要な働きであると考えています。
2007年10月17日
文化による活性化
文化とは何かというかということは難しい。文化とは何かを問い続けることが重要であるという意見もあるでしょう。しかし、そんなことをしていると市民は疲弊してしまいます。言葉を上げただけで、あとは知らないと逃げてゆくコーディネーターの無責任な発言に振り回されるのも市民です。
迷路のような哲学から逃れ、もっと肩の力を抜き、自然体でできる状況を作る必要があるようです。文化とは市民の発意による、自由で、柔らかな活動の中から生まれてくるもののような気がします。そして、そのような市民ボランティアも数多いです。その活動を規制するのでもなく、また無関心であるのでもなく、背後から支援し、時には舞台に押しあげることが必要であって、それこそがまちを作るのだと思います。
まちを運営するべき組織がやらないのなら、市民自ら行うより他ありません。
2007年10月14日
TQC
品質の向上と同時にそこには、意識の向上が目指されていたのだと思います。それでないと一人ひとりの職員、職人の膨大な量とネットワーク自体の能力を上げてゆくことは不可能に近いからです。
一つ一つのものの品質にこだわったTQCは当然、業務や経営全体の品質向上運動であるTQM(トータル・クォリテイ・マネージメント)につながっています。
TQCやそれを成立させる基盤TQMはどの分野にも必要なものでしょう。自らが対面する一つ一つの品質を高めてゆくことでしか、全体の意識や経営の質を高めてゆくことはできません。
今、盛んに行われている市民活動、それを支援する(するはずの)行政のサービスにも、市民それぞれの快適性を指標として、それを品質ととらえるTQCの理念が必要ではないでしょうか。
品質の向上と意識の向上が今不可欠です。
2007年10月10日
市民の言葉
かつて、弁護士の書く答弁書を読んだことがありましたが、でも何が書いてあるかよく理解できません。それは事件の事実を明らかにするためのものですが、まず、書き方というものがあるらしいと感じます。
しかし、事実を追うなら時系列の比較表を作るとか、状況が複雑ならば、表やモデルする、などし書き方を、表現方法を変えれば、事実など簡単に証明できると思ったものでしたが、弁護士は既成の書き方を変えることはなかったようです。
言葉は思想そのものだし、書くこと、表わすことは思考のプロセスそのものと思うのですが、そのわかりにくさは、閉鎖性をあらわすものでしょう。組織のあり方は表現する言葉の使い方にも現れてくるようです。しかし、その閉鎖性社会、といってもどの社会も閉鎖性を持っているものであって、他の社会と交わることで初めてその閉鎖性が実感できるものではないでしょうか。
他の社会と交わることができる柔軟性を持っているかどうか、そしてその時どのように対応できるかが、その社会の価値となることでしょう。
まちの言葉、条例や規約、あるいは通達、また本来想像性あるべき企画書なども硬く古めかしいはずである。それら、まちを語る言葉を市民の言葉で語ってみてはどうだろうか。また、市民の組織を役所の一部署として向かい入れてはどうだろうか。
必ずや、やわらかく、わかりやすく変わるはずである。市民の言葉で語り、市民のやり方を受け入れる、ここにこそ、協働の意味があり、協働の機会を生み出してゆくことこそ、コミュニティシンクタンクの役割があると考えています。
2007年10月9日
報道の大切さ
ジャーナリズム、この暗部も明部も照らしてくれるジャーナリズムの精神が必要です。僕たちの遠いところでは、ジャーナリズムの使命を帯びた一握りの特別の人たちが命をかけています。
ジャーナリストの目が外に向けられてゆく中で、他方、僕たちの身近な周りの社会でも、むしろ非合理性や非人間性がいたるところで横行しています。僕たちこそ、自分たちの周りに見える、その真実を知ることが必要です。
それは一握りの特別の人たちによってもたらされるものではなくて、コミュニティにおいては、人、ひとりひとりの活動の中から生まれてくる、活動の現場の中に見えているのではないでしょうか。
市民一人ひとりが活動するなかで、様々な問題を抱え、そして、時は挫折し、また時に突き進み、社会に貢献する、その経験がまちのジャーナリズムになるのです。
そうした真実の情報は市民にとって重要なものですが、本当は行政にとってもかけがえのない情報であるはずなのです。それは真摯に耳を傾けるべき顧客の声なのですね。
その声を明らかにすること、そのために、コミュニティに潜む、このそれぞれのジャーナリズムを終結することこそ、コミュニティシンクタンクの役割ではないかと考えています。
2007年10月3日
商店街の悩み
2007年10月2日
指定管理者という名の公営化
しかし、その理念から果てしなく遠ざかるような制度の運用がどこでも見受けられます。本来の豊かな業務を実践するためではなく、コスト削減のためだけに行われているのだと批判もされていますが、もっと隠された大きなデメリットもあるのではないでしょうか。
それは民営化といい、指定管理者制度をとりながら、管理や運営を行政の外郭団体や行政と見まごうNPOに委託されています。
市民ホームや公民館、市民センターなど、まちにはコミュニテイの拠点となるべき施設が数多く点在しています。しかし、こうした施設のそれほどの部分がまちやコミュニティの自治として、運営されていることでしょう。
こうした方向は運営資金も不透明だし、ましてや拠点としての積極的な使命などどこにないだろう。
管理といって、ほとんどが日常的なメンテナンスだけを行い、新たな業務をつくりだしていないのではないでしょうか。
こうした、怠慢がコミュニティの運営力、企画力、実行力を衰退させ、まちを解体して行くのです。一方でまちの自治を衰退させ、一方で市民協働の名の下に市民活動をあおり、管理下におく。
市民とまち、本来の理念を目指すことができれば、必ずうまくゆくのではないでしょうか。
2007年10月1日
指定管理者という名の民営化
中でも、杉並区高円寺に300席の小劇場を備えた「杉並芸術会館」は2009年春に開館の予定ですが、区内在住の演劇人による非営利組織(NPO)が指定管理者となり、「杉並ならではの文化的個性を備えた劇場」を目指すようです。
これまで公的施設においては行政やその外郭団体により運営が行われてきたわけですが、管理運営制度が改革されて、行政から指定を受けた民間の法人にも公的施設の管理運営を委託されるようになりました。
高円寺会館のような新しい演劇空間には柔軟な運営と豊かな企画力が不可欠であり、総合的な事務的能力ではなく、また、舞台装置や照明装置の管理など専門的な能力でもなく、新しい企画や展開性をつくりだせる能力とセンスが必要とされるからではないでしょうか。
このように劇場では企画や運営を期待されて、新たな民営化組織が要求されてきている一方で、逆に図書館の民営化とは、これまで管理運営を行ってきた司書という専門職員を排除して、大手の販売管理会社への丸投げであることが多いようです。
図書館を本の管理を行う専門的業務の場と考えるからではないでしょうか。だから、本の管理会社でいいのだという安易な考えが生じしてしまう。
劇場が舞台装置や照明装置の管理場所でないように、図書館も本の管理の場所ではありません。そう考えるとき、司書という独自の豊かなオリジナリティを持った職能が見えてくるはずです。
そのオリジナリティを見つけることこそ、公募することこそ、民営化のもっとも大切なことではないでしょうか。
2007年9月28日
問題のありか
特に、マスコミやメディアも簡単に騒ぐ、結果的にあおることになることも多く、問題にはとにかく非常に敏感になるものです。しかし、敏感になることで、あるいはもう少し言えばヒステリックになってしまうことで、見失うものも多くなってしまいます。
例えば、行政の問題。さまざまな不満があることでしょう。しかし、それが何に、そしてどこに起因するのかはっきりさせることは難しいことです。市民からは、相手がどのようになっているのかはわからない、複雑怪奇な組織に見えてしまっているのではないでしょうか。そして、何より、行政自らが巨大な組織において、何がどのように運営されているか、内部の人たちも、誰も全貌をつかめてはいないのではないかと感じられます。
例えば、歴史や伝統の問題。伝統だからとアンタッチャブルな領域もあるでしょうし、歴史は大切にしなければならないのは明白ですね。しかし、守るべきか新しく突き進むか、この判断は難しいものです。何のための、誰のための歴史なのか。
例えば、制度の問題。目的を果たすために制度がつくられます。すると、制度を守らせることが目的となってしまい、制度を目的に合わせて修正してゆくことが忘れられてしまいます。
2007年9月25日
図書館長公募
小布施町は長野市から長野電鉄で30分ほど北へ行ったところにあり、30年ほど前から、地元の事業家が地元の建築家宮本忠長氏と共に、古い町並みの雰囲気を生かし、展開しながら新たな建築を整備し続け、いい町の雰囲気を持ち続けています。すばらしいまちです。
ここで、新しい図書館建設が進められており、構想が出来上がっています。これから。建築家が選定されるところですが、同時に図書館長も公募されてます。図書館づくりには有能な建築家と図書館長が不可欠なのです。
以下が応募要項です。30歳以上をターゲットに募集されているようです。有能な、創造力あふれる人材は来るでしょうか?
任期付というのはどこでも採用されることが多くなりましたが、3年はちょっと???。
また、給与はどんなものでしょう。
どの程度の権限があるのでしょうか。
「新しい図書館長の募集について交流と創造を楽しむ、文化の拠点となる図書館(交流センター)にするために、中心的に従事する館長の役割は大変重要です。
小布施町では「新しい小布施町立図書館」基本構想を策定し、「学びの場」「子育ての場」「交流の場」「情報発信の場」を4つの柱として、それらを具現化する方法など準備段階から館長に関わっていただきたく考えています。図書館(交流センター)の果たすべき役割や理念を大事にし、運営に積極的に取り組む、意欲・熱意のある人を募集します。
□募集人員 図書館長 1人
□応募資格
(1)年 齢 昭和53年4月1日以前に生まれた人
(2)住 所 採用後小布施町内に居住できる人
□勤務条件
(1)勤務地 小布施町
(2)給料等 月額376,000円(他に通勤・期末・業績・寒冷地手当あり)
(3)勤務 日数:定数内職員(一般職員)と同様(休日は不定期)時間:週40時間でフレックスタイム制
(4)任用期間 平成19年11月1日~平成23年3月31日※任期満了後、更に2年延長の可能性があります。
(5)その他 年次休暇等は定数内職員と同様
□試験内容 小論文と面接試験を行います。(履歴書、小論文による書類選考後、面接試験を実施)
(1)小論文 題目「私ならこうする、協働のまち小布施の図書館」※400字詰原稿用紙3枚程度で10月15日までに願書とともに提出してください。※書類選考合格者には10月19日、本人あてに電話で通知いたします。
(2)面接試験 平成19年10月22日(月)※試験会場時間等の詳細は書類選考合格者に追って通知いたします。
□応募方法 下記のものを願書受付期間中に持参または郵送してください。(郵送の場合締切日必着)
(1)申込書 教育委員会にあります。(町ホームページからもダウンロードできます。) (http://www.town.obuse.nagano.jp)※「志望の動機」を必ず記載してください。
(2)履歴書 市販のもの、写真付き
(3)小論文□願書受付期 」
2007年9月22日
非営利組織の経営

そして、それは、非営利組織だから、利益追求を第一としないからこそ、忘れられがちです。ここに、活動非営利組織に運営、経営という概念を与えてくれた考え方があります。
P.F.Drucker 。
彼はアメリカ的と言われる非営利組織を日本にも古くからあると指摘しています。寺やPTA、各種の法人組織、、、、大学、病院、役所。
図書館や美術館も非営利組織と言えますね。
ミッション、ビジョン、イノベーション、マーケテッィング、リーダーシップ、、、そしてファンド、、。しかし、それらはまだまだ日本では一般的ではないようです。利潤を追求する、生きるか死ぬかを争う企業には当然備わっているべきものが、忌み嫌われているようです。 そこには経営的視野、つまりマネージメント能力が排除されています。
募金というボランティア業務も日本では認知されていないでしょう。しかし、そのような行為さえも、市民、支援者一人ひとりにビジョンをメッセージとして伝え、一人ひとりとつながるものであり、マーケットが何を期待しているかを敏感に感じ取る大きな機会なのであり、それはメディアを通じたメッセージ伝達ではとてもなしえない重要な戦略であるのだそうです。
それは市民という抽象的な全体ではなく、市民一人ひとりという考え方につながる、マーケットとビジョンを密接につなぐ戦略を生み出す役目を果たすものなのでしょう。
2007年9月21日
クライアント
私たちはクライアントから期待を受けます。だから、クライアントのニーズを実現することが業務であるかのように思われます。もちろん、クライアントの利益は守る必要がありますが、そのニーズに従うというより、「ニーズを発見する」ことが重要なのではないかと考えます。それは既知のニーズだけではなく、まだ見ぬ新たなニーズが求められているのだろうと思うのです。
