2009年7月22日

アニメの殿堂 その後

「文化庁は17日、アニメやマンガの「殿堂」国立メディア芸術総合センター(仮称)のあり方について、一般から募集した意見の概要を公表した。1週間の募集で387件の意見が寄せられ、センター建設への関心の高さを示した。

 「コスプレ体験と記念撮影ができるコーナーを設ける」「手塚治虫らがいた『トキワ荘』を再現」「アニメやマンガの名シーンを原寸で再現したテーマパークに」など、楽しめる施設を求める意見が目立った。管理運営にかかる費用は国がある程度負担すべきだとの声や、センターは「不要」との意見も34件あった。
 「希少書籍や絶版本の保存・データ化」「海外の研究者への資料提供や助成」など研究拠点としての要望や、人材育成の一環として「センターでのアニメ作品の制作」「アニメーターのハローワーク的な事業の実施」を望む声も寄せられた。 」(http://www.asahi.com/national/update/0717/TKY200907170404.html より)

恐れるべき方向へ行きそうな気配です。アニメの殿堂とは作家の過去の姿を復元するものでも、テーマパークでも、お遊びの疑似体験コーナーでもないでしょう。 国民の感度が悪いのか、ばかげた、それ故簡単に具体化できる意見だけを抽出しているのでしょうか。

「国立メディア芸術総合センター(仮称)」と呼びましょう。 アニメの殿堂とメディアが騒ぐから間違えるのであって、政治記者では書けないレベルのものかもしれません。

東京都現代美術館を設立するときに、ロイ・リキテンスタイン(Roy Lichtenstein)を理解できなかった国民の文化度がそのまま現われているのでしょうし、はたして奈良美智や村上隆、ヤノベケンジなど理解されるのでしょうか。

文化庁のメディア芸術プラザでは現在進行中のいくつかのメディア芸術展覧会が紹介されています。
http://plaza.bunka.go.jp/information/exinfo/

対象をどこに置き、どのような学芸員を募集し、どう活動させるのか。
いつも、規模と場所が先に決まり、独り歩きをし、大切な活動方針は先送りされる、、、、。

2009年7月21日

CO2 狂想曲

丸山茂徳  『地球温暖化論に騙されるな』

まずは著者自身も断っている。こういうことを書くからといってCO2削減や省エネルギー自体を問題にしているのではないと、、、、。

最近こちらの方が本物のような気がしてきました。

空気は窒素と酸素でほぼできていて、窒素が3/4、酸素が1/4であり、組成率は99%ほど、小学校の理科の時間に習いましたが、その後も大きな変化はないようです。一方CO2は0.054%。それほど少ないCO2が地球に影響を与えるのか不思議です。

わずかなCO2によって温暖化が起こっているのなら、気温の上昇が海水温上昇によるCO2の増加を引き起こし、さらにそのCO2が温暖化を引き起こしてゆく、更なる温暖化を呼びCO2の生じる割合は加速度的に大きくなり、不可逆的なサイクルに陥ります。46億年のこれまでの歴史のなかでそういうことはなかったのでしょうか。

本書は科学のいろいろの側面を描いてあります。CO2温暖化論とは、スーパーコンピューターを使ったシミュレーションによる警告です。気温の変化にもっと重大な影響を持つ雲の発生は発生量を定量化できないゆえにネグレクトされているそうです。温暖化により、グリーンランドの氷がすべて解けて海面が6m上昇するという予測も、一元的な入力だけだは、スーパーコンピューターの神話的側面と言えるだけでシミュレーションとは言えないでしょう。

CO2削減論やその戦術には単なる経済的視野のもの、自己広告的なものも多数含まれています。バイオマスの専門家である私の友人は低炭素化社会に向けた運動や事業には玉石混淆、嘘も多く、「見分ける目を持たねばならない」と言っています。

一元的で盲目的な加速度の行く先はどうなるのでしょうか。科学者が言っているのだから間違いがないというのは間違いでしょう。むしろ。まだまだわからないことの方が多いのではないかと思います。わからないことをわかったことのように決めつけてゆく、脚色してゆくことの方が怖いことです。

科学といえど、政治的な、あるいは経済的な政略に理論を誇張することもあるのではないかと感じられます。科学理論もいろいろの理論を無節操につまみ食いしてゆけば、新たな、そして歪んだ理論も構築できてしまうのではないでしょうか。

世界で政治的リーダーシップを取れない日本が唯一取れるテーマ、それが「京都議定書」の遵守であり、地球温暖化防止に向けた活動かもしれません。環境省もここぞとばかり驚くほど強い口調で不安を駆り立てるかのように主張しています。宗教的ですらあります。テーマが抽象的でステイクホルダーが見当たらないのかもしれません。http://www.env.go.jp/earth/ondanka/stop2008/full.pdf

一元的な犯人探しで、一度決めたら一途に邁進。それがどのような意味を持とうが家計簿の1円までもそぎ落としてゆくように取り組む。不要なものは落とせばいいが、却ってデメリットもあるはず。

ここに大きな問題が潜んでいるようでなりません。もっと、根本的なエコロジーの考えや生活スタイルが重要だろうと感じます。

一心不乱にCO2の削減に取り組んでゆく姿は百鬼夜行のようでもあり、もっとゆるやかに社会と接する必要があるのではないでしょうか。低炭素化社会を語る一部の経済至上主義者に騙されずに、本当のエコロジーを見つめてゆきませんか。

2009年7月20日

黙示録

建築の黙示録は写真家宮本隆司氏が廃墟となった建築を撮影したものです。

浅草松竹映画劇場や汐留駅、サッポロビール恵比寿工場など多くの朽ちた建築の姿をカメラに収めています。


なぜ、と思われるかもしれません。しかし、朽ちた姿からは意外に新しく、斬新な印象を持ってしまうのです。


表層の身にまとっていたものをすべて落とし、完全な形をしていた時には気がつかなかった建築の面白さが見えてくるのです。特に構造体、空間構成、透過性。それから、光、写真ではわかりませんが、たぶん風なども感じられるのでしょう。劇場などの場合、オーディトリアムは完全遮光、遮音の閉じられた世界ですが、廃墟の中では屋外の中庭のような光あふれ、視線の集まる空間となっています。


なぜ、廃墟か?現代では忘れられてしまった、躍動的な、構造的な建築の姿が新たな空間として見えてくるのです。新しい建築の発見、、、つまり、もう一度孵化過程へ。


黙示録とは、新約聖書の最後の一書であり、95年ごろローマの迫害下にある小アジアの諸教会のキリスト教徒に激励と警告を与えるために書かれた文書とのことです。

この世の終末と最後の審判、キリストの再臨と神の国の到来、信仰者の勝利など、預言的内容が象徴的表現で描かれたもので、ヨハネ黙示録が有名です。


つまり、「終末と未来」とを象徴的に現すものであり、将来を啓示するものなのです。


廃墟の中にこそ本質が見え、あるべき姿が見えているということなのですね。そこに私たちが魅かれるのです。

ハドリアヌス帝の離宮だったローマ郊外のヴィラ・アドリアーナ。私の一番好きな建築です。

2009年7月19日

富山水ビジョン

福井平野を飲み込むようにして流域を形成している九頭竜川の水系図です。この地域は、その名の示す通り、暴れる水との闘いであったようです。

しかし、同時にその豊かな水系の恩恵にもあずかってきたようで、きめ細かな入り組んだ水系のネットワークからは自然としての、文化としての、生活としての水の豊かさが伝わってきます。

こうした地域の状況は北アルプスの山の麓に位置する北陸地方では共通するようです。

富山県でも水系に着目し、地域のビジョンを描こうとしています。

「富山水ビジョン」策定の趣旨は
「本県が豊かな水の恵みを受けられることとなったのは先人たちの努力の賜物であり、今後ともふるさとの貴重な財産として県民全体で守り育むことが大切

