「大学生が「ビーチ図書館」開設プロジェクト/横浜
砂浜で読書の秋?-。ビーチの利用の幅を広げようと取り組んでいる東海大学の学生による「ビーチライフ創生プロジェクト」(高市慎太郎代表)のイベント「砂浜の図書館」が20日、横浜市金沢区の海の公園に開設され、親子連れらが砂浜での読書を楽しんだ。今年で2回目。21日、10月4日も開設される。
同プロジェクトは東海大学の学生が中心となって取り組み、「秋のビーチの楽しみ方」を提案するもの。書籍は市民などから寄せられた小説や絵本など約350冊を用意。砂浜には、シートを敷き、背もたれ用の板を砂浜に差し込んで作った座いす約40個で観光客を出迎えた。 砂浜にずらりと並ぶライムグリーンの座いすに当初は困惑気味だった観光客も、趣旨を説明されると、興味のある本を持って靴を脱いで着席。心地よい潮風が吹き抜ける中、足の下の砂の感触を楽しみながら、本を読みふけっていた。
近所に住む主婦の小林英代さん(40)は「風がとても気持ちいい」と話し、長男の優人君(11)も「家では読まないけど、ここだったら読書も気持ちいい」と満足した様子。 高市代表は「一年を通してビーチが楽しめるよう取り組んでいきたい」と話している。 」(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090920-00000023-kana-l14 より)
「本が焼けるから」と言って閉鎖性を高め、「市民が本を盗むから」快適な環境なのに窓をあかない構造にする。落ち着いた空間が欲しいのに規定の明るさを確保するため眩しいくらいの照明を設置する。静かな読書のための空間があればいいと言って、本の世界とつながる多様な生きた活動を放棄する。
今、それが日本の大部分の図書館の姿であり、利用者のニーズではなく、本を管理する側の条件で計画、運営されています。日本がまだ貧しかった時代の過去の図書館像が今でもそのまま現代に引き継がれています。これでは、誰も図書館や本には興味を示さないでしょう。
そうした中で、「本物の図書館」、「生きている図書館」を目指して、いくつかの試みが行われるようになってきました。この「ビーチ図書館」もまさしく、そのひとつです。
こうしたニュースを耳にすると、温めてきた市民による市民のための図書館設立に向けて勇気と意欲と可能性が立ち上がってゆきます。
2009年9月4日
1勝9敗/ユニクロ
柳井正氏は、ユニクロは失敗ばかり重ねてきたと書いています。成功ばかりだと、保守的になり、形式化をもたらすのであり、それらは市場の変化へ対応が不可欠な小売業には致命的なものであるようです。
詳細に描かれている起業からのプロセスを読んでいると、試行錯誤の多さとそれから学び、実行することへの素早さが大切であるのだと思わずにいられません。
そこに「1勝9敗」の意味があるようです。
また、組織や人事評価についても語られていて、とても興味深い内容も明かされています。現在の社会にとても有用です。
ひとつは組織のあり方。仕事を組織に合わせるのではなく、仕事を行うための組織をその仕事に合わせることが大切さであり、その構成、つまり人員の配置とその目標を絶え間なく、仕事に合わせて変え続けることであるようです。組織は流動化し、外部からは組織の形さえ見えないこともあるそうです。
また、組織は部長とリーダーと社員の3部構成で成り立っています。リーダーとスタッフとはチームを組み、プロジェクトごとに役割を変えて業務を行っているので、基本的には部長とチームによる大変フラットな運営となっています。
人事権とは経営者やリーダーの職務の一つですが、状況に応じて柔軟に、また確実に対応できている会社は少ないのではないでしょうか。
もうひとつは、集団主義ではなく、実力主義となるきびしい評価。人が働く大きなモチベーションとして正当な評価の必要性があげられています。
その評価は意外にも自己申告によるもので、4半期ごとに人事考課をし、その期間に何をどのように成したか、自分の業績を自分でアピールする、、、、それを、面接に時間をかけて評価するようです。それは人材教育にもなるし、モチベーションも上がるし、何より能力の差を見分けることができるということなのでしょう。
90年代後半、首都圏ではまだディスカウントショップと間違えられることもあったユニクロはその直後、フリーズの販売が成功し、新たなカジュアルなファッションブランドとしてそのデザインが確立されます。そのデザインコンセプトがいつ確立したのか、誰のデザインか、考えていたのですが、、、、このフラットでストレートな経営手腕がカジュアルでユニセックスなファッションを研ぎ澄ませていったのかもしれません。
デザインとはしくみを現わし、描くことなのです。
2009年8月22日
ドラマティック
ドラマの様相が変わってきたように思います。
それらはTVの画面の中ではなく、いつでもどこでも見れるようになりました。http://youtubetvdoramadouga.blog111.fc2.com/ などで自由に見ることができます。1週間ごとに間を置きながら見るより、むしろ10-12話程度の1クールの全体像やそのストーリーははっきり見えてくるのです。
歌舞伎のように大見えを切るのでもなく、大根役者のように大げさな身振りをさせるのでもなく、多くのドラマがごく自然な姿勢で、私たちの目線から描かれるようになっています。
医師や政治家の倫理問題、脳科学や物理学への興味、チームやプロジェクト室の記述、現代社会の問題がそのままストーリーとなってドラマが制作されています。
ドラマのエンディングには、「このドラマはフィクションです」とテロップが流れてきます。ドラマとはフィクションのはずなのですが、ドラマとドキュメントとの違いが分かりにくくなってきたのかもしれません。そこには社会の中にごく自然にあるストーリーがしっかりと描かれるようになっています。
ドラマとは決してドラマティックなものではありません。むしろドラマとはストーリーであり、ストーリーを秩序立てて構築し、きちんと基盤をつくり、環境を整備することが不可欠です。それこそが新しいドラマティック=劇的様相なのではないでしょうか。