それはクライアントの今に存在するというより、少し未来に隠れていると言えるでしょう。
まだ見ぬものを具体化することはとても困難なことで、想像力が不可欠ですね。だからこそ、そのためにはクライアントの声を徹底して聞く、ことが必要となるのです。聞いて、今の自分が取捨選択するのではなく、未来の自分が考え、未来のクライアントが評価するのだということを想像すべきなのです。
それはまちにも同じようにいうことができるでしょう。まちの今を語るためには、まちの少し未来を見極める必要があるのであり、そこに想像力という見えていないものを描く力が要求されるのです。しかし、その見えないものとはクライアントのすぐ後ろに隠れているものなのではないかと考えています。
僕たちにとって、まちにとって、クライアントとは人そのものと言えます。
2007年9月20日
法令順守
かつて、まだ国鉄時代に順法闘争という労働争議が行われていましたが、それは、厳密に法に従うととんでもないことになるという、何が悪いのかわからなくなるような行為でした。法が悪いのか、人が悪いのか。
僕たち、設計事務所はとてもまともな労働状況で働いてはいなかった、ものづくり優先、人よりももの(ここではデザインのアイデア)優先で進んでいましたので、ちょっと手を抜こうものなら、冗句で順法闘争だとよく言われていました。
こうした、「法」はさまざまに身近に存在しています。そして、その法が大きく振りかかって、身動きが取れない状況に落ちることもよくあることです。
法や約束事に縛らないことも、豊かなマネージメントをする上では考えねばならないことですね。法など吹き飛ばすほどの戦略が求められていると言えます。
2007年9月19日
個と公の関係
しかし、今や携帯電話の普及でそうした個を露出させないような奥ゆかしさは陰を潜めてきました。
先日、東京への帰りののぞみの中はまるで新橋の飲み屋のように(実際に新橋で飲んだことはありませんが)、仕事(出張)帰りのサラリーマンの憩いの場となり、個が、プライベートが前面にでてきていました。
最初に話し出した二人組の話はやけにプライバシーが気になったものですが、また、うるさいなぁと思ったものでしたが、そうした会話が車内全体に広がるにつれて、気にならなくなり、むしろ活気のある、ピンクノイズのように心地よい空間を作り出していました。そこには静かに本を読む人も、仕事に疲れて休む人も含めて、多様な生活、活動があふれていたはずです。
パブリック、人の集まる公の空間とは、つまり町や広場や街路や、、、私たちの身近な多くの空間がパブリックと考えられていますが、程度の差はあれ、それは個の空間の重なりでもあります。また、それは音だけではなく、においや視覚情報、空気、雰囲気なども重なり合った壮大な世界となっています。
そうしてこそ、抽象的な、無性格な空間ではなく、魅力ある身近な公的スペースが生まれるのではないでしょうか。そこに、市民の集まる意味が出てくる。それがパブリック。
そのパブリックな空間を程よく、関係付ける、バランスをとるのがコミュニティであり、文化であるのだろうと考えています。ピンクノイズのようなパブリックを目指して。
2007年9月18日
入り口としての図書館
彼らの主催する昨年度の講演会の資料を聞かせていただきました。
ひとつは平野氏の「動物園の入り口を、図書館と考える」、もうひとつはこの平野氏と阿曽千代子氏、常世田良氏の鼎談、「図書館って本当に必要ですか?」と題する講演でした。
平野氏は、動物園へ行くときに、いろいろと情報を調べていく、書籍や絵本、音の入ったCD、写真集などから動物園を想像してでかけていくそうです。用意周到、知識欲の旺盛な方です。つまり、いろいろな情報から「仮想動物園」を描いてゆくことで、本物の動物園以上の大きな楽しみを堪能されているようです。
彼にとっては、図書館とは仮想の動物園であり、同時に仮想のさまざまな可能性を持ったものなのです。入り口としての図書館の向こうには膨大な世界が広がっている、使いようによっては膨大な活動の場所となるのですね。
すべてのものに、こうした入り口を考えてゆくとき、多様に積み重なった豊かな図書館の働きが見えてきます。今、仮想の膨大な可能性を自ら狭めるのではなく、広げてゆくことが必要のようです。
社会と自分との接点はいろいろとあります。社会へ入る入り口、をみつけること、そして用意しておくことがとても重要なことです。そのひとつが動物園である。
でも動物を語りだす時の彼の熱意は、それはもしかしたら図書館の司書ような役割を持ったものと感じられました。
読むための図書館ではなく、「語ること」 そこにこそ図書館の使命があるのではないでしょうか。
2007年9月11日
組織の意思
一人の個性や演技によって作られるのではなく、その背後の集団の能力によって、大きな活動が推進されることが不可欠のようです。
かつて、硬直化した大きな企業は部門を越えたプロジェクトチームやプロフィットセンターをつくり、独立させ、自律させ、自らのイノベーションを行いました。
今こそ、そうした組織体の中にあってメリハリのある、独自の政策を生み出せるチームを抱え、育成する必要があるのです。それは行政や大きな組織体のトップではなく、実際に活動の中心となっている中間的な組織、行政でいえば、図書館長、企画課長、市民協働課長など、中間的リーダーに不可欠とされるものになります。
単純な一方向的な組織体ではなく、考え、行動する組織体、組織としての図書館長によって、どのような館長が来ようとも豊かな活動が保障されるのではないかと考えています。逆に言えば、組織としての図書館長が自ら館長を厳選すればいいのです。
それは誰がどのように入れ替わっても存在し続ける「モー娘。」のようでもあります。
2007年9月10日
リーダーシップ
僕の身近な組織や社会にも、ボトムアップといわれ、一生懸命に動いているスタッフが大勢います。誰が責任を持って将来を見据え、今を語るのか。そこが問題なのではないかと考えますが、しかし、このことによって、責任者がいなくなってしまったかのようにも感じます。責任といっても職を賭してという意欲のことを言ってるのではなく、自らの行動をどのように評価し、次の一手をどこへ向けるかという実践的な側面が大切なのです。
リーダーが将来像なく、スタッフへやるべきことを丸投げし、同時に責任をも丸投げしているように感じることもしばしばです。それをボトムアップといっていないでしょうか。
ボトムアップで、任されたスタッフは意欲にあふれるはずですが、しかし、大変な責任を負っているはずなのです。この部分が中途半端になっている組織は多いですが、ここからはビジョンは生まれてこないでしょう。
大学という組織もそのような中途半端な組織ですが、また、行政も同様にそのようなものではないかと感じています。リーダーシップが必要とされながら排除されているのです。でも、個々のリーダーシップ、そしてそれを束ねるリーダー、今どちらの組織にも必要なのではないでしょうか。
2007年9月7日
縦割り組織をつなぐもの
「私は三年前から二月二十二日のランチタイムに市役所の職員の方及びお昼にたまたま市役所に訪れて下さった市民の方に向けてロビーコンサートをしていますが…、第一回を行うのは、とても大変でした。ロビーは、どの課が担当するのかが解らず、まず生涯教育の講師登録をさせて頂いているので、生涯教育課に相談に行くと→コンサートだから広報へ→と言われて広報に行くと→建物の使用許可は財産管理課へと言われ→財産管理に行くと、ロビーにも、色々あって、正面ロビーは複数の課が管理しているので、たぶん駄目ですが、奥の情報ネットワークセンター、一階ロビーはIT課が管理しているので、IT課へと言われ→IT課に行くと、ロビーの使用には財産管理へと言われ…でも今財産管理からIT課に行く様に言われたと…、生涯教育から始まって、あっちこっちと言われて、いったい何処でどなたに伺えばよろしいでしょうか?!と…くたびれてしまった私は、せっかくお話しを聞いて下さってるIT課の当時係長さんに、半ば怒って質問した所…『あちこちへと…それはお気の毒に…解りました情報ネットワークセンター一階ロビーでしたら私の判断でお貸ししましょう(^-^)vと、話が決まり、千人のハープコンサート予定の2016年まで毎年、行える様になりました(^-^)v」
というような大変な思い、理不尽な思い、半ば不信感のような思いを感じた人も多いでしょう。しかし、むしろこのような経験を通してこそ、行政の複雑な(というほどではありませんが)分業システムに風穴を開けることが出来るのではないでしょうか。
長年積み重ねられた旧態然とした役割の分担では扱いきれなくなってしまった行政の縦割りをつなぐもの市民独自の多様な活動ではないでしょうか。この有能なIT課の係長さんのおかげで一つの活動は日の目を見たかもしれませんが、実際には各課が反発し、衝突した方が次ぎにつながったかもしれません。
しかし、このことはどのような組織や企業でも同じかもしれません。
進んだ企業ならば、プロジェクトチームを作り、新たな遊撃的なチーム、たとえばプロフィットセンターがつくられて、各部門を超えた業務が推進されたことでしょう。
まちづくりにおいては市民の部門を超えて、内部に入り込むことによって、つないで行くしか道はないのです。ここに、真の市民と行政との協働の意義があるのだと感じています。
2007年9月4日
メディアの役割
昨今のメディアの報道や取材においては異常な状況が生じていますし、また、たとえ、メディアが客観的で無色透明であったとしても、逆にその価値を見出すこともできないのではないかと感じられます。生の姿を描写すること、それがとても難しいと感じられます。
メディア、媒体とは中間に位置するというだけではなく、少し視点を変えると、何かと何かをつなぐことが重要なのですね。では何をつないでいるのでしょうか。メディアが成熟すればするほどわからなくなってくることもしばしばです。新聞社はそのスタイルが昔のあまり変わらず、伝えたいことはシンプルに見えますが、TVは多様化が進み、その主張はあいまいになっているように感じます。
メディアのこちら側には視聴者がいて、市民や国民があり、向こう側には社会や情報が潜んでいると言えるかもしれません。ただ、メディアの向こう側にある存在を社会や情報であるというのは簡単ですが、何を、どのように伝えるか、伝える側の姿勢がメディアの、そして同時にコミュニティシンクタンクの課題でもあると考えています。
2007年9月3日
図書館とまちづくり
図書館づくりを真剣に考えてゆくと、地域に浸透するネットワークを考えることになります。市民一人ひとりに情報を提供するのだという強い姿勢が図書館の生命であり、そのことによって逆に図書館には町のさまざまな情報が集積することにもなるのです。
また、生涯学習拠点や福祉施設や病院においても、どのような施設においても、あるいは組織においても、同様に、市民一人ひとりを考えてゆくことで、そのつながりの中に組み込まれてゆくことができるのでしょう。市民一人ひとりとつながりを持とうとする時、そのつながりによって、まちのつながりの中に組み込まれてゆきます。
だからこそ、図書館を考えることは、まちを考えることであり、それはCITYHALLを考えることにもなります。(庁舎というべきですが、日本にはそのほとんどが行政上の手続きを行い、管理業務を行うだけの事務所であるので、行政本来の、また市民本来の活動拠点としての庁舎が必要と考えています。)
図書館とCITYHALL(庁舎)のあり方は共通の方向性を持っているのではないと考えるようになりました。また、同時にそれは図書館長と行政の長(各部署の責任者くらいの意味ですが)の役割にも共通することで、マネージメント力、プロデュース力を発揮できるそのしくみと場が不可欠です。
一人ひとりの市民を考えてゆくとき、中央、周縁、拠点、移動、訪問、さまざまに必要となる形態が展開してゆきます。それが図書館の基本であり、同時にそれはまちづくりの基本であると感じられるのです。
未来の図書館の形を考えるとき、同時にまちのあり方、まちづくりのあり方をも提言することになり、そこに社会的な役割が生まれてくるのではないかと考えています。
中間性媒体としての図書館長
前原市図書館は辻氏が活動して生まれた図書館です。図書館自体はまだまだ、小さく、これから新たな運動を進めてゆくということですが、ここには、参考なるネットワークが作られていました。
公民館を中心に、その一部を市民が借り受ける形で小学校区ごとに文庫が開かれています。地元の活動家が長い間の活動の中で育んできたもの、地域の均衡化のために望まれて生まれたもの、その出発点はそれぞれですが、連絡協議会儀によって、横にも、図書館ともつながれているようです。
その将来は困難な問題も抱えているかもしれませんが、市民の独自の図書館の将来像となる萌芽を感じてきました。
また、伊万里市民図書館、犬塚まゆみ館長にお話を伺ってきました。質問事項をいくつか用意し訪問したのですが、お会いした途端、細かな質問より、犬塚氏ご自身の考えを聞きだそうと方向を改めました。
すばらしい図書館にはこのような、しっかりした考えとそれを語ってくれる館長がいるものです。また、いづれも、訪問者を暖かく迎えてくれます。今回も時間を忘れるくらいに語っていただきましたし、私たちの考えもじっくり聞いていただきました。
彼女はもちろん、伊万里市の市職員です。しかし、言葉の端々には、行政と図書館と市民という独立した図式が感じられました。その言葉通り、今やどこの図書館の悩みである非常勤職員の任期を行政と闘い20年としたそうです。