21世紀は「水の世紀」と言われ、水施策の総合的な推進が重要な課題

「天然の円形劇場」ともいわれる本県は、ほぼ独立した水循環系を有しており、水ビジョンの推進により健全な水循環系の構築においてモデル県をめざす」とされ、

その役割として
「水に関わる各種施策を総合的、横断的に推進するための指針
 健全な水循環系の構築に向けて各主体が取り組む際の指針」が示されています。

水ビジョンの推進により健全な水循環系の構築においてモデル県をめざそうとするものです。

水とは富山の人たちの生活のしくみ、コミュニティのありようを作ってきたのです。その水に取り組むことで多くのものを横につなぎ、総合的に取り組むための手段とすることもできるようです。

http://www.pref.toyama.jp/sections/1711/mizu/mizu_vision/vision_yakuwari.html


それを視覚的に表わしたものが、左の図です。
川から、用水路へ、排水路へ、そして、地域の水田の用水路や地域の洗い場へ、、、そしてまた川に帰ってゆきます。いくつもの種類の水系が組み合わさってより密接な、生活文化に溶け込んだ末端神経のようなネットワークが地域のコミュニティの中で築かれています。

水文化という視点からきめ細かく表わされた素晴らしい調査と研究です。ビジョンに描かれているように水のネットワークから導かれる、「人づくり」「地域づくり」「仕組みづくり」の視点を持つことによって富山の将来は保障されるように感じます。



膨大で緻密な、志の高い報告書ですが、最後の今後のまとめが、今後の取り組みについてがイマイチ消極的です。水ビジョンとは県民にとって好ましいはずのものですが、、、工業団地や産業団体にいらぬ配慮があるのかもしれません。

このまま水系を守り、そして活用してゆく、そこに富山の、北アルプスを抱く地域のアイデンティティがあるのではないでしょうか。もっと積極的に県民に方向性を与え、同じアルプスのを水源とする福井や石川までを含めた大きな取り組みにすべきではないかと感じさせられました。



施策展開の基本姿勢

1 水循環に関する情報ネットワークの構築富山県における地域の水環境保全活動等を、インターネットやイベント等を活用して情報発信する。水循環に関するポータルサイトを構築し、本県独自のバーチャルミュージアム※としての水博物館や環境科学センターなどの行政機関、富山大学などの高等教育機関、さらには、㈶環日本海環境協力センターなどと連携しながら、水循環に関する情報を国内外に向け発信する。



2 推進体制水に関する施策は、広範囲で多岐な分野が密接に関係するため、循環資源である水に対する共通の認識に立ち、連携を取りながら推進する。流域を単位とした取り組みや地域に密着した取り組みなど、国や市町村との連携や役割分担により施策を推進する。

3 県民の参画と協働施策の推進にあたっては、自治会や地域団体、民間団体、ボランティア組織、NPOなど様々な形での県民の参画と協働を得る。節水や水の有効活用、水質の保全、水源の涵養、防災活動、水を通じた交流と連携など、水の役割や大切さ、様々な水問題、水に関する事業や取り組みなどの情報の収集・発信に努める。

4 進行管理学識経験者や関係団体代表等で構成されている「水ビジョン推進会議」を定期的に開催し、各種施策が適正かつ効果的に実行されているか、幅広い視点からの助言等を得て施策を推進する。水ビジョンの基本目標に向かって、各種施策がどのように実施され、成果を発揮しているか、定期的に検証していく必要がある。このため、「水ビジョン推進会議」において、設定した目標指標の到達度を評価し、施策の進行管理を行う。

2009年7月18日

地方分権の先鋒

地方分権の先鋒、東国原知事と橋下知事。いくら権限や財源を地方に取り込んでも、それを行使する体制ができているのかどうか、、、。宮崎県と崖っぷち大阪府の地方分権の取り組みは進んでいるのでしょうか?

宮崎県ではいくつかのビジョン策定が行われているようですが、行政改革自体はまだまだ、意識の改革、それも談合事件からの脱却、信頼回復期との捉え方です。しばらくは、マンゴーに頼るしかなさそうです。

行政改革は3つの改革が実施されています。(http://www.pref.miyazaki.lg.jp/parts/000085554.pdf より)

1 意識改革「お役所仕事」からの脱却や入札談合事件等の不祥事により失墜した県政の信頼回復のため、公務員倫理の確立や法令遵守(コンプライアンス)を徹底するとともに、職員一人ひとりの意識改革を推進し、柔軟な発想と明確なコスト意識を持って職務を遂行するという組織風土の形成を図ります。

○ 公務員倫理の確立(「職員倫理規程」等の制定、コンプライアンス推進体制の整備、「公益通報制度」の充実強化、 公共工事の入札・契約業務等に係る談合の記録、公表)
○ 組織風土改革の推進(各職場で、ワンランクアップの県民サービス向上の取組み、「部局マニフェスト」の実施、「職員提案」の実施、職員の自主的な地域活動参加を促す指針の作成、程度)
○ 人材育成の推進( 自己啓発支援、職場研修及び職場外研修の充実、職種間交流や外部との人事交流)

2 経営改革  はコストダウンだけですべてを黒字にしようとする大胆な試みです。県立病院の経営も経費削減で患者や医師が戻ってくるなら、苦労はありません。

3 協働改革  といっても、知事と県民との交流が中心で、「県民ブレーン座談会」、「県民フォーラム(公開討論会)」の開催。職員の姿が見えてきません、、、、、。

一方、大阪府ではもう少し改革が進んでいるようです。意識の改革から、実践へ取り組み始めているようです。部局長マニフェストと3人の副市長による6つの部局横断課題のマネージメント。
http://www.pref.osaka.jp/kikaku/b_manifesto/home.html より)

「大阪府では、この4月から、組織強化を図るため「戦略本部体制」をスタートさせています。
私は、この体制の下で、大阪府庁という組織が一丸となって「変革と挑戦」を続けるような仕組み、府民の視点で施策の効果を点検し、改善点を見出し、反映させる仕組みを確立したいと考えています。
その肝となるのが「部局長マニフェスト」です。
これは、部局長自身が、府としての大きな方向性の下で、自らの部門が遂行する戦略目標や具体的な成果指標を掲げ、知事である私との間でその実現を “約束”し府民の皆さんに公表するものです。」

それはアウトプットとアウトカムを区別して考えられたものです、、、、。

しかしながら、その重要なアウトカムを(課題→アウトカム)の順に見ていると、

1.大阪の地域力の再生→住民や地域団体等の地域活動への参加拡大により、府民の「地域力再生」の実感の向上を目指します。

2.大阪・関西発“地方分権改革”の推進→地方分権に関する府民の認知度・期待度の向上を目指します。

3.都市魅力創造→府民の大阪への「愛着心」や「活気・にぎわい」などの満足度向上を目指します。

4.新エネルギー都市大阪づくり→「エコカーの普及」についての府民の実感の向上を目指します。

5.障がい者雇用の促進→「障がい者が働き、自立した生活を送ることができる社会づくり」に対する府民の実感の向上をめざします。

6.大阪の高校教育のあり方→大阪の高校教育に関する府民の満足度の向上を目指します。

となります。でも、認知度、期待度、実感、満足度、それらは具体的な成果ではありませんね。

意識の改革だけが先行するのではなく、意識と実践とを同時に改革してこそ、改革が進むのではないかと考えます。実践の中でこそ、鍛えられると思うのです。府民の期待も、財政の窮乏も待ってはくれないはずです。

横断課題を全局をあげて取り組む意欲があるのかどうか、そのためには何を解体し、何を融合しなければならないのか、、、、、組織の創造的改革なしに、創造的な回答を提示することは不可能です。