それらはTVの画面の中ではなく、いつでもどこでも見れるようになりました。http://youtubetvdoramadouga.blog111.fc2.com/ などで自由に見ることができます。1週間ごとに間を置きながら見るより、むしろ10-12話程度の1クールの全体像やそのストーリーははっきり見えてくるのです。
歌舞伎のように大見えを切るのでもなく、大根役者のように大げさな身振りをさせるのでもなく、多くのドラマがごく自然な姿勢で、私たちの目線から描かれるようになっています。
医師や政治家の倫理問題、脳科学や物理学への興味、チームやプロジェクト室の記述、現代社会の問題がそのままストーリーとなってドラマが制作されています。
ドラマのエンディングには、「このドラマはフィクションです」とテロップが流れてきます。ドラマとはフィクションのはずなのですが、ドラマとドキュメントとの違いが分かりにくくなってきたのかもしれません。そこには社会の中にごく自然にあるストーリーがしっかりと描かれるようになっています。
ドラマとは決してドラマティックなものではありません。むしろドラマとはストーリーであり、ストーリーを秩序立てて構築し、きちんと基盤をつくり、環境を整備することが不可欠です。それこそが新しいドラマティック=劇的様相なのではないでしょうか。
劇場型政治と言われたり、政治は劇的であると言われたりします。小泉もオバマも。しかし、劇的状況とは、劇薬のようなものではなく、それは、ストーリーがあって、基盤が築かれ、環境が整備されて生まれるものではないでしょうか。「CHANGE」はひとつのドラマである。
それは地域をつくる根本でもあって、もちろん建築をつくる根本でもあって、ストーリーだとか、ビジョンだとか、コンセプトだとか呼ばれています。
2009年8月6日
身体的空間としての建築
建築の基盤となる考え方、場所性と身体性。どちらも大切なものですが、現代は場所性優位の時代と言えるかもしれません。
妹島和世さんから始まった、透明感あふれる建築の姿。そこに生きる人の活動を融合し、展開してゆくすばらしい建築です。そうした有機性を持った建築を僕も目指しています。
しかし、ガラスあふれる、がらんどうの現代建築の多くは似ているようですが、彼女の建築とは全く異なります。多くの組織事務所や建設会社、あるいは建築家が、オフィスビルや学校や図書館さえも、流行のごとく、表層的な側面だけ彼女を追随しました。
フラット、透明感、軽やかさ、言葉さえもう消費しつくされたかもしれません。後を追うことはつくるのも考えるのも簡単です。
20世紀のはじめ、ミース・ファン・デル・ローエにより構想されたガラスの摩天楼は彼自身の設計によってレイクショアドライブ・アパートメントやシーグラムビルなどとなって具現化され、それらがその後、経済至上主義の建築に流用され、無機質なオフィスビルとなって世界の都市を席捲してしまったように、ちょうど今つまらないガラスの、がらんどうの、軽く見せる建築ばかりになってしまっています。
そうした建築は現代の人を蝕んでいないでしょうか。 それらは元気で明るく、活動的で多様な活動志向を持った人を想定し、動的な建築として設計されてはいないでしょうか。
しかし、現代では多くの人が精神的に病んでいるようにも見えます。子供も青年も、そして高齢者も。現代の建築は彼らにとっても、とても厳しく、また危険なものになってしまいました。
本当のバリアフリーとは何かを考える必要があります。それは、車いすを使う市民も、白いつえを突く市民も、明る過ぎて、遮るものがなくて、音が響き過ぎて、紫外線が入り過ぎて、精神的な圧迫感を感じている市民にも、誰でもが心安らかに佇める居場所となる空間のことではないでしょうか。
バリアフリーと言って、単に平坦であったり、スロープで代用したりするだけ、本当のバリアフリーは考えていないのです。ガラスによる内外の透過性は本当のコミュニケーションを考えたものではありません。
それこそ本当に軽さを持った、人の衣服のようなフィット感とやさしさを持ったインテリアのような建築であり、そのような人を支え、包むような空間が必要のように感じています。
それは人の身体性を豊かなものであると考え、それらによって形作られた意味によって作られた建築です。多くの意味を持ち、それを多様な人たちに読み取らせる(アフォーダンスと言いますが)仕掛けのある建築です。そこにこそ建築家の職能があるのではないかと考えています。
もう一度、一つひとつ空間の意味を身体性から創りださなければなりません。ポストモダニズム、30年前にロバート・ベンチューリやチャールズ・ムーアが始めたこの運動を今私たちもやらねばならないのかもしれません。真剣な真のバリアフリー空間をめざして。
妹島和世さんから始まった、透明感あふれる建築の姿。そこに生きる人の活動を融合し、展開してゆくすばらしい建築です。そうした有機性を持った建築を僕も目指しています。
しかし、ガラスあふれる、がらんどうの現代建築の多くは似ているようですが、彼女の建築とは全く異なります。多くの組織事務所や建設会社、あるいは建築家が、オフィスビルや学校や図書館さえも、流行のごとく、表層的な側面だけ彼女を追随しました。
フラット、透明感、軽やかさ、言葉さえもう消費しつくされたかもしれません。後を追うことはつくるのも考えるのも簡単です。
20世紀のはじめ、ミース・ファン・デル・ローエにより構想されたガラスの摩天楼は彼自身の設計によってレイクショアドライブ・アパートメントやシーグラムビルなどとなって具現化され、それらがその後、経済至上主義の建築に流用され、無機質なオフィスビルとなって世界の都市を席捲してしまったように、ちょうど今つまらないガラスの、がらんどうの、軽く見せる建築ばかりになってしまっています。
そうした建築は現代の人を蝕んでいないでしょうか。 それらは元気で明るく、活動的で多様な活動志向を持った人を想定し、動的な建築として設計されてはいないでしょうか。