こうした背景の下、リーダーとして、スタッフに考えさせる余地を残し、スタッフを育てながら図書館運営が行われています。
しかし、このように闘っている館長は多くはないようです。むしろ、行政を代弁し、職員としての立場を守り、市民と闘っているのが多くの図書館長なのではないでしょうか。
予算を確保する、やりたいことをやる、スタッフの待遇を確保する、、スタッフを育てる、選書を自ら行う、、、、、など。つまり、図書館長もひとつの中間性媒体として、独立した行動をとっているのです。そうした図書館長の下にこそ、本物の図書館は生まれるのだろうと思います。
こうした本物の図書館こそ、まちのさまざまな情報が集まり、拠点となって、まちをつないでゆくのです。
それこそ、図書館。
市民が図書館をつくると言いますが、しかし、図書館長こそが図書館をつくるのです。
2007年9月2日
中心と周縁/前原記
町の特性を見極める必要があるのですね。 中心部と周辺地、海に向かって広がる周辺地をどのように関係付けるか、同時に地元住民と新規住民のコミュニティをどうつなげるか、問題のようです。
辻氏は前原市で長い間、図書館建設活動を進められて、小さな図書館建設後も更に図書館のあり方を研究されています。
図書館のあるべき形、前原市での図書館の構想、そうしたものを語るうちに、それは町自身を語ることが必要になることがわかってきます。図書館もその姿を変えつつあります、変えてゆかねばなりません。しかし、それをしっかり考えることがまちづくりにつながるように改めて感じてきました。
中心部、周縁部、そのまちのつながりをつくるのは、そうした多くの市民を受け入れる図書館ではないでしょうか。
新しい未来の図書館を形づくる構想が協働で始まりました。
2007年8月19日
阿久悠の世界3/詞のできあがる時
言葉としての詞とはイメージの共有のための手段でもあり、「上野を出発し、今ともに青函連絡船で函館に渡る」というイメージを共有させられた時から、詞は、歌は、誕生するのではないかと感じるのですが、言葉の意味することだけで終わらないところがただの作詞家ではなかったと言われるひとつの原因ではないでしょうか。
言葉の本質。それは「あー」、「いー」、「うー」、「えー」、「おー」、、母音を発すること、あるいは叫ぶことと言われます。それは、また、言葉の原点です。この母音は、詞の言葉の中には表されませんが、この母音を声として発することが歌にとって重要なことではないでしょうか。
言葉やメロディによって伝えられる情景や情感などよりも、この身体の奥底の叫びのような言葉を発することが歌の本質です。その身体の奥底の叫びを聴かなければ、感じなければ、歌にならないのだと阿久悠は考えていたのではないかと思います。
それは演歌だけではなく、ポップスも彼にとっては同じことだったのです。大人の歌手には大人の叫びを、少女の歌手には少女の叫びを求めていたのだろうと思うのです。詩を作る作詞家ではなく、歌を歌わせる作詞家だったのですね。
「あなた、お願いよ~お~、席をたたないで~え~。息がかかるほど~お~、そばに居て欲しい~い~、、、」(岩崎宏美 ロマンス)
言葉を発する本当の意味を社会に伝えたかったのだと思う。それが詩ではない、詞と歌の魅力であり、それでこそ、世は歌につれと言われるのだろう。次の世を予見することは難しいが、それは今を歌うことでしか、生まれてこないように思う。
そして、この身体の叫びのなかにこそ、歌の真髄がある。建築も発想のなかから誕生しますが、それはつくってゆく現場のなかで本当の姿をあらわにしてゆきます。最後の最後までこだわりを持って、作りきることが要求されているのです。
自分のかかわることが、そこにかかわる身体と強く通じること、そこがとても大切なことだと感じます。建築づくりも、まちづくりも、ものづくりも。
2007年8月18日
町を描くことから7
単に海抜からの高さをプロットしただけでは、数字の配列したものだけでは、土地を理解することはできませんが、同じ高さの地点を結んだ地図、等高線による地形図を表すことによって、地域の地形をイメージすることができるのです。
このように何をどのように描くかによって、得られるものは違ってきます。僕はまちから感じたその実感したものをそのまま素直に描き表せないか、そこにこそ、本物の町の姿が潜んでいるのではないかと考えています。

「7.ウォーキングマップとは
ウォーキングマップとは住環境デザイン論演習課題の一つとして実施している「岡崎の町を描く試み」である。
それは町を歩き、その場所のデータを収集し、記録するフィールドワークと得られたデータを研究室に持ち帰り、地図に配列しながら、その意味するものを考察するワークショップの二段階のプロセスからなる。得られたデータから特別の領域や形状を認識できるまでデータ収集と考察とを繰り返してゆく。
学生たちは岡崎の町を歩くことから始めるが、彼らの多様で自由な視点をそのまま生かすため、特別の約束事は設けず、できるだけ事前の知識や先入観のない状態で町の興味のある部分を探しながら歩いてゆく。それぞれの感性によって、自らの視点を特別に持って、自らの意思で歩く。歩きながらテーマを見つけ、町の気になる場所や場面をデジカメに撮影し、歩いた道のりや特別の感情やポイント、コメントなどを地図上に記録しながら、歩いた軌跡や町の形を表わす情報をプロットしてゆく。
こうして町で得られた情報は研究室に持ち帰り、それぞれの断片をマップに配列し、その意味を考えてゆく。ワークショップ形式で、何に惹かれたのか、どこが面白かったのか、自らのマップを説明しながら、共に考えてゆくのである。最初は見えていなくても、自分自身が町に惹かれ、記録した動機は学生たち自身の中に必ずあり、そこに町の特性が隠されている。そうして、マップのテーマや現れている意味や特性が見つかるまでは何度も議論し、考察とデータ収集とを繰り返し、ウォーキングマップとして完成させる。マップづくりはプロセスと表現方法が重要である。
学生たちの、あるいは市民の柔らかで多様な視線を町に向け、町をそのまま記録することにより、生きた町の多様な姿をありのままに描くことになる。多様な視線を導き出し、取捨選択や淘汰を行わないで、むしろすべてを取り込む姿勢で町を描くことにより、そこには豊かな町の多様な姿がそのまま描かれる。それは複雑で、混沌としているように見えるかもしれない。しかし、学生たちが、あるいは市民が多様な視線を向けていければ、後はその描かれたものの中にそれらの共有性を表し出せればいいのである。多様な価値観を生かしながら、進むべき方向が見えてくる。この生きた町の姿のなかに本当の固有の特性が現れてくるのである。
ウォーキングマップとは自ら歩いた道のりを記録した地図ではあるが、しかし、その表すものは歩くべき、進むべき道のり、すなわち、町づくりの指針を示すものとなる。今回の試みにおいても多くの町の断片が浮かび上がってきたが、この岡崎の町は特に空間的面白さ、豊かさに溢れていると感じる。この豊かな断片を、パズルを完成させるようにピースをつなぎ、組み合わせてゆくことで、それらのつながりが町のコンテクストとなって現れる。そこに町の姿が見えてくる。ウォーキングマップとはそのコンテクストを探索し、その可能性を発見する試みである。その試みは始まったばかりであるが、町を記録し、デッサンするように描くマップの可能性を発見できたのではないかと感じている。感覚や感性によって認識される町のイメージは、とらえどころのない、はかないもののように見えるかもしれない。しかし、それこそが、着実で、リアルな生きた町の姿なのである。」
2007年8月17日
町を描くことから6
http://community-thinktank.blogspot.com/2007/07/blog-post_20.html
模写やスケッチもそのひとつです。その書き記したものが、自ら見た、感じたそのままを描き、表すことが必要です。しかし、ありのまま描くということが思いのほか難しいものです。
ウォーキングマップでは観察者である学生たちが、見て、感じて、ある人は聴いてきたものを、研究室の僕や仲間に語ることで、自ら見てきたもの、そのものに客観的に触れることができるのです。

絵を描く時にはまず、デッサンする。そうすることによって対象物の輪郭をなぞってゆく。輪郭をなぞりながらその形を把握してゆくと、次第に描く対象物がはっきりと見えてくるのである。町づくりにおいても実際の町の形を追いながら、町の断片を記録し、地図の上でもその姿をなぞってゆくことによって町の形をはっきり認識することできるようになる。町を巡り、それを記録してゆくことは町をデッサンすることと同じ行為である。デッサンを重ねてゆくことで、おぼろげであった町の輪郭が次第にはっきりとしてくるはずである。デッサンを重ね、次々と町を描いてゆくことにより、多様な断片が互いにつながり、それらの関係や共通の意味を表しだす。つまり、埋もれている町の形の意味するものが見え、町の隠れた構造を表しだすことができるのだ。このようにして町に視線を向けることによって、いつもは見えていない町の姿が現れてくる。
町をデッサンする、記録してゆく時、描く側は自分自身で意図を持って描いてゆく。そうでないと描けないのだ。町を描くということは多様な意図を持って、それぞれが何かを感じながら、町の多様な側面を見てゆくのである。つまり、町を記録し、町の形をなぞるという行為は様々な町の断片を集めると同時に、描く人々の多くの視点や意識までも集めることになる。
町を記録することで、町を考える視点が市民や学生など現実の町に住まう人たちすべてに移行してゆくのである。記号や数値などの抽象的な表現から人の視線によるビジュアルな表現へ、巨視的でバーチャルな視点から現実の町の現場の視点へ、無名性を表すだけの客観性から個人の感覚に基づく確かな主観性へと、すなわち抽象から実践へ、全体から個へ、そして、公から私へと町がその重心を移してゆくのである。それは町とそこに住まう人たちすべてを取り込んだ動的な町解析と言える。
今の町、町の今を表す新しい理論を、町を描いたマップから考えたい。それは身近な、自らの感性に現われた町を記録してゆくことであり、同時に、町に触れ、町を表現することでもある。また、現実の町から町独自の形を描くことが必要なのであり、自らの感覚と感性を持ち、意欲と意図を持って町を見る、探し出すというデザイン的視野が必要となる。デッサンを行うように町の輪郭を描くことが大切であり、それによって形は次第に現れてくる。
マップづくりは町の輪郭を視覚化し、町の形を具体化させる重要な機能を持っている。それは町に住まい、活動する人たち、一人ひとりに開かれた、町づくりの新たな方向性を期待させるものなのである。町づくりには市民の身近かで多様な視線を町に注ぐことが不可欠であり、この多様な視線を抽出し、どのように構築するかということが重要である。町に立ち、見えてくる町そのものを描くことが求められるのである。それには市民の多様な視線をそのまま描けばいいのであり、描くことによって町づくりは見えてくる。私たちの課題は「いかに描くか」という町を描く行為そのものの中にある。」
2007年8月16日
木を切ること、切らないこと。
好き嫌いや面倒であることで、行政は市民の言うなりになってはいないでしょうか。切ってくれといわれてはまちの財産を切り、切ってほしくないと言われて、では残す。問題の本質が見つからないまま、現実は、まちの大きな緑はこのように個人の強い情熱によって守られています。
こうした、貴重な活動をもっと共有の場に載せる必要があります。行政にとっては利害がかかわると調停、調整が難しいのだろうか、、、。しかし、調停の中にこそ、対話の中にこそ問題の手がかりがあるように思うのです。矛と盾が潜んでいるのです。両者の言い分をよく聞くことによって、利害ではなく、問題の本質が見えているはずです。それはマーケティングでもあり、コミュニケーションでもある。そこをないがしろにしたら、行政の意味がなくなってしまいます。
また、木が管理者の違いによって、道路側の枝が払われてしまったり、悲壮な姿を現している場合もあります。しかし、少し視点を変えれば、これがおかしいものだという視点に立つことができれば、木を守るだけではなく、コミュニケーションが生まれるはずです。
こうした緑豊かな町並みを条例によって守ることも多々あります。共有の概念を文書化することも大切かもしれませんが、規制することではなく、まず、まちのあるべき姿を見出す必要があります。豊かな緑の土手、伝統となった桜のトンネル、大きなはぜの大木、水辺の散策路、街路の豊かな緑、、、そうした、当然の意識を共有することで、その次の緑が育ってゆくのではないでしょうか。
でも、もういい加減、緑は大切なんだというスタンスができてもいいのではないですか。木を切って鳥を追い出したら、その行為は次は僕たち人間に降りかかってくる(もうすでに降りかかっている)ということを実感できる想像力が必要です。
2007年8月15日
風景/まちの視点

ここには何気ない民家も、毎日通る川岸の桜の木々も、新しい施設も、もちろん木々の豊かな古いお寺もそれぞれ描かれています。驚くべきことに、普通では向けないような異なる視点を持った意外な橋の風景もあります。
こうしたまちの風景を描く試みはまちづくりのひとつの手法としてもとても重要で横浜などでも、地元の商店街や大学研究者、学生たちが協働して、町のいろいろな姿や風景を「横浜パッチワーク」や「まちづくり101の提案カード」として表わし、横浜らしさを発見する試みが行われています。