「これまでの府政運営では「目標設定と責任の所在が曖昧」「PDCAサイクルの機能が不十分」といった課題がありました。
「PDCAサイクル」とは、Plan(立案・計画),Do(実施),Check(検証・評価),Act/Action(改善・見直し)の頭文字を取ったもので、計画から見直しまでを一環して行い,さらにそれを次の計画に活かす仕組み。この点を改善し、府としての組織目標を全庁で共有し、その達成を目指すため、「部局長マニフェスト」を制度化しました。 部局長マニフェストは、施策の取組段階ごとに目標を設定し、PDCAサイクルを常に意識しながら、その達成を目指す仕組みです。」

PDCAサイクルとは高度成長期に、製造業での生産管理や品質管理の効率化を推進するために考案された戦術であったはずです。いまどき、「PDCAサイクル」なんて言っているのは地方自治体くらいじゃないでしょうか。Plan→Do→Check→Act/Action、そんなにまっすぐには進みませんし、Planの前に膨大な分析が入り、Doの前に何度もCheckが入るものです。

やはり、まだまだ民間の先進企業の業務意識や体制とのずれは大きいのではないでしょうか。

地方分権

今、多くの政治家が地方分権、道州制に動いています。

それ自体は異論のないものと感じられますが、財源がどちらへどの程度傾くかだけが焦点のようで、具体的な行政改革、組織の改革は進んでいないようです。宮崎県も、大阪府も。

しかし、権力が地方に降りてきた場合に、きちんとそれを受け取る準備はできているのでしょうか。


官僚のあり方には弊害が生じてきていますが、国家のありようを問うために目指して勝ち取った国家公務員(今でもどれだけの人がその気概を持っているのかわかりませんが、、、)に勝る能力と意欲が地方公務員にあるのかどうか。地方公務員による官僚組織はもっとかたい殻を持った組織と言えるのかもしれません。

そうした集積し、巨大化したその組織を現実の動く機能的な組織に変えることができるのか、肥大化した、無用の長物をどこまでスリムにし、活動的にできるのか、、、、いくら、国以上に首長の権限が大きいと言えども首長一人の個性や能力で改革できるのか、持続して行けるのかはなはだ疑問です。


組織の改革、とは難しいものです。私の建築の師「内井昭蔵」は個性を生かしながら組織の仕組みを作っておりました。創造的な建築を作るためには創造的な組織のあり方が不可欠であると。


創造的な地方自治のあり方とは何か、それを実現するための組織のあり方とは何かを考える必要があります。それが首長の責務です。


組織とはコンセンサスで成り立っているものです。そのコンセンサスを得てゆくプロセスはすべての組織の宿命です。係員、係長、課長、部長、局長、、、、と書類の右上に配列される承認印が示すような、かたい殻の中の一元的、一直線的なプロセスではなく、多元的な、多次元的な、プロセスが必要ではないでしょうか。

そこにピラミッド形式の組織のあり方を緩めてゆく手がかりがあるように感じています。


地方公務員には「国家のありよう」といった国家公務員の崇高な志は必要ありません。むしろ、市民や地域がどうあるべきかと視点を下し、自分たちのライフデザインをどうするのか、それをともに考える土壌が必要です。

地方自治とは市民に直結しています。市民一人ひとり、職員一人ひとり、が上下の関係を捨てグループセッションのようにコンセンサスをとってゆくことが必要ではないでしょうか。個人を生かし、個人がチームとしてつながり、セッションのように合意形成してゆく、そんなイメージを抱いています。

2009年7月17日

43歳、働き盛り。3人の子の父親です。

「43歳、働き盛り。3人の子の父親です。」

「43歳、働き盛り。3人の子の父親です。」

「43歳、働き盛り。3人の子の父親です。」

「43歳、働き盛り。3人の子の父親です。・・・・・・・・・・。」

都議選での選挙カーによる連呼のひどさに驚いたものです。

何をやりたいのか?コンセプトは?マニフェストは?それとも体力勝負なのか?
67才現職議員に対抗する戦術だったようです、、、、、、。

彼らは政治家としての自負はあるのでしょうか?政治家だから目前の敵より1票でも多く、ということなのでしょうか。

もう、選挙のやり方を変えましょう。きちんと政策を語り、将来を語る能力を証明しましょうよ。

問題意識はどこにあるのか
どのように地域の情報を集積しているのか
ビジョンは何か
その構築力、論理力はどうか
どう具現化するのか
そのビジョンをどのように展開するのか

そのような論理構築能力を証明するための選挙活動とはどのようなものでしょうか。
未だ、選挙ポスターのさわやかな笑顔と選挙カーの鶯嬢の透き通るような大きな声。
選挙看板に付属するボタン押したら、あるいはネット上のデータからクリックしたら、ビジョンを自ら語る映像が流れてくることなど簡単な社会になっているはずです。
もっと、もっと対話も必要です。

ただ、様々な議員がいてもいいのかもしれません、肉体派、子煩悩派、お色気派、、、、、。都民の声を御用聞きのように拾い上げるのにはそれもいいかもしれません。しかし、あげられた声は誰が共有化した課題としてまとめるのでしょうか。

都の職員なのでしょうか、知事なのでしょうか。そうであるなら、都議など不要であり、民生委員や自治会長で十分です。待遇と権限を担保してあげれば、都民の生きた声は多面的に集まってくるでしょう。

議会とは何か、議員とは何か?そこに尽きるのでしょう。

地方自治法には15の役割が記述されています。
 条例を設け又は改廃すること。
 予算を定めること。
 決算を認定すること。
 法律又はこれに基づく政令に規定するものを除くほか、地方税の賦課徴収又は分担金、使用料、加入金若しくは手数料の徴収に関すること。
 その種類及び金額について政令で定める基準に従い条例で定める契約を締結すること。
 条例で定める場合を除くほか、財産を交換し、出資の目的とし、若しくは支払手段として使用し、又は適正な対価なくしてこれを譲渡し、若しくは貸し付けること。
 不動産を信託すること。
・・・・・・・・・・・・・・・・

たいていは1と2と3、それも決まられたものを採決するだけ、、、、。のような印象を持っています。

自ら市民の声を聞き、、、、、そのすべてを議会で一般質問するような議員もいますが、、、、そうではなく、声に潜む課題を自ら抽出し、いくつかの課題を連携、総合させて、新たなビジョンを描き、法制化してゆく。それが議員の役目ではないのでしょうか。

調査、分析、ビジョン構築、シミュレーション、評価、実行、、、、一人ですべてを行わなければならないスーパーマンであるはずなのです。少なくとも地方議員は。

働き盛りというだけではとてもこなせないものですし、ましてや3人の父親で子煩悩であるだけで、少子化問題に取り組めるというほど甘いものではないはずです。

2009年7月16日

スターバックスによる評価

岡崎市は大きく南と北に分かれています。南は最近の町であり、北は古い城下町からの町。北は自らを都心と呼び、その再生に向けて多大な税金が注がれています。

岡崎市南部、竜美が丘にスターバックスが開店しています。なだらかな斜面にゆったりとした住宅地が広がっています。近くには大きなショッピングセンターや裁判所や警察署などが位置します。

スターバックスの店舗は近隣都市も含めて、最近は急激な増加傾向にあります。直営店ではなく、フランチャイズによる店舗の増加が著しいとも言われます。しかし、37万人都市岡崎にはそのショッピングセンター、イオン内の店舗を含めて2店舗だけです。

スターバックスが求められる理由は何でしょう?