しかし、現代では多くの人が精神的に病んでいるようにも見えます。子供も青年も、そして高齢者も。現代の建築は彼らにとっても、とても厳しく、また危険なものになってしまいました。
本当のバリアフリーとは何かを考える必要があります。それは、車いすを使う市民も、白いつえを突く市民も、明る過ぎて、遮るものがなくて、音が響き過ぎて、紫外線が入り過ぎて、精神的な圧迫感を感じている市民にも、誰でもが心安らかに佇める居場所となる空間のことではないでしょうか。
バリアフリーと言って、単に平坦であったり、スロープで代用したりするだけ、本当のバリアフリーは考えていないのです。ガラスによる内外の透過性は本当のコミュニケーションを考えたものではありません。
それこそ本当に軽さを持った、人の衣服のようなフィット感とやさしさを持ったインテリアのような建築であり、そのような人を支え、包むような空間が必要のように感じています。
それは人の身体性を豊かなものであると考え、それらによって形作られた意味によって作られた建築です。多くの意味を持ち、それを多様な人たちに読み取らせる(アフォーダンスと言いますが)仕掛けのある建築です。そこにこそ建築家の職能があるのではないかと考えています。
もう一度、一つひとつ空間の意味を身体性から創りださなければなりません。ポストモダニズム、30年前にロバート・ベンチューリやチャールズ・ムーアが始めたこの運動を今私たちもやらねばならないのかもしれません。真剣な真のバリアフリー空間をめざして。
2009年8月5日
自閉症と創造性
「アスペルガー症候群の天才たち―自閉症と創造性」には創造力の源が描かれています。「本書は、天才といわれている著名な6人の歴史的人物を取り上げ、彼らが自閉症あるいはアスペルガー症候群であったことを論じている、天才と自閉症の関連を述べた病跡学の書である。
しかし、本書は、病跡学の本にとどまらず、人間の持つ創造性とは何か、その創造性を高めるのに自閉症であることがどのように影響を与えているかを、個々の事例を基にして探求している。
さらに本書では、もっと大胆に自閉的思考がないと人類はこのような文明を築けなかったのではないか、と主張する。自閉症は、障碍ではなく、特有の認知スタイルを持った人類の発展に必要な存在であり、そうであるならば、自閉症の進化論的意味が問われなければならないことになる。このことも本書の論点の目玉である。 (マイケル・フィッツジェラルド 著、石坂好樹、花島綾子、太田多紀 訳 )」
「アスペルガーの偉人たち」はもう少しポピュラーな芸術家について書かれています。ミケランジェロ、ニュートン、スウィフト、ゴッホ、サティ、アインシュタイン、キンゼイ、アンディ・ウォホール、グレングールド、パトリシア・ハイスミスなど天才と呼ばれた20名の芸術家たち。それを紹介するブログがありました。http://harubonbon.seesaa.net/article/83406553.html
曲を思い描いた時には曲のすべてが五線譜と音符に表わしていたと言われる作曲家や対象を様々な角度、視線から同時に描けた画家など、天才の多くは一般の人たちとは異なる認知回路を持っていたのかもしれません。
日本には天才は現れないと言われます。彼ら自身の他と異なることへの苦しみは大きいのかもしれませんが、むしろ、画一的な教育や古いコミュニティでの偏見、病気や障害と断じる精神医学など権威、、、、どこかで誰かがその才能をつぶしてしまっているのかもしれません。
2009年7月22日
アニメの殿堂 その後
「文化庁は17日、アニメやマンガの「殿堂」国立メディア芸術総合センター(仮称)のあり方について、一般から募集した意見の概要を公表した。1週間の募集で387件の意見が寄せられ、センター建設への関心の高さを示した。
「コスプレ体験と記念撮影ができるコーナーを設ける」「手塚治虫らがいた『トキワ荘』を再現」「アニメやマンガの名シーンを原寸で再現したテーマパークに」など、楽しめる施設を求める意見が目立った。管理運営にかかる費用は国がある程度負担すべきだとの声や、センターは「不要」との意見も34件あった。
「希少書籍や絶版本の保存・データ化」「海外の研究者への資料提供や助成」など研究拠点としての要望や、人材育成の一環として「センターでのアニメ作品の制作」「アニメーターのハローワーク的な事業の実施」を望む声も寄せられた。 」(http://www.asahi.com/national/update/0717/TKY200907170404.html より)
恐れるべき方向へ行きそうな気配です。アニメの殿堂とは作家の過去の姿を復元するものでも、テーマパークでも、お遊びの疑似体験コーナーでもないでしょう。 国民の感度が悪いのか、ばかげた、それ故簡単に具体化できる意見だけを抽出しているのでしょうか。
「国立メディア芸術総合センター(仮称)」と呼びましょう。 アニメの殿堂とメディアが騒ぐから間違えるのであって、政治記者では書けないレベルのものかもしれません。
東京都現代美術館を設立するときに、ロイ・リキテンスタイン(Roy Lichtenstein)を理解できなかった国民の文化度がそのまま現われているのでしょうし、はたして奈良美智や村上隆、ヤノベケンジなど理解されるのでしょうか。
文化庁のメディア芸術プラザでは現在進行中のいくつかのメディア芸術展覧会が紹介されています。
http://plaza.bunka.go.jp/information/exinfo/
対象をどこに置き、どのような学芸員を募集し、どう活動させるのか。
いつも、規模と場所が先に決まり、独り歩きをし、大切な活動方針は先送りされる、、、、。
「コスプレ体験と記念撮影ができるコーナーを設ける」「手塚治虫らがいた『トキワ荘』を再現」「アニメやマンガの名シーンを原寸で再現したテーマパークに」など、楽しめる施設を求める意見が目立った。管理運営にかかる費用は国がある程度負担すべきだとの声や、センターは「不要」との意見も34件あった。