広重の「名所江戸百選」や北斎の「富岳三十六景」も、一人の浮世絵師の表現としてだけではなく、まちを共有するひとつの手法だったのではないかと思います。
先日、岡崎市民病院についてコメントいただいたmariさんに絵葉書のひとつである岡崎市民病院のものをお送りしました。古いかすかな記憶や両親への思いがあふれてきたそうです。画家朝井氏とmariさんの思いが時代と場所を越えて、ぴったり重なったようです。
一人ひとりの思いは個人的な取るに足らないもの、と思われがちですが、実はそうではなく、案外多くの人に共感を与え、共有のイメージとなっているものなのです。市民すべてのまちを見る、感じる視点を集積してみると、まちを考える視点も変わってくるのではないかと感じます。それこそが市民のまちではないかと考えています。
2007年8月14日
町を描くことから5

今日は第一部、第5回、6月27日掲載分
「5.町のコンテクスト-文脈
語りかけてくる町の表情はそれぞれ豊かな意味を持っている。岡崎という町は多様な表情が町に混在し、不規則で偶発的な、統一性のない町のように見えるが、その奥には様々な形が意味や意図を持って関係づけられているように感じられる。ばらばらに見えている道、丘、緑、寺社、などそうした様々な町の特性があるつながりを持っていて、それらが重なりあって新しい意味を持ち、複合して豊かな町を形づくっているように感じられるのだ。それらは長い間に継承されてきたものであり、今も大きな意味を持って、文化や歴史、風土や地域を物語る。それは住まう人たちに継承され、築き上げられてきた固有の、共有の町の財産なのである。それらは町をつくる様々な要因やそれらの関係を生み出す町の基本構造であって、むしろ何気ない現実の町の風景のなかにこそ隠れているのである。
私たちはこの町の構造に気づかなければならない。それは町の独自性であり、本質である。町を知るとは、町の幾重にも織り成された重なりを知ることであり、私たちはその中に潜む本当の町の特性を見つけなければならないのである。
それは町に埋め込まれた遺伝子にも喩えることができる。生命の遺伝子が人の身体に埋め込まれて世代を超えてゆくように、町の遺伝子は生活や文化や歴史の遺伝子となって町の形や空間に埋め込まれ、次代に引き継がれる。それらは町のしくみや構造、意味を組み合わせ、町の文脈-コンテクストをつくる。著された書物の膨大な言語の意味の中にそれぞれ固有のストーリーが隠されているように、膨大な町の表情や姿のなかには、固有の歴史や文化、生活や風土、習慣や人の意識が根底に流れているのであり、そこには町のストーリー、つまりコンテクストが隠されているのである。
町にはシンボルとなる中心性や回遊性、あるいは拠点があちらこちらに点在する多元性や多孔性が内在していることがある。また、地形や地域のつながりや逆に断層による不連続性を持っていたり、特別の方向性や軸線が人の流れや風の動きとなって現れていることもある。ひとつの特別の場所が実際の町づくりの基点となっていることもある。こうした町のコンテクストを知り、継承することで町は成り立っているであり、それは次の町づくりにつながる。町を知らないがゆえに、見えないがゆえに間違って開発してしまう。
町づくりは町を知り、その町を継承することから始まる。だからといって、古いままの町を残しておこうと言っているのではない。既存の町のコンテクストに新しい時間と今の生活空間を重ね合わせ、新たな文化や歴史を連ねるのである。そこに豊かな町が生まれてくる。
岡崎には今、その重なりが確かに見えている。私たちが始めたウォーキングマップとは町を描くことからその町の重なりを見つけ出し、コンテクストを浮かび上がらせる地図である。私たちが想像力を失わず、身近で人間的な視線を失わない限り、絶えず町と接することによって、それは目の前の町に現れてくる。私たちに語りかける町の表情はその場限りの表面的な表情ではない。その奥にはただならぬ、町の本質が隠されているのである。コンテクストとは物語の本質であり、町の本質なのである。」
2007年8月11日
町を描くことから4

「4.語りかける町
町はそれぞれ多様な表情を持っている。町を歩いていても、柔らかな家並み、入ってみようと思わせる店舗、その奥に引き込まれる路地など次々にそうした魅力ある場所がつながり、何か心地よい感情をつくりだし、全体がひとつの雰囲気に包まれることがある。凹凸、ニッチ、曲がり、ふくらみ、シンボルツリー、ゲート、パブリックアート、神社、空地、ショーウィンドウ、バス停、彫刻、民家の板塀など、それぞれに様々な表情があり、どれもが人に語りかけてくるはずである。
実際には人が町に対して働きかけているのであるが、町が人に働きかけてくる、語りかけてくると感じる。それは町から受ける印象というよりも、もっと動的な心に入ってくる感情である。
町とは動きや働きが翻訳され、場面や場所などが目に見える形として表わされたものではないだろうか。普通のなにげない風景の中に人の活動と町との接点が生まれることによって、何かを表す人と町とをつなぐ特別の景観が現れて、私たちは初めて町を気づくことができる。私たちが町と考えているのはこの人と町との接点となってつないでいる様々な広がりなのである。
私たちは2点を測るようにして距離を測定し、その広がりや奥行きを認識するのではない。町では立っているその場から、道路の形状、舗装のパターンを認識しながら視線を延ばし、空間を広げ、樹木やベンチ、電柱や電線、外壁や屋根などを実感することによって空間の広さや領域を感じとっている。また、入り口や窓、バルコニーや縁側から人の動きを感じ、明かりや看板やプラントボックス、柵や塀から町の人間らしさを感じるのである。
私たちは町を構成する具体的な一つ一つの場面をつなぐことによって実際の距離や広さを感じているのであり、また、様々に見える対象物を予め決められた機能や役割に従って行動するのではなく、その対象物が持っている意味を人本来の行動から瞬時に判断し、柔軟に活動を行うと考えるのがアフォーダンスという新たな空間認知論の方向である。町を決まったもの、あるべきものと考えるのではなく、実際に町に入って、町に接すると、膨大な町の情報がそれぞれ意味を持って語りかけてくるのがわかる。
ここに大きな意味がある。私たちが町に住まい、語りかけてくる町を感じるということはその場面の距離や広がりを感じるだけではなく、生活や文化を感じる人間のもうひとつの感覚によって、それが何を表しているか、私たちにどのような意味をもたらすか、解析しているのである。このようにして、町に住まいながら様々な断片の中に豊かな生活や文化、歴史や風土を実感し、町への親近感、共有感を獲得しているのである。そうした場所が町なのである。重要なことは町の様々な情報に気づくこと、そして、アンテナのような、人と町との接点をつくってゆくことである。現代はこの町のアンテナが急速に姿を消してゆき、そのことにより町が見えなくなってしまっているのである。人と町とをつなぐ接点を持ちうることにより町はある特別の景観となって現れるのであり、それは地域に共有され、町づくりへとつながってゆく。町の多様な表情に潜むこうしたアンテナや接点を具体的な表情の奥に発見してゆくことで生きた町が見えてくる。町が語りかけてくるのである。」
2007年8月10日
一宮市博物館
一宮市博物館は妙興寺に隣接し、緑あふれるものの、道路からは小さなみちを通り抜けるように配置され、町からは少し入りこんで位置していたため、大きな円弧状の展示室を二つつなげることで、人を引き込むアプローチを作っています。外部の市松模様となった凹凸状のスクラッチタイルも、内部のホール壁面を彩る絹谷幸二氏のフレスコ画もとてもきれいで完成後20年を超える建築とは思えませんでした。
内井事務所ではすべてのプロジェクトを二人で責任を持って行うというペアシステムで設計が行われていました。1985年の設計当時は一宮市博物館のほか、大きなプロジェクトが高円宮邸、熊本テクノポリスセンター、横浜市少年自然の家(宿泊棟)はじめ多数進められており、忙しさと充実さが交じり合う1年でした。僕は高円宮邸に専従しながら、時々この一宮市博物館にかかわりながら進めていたので、少なからず心に残っています。
伊藤氏によると、外装のリニューアルと同時に内部の展示方法も再検討を予定しているとのことでした。当時は毛織物の町として古い織機などを主とした常設展示が中心でしたが、市民のさまざまな活動に向けた大きな企画展示室の必要性や織機よりももっと新しい一宮の姿も紹介して欲しいという要望が高まってきたそうです。
市民が自らの町の歴史を知り、その拠点を作るという第1段階から、そこで自ら、今の町に対して活動を行う次の段階へと公共施設の役割が変わってきたようです。
このようにいい建築を作るためには、設計段階から発注運営者側に熱意のある協力的な強力なスタッフがいることが不可欠ですが、建築が完成し、運営段階においても、そのような体制が引き継がれることで、理念や情熱は引き継がれ、絶えずいい状態を保ち、町の状況の変化にも対応できるものなのです。それが愛され、長く生きながらえる建築となる手がかりなのです。
2007年8月9日
阿久悠の世界2/ホットとクール
阿久悠さんはその代表作「津軽海峡冬景色」について、たった一文で「上野から青森へ」と舞台を進めたと豪語しています。
詞とはいきなりトップギアで全開の必要があるということであり、詞の大きな特性かもしれません。一方、曲はその多くはイントロダクションがあり、しだいに盛り上がり、エンディングを迎えることになります。
作曲家はイントロから次第に、段階的に曲の中へ引きずり込んでゆきますが、作詞家は限られた文字数の中でイメージやストーリーを伝えなければならず、一気に勝負に出ることが要求されます。紫式部であれば、五文字の枕詞で詩の舞台背景を説明できたわけですが、現代の作詞家は一気にまくし立てる必要があるのです。
いわば。作詞とはホットなのですね。
「ホットとクール」とは挑発的にメディア論に取り組んだ社会科学者であるマクルーハンが立てた仮説です。ホットとは温度、体温が高いという視点もありますが、情報が精緻であり、直接的視点を持ったメディアのことのようです。
ホットとは受け手の情報過多につながり、次第に詩性は薄れていく運命にあり、逆にクールは受け手に情報を考える余地を残し、詩性を内在しているとも考えられます。危うい、ホットな詞の直接的表現は誰にも受け入れられるポップな表現であるものの、1歩間違えば、詩ではなくなる可能性も高いのだと思います。 ホットとクールの微妙な混在の中に歌謡曲の価値があるのかもしれません。
阿久悠さんのホットな表現によって世に出てきた多くのアイドルたちは、その後、成功したその表現方法から距離を置くことになってゆきます。アイドルたちも大人への成長に合わせて、クールへ向かうのです。岩崎宏美は、ロマンス、熱帯魚、、、、思秋期 ホットからクールへ向かい、桜田淳子や山口百恵(阿久悠さんの作詞ではありませんが)は中島みゆきや阿木燿子へと作詞家を変えることでホットからクールへと変身する。
また、姿勢を変えなかったキャンディーズは「普通の女の子」に戻り、ピンクレディは一気に幕を下ろすことになってしまいました。
ホットとクール、たぶんその区分をはっきり区別することは難しいのだと思います。勅裁性と多義性、わかりやすさとあいまい性、距離感、言葉と行間、、、、、ホットとクールとはメディアの問題、つまり僕たち自身の関係の持ち方であり、それは同時にコミュニティのありかたの問題でもあるでしょう。
2007年8月7日
阿久悠の世界4/脱モダニズム
ちょうど、このころクラスメートの女の子たちはフォーリーブスに夢中になっていた。そして、それから3年、スター誕生が始まり、森昌子、桜田淳子、山口百恵、岩崎宏美がデビューする。歌が軽やかに、意味を失い、歴史を吹き飛ばす。阿久悠が近代化され、自立し始めた日本の歌を一気に解体していったのだ。それは僕たち若者の歓喜の言葉が新しい歌を作り上げていったということだろう。
言葉の魔術師は実は言葉を解体し、新しいシチュエーションで展開していったのであり、阿久が通った跡には子供たちによって、新世代によって、新しい基準が生まれていっただけなのではないだろうか。
しかし、それこそ、ポストモダン。
それは主義や主張が終焉を迎え、社会が次の時代を模索していた時代でした。建築の世界でも磯崎新が、建築はこうあるべきという、近代主義思想を解体し始めたときだった時だと思います。そんな時代に阿久は登場する。
2007年8月6日
阿久悠の世界/孵化過程
「歌は世につれ、世は歌につれ。」と言われる歌謡曲の世界で、社会が渇望する、新しい時代の歌をつくるということに挑戦した作詞家です。いかつい顔にかかわらず、「あなた、お願いよ~」(岩崎宏美のロマンス)などというフレーズがでてくることに大きな違和感を感じたり、「スター誕生」というオーディションで素人同然の応募者にきつい言葉で審査をしていたことを記憶していたり、僕自身の脳裏にも焼きついている作家です。
その「スター誕生」とは、彼が新たな時代を嗅ぎとるためにとった一つの戦略です。一人ひとりの応募者から、新たな歌手を発掘する、選んでゆくことの過程で、自らの価値観を探し求めていたのではないかと思うのです。一人のスターを探し求めるというより、時代の精神、時代の求める方向を探し求める手段ではなかったでしょうか。