コーヒーが安いわけではありません。いろいろの自らの好みに合うコーヒーをオリジナルで作ってくれます。ただ、これは何度も通わないとそこまでのオーダーは難しいです。また、店内禁煙です。

逆に、スターバックスは何を求めて出店するのでしょうか。安くもない、喫煙などできない規制の多い店舗が受けいれられる地域はどこなのか、そうした新たな価値感を持つ人や地域はどこなのか。

この環境に合う場所や場面を作り出すことに適切な地域に出店をするのでしょう。それにあう豊かな地域はどこなのか、それを消費してくれる市民はどこにいるのか、企業はすべて調査しています。シビアです、、、、。

ごまかすGONPOとごまかされる市民、時代に取り残される地域と次代へ向かう地域、、、、違いを見極めなければ、再活性化など不可能です。
新たな可能性を発掘するためのワークショップを合意形成のために無理やり押し付けられ、近視眼的な市民にそんな違いなどわかるはずもありません。ワークショップごっこに戯れている場合ではないはずです。

地域への評価、それは市民も行政マンも知らないところで、しかし、プロとしての的確な判断が下されているのです。違いとその可能性が見えている確かな企業が身近にいるのです。

違いと可能性を示すこと、それがコミュニティシンクタンクの役割です。近視眼的市民には厳しいものを突きつけることになるでしょう。

2009年7月15日

大臣政策室

舛添厚生労働相は厚労省に大臣直属の政策スタッフ組織「大臣政策室」を設けることを発表した。政策室はIT関連企業社長など民間人を含め、大臣が任命した「政策官」で構成。12人中7人を総務、法務、財務、経済産業など他省庁から集め、縦割りにならない意思決定を目指す。(http://www.asahi.com/politics/update/0701/TKY200907010328.htmlより)


大統領府、首相官邸、次は大臣政策室が整備されるようです。

大臣になったからといって、すぐさま適材となるブレインを集めることはできないでしょう。大臣になった時点でより高度な専門性が必要となる大臣政策室を立ち上げることは困難ではないか、立ち上げてもうまく機能するのかどうか疑問です。そうであるなら、むしろそれ以前の段階より、議員として、つまり政治家として、政策研究チームを持ってチームとして政治を考えてゆく必要があるのではないかと考えます。

それは、現代の政治家には分析力、構築力とそのスピードとが必要であり、多面化、複雑化した現況に対処するためにより高度でより迅速な対応が必要な時代となったからです。

医療や技術開発だけでなく、芸術やデザインですらすでにチームとして活動することが不可欠の時代になってきています。政治家にも専門家によるチームが必要なのではないでしょうか。

国会法により公設秘書2人と政策秘書1人が認められていますが、チームに必要な人材とはマネージメントを担当する秘書ではなく、政策研究のできる研究員です。ただ、有能な研究員には独立した立場が必要であり、チームに対して顧問としての関係や委託契約を介した関係を持つべきかかもしれません。

もっと、その先を見据えるならば、それは政治家と研究員という関係を持ったチームではなく、研究員の集合体としての政治チームとなるでしょう。もしかするとそれはコミュニティシンクタンクのような地域とのネットワークを持ち、新たな情報収集システムを携える組織かもしれません。

多くの個人の政治家よりも、数を少なくしたチームによる政治です。

選挙には政治家一人の資質が問われるのではなくチーム全体の能力が問われる。市民や国民はチーム全体の能力を見て、投票するようなシステムです。

それはブレインとしてのシンクタンクのような機能と役割が要求され、地域に根差した政治家にはコミュニティシンクタンクの登場が必要になるでしょう。

特に地方の政治では市議など、市長と対等に論議を交わすことのできる数人でいいと思うのです。

2009年7月14日

シェフによるスーパー給食

「残さず食べてもらえる給食を目指す東京都足立区の区立梅島小に25日、西麻布で高級イタリアンレストランを営む片岡護シェフ(60)の給食が登場した。

 大好評だったのがトマトソースのパスタ。レストランで出すものと同等だが、値段の手ごろなパスタを使うなどの工夫で予算は通常の1食254円に収まった。

 3回お代わりした4年生の嶋圭太郎君(9)の感想は「軟らかく、ちょっと硬くてもちもち」。自然に出てきた「アルデンテ」の表現には、片岡さんもびっくり。 」(http://www.asahi.com/national/update/0625/TKY200906250276.html より)

西麻布でイタリアンレストランを経営するシェフが1食254円の給食を提供したようです。給食などの安い予算ではとてもできないという感覚があったので驚きです。

シェフによる給食は、このほかにも多くの小学校、町でスーパー給食として取り入れられているようです。フレンチからイタリアン、和食中華ラーメンお好み焼きから、、、様々なシェフがいます(http://www.chojin-chef.jp/deproject/kyuusyoku/index.html より)

食物の栄養価の数値から食を作ってゆくのではなく、生きた食事を提供するという本来のプロの腕によって「おいしさ」が求められたのです。子供たちにはおいしさだけではなく、料理を作る楽しさが実感できたかもしれません。

建築も同じです。建築家に頼むと高くなるから工務店やハウスメーカーに頼む、建設会社に任せてしまうと考える人も多いかもしれません。安易にできてしまうかもしれませんが、安易さは隠れた不備や思わぬ欠陥も生じてしまいます。
住まいや建築とは、発注者と建築家とがともに一緒になって作ってゆくものです。手間を惜しまない建築家ならば、住まいにかかわるその人のビジョンを作り出します。
少し時間はかかるかもしれませんが、思いの込められた住まいは長く愛されるものになります。
プロフェッショナルとは、いかなる条件においても、最大の利益を生み出す力を持っています。その職能こそ、今後多くの社会で、多くの場面で必要になってくるものではないかと思うのです。

2009年7月13日

琴光喜と内川

琴光喜と内川、彼らに共通するのは、「愛子さま」がファンであること。

誰もが朝青龍や白鵬と言い、誰もがイチローやマツイやナカムラを応援するなかで、彼女の審美眼は印象的です。

多くの人たちがスーパースターやアイドルに「流され」がちで、また、メディアでの露出度の高いチームを応援する。メディアは常勝チームを作り、その均質化へのサイクルを加速する。

それはストレス解消のためなのか、コミュニケーションを保つための保身術なのか。あるいは、安心感なのかもしれません。

子供の頃、人と同じ感性や価値観を持っていることで、仲間はずれにもならず、孤立することもなかったかもしれませんが、それを顧みず、内面に深く入り込んだ彼女の洞察力は私たちにとって、貴重なものとなるでしょう。むしろ、子供たちの間で羨望の的となって欲しいのですが、、。


それは「オタク」と言われる「アマチュア専門家」としての能力の現れかもしれません。

「オタク」と「プロフェショナル」との違いは何でしょうか。大きいようにも感じられますし、「オタク」の知識の方が膨大な場合もあるでしょう。「プロフェショナル」は実践の中で鍛えられ、責務を負ってゆきます。閉じていては「プロフェッショナル」とは認知されないのではないでしょうか。

「オタク」がその自閉性を解き、「アマチュア専門家」として発言権を持ち、市民権を得てゆく時、日本の社会は大きく変わってゆくのではないでしょうか。

そこには均質性を持った市民や国民ではなく、メディアなど到底予測もつかないような、多元性を持った社会が見えてくるように思うのです。

オタクを研究するオタクもあるようです。こちらはプロフェッショナルと言うべきかもしれませんが、このような分類型の分析は面白くないですね。むしろ面白さは「オタク」の方が持っているものです。

オタクは遍在する――NRIが示す「5人のオタクたち」 (1/2)
オタク分析のパイオニア・NRIが新定義を打ち出した。オタクにはアニメやコミックマニアだけでなく自動車好きや旅行好きも含まれるとし、「5人のオタクたち」という典型像を示した。
 野村総合研究所(NRI)オタク市場予測チームは、オタクの特性を分析して再定義し、10月6日に発表した。オタクはいわゆる「アキバ系」だけではないとし、行動や消費の特性を抽出。アニメやコミックに加えて旅行、自動車マニアなどもオタクに含め、主要12分野のオタク人口を172万人、市場規模を4110億円と推計した。(http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0510/06/news068.html より)