「希少書籍や絶版本の保存・データ化」「海外の研究者への資料提供や助成」など研究拠点としての要望や、人材育成の一環として「センターでのアニメ作品の制作」「アニメーターのハローワーク的な事業の実施」を望む声も寄せられた。 」(http://www.asahi.com/national/update/0717/TKY200907170404.html より)
恐れるべき方向へ行きそうな気配です。アニメの殿堂とは作家の過去の姿を復元するものでも、テーマパークでも、お遊びの疑似体験コーナーでもないでしょう。 国民の感度が悪いのか、ばかげた、それ故簡単に具体化できる意見だけを抽出しているのでしょうか。
「国立メディア芸術総合センター(仮称)」と呼びましょう。 アニメの殿堂とメディアが騒ぐから間違えるのであって、政治記者では書けないレベルのものかもしれません。
東京都現代美術館を設立するときに、ロイ・リキテンスタイン(Roy Lichtenstein)を理解できなかった国民の文化度がそのまま現われているのでしょうし、はたして奈良美智や村上隆、ヤノベケンジなど理解されるのでしょうか。
文化庁のメディア芸術プラザでは現在進行中のいくつかのメディア芸術展覧会が紹介されています。
http://plaza.bunka.go.jp/information/exinfo/
対象をどこに置き、どのような学芸員を募集し、どう活動させるのか。
いつも、規模と場所が先に決まり、独り歩きをし、大切な活動方針は先送りされる、、、、。
2009年7月20日
黙示録
建築の黙示録は写真家宮本隆司氏が廃墟となった建築を撮影したものです。浅草松竹映画劇場や汐留駅、サッポロビール恵比寿工場など多くの朽ちた建築の姿をカメラに収めています。
なぜ、と思われるかもしれません。しかし、朽ちた姿からは意外に新しく、斬新な印象を持ってしまうのです。
表層の身にまとっていたものをすべて落とし、完全な形をしていた時には気がつかなかった建築の面白さが見えてくるのです。特に構造体、空間構成、透過性。それから、光、写真ではわかりませんが、たぶん風なども感じられるのでしょう。劇場などの場合、オーディトリアムは完全遮光、遮音の閉じられた世界ですが、廃墟の中では屋外の中庭のような光あふれ、視線の集まる空間となっています。
なぜ、廃墟か?現代では忘れられてしまった、躍動的な、構造的な建築の姿が新たな空間として見えてくるのです。新しい建築の発見、、、つまり、もう一度孵化過程へ。
黙示録とは、新約聖書の最後の一書であり、95年ごろローマの迫害下にある小アジアの諸教会のキリスト教徒に激励と警告を与えるために書かれた文書とのことです。
この世の終末と最後の審判、キリストの再臨と神の国の到来、信仰者の勝利など、預言的内容が象徴的表現で描かれたもので、ヨハネ黙示録が有名です。
つまり、「終末と未来」とを象徴的に現すものであり、将来を啓示するものなのです。
廃墟の中にこそ本質が見え、あるべき姿が見えているということなのですね。そこに私たちが魅かれるのです。
ハドリアヌス帝の離宮だったローマ郊外のヴィラ・アドリアーナ。私の一番好きな建築です。
2009年7月13日
琴光喜と内川
琴光喜と内川、彼らに共通するのは、「愛子さま」がファンであること。
誰もが朝青龍や白鵬と言い、誰もがイチローやマツイやナカムラを応援するなかで、彼女の審美眼は印象的です。
多くの人たちがスーパースターやアイドルに「流され」がちで、また、メディアでの露出度の高いチームを応援する。メディアは常勝チームを作り、その均質化へのサイクルを加速する。
それはストレス解消のためなのか、コミュニケーションを保つための保身術なのか。あるいは、安心感なのかもしれません。
子供の頃、人と同じ感性や価値観を持っていることで、仲間はずれにもならず、孤立することもなかったかもしれませんが、それを顧みず、内面に深く入り込んだ彼女の洞察力は私たちにとって、貴重なものとなるでしょう。むしろ、子供たちの間で羨望の的となって欲しいのですが、、。
それは「オタク」と言われる「アマチュア専門家」としての能力の現れかもしれません。
「オタク」と「プロフェショナル」との違いは何でしょうか。大きいようにも感じられますし、「オタク」の知識の方が膨大な場合もあるでしょう。「プロフェショナル」は実践の中で鍛えられ、責務を負ってゆきます。閉じていては「プロフェッショナル」とは認知されないのではないでしょうか。
「オタク」がその自閉性を解き、「アマチュア専門家」として発言権を持ち、市民権を得てゆく時、日本の社会は大きく変わってゆくのではないでしょうか。
そこには均質性を持った市民や国民ではなく、メディアなど到底予測もつかないような、多元性を持った社会が見えてくるように思うのです。
オタクを研究するオタクもあるようです。こちらはプロフェッショナルと言うべきかもしれませんが、このような分類型の分析は面白くないですね。むしろ面白さは「オタク」の方が持っているものです。
オタクは遍在する――NRIが示す「5人のオタクたち」 (1/2)
オタク分析のパイオニア・NRIが新定義を打ち出した。オタクにはアニメやコミックマニアだけでなく自動車好きや旅行好きも含まれるとし、「5人のオタクたち」という典型像を示した。
野村総合研究所(NRI)オタク市場予測チームは、オタクの特性を分析して再定義し、10月6日に発表した。オタクはいわゆる「アキバ系」だけではないとし、行動や消費の特性を抽出。アニメやコミックに加えて旅行、自動車マニアなどもオタクに含め、主要12分野のオタク人口を172万人、市場規模を4110億円と推計した。(http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0510/06/news068.html より)
誰もが朝青龍や白鵬と言い、誰もがイチローやマツイやナカムラを応援するなかで、彼女の審美眼は印象的です。
多くの人たちがスーパースターやアイドルに「流され」がちで、また、メディアでの露出度の高いチームを応援する。メディアは常勝チームを作り、その均質化へのサイクルを加速する。