「元々、スターの基準があったわけではない。」と彼があるところで述べています。もちろん、そうした基準などあるわけはありません。だからこそ、新たな創造といえるのであり、答えのない、新たな創造を行うために常に試みられる、必要不可欠なものです。
ただ、それは簡単なことではないでしょう。「歌は世につれ、世は歌につれ。」と言われるその言葉に世の作詞家や作曲家はどれだけ苦しめられていることだろう。
しかし、世が従って行くのは何も歌謡曲や流行歌だけのことではない。われらが建築家も自分のイメージが、世を問い、世に従われるものかは非常に苦しむことになる。生みの苦しみとはどの世界にも必ず存在するものなのです。
そうした新たな創造の時に阿久悠の頼ったもの、それは一人ひとりの応募者の姿であり、総計何万という新たな世代の姿であったのだろうと感じます。「スター誕生」とは孵化過程そのものなのではないでしょうか。
2007年8月5日
生物多様性論
人類は単一の種で永続できるものではなく、多くの生物が歯車のように関係しあって、永続できるのだという理念であり、だから、ちいさな虫さえ大切にしなければならない、殺生を禁ずる仏教の教えみたいなものですね。
また、それは、生物に与えるさまざまな人間の行う非人間的な対応が結局人間に戻ってくることを描いた、レイチェルカーソン著、環境問題の古典といわれる「沈黙の春」で警鐘されていることでもあります。
これは人間的な視点だけではなく、多くの生命に敬意を払うことであり、この多様な生命の姿こそが、生態系を豊かに保つ根本であることが理解されてきたのです。
かつて、今西錦司の「なるように進化する」、「なるべくして進化する」という進化論に傾倒していました。競争原理や自然淘汰によって、進化してゆくと一般に考えられるダーウィンの進化論とは違い、共存の中から、必要に応じて変わるべきときに変わるべくして変わってゆく、というのが今西理論です。つまり、それは生態系全体が必要な方向へと、一気に変わってゆくということではないかと感じています。
このように考えるとき、生物だけではなく、生物が構築する時空間を含めて問題意識として取り込むことができ、多くの問題と関係しあい、繋がってゆくのではないでしょうか。
生態系の中には生命遺伝子だけではなく、文化遺伝子、社会遺伝子があって、系の要請によって変わるべく変わるのではないかと思うのです。
人の社会も含めて、それらを生態系-系と考えることで、しくみとつながりが見えてくるのではないでしょうか。見えていない部分、繋がっていない部分をさまざまな領域からつなぎ、現す必要があります。生命や地球の問題を生態系の問題としてとらえる時、抽象的で、遠く離れた、見知らぬ問題が身近に描かれた事柄として見えてきます。
僕たちのまわりの社会を生態系としてとらえるとき、生命を支える遺伝子による世界、文化を生み出す遺伝子が示す情報、人の活動を支配する方向性をつくる社会遺伝子が、自然からコミュニティにいたるまでの一続きのストーリーとして現され、「環境」という姿が身近に、リアルに見えてくるのではないでしょうか。それこそが、「環境」と考えるものではないかと感じています。
2007年8月4日
町を描くことから3

「3.まちとはどこにもある
岡崎とはどこにあるのだろうか。それはどこか特別の場所のことを指しているのだろうか。
しかし、それは特別な景観ではあるが、私たちにとっては何か特別なものではない。町はいたるところに存在して、私たちの周りの空気のような存在である。普段の町は、歴史がない、重みがない、きれいでない、統一感がない、城下町らしくない、などそんな印象があるかもしれない。しかも、その岡崎は空地が連なり、また、巨大なビルと古い小さな家屋が狭間をつくるなど、空洞化の町と言われている。
しかし、それらすべて岡崎なのであり、それらが岡崎という歴史や文化を持った独自の景観をつくっているのである。空洞化と言われる場所も、建物が解体されて隣接する建築の様子がよくわかる。町の仕組みも見えてくる。空地の先には丘の稜線も見えてくる。また、昔の大きな樹木が残されていて、ひとつの大きな中庭のようにも感じられる。空洞化は町の内部に光をもたらし、風を通し、緑を充満させるものであり、新しい町の息吹さえ感じるのである。
一面だけを見ていると、岡崎は異質なものがぶつかり、混沌とした衰退の町に見えるかもしれない。しかし、古いものだけでなく、新たなものも生まれているのであり、それらは混在し、町に広がるまだら模様のように感じる。新旧、大小、粗密、直線と湾曲、光と陰など、町をつくる多様な断片の宝庫である。
これこそ都市の証である。岡崎は異質なものがぶつかってそれらが程よく全体像を形づくっている多様な価値観に溢れた町なのである。その豊かな多元的な都市の中で、一つの視点で町を見るから空洞化を嘆くのである。岡崎城、城下町、康生通り、都心などという一元的価値から、多元的な価値の溢れる都市へと岡崎は変貌しているのであり、それらの町の様々な断層や空洞化や混在性の中にこそ、町の本質が見えてくるのである。空地の大きな樹木、通りの奥の家屋の断面、視線の先の丘の稜線、緑に覆われてしまった住宅、大きなビルに隣接する古さが魅力の店舗、などなどそうしたものが重なりながら都市は成長する。
同じような建築が建ち並ぶ通り、統一されたスカイライン、刈り込まれて整然とした街路樹など逆に息がつまらないだろうか。町らしくないのではないか。空地が奥行きをつくり、大きな樹木が視線の先にあり、古い住宅の連なりが人間らしさを生み、大きな看板や目立つサインに親しみを感じる。そこには人の営みが生きている。それが岡崎の町である。多様な顔があって、表情が現れる。人間的な、襞のある、深みのある表情が浮かんでくるのであり、そこに、人の思いも感情も、そして人の滞留も生まれてくる。それが町であり、そこから様々な交流が始まるのである。それがコミュニティの姿であり、町の形である。
岡崎には多くの可能性が息づいている。それに気がつかなければ町は見えてこない。多様性の町をどのように感じるか。多様性が混在することにこそ、岡崎の面白さがある。しかし、均質化、統一化、一元化のなかでそれすらも壊されているのではないだろうか。見えない町は、簡単に壊れてゆく。生活を重ねることが空間を積み上げることになり、時間を重ねることが歴史を重ねることにつながるのであり、岡崎の町はこのようにしてつくられているのである。」
歌舞伎と大相撲
サーフィンを楽しむ新しさを持った横綱や大学をでて新たな道を開拓した横綱、ハワイの文化を持ち込んだとても強い大関。とても新鮮で、新たな地平を開かれる思いがしたものです。世界が広がり、文化が一気に開花したように感じたものでした。
しかし、彼らはもちろんのこと、多くの新しいものは、伝統や品格、教育という言葉のマジックによって押さえつけられてきたように感じます。
はたして、伝統とは閉鎖的なものなのでしょうか。 (そういえば、太田房江府知事は土俵に上がれたのでしょうか。)
一方で、歌舞伎のニューヨーク公演の様子も入ってきます。こちらはどんなにしきたりが重くても、そしてどんな不祥事があろうと、舞台そのものの面白さで勝負できるようになった、見てもらえるようになったのではないでしょうか。古さの中に新しさを、未来を感じます。
しきたりや伝統とは何か。郷に入れば郷に従う、しかし、世界に開かれれば、世界に従う。
伝統の本質とは何か、それは舞台や土俵の上にしか、表れてこないもののように感じるのですが、、、。
音楽家が音に思いを込め、画家がその一ふりの緻筆に工夫を凝らし、作詞家はその言葉の巧みさに命をすり減らす。弓道家は心を鎮めて的の中心を射抜き、アスリートは0.1秒、0.1cmにこだわってわが身を削る。
そんなに複雑なことはないし、教育すべきこともないように感じるのです。
2007年8月3日
2002年8月3日内井昭蔵死す
内井さんが亡くなった半年後、17年かかった明治学院大学のプロジェクトがすべて完成し、僕は独立しました。
内井さんは愛地球博でもプロデューサーとなった菊竹清訓氏の一番弟子で、YMCA野辺山高原センターや世田谷美術館、高円宮邸や今上天皇の吹上新御所、明治学院大学や国際日本文化研究センター(日文研)などの設計担当建築家としても有名です。東海地方では一宮博物館や高浜かわら美術館を設計しています。
内井さんはいつも、スタッフの姿を見つめ、そして、建築の(もちろん町でも同じですが)主役であるそこで活動する人たちの姿から、建築空間を思い描いていました。大上段に構想や哲学を振りかざすのではなく、小さな一つ一つの部分の問題から、不合理を戒め、新しい何かを見つけるべく、徹底した個の部分からのアイデアを積み上げ、大きな構想を作り上げる建築家でした。
内井さんは葉っぱを描きながら、枝を付け加え、知らないうちに太い大きな幹を描きあげるように進めていました。葉から枝、枝から幹を、太い幹を描く類まれな建築家でした。今では、僕も葉から幹を思い描くようになっています。
また、自分の中にしっかりと答えを見据えていても、周りの意見を聴き、「ねぇ、どう思う?」が口癖でした。事務所の中でスタッフとやりとりしても、また、外部で多くの建築家をコーディネートする時も、まったく同じであったろうと感じます。
建築においてもまちづくりにおいても、「ゆるやかな統一」が内井さんの哲学でした。ゆるやかな統一の背後にある、個の自由性、独自性を生かすことこそが彼のデザインでありました。そうした彼の遺志を継ぐため、今日、8月3日はいつもにまして、仕事に励まなければと思っています。
2007年8月2日
町を描くことから2

今日は第一部、第2回、6月21日掲載分を紹介します。
「2.岡崎らしさ
岡崎の町を横断する名鉄本線に乗っていると、田園風景から住宅地へと次第に街並みが変わり、ある地点から岡崎らしさが突然見えてくる。町が独自のものと感じられる領域に入るのだ。町は様々な顔を持ち、多様性を持つものであるが、そうした町にも明確に感じとれる境界線が出現する。そこには岡崎らしさを持つ固有の町の姿、すなわち岡崎の町の風景が確かに感じられるのである。
それは、単に川を渡る橋が町のゲートの役割を果たしているからではない。また、岡崎城というシンボルが見えてくるからでもない。住まいが集まり、うごめき、寄り添ってできる集住の形全体が醸し出す、何か特別の景観を感じるのである。田畑を開発してできる町の構造から人の住まいが重なる町へと変わり、様々な人の営みが織りなされた町の姿が見えてくるのである。様々な痕跡が、人の生活や活動の痕跡が積み重なって、周辺の地域とは違った町の形やしくみをつくっているのである。そこには岡崎らしい景観と言えるものが確かにある。
それは象徴としての岡崎城でも、城下町でも、康生というかつての繁華街でもない。生活の重なり、時間の重なりが生み出す雰囲気こそ、町であると感じるのである。それが岡崎らしさを与えるのだと思う。そこが面白いのである。
歴史ではなく、時間の重なり。場所ではなく、空間の重なり。それらが町を形づくる。
学生たちは東岡崎駅前を「さびれた地方観光都市の風景」と言う。また、その中心と言われる地域を岡崎市民自ら空洞化の町とも呼ぶ。しかし、それは近視眼的な見方である。むしろ、岡崎城を町のシンボルとしてみなすから、康生通りを中心市街地再生の目標とするから、また、豊かな生活の場を観光都市と位置づけるから町が見えなくなってしまうのである。岡崎城、中心市街地、観光都市など、こうしたお決まりの言葉が町を見えなくしているひとつの要因ではないだろうか。それらは現実の町を見ないで作られた概念としての町の姿である。そこには現実感はないし、市民も不在である。
しかし、岡崎の町はとても面白いと感じる。初めて訪れた時からその確信がある。長い名鉄本線沿線においても、岡崎は他とは違う何か魅力を感じ、興味深い、ある特別の景観持った町なのである。そうした魅力は何から生まれてくるのだろうか。
現実の町を見る以外にそれを感じるすべはない。しかし、実際は見ているようで見えていないものある。自分の町をよく見て欲しい。それは自分たちの生活の場面であり、活動の痕跡なのである。町とは人の営みが形になったそれぞれの生活の場面や場所であり、それらは積み重ねられ、また新たな活動の源泉となる。そこには人の姿がつくる様々な形が溢れていて、それらが互いに親密に関係しあって、町を形づくる。
町とは住まう人たちが作る時間や空間の重なりである。そこに町の形がにじみ出してくる。岡崎はそうした人の営みが時間的にも空間的にも幾重にも積み重ねられた厚みのある町なのである。それが他とは違う魅力を感じる特別の景観をつくり出しているのだ。そうした住まう人たちの視点から町を考えることで町はより豊かさを持つ。岡崎らしさを重ねてゆく時、その中心となる地域は元気を取り戻し、シンボルが生き、他の町から多くの人たちが魅惑されて訪れる町となる。」
建築とファッション
新国立美術館は収蔵作品を持たず、大きな巨大な空間を持った展示空間がその大部分を占める貸館的美術館です。巨大な展示空間を確保することが第1の条件であり、そこへ多数の搬入者動線をスムーズに、明快にすることが第2の条件であり、一般者の動線の条件が最後になるのですが、それも多数の展覧会へくるそれぞれの訪問者が混乱しないように明快に区別できるようになっています。とても、巨大でシステマティックで単純な建築なのです。
空間の領域を作る、スキンをどのように考えるか、考案するかの歴史がつづられている展覧会でした。