2009年7月7日

裕次郎23回忌

「87年に52歳で亡くなった俳優、石原裕次郎さんの二十三回忌法要が5日、東京都新宿区の国立競技場であった。一般向けには最後の法要で、ファンらが午後10時の閉門まで長い列をつくった。主催者の石原プロモーションによると計11万6862人が献花した。

グラウンドには、裕次郎さんの墓がある横浜市鶴見区の総持寺の本堂を模した高さ約17メートル、間口約36メートルのセットが組まれた。」(http://www.asahi.com/national/update/0705/TKY200907050141.html より)

本尊を総持寺より持ち込み、法要が行われたようです。

言わば、それは移動寺であり、ウォークする寺です。本尊のあるところ御仏がおわすということですね。キリスト教プロテスタントでは、聖書あるところすべて神の御心があり、十字架のような偶像や教会のかたちにはこだわらないのと同じようです。寺そのものです。

かつて、アーキグラムがインスタントシティやウォーキングシティを都市のメタファーとして提案していたことも思い出されます。建築までもユビキタスであるということを改めて認識できました。

仏の心を確かめる場所、その場所こそが法要の場所、寺であるのです。

東京遷都が模索されていた頃、師内井昭蔵は移動国会を提案しました。

内井は木構造の巨大なドームを解体、組み立てできるシステムを考案し、国会議事堂として、さまざまな場所での議会開催を考えていました。遷都という神がかり的なものではなく、現実的な、そしてより実効性のある多面的な国会像を提供したのでした。

先日まで東京国立博物館で開催されていた「阿修羅展」。美術品として博物館で展示されるのではなく、ウォークする移動寺として興福寺自体が東京へやってきてくれるとよかったのですが、、、、、、。

建築も都市もウォークするのですから。

2009年7月6日

アートビオトープ

アートビオトープという言葉が生まれています。アートビオトープ那須では自然の息遣いを感じるなかで作品を作ったり、講義を学んだり、さまざまな活動を行う環境を提供しています。

http://www.artbiotop.jp/


ビオトープBiotopとはBios(生命)+Topos(場所)というギリシャ語から生まれた概念です。本来は生物の生態域、普通に自然の中に持続している生物の生態域のことを言い、それらを保護、保全、復元、創出してゆこうとするものです。


近年、日本では、屋内や身近な環境の中に閉じ込められて人工的に作られている生物の飼育室や実験装置のような矮小化された小さな概念となってしまっています。残念ながら、、、、。

ビオトープもエコロジーと同じように、むしろ生態系をつなげ、広げてゆくことが重要であり、そのつながりを私たち自身の感性でまじかに感じることが必要なのだと思います。

アートビオトープとは、作品を作ることで、生命の息吹を感じ取ってゆこうとするものであり、同時に自然の息吹を感じることで新たな作品を作ってゆこうとする活動です。アートや芸術のまっすぐな側面が自然の生態系の厳しさ、難しさとあいまって育てられるということではないでしょうか。

アートが作品、すなわち、ものづくりを通して、人と自然との間に立ってつながりを生み出しているのではないかと思います。アートが地域と人とのつながり、人と自然とのつながりを発見させ、地域のの活性化や環境づくりへと向かう活動は大変多くなっています。

アートやものづくりとエコロジーとは、なかよしなのですね。
どれも数字で抽象化されるものではないし、視点が正しくないと見えてこないですし、自らの視線を通さないと見えないものですからね。

2009年7月5日

軽井沢訪問記/ヴォーリズ、レーモンド、吉村順三から原広司

ナショナルトラストサポートセンター主催のタリアセン(軽井沢塩沢湖畔)見学会に参加する機会がありました。

タリアセンには44年会館(旧軽井沢郵便局)や朝吹山荘(ヴォーリズ設計)、夏の家(レーモンド設計)など軽井沢の歴史を作ってきた大切な資産が移築保全され、レストランや美術館として活用されています。その活動の中心となっている軽井沢ナショナルトラストの藤巻氏に貴重な説明をいただきました。

旧軽井沢郵便局の保存活動をきっかけに藤巻氏はじめ地域の有志が軽井沢の別荘や教会などの文化資産を守るため、活動始めました。地域が自分たちの文化や歴史を後世にきちんと残そうと、それが自分たちの歴史であり、同時に自分たちの将来を形作るものとして考えられているのだと感じました。

また、軽井沢を歩いていると、いくつかの別荘建築には教育員会から委託された臨時職員の方たちがはりつき、残された施設を広報し、管理している様子も見られました。周辺の古びてきた別荘を今後どうしようか、愛情を持って自分たちのことのように真剣なまなざしを向けています。

どの地域も今、自分たちのアイデンティティがいかなるものか、生き残りの手段として切実になっています。5億円もの費用をかけて、東京の古い住宅を元藩主末裔の住宅というだけで、旧本多邸を研究者から押し付けられ、買わされ、一方で地域の歴史や文化資産には目もくれないという岡崎市は特殊事例でしょう。



この機会にいくつか、建築を見て回りました。順に、レーモンド設計の聖パオロ教会、ヴォーリズ設計の浮田山荘、吉村順三設計の山荘。
どれも存在感があり、今に引き継がれ、今後も軽井沢を形成してゆくことでしょう。











その存在感とは何か、、、、建築の姿が立ち現れる瞬間をどのように設計論として記録してゆこうか考えています。ここを歩くと、その答えのひとつと考える「素材と私たちの関係」が強くつながれていることがよくわかります。
どれも私たちに熱く、強く語りかけてきます。建築家が選んだ素材、それらを取り込むための構法やディテールが真摯に、大胆に現わされているのです。
語りかけられた私たちは敏感に反応し、そこに風土や文化、愛情や思いなど、、、、、、地域の普遍性を感じてしまいます。そうした素材と私たちの関係、その発想は師内井昭蔵から最も影響を受けた視点ですが、この素材と私たちの関係を生み出すことが建築が立ち現れる瞬間の一つではないかと考えています。

最後に86年、原広司によって設計された田崎美術館。

ここは素材そのものというより、光あふれる空間の中にほのかに模様を刻まれたガラスが幾重にも重なるように配置されています。軽井沢の透明感あふれる空気がデザインされ、再現されているように感じられました。

地域の透明感、これも風土です。かつて、それを求めて人々はやってきたわけですから。

しかし、その透明感も、ここ軽井沢でも失われつつあるように感じられました。それらを濁すような、けばけばしく、張りぼての見せかけの商業建築や別荘群が目についてきたのです。

古い文化や歴史の上に、そこに新たな感性が真摯に重ねられながら、地域は熟成してゆきます。
(ref→http://architect-studio.com/topic.html

2009年7月3日

サイクルトレイン

「えちぜん鉄道「サイクルトレイン」の運行について
公共交通機関の利用促進策、また、健康長寿バイスクル事業の一環として、えちぜん鉄道において、自転車を電車に持ち込める「サイクルトレイン」を運行しています。」
http://www.pref.fukui.jp/doc/sokou/bicycle/cycletrain.html より)


まだ、期間や期日限定であったり、サイクリング愛好者や観光客対象のイベント的な様相ですが、多くの心ある鉄道機関で試行されているようです。


秩父サイクルトレイン実行委員会+西武鉄道 http://navix.city.chichibu.lg.jp/

岐阜県養老鉄道 http://www.yororailway.co.jp/cycle/cycle.htm

滋賀県近江鉄道 http://www.ohmitetudo.co.jp/railway/cycle/index.html

茨城県関東鉄道、地域のふれあいパートナーと謳われております。 http://www.kantetsu.co.jp/train/cycletrain/cycletrain_index.html