それはストレス解消のためなのか、コミュニケーションを保つための保身術なのか。あるいは、安心感なのかもしれません。
子供の頃、人と同じ感性や価値観を持っていることで、仲間はずれにもならず、孤立することもなかったかもしれませんが、それを顧みず、内面に深く入り込んだ彼女の洞察力は私たちにとって、貴重なものとなるでしょう。むしろ、子供たちの間で羨望の的となって欲しいのですが、、。
それは「オタク」と言われる「アマチュア専門家」としての能力の現れかもしれません。
「オタク」と「プロフェショナル」との違いは何でしょうか。大きいようにも感じられますし、「オタク」の知識の方が膨大な場合もあるでしょう。「プロフェショナル」は実践の中で鍛えられ、責務を負ってゆきます。閉じていては「プロフェッショナル」とは認知されないのではないでしょうか。
「オタク」がその自閉性を解き、「アマチュア専門家」として発言権を持ち、市民権を得てゆく時、日本の社会は大きく変わってゆくのではないでしょうか。
そこには均質性を持った市民や国民ではなく、メディアなど到底予測もつかないような、多元性を持った社会が見えてくるように思うのです。
オタクを研究するオタクもあるようです。こちらはプロフェッショナルと言うべきかもしれませんが、このような分類型の分析は面白くないですね。むしろ面白さは「オタク」の方が持っているものです。
オタクは遍在する――NRIが示す「5人のオタクたち」 (1/2)
オタク分析のパイオニア・NRIが新定義を打ち出した。オタクにはアニメやコミックマニアだけでなく自動車好きや旅行好きも含まれるとし、「5人のオタクたち」という典型像を示した。
野村総合研究所(NRI)オタク市場予測チームは、オタクの特性を分析して再定義し、10月6日に発表した。オタクはいわゆる「アキバ系」だけではないとし、行動や消費の特性を抽出。アニメやコミックに加えて旅行、自動車マニアなどもオタクに含め、主要12分野のオタク人口を172万人、市場規模を4110億円と推計した。(http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0510/06/news068.html より)
2009年7月7日
裕次郎23回忌
「87年に52歳で亡くなった俳優、石原裕次郎さんの二十三回忌法要が5日、東京都新宿区の国立競技場であった。一般向けには最後の法要で、ファンらが午後10時の閉門まで長い列をつくった。主催者の石原プロモーションによると計11万6862人が献花した。
グラウンドには、裕次郎さんの墓がある横浜市鶴見区の総持寺の本堂を模した高さ約17メートル、間口約36メートルのセットが組まれた。」(http://www.asahi.com/national/update/0705/TKY200907050141.html より)
本尊を総持寺より持ち込み、法要が行われたようです。
言わば、それは移動寺であり、ウォークする寺です。本尊のあるところ御仏がおわすということですね。キリスト教プロテスタントでは、聖書あるところすべて神の御心があり、十字架のような偶像や教会のかたちにはこだわらないのと同じようです。寺そのものです。
かつて、アーキグラムがインスタントシティやウォーキングシティを都市のメタファーとして提案していたことも思い出されます。建築までもユビキタスであるということを改めて認識できました。
仏の心を確かめる場所、その場所こそが法要の場所、寺であるのです。
東京遷都が模索されていた頃、師内井昭蔵は移動国会を提案しました。
内井は木構造の巨大なドームを解体、組み立てできるシステムを考案し、国会議事堂として、さまざまな場所での議会開催を考えていました。遷都という神がかり的なものではなく、現実的な、そしてより実効性のある多面的な国会像を提供したのでした。
先日まで東京国立博物館で開催されていた「阿修羅展」。美術品として博物館で展示されるのではなく、ウォークする移動寺として興福寺自体が東京へやってきてくれるとよかったのですが、、、、、、。
建築も都市もウォークするのですから。
グラウンドには、裕次郎さんの墓がある横浜市鶴見区の総持寺の本堂を模した高さ約17メートル、間口約36メートルのセットが組まれた。」(http://www.asahi.com/national/update/0705/TKY200907050141.html より)
本尊を総持寺より持ち込み、法要が行われたようです。
言わば、それは移動寺であり、ウォークする寺です。本尊のあるところ御仏がおわすということですね。キリスト教プロテスタントでは、聖書あるところすべて神の御心があり、十字架のような偶像や教会のかたちにはこだわらないのと同じようです。寺そのものです。
かつて、アーキグラムがインスタントシティやウォーキングシティを都市のメタファーとして提案していたことも思い出されます。建築までもユビキタスであるということを改めて認識できました。
仏の心を確かめる場所、その場所こそが法要の場所、寺であるのです。
東京遷都が模索されていた頃、師内井昭蔵は移動国会を提案しました。
内井は木構造の巨大なドームを解体、組み立てできるシステムを考案し、国会議事堂として、さまざまな場所での議会開催を考えていました。遷都という神がかり的なものではなく、現実的な、そしてより実効性のある多面的な国会像を提供したのでした。
先日まで東京国立博物館で開催されていた「阿修羅展」。美術品として博物館で展示されるのではなく、ウォークする移動寺として興福寺自体が東京へやってきてくれるとよかったのですが、、、、、、。
建築も都市もウォークするのですから。
2009年6月28日
ヴォーリズの建築
汐留で開催していたヴォーリズ展に行ってきました。 図面やモデルも豊富にあり、ヴォーリズという建築家の哲学がよく見えてきた展覧会でした。
私はその建築哲学が具体的に何に、どのように現れるのか、今考え始めています。建築の現れる時を建築家の側から見てゆこうとするものです。