領域を囲い込むこと、環境を取り込むことが建築であり、ファッションですが、同時に、それによって形作られたスキンは自分自身に代わって、何かを表現しだします。ファッションと建築というその規模や形状、存在する時間が異なろうとも、その部分に葛藤するデザイナーの意識に違いはないようです。
たぶん、自由で何でもできると思われているファッション-服飾デザイナーはむしろ規範を求めてさまよい、1枚の布に多くの意味を持たせていったのであり、一方、習慣や制度、素材や制作など従来の規範に我慢がならない建築家は、柔らかで、はかなく、ゆらめくようなスキンをつくりあげてきました。建築は今や、その骨格となるボーンにまで柔らかさを展開し始め、建築の考え方を根底から覆そうとしています。重力からの乖離であり、同時に、そこで活動する人々への目線を強めているのです。
今、僕も古い小さなビルの外装リニューアルを行うために、金属のメッシュ(金網)で幾重にも覆い、柔らかで、透けるようなデザインを行っています。
2007年7月31日
町を描くことから1

「1.町とは何か。
私たちは岡崎という町に面白さを感じ、どのような町なのか、その面白さはどこから生じているのかを明らかにしようと考え、町を描く作業をスタートさせた。研究室のメンバーが岡崎の町に出て、町の面白い形、気になる場面、活気のある場所などを自ら町を歩き、発掘し、地図に記録するのである。最初はどこも活気がない、興味がわく場所が少ない、何を見つけたらいいのかわからないと悩み、作業が進まなかったこともあった。しかし、何を見つけてくるのか、また何を撮ってくるのか、初めは見えてなくても、歩き回るなかで次第に見えてくるものだ。何も見えないと思えた場所においても、何らかの岡崎らしさを発見しようとする意志を持つことで、多くのメンバーが岡崎の何かをつかまえるようになった。このようにして地図に描いた町の姿を私たちはウォーキングマップと呼んでいる。
昨年11月には成果の一部を10枚のパネルにして発表し、私たちの進む方向性もはっきりと見えてきた。今回は成果の全体像を明確にし、私たちの視点から描いた岡崎の町の姿を3部構成でお届けしたい。
まず、第1部はこの町を描くウォーキングマップの基本となる考え方を7回のシリーズで提言する。それは町とは何かを表す新たな発想であり、町を自分たちの視点で語る新しい町づくりの理論である。町に住まい、活動する人たちが町に向ける人間的な視点でもある。
次に第2部として、メンバー一人ひとりが町を探索し、制作したウォーキングマップをそのテーマごとに紹介する。歩いた軌跡や写真や簡単なコメントなどを表したマップによって町の隠れた断片を描き出す。最後に第3部では個別テーマの中からいくつか選定し、町の全体マップを発表する。現在、メンバー全員で町全体を歩き回って制作中であるが、一つの完成形となって、はっきりと町の形や領域が見えてくるはずである。
私たちの作るウォーキングマップは歩くための道しるべではなく、自ら町を歩き、探索することによって見つけた町の姿を記録した地図である。
町とは身近なものである。そこに住まい、生活を行う場所であると同時に、歴史や文化、風土などの拠り所となるものである。また、同時に私たち一人ひとりの力ではどうにもならない、何か有機体のようなものでもある。
そうした生きている町の姿をそのまま描いてみたいと考えている。町を記録した地図は数多くある。しかし、その多くはいずれも抽象的な側面や観念的、計量的な側面から町の一面を明らかにするだけで、真の町の姿を映し出してはいないと感じる。目指すのはこうした地図ではない。
町をつくる視点は様々にあっていいが、町が抽象的な視点からその方向性を定められていることが問題なのである。このような町への視線は町を数字や記号やモデルに置き換えてゆくという抽象化の過程で町の身近な姿や豊かな形を失わせてゆく。町づくりには町そのものを見ることが必要である。町とは普段は見ているようで見えていないものであるが、自ら町に向い、それを感じとり、肌で感じた町の姿を見つめることが大切である。
生きた町をそのまま記録することで新たな町の形を描く地図-ウォーキングマップを構想したい。それは岡崎の本当の姿を映し出し、次代の岡崎へとつなぐ指針になるに違いない。岡崎とはどんな町かと考えてみる、いや見つめてみる必要があるのだ。」
岡谷から
特に、岡谷は諏訪湖に面し、周縁性と中心性を持った明快な町です。諏訪湖がシンボルであると考える時、それが精神性などという視点でも、また、ひとつの大きな歴史性といった視点だけでもなく、具体性を持った、今の生きる人たちの視点に変わる時、その湖岸が周囲約16km、4時間程度で散策できるまちの回廊となり、諏訪湖を中心とした行政上の3つのまちは共有のシンボルを持った、協働の場となるのではないかと感じます。
まちの特別の風景の中には人々の活動の姿が内蔵されているのだと考えています。そして、それはどこのまちにも共通して潜在しているものなのではないかと思うのです。
2007年7月30日
教育の功罪
実はこのことはある作詞家のことを本にするという企画があって、彼が教育的な企画をやって以来、作詞という創作活動から離れてしまい、面白くなくなってしまったのではないかと考えたことにその発端があります。
しかし、他人事ではなくなってきました。それを自分に置き換えると、正義や不合理さを、社会に問い続けていると、知らないうちにかなりのスランプに陥っていることが、突如わかることがあります。
何かを、誰かを教育しようとするのは、もしかしたら人から発想や想像力を失わせるものかもしれません。「教え」、「育む」とはとても畏れ多いことばです。 教育の可能性があるとしたら、もっと、別な方向のはずです。
そう言えば、芸術家で教育的な人はいないですね、むしろ非教育的と言うべきかもしれません。しかし、教育的と非教育的、その境界は難しいものです。芸術家はその作品や活動によって社会を啓蒙します。僕たちはその背中を見て、古い社会に立ち向かう勇気や闘志を学ぶのだと気がつきました。
大切なことは学ぶための素直な心、共に学ぶという姿勢でしょうか。先日、まちの公園のあり方を考えていて、その方向性がすぐには見えなくて焦っていたのですが、そこでの市民のさまざまな具体的活動が見えてきたことによって、豊かな公園のあり方が見えるようになってきました。
その硬くなった考えを解きほぐしてくれるのが、多様な市民の柔らかな考えだったり、学生のどことなく頼りなさ、不安げな、しかし、何者にもとらわれない無垢な発想なのですね。
2007年7月29日
まちの風景
空間も、そしてデザインも僕たちのすぐそばにある身近な空気のような存在です。しかし、誰にも同じように見えているわけではありません。見えるものが違うから、まちづくりやデザインは人それぞれです。市民の姿もそれぞれ、見る人、組織によってまったく異なって見えています。 そうした見る目が町の風景をも変えて見せてくれるのだと考えています。
風景とはどこにもあり、身近に見えている、感じている存在です。しかし、特別の風景、町を形づくる、むしろ町によって作られる特別の風景があるのです。 前期課題レポートのテーマは、この町を見る目によって、地域を作る風景や景観を発見することを課題としました。自らの視点をはっきり持って、写真と簡単なコメントによってレポートをまとめるのです。


これは半田と蟹江の町、町の豊かさが伝わってきます。町をよくとらえてくれたいいレポートです。 東海というこの地域では、川を中心に工場や住まいや緑地が混在して、町のいい風景をつくっていることがわかります。生活に近接して、それらとなじみ一体となった昔からの工場が今も町の特別のかたちとなって現れています。ものづくりの町なんだと感じます。
そして、最高点をつけたのが、この「水色の町」を見い出したレポート。町が水色になる瞬間をとらえています。これくらい新鮮な視点を持てれば、町はよくなるはずなのですが、この視点は多くの人が失っているだろうなぁ。



2007年7月27日
ものづくりからの改革
今回は僕のほうからも、岡崎の現況、課題、岡崎図書館倶楽部の人たちとの協働である地域の図書館づくり、シンクタンク構想の組織モデルを発表してきました。どなたも図書館に対する質問も多く、地域にとって大きな関心事であることもわかりました。
また、なさら農業にかかわっている小林清氏がその活動の状況を紹介されました。
腐朽菌による土壌改良を行い、無農薬、無肥料の抗酸化野菜づくりに携わっておられます。その事業の展開は販売から授産施設の自立支援、食品の循環、リサイクルへ向かい、排出される有機物を土に戻し、自給自足的な生産体制を目指されています。
こうしたものづくりに真剣にかかわる人たちに共通するのは、既成のいろいろなものに振り回されずに、本当に有効な手段を純粋にやり遂げていくという気概を持っておられることです。「正しく考える人が正しく情熱を持って一石を投じれば、どのような波紋も必ず大きくなる。」というのが彼の信念です。
前回発表された高浜市の都築氏にもそうした印象を持ちました。本物のものづくりが直接町を変えてはいけないのではないか、と考えていました。が、具体的につくられる結果だけではなく、それも重要ですが、それ以上にそれを成し遂げるやり方、お決まりのやり方ではなく、絶えず、既成の習慣や制度にとらわれず、有効なやり方をとってゆくという、その情熱とプロセスにこそ、まちづくりの本質、市民の町を快適にするという業務の本質を踏み外さない、重要な役割を担うのだと感じました。
2007年7月26日
見るものから見られるものへ
近年はどの分野も即興的表現を加え、やわらかな、身近な表現を行っている。即興的に作曲された音楽に、これまた、即興的な要素を強くもった踊りを加え、しろうとっぽく、危うさを抱かせながら、音楽やダンスの生まれる瞬間を表現しよう、音楽やダンスのテーマにして行こうとした試みであると感じました。
最後には、観客席の幾つかが椅子ごと舞台の中に引きずり込まれ、見ていた人が突然見られる人へと、演じる人へと転換させられて、ホール全体がひとつの舞台となり、騒然とした、大きな渦の中へ投げ込まれたような雰囲気のなかにいました。好むと好まざるにかかわらず、(このセッションに来ていた人たちはたぶんそれほどの驚きもなく)舞台に引き上げられたのです。
ここには人の活動の本質的な形が表わされています。見ること、と見られること。演じること、と観客でいること、それはそれほど大きな差のあることではないのです。たとえ、クラシック音楽にしても演奏している、音楽を作っているのは演奏者だけではなく、そこで聞き入って、体の中に音楽を感じている人なのだと思うのです。
そのことが新しい音楽、即興的な音楽やコンテンポラリーダンスから直接的に感じることができます。
今の社会のさまざまな活動はどちらが主体で、どちらが客体などという、区別は必要なく、両者が融合して初めて、活動が動き出すのではないでしょうか。
矢作氏の舞台が渦を巻いて客席を取り込んでゆく時、観客は度胸を決めなければならなくなります。見るものから、見られるものへ、演じるものへ。
しかし、一度体験すると、演じるものの面白さは誰でもが共有でき、楽しめ、病みつきになると思います。
そんなことがまちづくりにも、ものづくりにも、さまざまな活動にも言えるのではないかと思っています。
2007年7月25日
六供町街並み調査

日本では建築基準法によって道路の幅員は4mと決まられていて、多くのまちではこのような2m程度の路地は消し去られる運命にあります。しかし、道路を4mと規定し、否応なく拡張してゆくことはコミュニティの破壊につながるものと考えています。
防災、救急、ごみ収集などの点から道路の拡幅は必要とも言われています。しかし、上記のロコロトンドでは小さな幅のごみ収集車が細い路地を行き来していました。高層ビルが町にできると新しい消防車を導入するわけですから、町に適した消防車や救急車、防災に対する対策をとればいいのではないかと思います。
六供町の街並みのすばらしさを伝え、新たな保全の姿を描こうと考えています。
濃密なコミュニティの形を持ったこの街の姿を生き生きと描けたとき、その次の活動が始まるのだと思っています。
2007年7月23日
図書館の合理化
合理化は必要だろうと思います。本来のリ-ストラクチャーも当然必要です。しかし、図書館の合理化というと、積層周密書架や機械式収蔵庫など収蔵機能の密閉化、バーコードをかざすだけの貸出業務の短縮化、司書削減によるレファレンス機能の低下、大手図書販売会社への選書機能の投売り、、、、。
しかし、本来の機能(と思っていないからなのですが、)である、書物を通じた交流の場所、活動の場所の提供、市民生活の支援などの側面には、合理化が進められないのです。
民間では在庫をなくす、見えるところに陳列して倉庫を削減する。POS(Point of Sales)システムが導入され、レジ業務が商品動向の確認の手がかりとなり、また、マーケッティングを早く、広く、深くすることで業務の拡大につながります。それは利益を上げるための、仕事を増やすための、そのための合理化であり、新たな役割を果たせない設備や人材はリストラされてゆきます。
業務の志向が180°間違っているような気がします。どこに力を注ぎ、どこを削減し、いかに考えるか。
まずは図書館長となる有能なリーダーによる図書館のリストラが必要です。あるいは、有能な人材がなければ、組織化されたサポートシステムによって、たとえば市民や有識者の持っているネットワークによって、マネージメント、プロデュースを支援し、代行する、館長機能の法人化が必要かもしれません。