群馬県上毛電気鉄道 http://www15.wind.ne.jp/~joden/otokujoho/sub1.html

上毛電気鉄道では新たにパーク&ライドシステムが試みられています。
「自家用車等で駅まで行き、公共交通に乗り換えるパーク&ライドシステムを導入しております。上電利用者に限り、駅駐車場を無料化しております。

通勤、通学の方はもちろん今日だけ上電を利用したいといった方も対象として、駅駐車場を無料化しております。 ぜひ、自家用車と合わせて環境に優しい公共交通もご利用下さい。」


車社会一辺倒だと思っていた地域でも、本物のエコに向けて次代の試みが行われています。地方から社会を変えることができるかもしれません。サイクル&ライド、サイクルonライドで通勤する有能なサラリーマンの姿も日常的な光景になることでしょう。

ヨーロッパではすでに行われていますが、、、、。

2009年7月2日

副市長公募

豊岡市では副市長を公募しました。東京や神戸でも公募の説明会が行われています。http://www.city.toyooka.lg.jp/www/contents/1244178688617/index.html


豊岡は出石や城崎を含み、人口約89000人、市の職員約990人ほど、コウノトリの町として有名な兵庫県北部の山間の町です。

中貝宗治市長は、副市長をコーチと位置付けています。プレイヤーとしての職員と監督としての市長との間に立って、コーチの役割を果たすのだというのです。一見、中間管理職的な印象も受けますが、、、、難しい役どころです。



「豊岡市役所の職員たちは、素質は充分で、故郷を愛する強い気持ちをもっています。このチームを、民の目でさらに鍛えて、市民との連携をさらに強化すれば、目標は必ず達成できると信じています。そこで今、私たちの夢の実現に向けて、副市長として、夢を共有し、一緒になって汗を流していただける人材を探しています。求めている副市長像は、「優れたコーチ」です。」

市は行財政改革の真っ只中、そこに改革のメスならぬ、コーチの手腕を入れたいようです。財政逼迫という状況の中で市も、市民や活動団体も苦しんでいることがわかります。多くの声も寄せられているようです。

補助金や運営費などの削減や中止が市から提案されていますが、同時に地域の活動の活性化は進みつつあり、また進めなければならないというジレンマもあるようです。

でもそのジレンマの中にこそ、解決の糸口はあるのではないでしょうか。どちらかを切り捨てるのではなく、その両方を解決する斬新で、思ってもいない戦略が求められています。

それには経費削減に長けた経済専門家の経営戦術を必要とするのでも、財政逼迫を市民とともに痛みを分ける交渉術を必要とするのでもありません。

戦術の問題ではなく、行革そのものの、組織のあり方をどのように変えてゆくかが問われているのであり、新たな有機的組織の運営へ向けて職員の視線を変えてゆくことがコーチたる副市長に求められているのではないでしょうか。

そこにこそ次代のタウンマネージメント、新たな民主主義の姿があるのではないでしょうか。

2009年7月1日

エコとはecology ?

エコとは何でしょうか。


日本のエコ住宅って、外壁を密閉化し、内部の空間をできるだけ外気から閉ざし、高効率空間を作ろうとするものなのではないでしょうか。それは単なる省エネルギー住宅であったり、高密閉住宅であったり、徹底した工業製品化された住宅であったりします。

エコカーって、積載したエンジンの稼働力と遠くの町の発電所から送られてくるエネルギーによって動いているだけでは?

エコ家電って、ランニングコスト重視と言い、買い替えばかりを押しつける高度成長期と何ら変わりないのでは?などと考えてしまいます。


最近、どの企業も環境に対してなかよしだとか、やさしさだとか、配慮だとか、声高に語ります。そして、自己の効率度が一番であると社会にアピールします。


しかしながら、一つの交通手段の効率度を強調しても社会は変わらないでしょう。様々な交通体系、交通手段を連携させ、つながりをつくってゆくことが重要なのではないでしょうか。鉄道だけですべてを論じるなんて不可能です。

営業する自らの地域が何故、車社会から逃れられないのかを考えたことはあるのでしょうか。

同じ系列会社であるバスのサービスはどうなっているのでしょう。自らの利益のためにコミュニティバスに制約をかけたり排除しているようなことはないでしょうか。

現在禁止している電車の中にそのまま自転車を持ち込むことを許せば、あふれんばかりの自転車置き場の問題も、環境問題も、そして健康の問題も一気に解決してしまいますね。エコとは単なる企業の利潤追及の場ではないはずです。

どれもこれもエコがecology を起源とするものなのか、economyを起源とするものなのか分からなくなってきました。

エコとエコロジーは全く異なる概念なんだと感じざるを得ません。

エコロジーとは様々なつながりのなかに私たちがいることを認識する研究領域です。太陽の光が明るさを持ち込み、そのエネルギーを与えてくれる。森の緑が風を起こし、空気を浄化する。鳥や木々の生気を運び、人の生活を潤わせる。そうした人の生活はつながって森のようなコミュニティとなり、大きな力となって生態都市となります。

つながりを生み出してゆくこと、永続的に生み出してゆくことが持続可能な社会の始まりであって、エコロジーとはそのような永遠につながる連携のことではないでしょうか。

人の思いはアートと出会って、形を作ってゆく。そのものづくりのストーリーは次々とつながってゆくことでアートは深い形をなしてゆく。ものづくりのストーリーは正直であり、なすがままであり、自然なものであり、恣意的な間違ったプロセスからは素直な形は生まれないものです。

それらの所作は練習と情熱によって自然な形をなすようになる。それがものづくりの精神です。アートやものづくりと自然とはその筋道のところで似ているのだと思うのです。形を崩すのは人間の大げさな所作であったり、エゴであったり、、、、。

今社会を席捲しているエコとはつながりを排除し、つながりを閉ざすことによって高効率化や高エネルギー化を目指し、研ぎ澄ましてゆくものです。エコロジーとは少し異なるものと思う。そう、エコとはエゴ。

2009年6月29日

WiMAX

いよいよ、ユビキタス社会が現実的になってきたようです。

「ブロードバンドと言えば、自宅やオフィスなど限られた場所でしか使えない通信でした。しかし「UQ WiMAX」の登場により、どこでも自由に使えるようになります。それは、進化したフューチャー・ブロードバンドです。「ノートパソコン」はもちろん、身の回りにある家電製品から自動車に至るまで、ネット環境につないでしまう次世代技術、そんな「UQ WiMAX」のつくる未来の生活の一部をご紹介します。」(http://www.uqwimax.jp/より)
建築が未来を語っていた時、60年代には定住型農耕型の日本人が「ホモモーベンス Homo movens 」(移動型人間)になってゆく時代が来る(来ている)ことを黒川紀章によって、80年代には「ノマドNomad」(都市遊牧民)の時代が来るであろうことを伊東豊雄から学んだものです。
その予言通りに、高度成長期には「阿部公房の箱男」のように都市を徘徊する市民が現われ、バブル崩壊後の90年代からはホームレスという新しい住まいの形が市民権を得てしまいました。一つのスタイルと言えます。私のデザイン論の授業でも空間の原始的構造の一つとして紹介しています。。。

このWiMAXによって、ホームレスという住まいにおいてもインターネットによって世界とつながることができるようになったのです。
「神はあまねく存在する」という意味のラテン語の宗教用語であるユビキタスが本来の意味でも実現しつつあると言えます。公共空間でも十分に通常の仕事ができるネット環境が神様からすべての国民に与えられたと考えることもできるのです。
(写真はニューヨークパブリックライブラリー周辺で撮影)

そのうち、業績の厳しい企業ではオフィスから人があぶれ出し、オフィスレスやオフィスノマドと呼ばれる企業戦士が快適な青空のもと公園やガード下で豊かに仕事を進める光景に出くわすことになるでしょう。いえ、優良企業ではすでに始まっているかもしれません。

公共とは?公共空間とは何でしょう?