ヴォーリズは明治学院大学のチャペルの設計者であり、キャンパスの設計を担当していた頃からずいぶんと魅かれていました。キャンパスの再開発計画が終わって振り返った時に、ヴォーリズと私の建築の師、内井昭蔵は似ているなぁと実感したものでした。
ヴォーリズはミッション建築家ですから、キリスト教精神にあふれていたのでしょう。その精神性という言葉は明治学院の白金キャンパスの再開発にも考えていたことでした。
私たちも「キリスト教精神に基づき」をテーマに設計してきたわけですが、近年、精神性という抽象的な言葉が具体的に何を指すのかをずっと考えてきました。
ヴォーリズの精神性、心とは何を指すのか。それは建築の形に現れるものでしょうか。
展覧会のパンフレット「ヴォーリズ建築の100年」に掲載されている、ヴォーリズ事務所の代表を務めていた石田忠範氏の論考「ヴォーリズ建築のこころとかたち」には興味深い言葉が残されていました。
「当事務所はただ一人の舞台(one-man-show)でないことは今更贅言を要しないことである。・・・・・いつも統制のとれた団体(well-articulated)で必要な専門家達が各自の専門の受持を担当し、、、、」というヴォーリズの言葉に対し、
統制のとれた団体(well-articulated)とは上からの統制ではなく適切に分節された組織体であって、各人は単独ではなく、全体との関連において成立している存在であった。ヴォーリズは人を組み合わせて建てあげることにおいて、真に建築家であったのであると、説明しています。
建築が、それを設計する組織のありかたによるものと考えていたことも、多くのスタッフをうまく組み合わせ、それらの意見をよく聴いた内井と同じです。そうしてつくるからこそ、きびしい表情の建築ではなく、いろいろのものが混在した、柔らかな建築となるのだと感じています。
「日常生活の使用に対して、住み心地のよい、健康を守るによい、能率的な建築を求める、熱心な建築依頼者の求めに応じて、その意をくむ奉仕者となるべきである」という基本的な設計態度や、
「人と人をつなぐディテール」として床と壁の取り合いは掃除をしやすく丸く収めたり、腰には汚れにくい木製パネルとしたり、チェアーレールをつけたり、壁と天井は一体的空間に見えるようにモールでつないでいたりしたディテールの考え方も述べています。
ヴォーリズの心のありようは、建築家のスタンスとなって、しっかりと具体的な建築の形として現わされています。 きめ細かな人の居場所としての建築を私たちはここから感じ取っていたのでしょう。
建築のありようを伝えるもの、それは具体的な建築の素材であり、それらと私たちとをつなぐディテールなんだと改めて気づかされました。ヴォーリズも内井もそこに共通点があるのではないでしょうか。(ref→ySAS Yoshiharu Shimazaki Architect Studio)
私はその建築哲学が具体的に何に、どのように現れるのか、今考え始めています。建築の現れる時を建築家の側から見てゆこうとするものです。
ヴォーリズはミッション建築家ですから、キリスト教精神にあふれていたのでしょう。その精神性という言葉は明治学院の白金キャンパスの再開発にも考えていたことでした。
私たちも「キリスト教精神に基づき」をテーマに設計してきたわけですが、近年、精神性という抽象的な言葉が具体的に何を指すのかをずっと考えてきました。
ヴォーリズの精神性、心とは何を指すのか。それは建築の形に現れるものでしょうか。
展覧会のパンフレット「ヴォーリズ建築の100年」に掲載されている、ヴォーリズ事務所の代表を務めていた石田忠範氏の論考「ヴォーリズ建築のこころとかたち」には興味深い言葉が残されていました。
「当事務所はただ一人の舞台(one-man-show)でないことは今更贅言を要しないことである。・・・・・いつも統制のとれた団体(well-articulated)で必要な専門家達が各自の専門の受持を担当し、、、、」というヴォーリズの言葉に対し、
統制のとれた団体(well-articulated)とは上からの統制ではなく適切に分節された組織体であって、各人は単独ではなく、全体との関連において成立している存在であった。ヴォーリズは人を組み合わせて建てあげることにおいて、真に建築家であったのであると、説明しています。
建築が、それを設計する組織のありかたによるものと考えていたことも、多くのスタッフをうまく組み合わせ、それらの意見をよく聴いた内井と同じです。そうしてつくるからこそ、きびしい表情の建築ではなく、いろいろのものが混在した、柔らかな建築となるのだと感じています。
「日常生活の使用に対して、住み心地のよい、健康を守るによい、能率的な建築を求める、熱心な建築依頼者の求めに応じて、その意をくむ奉仕者となるべきである」という基本的な設計態度や、
「人と人をつなぐディテール」として床と壁の取り合いは掃除をしやすく丸く収めたり、腰には汚れにくい木製パネルとしたり、チェアーレールをつけたり、壁と天井は一体的空間に見えるようにモールでつないでいたりしたディテールの考え方も述べています。
ヴォーリズの心のありようは、建築家のスタンスとなって、しっかりと具体的な建築の形として現わされています。 きめ細かな人の居場所としての建築を私たちはここから感じ取っていたのでしょう。
建築のありようを伝えるもの、それは具体的な建築の素材であり、それらと私たちとをつなぐディテールなんだと改めて気づかされました。ヴォーリズも内井もそこに共通点があるのではないでしょうか。(ref→ySAS Yoshiharu Shimazaki Architect Studio)
2009年6月20日
「アニメの殿堂どう思う?」
日本の新しい芸術分野を発信する「国立メディア芸術総合センター」(仮称)の計画に賛否が渦巻いて、政争の道具にも利用され始めました。

このようなステレオタイプの言葉こそが大切なものを見失わせることになります。意図的に見失わせるのではないかとも感じられます。