マネージャーやプロデューサーたる有能な館長のその人材は限られているでしょう。誰でもできるわけではありません。
しかし、有能な司書は星の数ほどいるのではないでしょうか、出番を待っているのです。また、それを渇望する市民も、また、それを支援する図書館ボランティアも星の数ほどいます。
2007年7月21日
オープンオフィスから
オープンなオフィス空間が黒を基調色にして色彩計画がまとめられています。ここが公共の執務空間ではなかった新しさです。サインは黒の背景に白やアクセントカラーの文字となっています。回廊となっているブリッジから3階の玄関に入り、ロビー、EVホール、そこから吹き抜けを介して、向こう正面のミーティングスペース、その周囲には執務空間が展開されています。建築空間にうまくサイン計画がおさまっていて、スムーズに視線と視点が続いてゆきます。本当は最後にサイン計画に建築空間を合わせてもらったのですが、うまくできあがっています。
下山学区のまちづくりでお世話になっている、石川氏も黒川氏にもお目にかかれました。
しかし、まだまだ、オープンなオフィスを全部署が使いこなせているわけではありません。インテリアから執務のあり方へ、組織のあり方へ木河さんは考えておられるようです。新しい執務のあり方が次の空間をつくり、今度はそれが執務のあり方、組織の未来を新しくしてゆくという、醍醐味の真最中、本当はこれからが勝負です。
明治学院大学の計画でも、オープンなスタッフラウンジやミーティングスペース、オフィスをオープンにする段階的なファイルシステムなどなど、、、僕たち建築家とともに作りあげてきた管財部の皆さんがそれをモデルとして、リーダーとして、組織の意識改革へ向けて、その使い方を実践されました。かっこいいなぁ、働きやすいなぁ、見られているっていいなぁ、と皆が感じることで、考えていたように空間は変わってゆきます。
オープンなオフィスに相変わらずの日本的なデスクの光景。民間の企業も同様かもしれませんが、このデスクの配置が解体されてゆく時、次の時代が始まります。
2007年7月20日
模写/スケッチ
何かを作るときには、形をなぞり、手を動かすことから、新しい何かが生まれるのだと話したところ、絵の世界でも模写が大切だと言われました。建築のデザインを始めて以来、「スケッチ」や「スタディ」と呼び続けていますが、「模写」と聞いて、ずいぶん懐かしい思いがしました。たぶん、絵画でも先生の分野である文学でも同じなのだろう、そして、ものづくりも同じだと思います。不思議と自ら手を動かすことで、見えてくる何かがあるものです。
形をなぞるだけで、新しいこと、個性的なことは何もありません。ひたすらなぞるだけですが、ある時、その筆緻タッチが大きく揺れる時があり、新たな形が現れてきます。 なぞりながら、形をつくるための条件を探り当てようとしているわけですが、条件を探り当てた時、それらが飽和した時、その瞬間は訪れるのではないかと感じます。
先日、視覚障害者が絵を描いているところに出会いました。彼は蝋をインクとして作られた万年筆を用いて描いていました。僕たち健常者が目で追って描くところを、蝋で盛り上がった軌跡を指先で辿りながら、追いながら、次の筆を進めるのです。たぶん、模写にはもっと真剣であるだろうと思います。だからこそ、障害がありながら、あるいはあるからこそ、心に訴える絵や書が描けるのだと感じます。デザインも、まちづくりもすべて同じで、真剣に模写をする必要があるのです。
それはまちの姿、人の生活の姿を見ることから、記録することから始まります。
まちの活動の姿がまちをつくるのです。
2007年7月19日
まちをつなぐもの
ウォーキングトレイル、フットパス、などヨーロッパでは、健康志向で 自然な形で整備されてきました。日本では、古道の鳥居や鎮守の森、路傍の道祖神など、古くから身近に展開されています。自分のいる場所や領域を確かめ、その方向性を定めるアンテナのようなものです。
道にはいろんなものが付随する。そうしたものとともに生活があり、それらを見失わないようにつないでおかなければならないのです。今過疎地でもまちづくりを考えています。手がかりを探しています。
多くの新しいまちではパブリックアートによりまちに場面を埋め込み、越後妻有ではアートトリエンナーレ大地の芸術祭によって、土地に場所を刻んでいます。そうして、まちをつないでいます。人の活動の痕跡を残していかねば、そして見つけていかねばならないのです。
それが風景となって独自の町の姿を表すのではないかと考えています。
2007年7月18日
まちなみ水族館
ここにはさまざまなまちのアイデアが隠されています。まちなみの具体的な形には未だ至っていないかもしれませんが、しかし、しっかりとしたネットワークとしての水族館は存在しています。それがまちの形なのですね。
そして、何より大切なことは、それぞれが水族館長であることです。
まよなか、まちなか、まちなみ、まちの形は見えてきました。
2007年7月17日
地域の図書館
そうした視点から、岡崎の図書館支援を行ってきた図書館倶楽部の人たちとミーティングを行いました。いろんなものに振り回されずに、身近な活動を推進し、研究開発してゆくべきと考えていたからです。
まちとは何だろう?。市民とは誰だろうか?。と考えるとき。
ごった煮のように中心に集め、周辺との関係やこれまでの歴史との関係を断ち切るやり方は町を破壊するもの、市民をないがしろにするやり方であると思えてなりません。
しかし、それを打ち破る方向が見えてきました。
まちをつなぎ、市民をつなぐ、そんな場所作り、ネットワーク作りの方向が見えてきました。それこそが地域の図書館です。図書館とは書籍の収蔵場所でも、書籍の貸出場所でも、本を読むだけの場所でもありません。もっと重要なことがあり、市民ボランティアたちはそれに邁進しているのです。書物の世界を通じたつながり、書物の世界を語り、提供する、レファレンス的、プロデュース的世界が目の前に広がってきました。
それがまちをつくり、市民をつくり、そうしてできるネットワークこそがコミュニティシンクタンクの出発点になるのです。
真夜中の図書館

それは、普通に住まうための、生きるための、自己実現のための施設を描いたものです。そのことが辻氏の「ま・よ・と」には現されています。
つまり、「ま・よ・と」とは図書館のオープン化、さまざまな境界をなくすことではないでしょうか。日本がまだ貧しかった時代につまらない図書館のイメージができてしまいました。それこそが今でも図書館だと思っている、そういう人も多いことを実感します。しかし、図書館とはそれとは根本的に違うと思う。こうした閉鎖的な図書館像を打ち破らなければならない。のです。
辻氏の書いているICチップによる本の簡単な手続き方法は、入り口の概念をなくし、開かれた図書館を作り出すものとなります。図書館の内部と外部の厚い壁がなくなり、町に広がってゆくはずです。
このICチップの入り口は岡崎の図書館が本を盗まないように窓が閉じられていたり、本を持ち出せないような読書の小径が計画されていたりすることに腹立たしくて、僕が図書館メーカーの人と共同で開発して科研費の助成を受けようとしたものです。(残念ながら採択されませんでしたが、、)このICチップも図書館のつまらない境界を吹き飛ばしてしまうものになります。
同じようなことを考えているんだなぁ。
僕が設計に携わった明治学院大学、大学の設計も同じです。大学とはこういうものだという、学生にはこんなものでいいといった、古い考えがあって、それを解体するのが大変でした。しかし、それを解体したのは、町にあふれる普通のカフェやジム、ギャラリーやブティックのあり方だった。そんなところで今、学生たちは過ごしています。大学だけがいごこちが悪くてどうするのだ。
また、一方で学生たちの巣窟であった部室も解体し、ショーウィンドウのように開かれた共有のサークルルームに変えました。自己閉鎖するのではなくて、自己表現するべきと学生たちに訴えて実現しました。
大学にも境界がなくなってきているのです。
真夜中の図書館とは境界のない、どこまでも続く、まちなか図書館。
2007年7月16日
市民による運営/岡崎市婦人会館
その由来は以下のようなものと聞いています。
1971年に婦人会館が開館し、定期講座が開講されてきましたが、運営経費を抑えるために定期講座の終了後に会館の運用をしていくために、行政から薦められ、運営のための自主グループが出来上がっていったようです。
行政側からは優先的に継続的に場所の提供を約束し、自主運営グループでは営利目的にならないように、あくまで受講生で組織し、講師をお願いする。
また、借りている場所はきれいに使わせていただきましょうと清掃奉仕活動が始まったとのことです。
そして、その運営内容は次第に確立されたようです。
昭和57年5月11日に施行された会則の2条にこの会は、グループの相互連絡提携と親睦を図り、岡崎市働く婦人会館の設置目的を理解し、グループ活動の円滑な推進に努めることを目的とする。とされ、
また、第6条ではこの会は、第2条の目的を達成するため次の事業を行なう。 と書かれており、以下のような事業が実際に市民の手により行われてきました。
1)リクレーションと親睦(館外研修や講習会)
2)学習発表(毎年3月に行なわれる“やよい展”)
3)グループ間の連絡提携と機関紙の発行(『ふれあい新聞』)
4)その他(相互グループのふれあいの中から生まれたボランティアグループ“ふれあい” での老人ホームの花壇のお手入れ、一人暮らしの老人へ毛糸のひざ掛けのプレゼント)、(やよい展即売会の収益金の一部を寄付したり、会館の草取り奉仕作業)
こうした市民自ら運営している事業は官と民との協働事業です。また、一般の貸し館業務のなかでは成しえない、本来の市民の支援活動ではないかと感じます。30年以上も前から行われていたとは、驚きです。むしろ、昔のほうが館と民との良好な関係が築かれていたのかもしれません。
しかし、その活動が休止に追い込まれました。中央に新館を作ることで、周辺の既存の施設が廃館となり、同時に活動も終焉を迎えることになってしまいます。
いったん、その基盤を失い、休止に追い込まれた時、再生させるのは最初の立ち上げ時より困難が伴うものです。
市民に対する母性
子どもと接すると、その人柄が出てくると言います。管理しようとしたり(あれはダメ、それもダメ)、見下したり、危なっかしいと感じたり(母性本能かもしれませんが)、、、、。本当は子どものほうが感性豊かで想像力豊かです。相手が弱いから、相対的にこちら側が強く見えるのかもしれません。(このような場合、大学ではアカハラ、ハラスメントと言われます。)
同じように市民に接すると、多様な市民に接すると、人柄や能力が変わってしまうのでしょうか。市民とは何をしでかすかわからない人たちなのでしょうか。あるいはこちらがわの目が厳しくなるのでしょうか。
2007年7月15日
職業としての都市計画
また、この都市計画不毛の時代に多くの負の制度や意識が確立されてきたように感じます。それもまた、夢がなくなった理由かもしれません。
今の時代であれば、都市計画がまちづくりという視点に変わり、多くのチャンスが広がってきたようにも感じられます。壮大な大きな視点ではなく、市民一人ひとりの感じる視点を共有するまちづくり人として、だれでもまちを論じることができるようになったのですね。かつて、夢を抱いていた人たちが今一度まちに戻ってきてくれたらいいと思う。そうしたチャンスは確実に広がっているのではないでしょうか。
しかし、不毛の時代は続いているのかもしれません。
職業人としてのまちづくりは、NPOのような組織に活路を見出しますが、ボランティア状態か、行政の出先機関のようでないと一定の収入が得られない、多くの固定化した制度や意識がまちづくりを阻む、自分たちの利権を守るためにまちづくり団体を標榜する、など、さまざまな障碍が横たわっています。
職能としての都市計画はこれまでの障碍となっている制度や意識をいったん解体し、再構築できる職能意識を持ったプロのまちづくり人、都市計画人が必要となるでしょう。
都市の理論で都市を語っていた、あるいは生命の壮大なストーリーを都市に当てはめていた時代の言葉ではなく、市民の視点による都市物語、ストーリーづくりが必要であり、市民の一つ一つのストーリーを束ねること、束ねて大きなストーリーにする能力が不可欠です。夢を語り、夢を実現するまちづくりへ向かう、もう一度、夢を抱く時代が要請されています。
2007年7月14日
ポストイットによる管理
しかし、相手がモノではなく、思考を伴っている場合にはその対応を考えねばなりません。管理という側面には、管理する側の重要な理念が現れてきます。
阪神淡路大震災時がボランティ活動に対する認識を大きく変えたと言われます。日本におけるNPOの活動の可能性が現実のものとなった契機とされています。その活動と実際に向かい合った状況が田中弥生氏の「行政の下請けに未来はない・NPOが自立する日」に次のように描かれています。
「一日に400人、多い時には700人をさばくため、また、現場のニーズも刻々変わってゆく中で、 事前登録制のようなやり方では対処できないので、管理しないでボランティをコーディネートしようと考えられ、
1.ボランティア希望者は受付時に大判のポストイットが渡され、名前、住所、参加回数、得意技術をそれに記する。
2.そのポストイットをボランティア待機者パネルに貼り、仕事パネルを待つ。