電車の中でのお化粧を恥と言い、食べ物を食べると品がないと言う。携帯電話の声がうるさいと争いになったり、、、、、、、、、まだまだノマドになりきれていない人が多いようです。

2009年6月28日

ヴォーリズの建築

汐留で開催していたヴォーリズ展に行ってきました。 図面やモデルも豊富にあり、ヴォーリズという建築家の哲学がよく見えてきた展覧会でした。

私はその建築哲学が具体的に何に、どのように現れるのか、今考え始めています。建築の現れる時を建築家の側から見てゆこうとするものです。

ヴォーリズは明治学院大学のチャペルの設計者であり、キャンパスの設計を担当していた頃からずいぶんと魅かれていました。キャンパスの再開発計画が終わって振り返った時に、ヴォーリズと私の建築の師、内井昭蔵は似ているなぁと実感したものでした。

ヴォーリズはミッション建築家ですから、キリスト教精神にあふれていたのでしょう。その精神性という言葉は明治学院の白金キャンパスの再開発にも考えていたことでした。

私たちも「キリスト教精神に基づき」をテーマに設計してきたわけですが、近年、精神性という抽象的な言葉が具体的に何を指すのかをずっと考えてきました。

ヴォーリズの精神性、心とは何を指すのか。それは建築の形に現れるものでしょうか。

展覧会のパンフレット「ヴォーリズ建築の100年」に掲載されている、ヴォーリズ事務所の代表を務めていた石田忠範氏の論考「ヴォーリズ建築のこころとかたち」には興味深い言葉が残されていました。

「当事務所はただ一人の舞台(one-man-show)でないことは今更贅言を要しないことである。・・・・・いつも統制のとれた団体(well-articulated)で必要な専門家達が各自の専門の受持を担当し、、、、」というヴォーリズの言葉に対し、

統制のとれた団体(well-articulated)とは上からの統制ではなく適切に分節された組織体であって、各人は単独ではなく、全体との関連において成立している存在であった。ヴォーリズは人を組み合わせて建てあげることにおいて、真に建築家であったのであると、説明しています。

建築が、それを設計する組織のありかたによるものと考えていたことも、多くのスタッフをうまく組み合わせ、それらの意見をよく聴いた内井と同じです。そうしてつくるからこそ、きびしい表情の建築ではなく、いろいろのものが混在した、柔らかな建築となるのだと感じています。

「日常生活の使用に対して、住み心地のよい、健康を守るによい、能率的な建築を求める、熱心な建築依頼者の求めに応じて、その意をくむ奉仕者となるべきである」という基本的な設計態度や、

「人と人をつなぐディテール」として床と壁の取り合いは掃除をしやすく丸く収めたり、腰には汚れにくい木製パネルとしたり、チェアーレールをつけたり、壁と天井は一体的空間に見えるようにモールでつないでいたりしたディテールの考え方も述べています。

ヴォーリズの心のありようは、建築家のスタンスとなって、しっかりと具体的な建築の形として現わされています。 きめ細かな人の居場所としての建築を私たちはここから感じ取っていたのでしょう。

建築のありようを伝えるもの、それは具体的な建築の素材であり、それらと私たちとをつなぐディテールなんだと改めて気づかされました。ヴォーリズも内井もそこに共通点があるのではないでしょうか。(ref→ySAS Yoshiharu Shimazaki Architect Studio

2009年6月27日

CO2削減について

日本ではCO2排出量削減に一生懸命です。すべての活動がCO2に換算されて、あたかも抽象的な偏差値のようにも感じられます。それどころか貨幣価値のように基準となって、ものの価値を代弁し、売買の基準にさえなろうとしています。(表はhttp://automoney.sakura.ne.jp/lohas/200/ent258.htmlより)


しかし、このようにCO2の削減量だけにとらわれていいのでしょうか。私たちは騙されていないでしょうか。私たちは世界を欺いていないでしょうか。












これはデンマーク、コペンハーゲン中央駅から電車で20分ほどの住宅地です。
世界に目を向ければ、ユーロッパもアメリカも都市さえ豊かな自然環境を保っています。東アジアも豊かな水田地帯を持ち、都市も少ないながら身近な緑を大切にしてきました。
今議論していることは日本の貧しい都市環境には全く触れず、目の前の排出ガスのことばかりで、エネルギーの合理化、省エネルギー化のことです。CO2で語られることは私たちが住まう生態系にかかわる仕組みを論じているものではなく、エネルギーをどれだけ最小にできるかという経済の仕組みそのものと言えるからです。それはエコロジーのことではなく、エコノミーにつながることなのではないでしょうか。

一人ひとりの価値観が変わってゆくことは大切なことですが、CO2削減がゲームのように単なるエコノミーにかかわることであれば、コスト削減による余剰のコストはどこかで使われ、CO2に変化します。また、それを規制すると世の中のキャッシュフローが滞り、不況となって、政府の対策としてキャッシュが出回り、またそれもCO2に変化するのではないでしょうか。どちらにしてもエコノミーの領域である限り、CO2から逃れられないのでは?

一方、計算上はマイナスばかりを集計するのですから、日本の削減量は素晴らしいものになるはずですが、、、、、しかし、実態はそうはうまくはいかないのではないでしょうか。国民が躍るだけになりはしないでしょうか。残るのは貧しい都市環境ということになります。

環境への視点とは生きた生態系の中で様々なつながりを想像することです。農産物の生産量を上げるために農薬を使う、そのために虫や鳥や生物までもいなくなる、当然それは人間の生命にも及んでくる、、、、社会はつながっているのです。それがレイチェル・カーソン「沈黙の春」での貴重な提言です。

CO2だけにとらわれると、
原子力発電の少ない中部電力が東京電力より削減率が悪くなり、車や冷蔵庫などはわずかな省エネ商品への買い替えに走り、こうこうと眩しくまた、ちらちら目が疲れる蛍光灯ばかりになって水銀の廃棄処理に困ってしまったり、、、、、、。

CO2ばかりに目を向け、独り歩きをし、数値目標に徹底して取り組む側面は日本人の得意とするところですが、どこかに間違いがあるのではないでしょうか。

2009年6月26日

地域の防災

豊かな町には、古いが人間的な町並みが潜んでいるものです。どこの町にも見られるのだと思います。

しかし、その多くの町は道路の拡幅などで解体の恐れがありますし、それが当然のように行われます。それを審議するはずの有識者でさえ、道路は法規の上の広さが必要であり、町の解体も当然であるという認識です。彼らにとって道とは昭和25年に制定された建築基準法による幅4.0m以上の平坦な通路ことでしかないようです。

道とは向かい合い、隣り合い、コミュニティを育むものであって、車のシステムに人の生活を合わせるのではなく、人の生活に合わせて道をつくり、町をつくるべきなのです。

防災のために道を広げられ、結果的にコミュニティは解体されてゆきますが、豊かに住まう人やコミュニティの安全を守るのが防災であるはずです。

町のスケールに消防ポンプ車やゴミ収集車を合わせればいいのです。高層ビルができれば新たにはしご車が購入されるのですから、小さな町には小さな車があればいいのです。

消防バイク、ミニ消防車、小型消防車、、、消防車も多様化しています。

http://www.signalos.co.jp/html_sharyou/sharyou_index.html


消防車とは消防ポンプ車のことです。地域の消火栓や消火水槽から放水するために駆けつけるのです。地域には水槽や消火栓があればいいのではないでしょうか。ポンプを配送すればいいだけです。常備していてもいいでしょう。



災害から人を守るのは濃密な人と人の関係、コミュニティであることは神戸の大震災から私たちが学んだことではなかったのでしょうか。やるべきことは道を広げてコミュニティを解体することではないはずです。