有能な学芸員/キュレーターが研究を行い企画を推進する美術館では絶えず発信を繰り返し、市民を、利用者を巻き込んでいきます。それは東京都現代美術館、仙台メディアテークなどの活動からも明らかです。地域の子供たちを積極的に受け入れてきた金沢21世紀美術館では金沢アートプラットフォームを立ち上げ、展示空間や活動領域を地域の中へと展開し始めています。
まず117億の建築体が先にあるのではなく、企画運営を行う組織を確立し、適切で有能な館長を確保することです。どのように芸術を支援するのか、それをどう生かすのか、コンセプトを打ち立て、それらの活動を生み出すソフトとハードを具現化する建築を企画する必要があります。
トキワ荘で社会の古い通念を解体し、新たな人間的な夢を表現してきた漫画家たちや日本では限界を感じ、海外で認められたメディアクリエイターたちをこんな固いコンクリートやガラスの箱に閉じ込めては伝えるべきものが伝わらないように感じます。
東京都現代美術館開館時には、現代アートを理解しない多くの利用者から批判も大きかったと聞きます。世界で認められていた絵が漫画だとして認められなかった、、、、。そのような国民や社会に対し、エヴァンゲリオンの社会性を分かってもらう必要がありそうです。
メディアとは常に新しい感性を身にまとってゆくものです。メディアとはいったい何なのか、本当の新しいメディアを伝えてゆくことが不可欠です。
2009年6月18日
別府現代芸術フェスティバル
湯の町別府では、「混浴温泉世界」と題し、現代別府芸術フェスティバルが6月14日まで開催されていました。湯煙の立つ町のいくつかの場所を舞台に、芸術作品をまちに入り込んでゆくひとつの接点として考えられています。アートレジデンス、ダンス、音楽、裏町散策など。芸術とはよくわからない行為と思われているかもしれませんが、案外、まじめで素朴な視線をもって、まわりのいろいろの環境と対峙しているのです。そのまじめさが、古い利権や制度に結びついた帰属意識いっぱいのまちづくりから見るととても新鮮で、素直で、すがすがしく感じられます。そして、そのまじめさゆえに成功するのでしょう。
多くの地域や町では、芸術活動を取り込んでまちづくりへ向けた情報発信を行っています。それは創る人である芸術家を育てるだけではなく、見る人、取り込まれる人の感性を磨いています。現実に作品を創る人の真剣な姿から学ぶことはとても多いのだと思います。こうした活動が実際のまちの、地域の活性化にも大きな役割を果たしています。
そして近年、それらを支える人、パートナーと呼ばれる地元企業やサポーターと呼ばれるボランティアの人たちが注目されるようになりました。越後妻有、大地の芸術祭でも頑なだった地域をほぐし、成功へ導いたのはこうしたボランティアの真剣な姿だったと言われています。
何ものにもとらわれない、自由で独立した意識を持ち、やりたいという意欲で取り組む彼らこそが地域を真摯に見つめ、目の前の現実性によって硬く凝り固まってしまった地域性や帰属性を解きほぐし、閉じた目を大きな世界に向ける役割も担っているのではないでしょうか。
2009年5月9日
JR KYUSHU
新幹線を降りると、何か違う雰囲気がぐぐっと迫ってくる感じがしました。
近郊電車がかつての長距離電車のような重厚なデザインと雰囲気を持
東京を走るJR東日本のアルミ製の軽い通勤電車とは発想が全く異なっています。
国鉄が民営化されて20年経ち、ようやく地域性が現れてきたのでしょう。
JR九州は他のJR各社とは異なり、デザインに関する受賞歴が多く、またそれをきちんとWEBサイトに事業報告として掲載しています。
1988年「ホテル海の中道」のアートディレクションを手がけたことを契機にJR九州の車両デザインや広告のデザインに関わってきたデザイナーである水戸岡鋭治氏の存在がそこにはあるようです。地域振興・活性化の基盤を担う大きな戦略として成功を収めているように感じられます。
小さな地域での営業のため、JR東日本や東海などと比べて経営的には厳しいと思われますが、十分に社会的使命を果たし、地域の独自性を生み出しています。
■ハイパーサルーン 1989 ローレル賞(鉄道友の会選定)
■ゆふいんの森 1989グッドデザイン商品選定(通商産業省・Gマーク商品に選定)
■200DC 1992 ローレル賞(鉄道友の会選定)
■博多駅コンコース 1992 福岡都市景観賞(福岡市選定) 92商環境デザイン賞特別賞(日本商環境設計家協会選定) SDA賞(日本サインデザイン協会選定)
■由布院駅 1992鉄道建築協会賞入選(鉄道建築協会選定)
■熊本駅ビル「フレスタ」1992鉄道建築協会賞入選(鉄道建築協会選定)
■JR 九州の列車 1993公共の色彩賞(公共の色彩を考える会選定)
■787つばめ 1993ブルーリボン賞(鉄道友の会選定) グッドデザイン商品選定(通商産業省・Gマーク商品に選定) 1994ブルネル賞・長距離旅客列車部門(国際賞)
■つばめ客室乗務員制服1994ブルネル奨励賞・制服部門(国際賞)
■JR 九州の列車とバスの色 1995北九州都市の色彩賞(北九州市選定)
■ソニック883 1995グッドデザイン商品選定(通商産業省・Gマーク商品に選定)1996 H 8 ブルーリボン賞(鉄道友の会選定) ブルネル賞・長距離旅客列車部門(国際賞)
■ソニックの「動く彫刻」 1996ブルネル奨励賞・芸術の鉄道への適合事例(国際賞)
■会社案内など 1996ブルネル奨励賞・視覚情報グラフィックデザイン(国際賞)
■宮崎駅 1996宮崎市都市景観賞(宮崎市選定)
■美咲が丘駅 1997福岡県建築住宅文化賞貢献賞(福岡県選定)
■JR九州のデザイン活動 1998SDA特別賞(日本サインデザイン協会選定)
■新ゆふいんの森 1999JIDインテリアスペース部門賞(日本インテリアデザイナー協会選定)2001 H13 グッドデザイン賞((財)日本産業デザイン振興会)
■小倉駅 1998 鉄道建築協会賞入選(鉄道建築協会選定)1999照明普及賞九州支部賞(照明学会)2000グッドデザイン賞特別賞((財)日本産業デザイン振興会)公共の色彩賞(公共の色彩を考える会選定)