3.一方、事務局は当日必要とされる仕事を仕事パネルに記する。
4.仕事パネルには仕事の場所、種類、ボランティアの人数(男女別)が記されている。
5.ボランティアは待機パネルに貼った自分のポストイットをとり、仕事のパネルの自分の希望する仕事があればその場所にポストイットを貼る。
6.仕事パネルには定員が記されているが、貼ってあるポストイットの数によって必要数に達していることがわかる。
7.ボランティアの仕事を終えて帰ってくると、ポストイットを仕事パネルから剥がし、受付に戻る。
このようにして、一件の事故を起こさずに大勢のボランティアを同時に一挙にさばくことができたようです。 」
このICチップにも負けないポストイットには自らの意思を持ったボランティア活動をその意識を低下させず、 柔軟性、即応性を伴った本当の意味での管理という理念が表されているようです。
2007年7月9日
フィードバック
当時、岡崎市財務部の木河氏を始め、担当の方たちからサイン計画の説明を受けました。熱意を持って頑張られた様子をひしひしと感じたものでした。実はサイン計画自体はよくできていて、修正する部分はほとんどなかったのです。しかし、大切なことはその優れたサイン計画に基づいて建物本体の計画にフィードバックすることであると提案しました。つまり、工事中の建物の設計変更を行う必要があったのです。
問題はハードとソフトのずれなのです、いくらすばらしいサイン計画でも本体とずれがあっては効果的ではありません。どんな分野でも同じで、だからフィードバックを行うのです。内井昭蔵事務所ではいつも当たり前のように変更作業を行っていました、リデザインと言っていましたが、僕たちは楽しみながらやっていました。
これはまたとても面倒なことでもあるのですが、でも、建築の質に大きくかかわるのです。だから、やらねばならないのです。
間違いやずれは必ず生じてくるものであり、それはないと言い張るのではなく、修正してゆく、フィードバックすることが重要です。思考を重ね、フィードバックすることで新たな価値、それまで見出せなかった方向が見えてくることも多々あります。
今回担当された木河氏たちはこの面倒な、行政ではなかなか取り組めないと思っていたことを実行に移されました。多くの障害をクリアされたのだと思います。
少し元気が出てきました。
フィードバック(feedback) とは、絶えず自己を見つめ、相互に情報交換、応答を行うことであり、自律的組織であるかどうかの評価を行う指標となるものではないかと考えます。
「元来はサイバネティックスの用語である。生物の恒常性を支えるしくみにその原理が見られ、ある操作をおこなう系と、それへの入力と出力があるとき、その出力が入力や操作に影響を与えるしくみ。」(ウィキペディア(Wikipedia)より)といった原点の意味から、エレクトロニクスや製造分野で用いられるだけではなく、フィードバックは、医学やITの世界で頻繁に交わされる考え方になりました。
「私たちの心身は外界からの刺激に反応して時々刻々変化しています。外部に向けては筋肉を動かしてそれに反応するとともに,内部では自律神経系や内分泌機能などを通じて体内環境を適切に調節します。 ただ,その多くは無意識的に操作され,意識にのぼってくるのはごく一部です。したがって,体内状態を意識的に変化させる事態や必要性は,日常ではほとんどありません。そのため,私たちの体内状態を変化させることは意識とは無縁であると,長らく信じられてきました。たとえば,自分の体温を意識するだけで変化させることなどは不可能であると思われてきました。 ところが,このような体内状態を適切な計測器によって測定し,その情報を画像や音の形で自身が意識できるよう呈示することにより,従来制御することが不可能であると考えられてきた諸機能を意識的に制御することが可能であることが分かってきたのです。 このように,意識にのぼらない情報を工学的な手段によって意識上にフィードバックすることにより,体内状態を意識的に調節することを可能とする技術や現象を総称して"バイオフィードバック"とよびます。」(日本バイオフィードバック学会Hpより)
それはコミュニケーションを始め、多くの活動においても重要な考え方であり、意識をして自らの環境を調整してゆくことが必要なのだと思います。まちづくりにおいても、その手段のひとつが中間性媒体となるコミュニティシンクタンクなのです。
2007年7月8日
場所の力
場所とはこれまでの積み重ねの中にいろんな意味が隠されたもので、それをどのように読み解いて価値を見出すか、が大きな鍵となります。それはこれまでも空間的要素の位置的、接続的関係を示す大地のトポロジーとも言われます。現実のまちにはこれに生きている意味的関係が付加されます。
地元の建築家、北野氏は次のように語ります。
伊賀川の桜には特別の思い入れがあります。
その1 川べりは、異界が垣間見せる場所。勝手野放図が許される場所。治外法権の場所でした。世界の歴史ある都市に、川のないところを探すのは容易でありません。都市は川によって生かされている共同体です。
その2 自動車世界No1企業の掟に、「桜をはじめ樹木の一本たりとも殺めるな」というものがあるそうです。工場内駐車場整備のために、桜の木を一本切った管理職が、突然いなくなったそうです。社員の間で、あの人はどうなっただろうかと、しばらくうわさになったそうです。 最悪、木がじゃまになる時は、費用を度外視して移植する。
その3 岡崎公園の伝説の場所が危機に瀕しています。これも駐車場関連ですが、浄瑠璃姫のお墓と、三州ばけ猫騒動(東映)の坂道が取り壊されます。城郭史の上からも意義のある遺構だそうです。 周りには大木が繁っています。史跡公園のひとつの史跡が、行政によって壊されようとしています。
その4 三年ほど前、安城の炭焼き校長先生のお話を聞く機会を得ました。先生は、鹿乗川支流の土手に桜を植えようとしたところ、行政から禁止されたそうです。「治水上堤防は、舗装も植樹もしてはいけない場所」と、説得を受けたそうです。伊賀川をたとえに上げたところ、行政との合意はあって、例外事例のようだったとのことでした。
その5 さて伊賀川の桜 敗戦後一人の篤志家が個人で植えた桜がその起源です。私が高校生のころ、その篤志家が亡くなられました。桜の満開のころでした。むかし、火葬場は伊賀川の上流の稲熊にありました。井田小学校の近くで、煙突の煙を見るごとに、また一人と、小学生心に感じていました。 いまもむかしも伊賀川は、火葬場への道筋にあります。 川辺の満開の桜達が、最後のお見送りをしたと思ったことがあります。 中学生時代、葵中学の夏の行事に、伊賀川の草刈りがありました。全校一丸、鎌で草を刈り、リヤカーやオート三輪に乗せ、学校まで運び、堆肥を作る。1日授業を中断したイベントでした。汗をかき、苦しい思いをして、大変な一日でした。
と、さまざまな繋がり、物語がまちをつくっているのです。
2007年7月7日
社会的視点
題目提出が締め切り間近になった卒業制作の課題内容をゼミで討論しました。なかでも1ヶ月前に二世代住居の設計を行うと宣言した森さんのアイデアがうまく展開できていました。ある家族の住居はそれぞれの家族にフィットした特別の住居を設計すればいいので、卒業のための研究制作になるかどうか心配していたのですが、彼女の提案は多くの二世代の家族のためにまちに、協働で作業を行い、また語り合うコレクティブハウスのような共有の拠点をつくることへ方向づけられており、 個人の視点が社会的視点へと大きく成長したと感じました。コレクティブハウスとは北欧で発展してきた協働運営型の集合住居ですが、社会の問題を意識できた作品になることでしょう。
それは福祉や医療や高齢化、少子化や養育や教育、エネルギーや情報化、生態系や緑地など、多くの課題にかかわってきます。 それらを社会的視点でとらえる必要があります。
もはや個人がそのマネージメントを行うだけではなく、社会が、コミュニティがそのマネージメントを行わなければならない時期に来ました。そうしたマネージメントのための拠点がまちに必要になるのであり、言い換えれば、それがこれからのコミュニティになるのだと考えます。
市民活動も市民交流館や文化センターなどような貸館、貸会議室があれば運営していける時代は終わって、次のステップへ進まなければならないのではないでしょうか。それはマネージメントされる旧態然とした活動の形であり、いまや、自ら社会のなかへ出て、マネージメントする立場にたつことが要求されるはずです。そこにこそ市民活動を社会的視点でとらえる拠点が必要になるのではないかと思うのです。
活動のための拠点、マネージメントやネットワークの拠点となるような、協働のためのコレクティブハウスが必要になるのです。
授業でいつも紹介していた「コレクティブハウス かんかん森」http://www.chc.or.jp/project/kankanmori/は住民の皆さんが中心になって組織化を進められていました。いたるところで、社会化、協働化の波は大きくなってきたようです。個人の視点から社会の視点へ自らの目を広げる時代なのです。
2007年7月6日
ウォーキングマップ第二部
第三部はまち全体の総合的マップと考えており、まだまだ制作中ですので秋頃の掲載になりそうです。
二部はこんな素材で構成しています。僕の解説コメントからマップが始まる予定ですが、どれも変わった視点から、でもそれがリアルなものなのですが、岡崎の知られざる姿を描き出しています。
01.回遊/Loop
ウォーキングマップを手探りで始めた2年前の最初のマップです。岡崎らしさ、にぎやかさを感じる方向へ、交差点でどちらの方へ向うかを選択しながら歩いている。まちから何を感じたらいいのか、マップづくりの方向性を見つけ出してくれました。まちには惹きつけられる場所や遠ざかりたい方向があり、自らの視線の先に見えない境界線が表れてくる。この境界線をつないでゆくと中心性を持ったある領域が見えてくる。まちを巡る見えない都市回廊が隠されているようです。
02.小道/Path
手探りだったマップづくりのやり方を方向づけてくれたマップです。岡崎の周縁には大通りから住宅地に向けて、末端神経のように張り巡らされた小道のネットワークが描かれています。それらは細やかな人間の営みの集積であり、町の境界を形づくっているのです。
03.接点/Interface
様々な、生きた人と町との接点が描き出されていて、人間的な町の表情を追っていったウォーキングマップです。大通りよりも一歩入った内部に町の豊かな表情が残されていますが、これこそ、町と言えるのではないでしょうか。
しかし、今、町から人間的な表層の表情が除去され続けていると感じています。
04.丘/Hill
坂や階段と緑の斜面が次々につながり、丘という領域をつくっています。豊かな場面がつくられ、その様々な場面から見える緑は内部でつながっているようです。
丘と坂と緑が重なりあって、多面的な、人間性溢れる町が表われています。
05.交差点/Intersection
交差点とは交差している通りへと町が広がってゆく重要なポイントですが、それを視覚的に描いたマップです。岡崎の交差点は建物が角を向いて、明るさやにぎやかさを感じる場所が多く、何かが語りかけてきます。交差点とはそんな特別の場所なのですね。
06.緑/Plants http://community-thinktank.blogspot.com/2007/06/blog-post_16.html でも紹介しています。
岡崎の市民がつくる樹木はとても逞しいです。それらが連続して小さな森となって連なり、緑のネットワークを生み出しています。それは新たな里森の姿です。
07.車止め/Stop
車と人との境界をつくる車止めを描いたマップです。それらの内側には歩行者の領域が広がり、周辺には人間的な風景が現れています。日頃は気にも留めない小さな物体、車止めを通じて、町に隠れている歩行者のための大きな公園のような空間が見えてきて驚かされました。
08.階段/Step
階段や段状の場所に注目し、丘の切断面を記録していったマップです。丘の斜面に人の生活を形づくってきた地層のようなものです。地層が連なって、岡崎の町がつくられています。
09.コンビニ/Store
コンビニはマーケッティングのもとに均一性と規則性を持った店舗であると考えていました。しかし、現実には特別に意味を持った集まりとして、広場のごとく町の中心をつくりだしていることがわかります。
10.自販機/Vending Machine
自販機も適当に必要に応じてランダムに設置されているわけではないようです。小さな道の入り口やちょっとした隙間や凹凸部分に置かれています。町に現れる襞の部分を描き出していると言えるかもしれません。
11.夜の光/Night Town
光に誘われ、光の壁面を追っていったマップです。光にあふれる場所をつないで行くと一つの共通の広がりを持った領域が現れます。アメーバーのような生きた空間の広がりを実感できるひとつの町なのです。
12.音/Soundscape
岡崎は多様な音が混在する町です。単に静かであればいいのではなく、静けさ、自然の音、人々の話し声、商店のざわめき、車の騒音など様々な場面が関わりあって、豊かな町をつくっているのです。音と場所の融合も環境をつくるのであり、そうした場面を思い描き、つなげる想像力が必要なのです。
こうした、12のまちの姿はいずれ、オカザキウォーキンマップとしても公開予定ですが、何よりまちづくりへの指針とし、まちの構想作りを行いたいと考えています。