■JR九州 2000 国際交通安全学会賞(国際交通安全学会)業績部門:デザインを中心とした魅力ある鉄道づくりによる地域活性化
■長崎ターミナルビル2000 照明普及賞優秀施設賞(照明学会)
■885かもめ・885ソニック 2000照明普及賞優秀施設賞(照明学会)2001 ブルーリボン賞(鉄道友の会選定)ブルネル賞・長距離旅客列車部門(国際賞)グッドデザイン賞((財)日本産業デザイン振興会)
■815系近郊電車2001ブルネル賞・近距離旅客列車部門(国際賞) グッドデザイン賞((財)日本産業デザイン振興会)
■817系近郊電車 2001グッドデザイン賞((財)日本産業デザイン振興会)
■800系つばめ 2005ローレル賞(鉄道友の会選定)グッドデザイン賞((財)日本産業デザイン振興会)JIDAデザインミュージアムセレクション(日本インダストリアルデザイナー協会)
■JRホテル屋久島2006照明普及賞優秀施設賞(照明学会)
■日向市駅2007優秀木造施設 林野庁長官賞(木材利用推進中央協議会、農林水産省後援)鉄道建築協会 作品部門 入選・国土交通省鉄道局長賞((財)鉄道建築協会)2008建築九州賞一般建築部門 作品賞((社)日本建築学会九州支部)
2009年5月6日
アートディレクション
「アートディレクションの可能性」は現在活躍するグラフィックデザイナーによるトークセッションが収められたものです。彼らの多くはグラフィックデザイナーというその名称から想像される枠をはるかに超え、もっと重要な役割を担って活動しているようです。パッケージやポスターのデザインやCMなどの映像制作に留まらず、商品開発や企業イメージのプロデュースまで行っています。
企業や製品の本質を捉えて、ありのまま描き出すことに (私たちには思いもよらない素敵な描き方ですが、、、) 成功していると言えます。
プロデュースし、ディレクションし、そしてビジュアライズするという3役を引き受けている彼らは、、、、、、自分たちを「物申すデザイナー」と位置付けています。
一瞬にして物の本質を表現するビジュアルコミュニケーションという分野での彼らの能力は、ライフスタイルの方向性、しいては現代社会の方向性をも形造ることができるのです。
私の専門分野である”建築”といった長大で孤高と言われがちな’とっつきにくい物’ではなくて、身の回りのそこここに存在する’あふれた物’によって、方向づけることが可能なのです。
たとえば、資生堂のTUBAKIという製品は、その名を「なでしこ」でもなく、また「さくら」でもなく、静かな庭に妖艶にたたずむ『椿』をテーマにしています。『椿』は1年を通してその深い緑の葉に光沢を湛え、花は色も形状も個性が強く、豪華に、時には清楚にその花を咲かせます。実はもちろん長く黒髪に愛されて来た椿油を蓄えています。
日本女性の奥深い美と資生堂という企業イメージとを同時に具現化し、多くの人の視線を釘づけにするあのCM。それは視聴者の意識を同じ方向へと導く強さを持ったものと言えます。
コミュニティをデザインするということは群造形に近い感覚だと考えてやってきましたが、方向性をつけるさらなる強さが必要のようです。多様なエネルギーを受け止めることのできる、プロデュース力とディレクション力そしてそれらをありのまま、ビジュアル化するという事が必要のようです。
2008年8月18日
祈りの痕跡
最初に痕をつけたのは、誰か。5000年前、シュメール人が粘土板に楔形文字を刻んだ瞬間、人間の思考、感情、芸術、科学は記録という行いによる永遠の生命を獲得した。「書く」という人類最大の発明から生まれる芸術や文化は、過去から未来に、個人から集団に伝染する軌跡の痕跡である。
21_21 DESIGN SIGHTの舞台に登場するこれらの痕跡は、現代人の意識に新たな痕跡を刻みつけるだろう。文字通り、浅葉克己が脚で探した地球発の表現を目撃するエキジビジョン。(WEBSITEより)
魂のように刻まれる、言葉やさまざまな人間の活動の痕跡に私たちは魅せられます。
会場には『西夏文字』という作品があります。 「縁者の言は剛けれど、心は日より熱く、郷主の声は柔らかなれど、心は月より冷たし」 言葉の本当の真実が試されます。
言葉やもので様々に伝えられる真実に近づくことが何より必要です。真実や真実の活動によって励まされ、刺激を受け、次の真実が生まれてくると思うのです。
2007年10月29日
市民の視点と伝統
伝統とは、新しいものを付け加えてこそ伝統である、という歌舞伎役者も多い。そして、多くの(アイデアという意味で)引き出しがその新しさを支えるのですが、何より、観客の要求する目が舞台の新しさを作ると言います。
けっこう斬新なのですね。
観客の目を意識するかしないか、できるかできないか、そこに大きな岐路があります。伝統と言って閉ざしてはいけないのですね。そう言えば小泉時代の劇場型政治を揶揄する人もいますが、やはり観客の目が舞台に新しさをもたらしていたように感じられます。
観客の、そして、すなわち市民のそれぞれの目、こそ、時代を作るエンジンと思うのです。歌舞伎のような古いしきたりの世界ですら、むしろ、古いしきたりの世界だからこそ、新しさを求めて、多様な目を意識するのではないかと感じています。
市民の目、それも古いしきたりの世界を解体する契機となることでしょう。
けっこう斬新なのですね。
観客の目を意識するかしないか、できるかできないか、そこに大きな岐路があります。伝統と言って閉ざしてはいけないのですね。そう言えば小泉時代の劇場型政治を揶揄する人もいますが、やはり観客の目が舞台に新しさをもたらしていたように感じられます。
観客の、そして、すなわち市民のそれぞれの目、こそ、時代を作るエンジンと思うのです。歌舞伎のような古いしきたりの世界ですら、むしろ、古いしきたりの世界だからこそ、新しさを求めて、多様な目を意識するのではないかと感じています。
市民の目、それも古いしきたりの世界を解体する契機となることでしょう。
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