イタリアの小さな町、ロコロトンドでは、こんなかわいいごみ収集車に出会いました。

2009年6月24日

市民記者

市民の市民による市民のためのメディア「JANJAN」では市民記者を募集しています。

http://www.janjan.jp/

■ すべての市民は記者である ■
「記者」というと難しい仕事のように思われるかもしれませんが、けっしてそんなことはありません。『JanJan』は「すべての市民は記者である」ということに気づいたことから誕生しました。みんながニュースを発信する市民メディアです。
自然のこと、家族のこと、地域のこと、日本のこと、世界のこと、どんなことでも、あなたがみんなに知らせたいと思うことはニュースです。
ニュースの書き方は新聞や雑誌の真似をする必要はありません。友だちに話す要領でよいのです。記事を書く時間がない方は、情報を送るだけの市民記者でも結構です。その情報に基づいて編集局が記事を作成します。

その市民記者規約 4条には遵守すべき〈市民記者コード〉が記されています。

(1)記事は市民記者個人の責任で書きます。
(2)情報は正当な方法で収集し、事実関係を十分確認します。
(3)盗作など他人の著作権を侵害しません。
(4)名誉毀損、人権侵害や言論の暴力的な記事は書きません。
(5)差別的な記述や品格を欠く記述はしません。
(6)取材対象から金品を受け取るなど不当な行為はしません。
(7)編集権は本社にあることに同意します。

プロの記者同様の責務と規範があるようです。サイトに掲載されている記事も大メディアの記者のような気分が表れています。

一方で、YOUTUBEのような画像投稿による自由なサイトも生まれています。それによって、今イランや中国の内陸で何が起こっているのか、私たちは身近に知ることができます。検閲し、編集するのは市民自ら、という考えです。

しかし、そこには、とにかく知らしめるのだという、ジャーナリスト魂が見えています。大も小もない、格も見栄も何もない、メディアそのものの心意気が溢れています。

社会はもっと市民のすぐそばで起っていることを期待しているのではないでしょうか。
本当のジャーナリズムが求められているのではないでしょうか。

所詮、メディアの情報とはその多くは様々な所を通り、検閲され、編集され、出てくるものなのでしょうから、、、、。

2009年6月23日

市民の現実性

政治家は現実的であると言われています。政治家自身もそのように述べて、規制の権益の中に飲み込まれてゆきます。

実は市民も現実的であると自ら言います。現実のさまざまな、目の前の権益に飲み込まれ、つながりを保とうとします。「私たちはここで生活をしているのだから、、、」だから、飲み込まれてしまうということです。行政ににらまれてはいけないし、コーディネーターと仲良くしないと、、、、。飲み込まれないあなたはよそ者、そんな意識が見え隠れします。目の前の現実性を問えば問うほど近視眼的にまちを見てしまいます。

権益や帰属意識に飲み込まれると、誰が見ても古ぼけた建て替ざるを得ない駅の改築も前に進みません。目の前の人や権益や因習に飲み込まれるから進まないのです。考えるべきはそのような権益でも帰属意識でもなく、もっと広い視野を持った、駅を総合的に考える展望です。

駅とは通勤客の単なる乗降場所ではありません。まちの玄関であり、顔であり、人々が集う居場所であります。まちそのものと言えるのです。 まちづくりも、公園づくりも、駅を改築することも、目の前の狭い現実性ではなく、地域の文化や風土、そこに集う人たちの本質を問うことが不可欠です。

2009年6月22日

ブックオフと地域の古書店

ブックオフで アンドレ・プットマンの古書を105円で手に入れることができました。
価格:¥ 1,890 国内配送料無料
ハードカバー: 152ページ
出版社: 阪急コミュニケーションズ (2007/11/1)
ISBN-10: 4484072297
ISBN-13: 978-4484072296
発売日: 2007/11/1
商品の寸法: 17.6 x 13.6 x 1.8 cm

プットマンとはシャルロット・ペリアン、アイリーン・グレイとともに世界的に有名な女流インテリアデザイナーです。 ただ同然でこのプットマンを売るとは、、、、手放し方にも問題があるようです。

一方で近くの古書店では、森鴎外など地元にゆかりの作家本から、現象学、芸術建築系まで含めておいてあります。私が行けなかった3年前の展示会のパンフレットが定価3000円→4000円で出されていて今迷っています。が、新品同様で、たぶんそのうち買うことになるでしょう。
この古書店は神保町で見られるような、本が積んであって何がどこにあるかわからないような古本屋ではありません。ブックカフェのようなう雰囲気さえ漂わせていて、表にはコンセプトを象徴するかのように「ソトコト」のバックナンバーが置いてありました。私もこれを見てこの店に興味を抱かされました。
何かのこだわりが違うのでしょう。それは何だろうか。全体の利益はブックオフのほうが大きいかもしれないけれど、この小さな古書店の持つ役割は大きいように感じられます。少し高くても、自分が欲しいものをきちんと用意してくれている古書店は不可欠です。ここでは、いつも多くの人たちが立ち読みをしています。中身を見て買うのですね。

資本主義とは様々なものの価値を一律の貨幣価値という抽象的な数値に置き換えた。そのことによりものの価値が相対的になり、多様なものの価値が誰にでも一目でわかるようになって、利用価値が大きく広がったのです、、、、、。しかし、同時に捨てるものも大きかったはずです。

地方の図書館でも書籍や資料の本質的な価値は判断せず、貸し出し回数が少ないということだけで貴重な資料を地元の古書店に出してしまうことがあるそうです。地元の郷土史資料など、そうめったに借りられることはありませんが、個人が所有するものなどではなく、共通で所有すべきで、図書館が手放す類のものではないはずです。

このように未だに、中身を見ないで、その価値の本質を見ないで、画一的評価や基準、尺度を運用するすることにどれだけの意味があるのでしょうか。

2009年6月21日

コミュニティシンクタンクとは


「コミュニティシンクタンク」で検索すると本ブログがYAHOOで3位、GOOGLEで4位にランクされています。組織の数が少ないのか、まだ概念が浸透していないのか、、、、。現実のシンクタンク活動は難しいのかもしれません。

Yの一位は「コミュニティシンクタンクふじ」富士市の市民によるシンクタンクです。
設立趣旨は

「・ 市民ニーズ(課題)を吸い上げ、それに関する調査研究に基づき政策提言を行う  ・ 行政から特定課題を受託し、それに関する調査研究に基づき政策提言を行う  ・ 独自に考え出した事業を社会実験的にコーディネートし、自ら実施する  ・ 行政が実施する各種施策について市民の意向を調査し、その内容を検証、評価することを目的に、」と掲げられています。

現在は主に以下の活動がおこなわれているようです。


Gの一位は「評価三重」。事業評価を基本業務として組織されたシンクタンクです。

その趣旨が
「私たちは、「評価」に関する情報を調査・研究し、「評価」に関するシステムを開発し、「評価」に関する私たちの知見を普及するといった地域からの情報発信を通じて、あらゆる公益に関わる市民活動団体・NPO及び行政の組織マネジメントの向上や事業の質的向上に資することを目指します。」と記載されています。
ただ、数年サイトの更新がされておらず、ここのところの活動が定かではありません。

市民が自ら企画運営するシンクタンクの難しさは実際、「moco」を設立してわかってきました。市民のありようから地域に根ざした課題が眼前に現れてきます。たぶん、市長も行政マンもとても認識できていないでしょう。近視眼的な地域の権益者も同様です。

一方で、市民の立場は脆弱でまわりの関係性に制約を受けます。制度、因習、おつきあい、、、、。それらを振り切って、真正面から発言したり、提言したりすることはとても困難だと感じました。本当はすべてを捨てて、社会のために取り組まなければならないのですが、「そこに生活する身」にとっては厳しいことになるようです。

しかし、コミュニティシンクタンクとはそこを明らかにせねばなりません。

Y4位、G5位にランクされているNPOセンターではコミュニティシンクタンクを次のように定義されています。

「1.コミュニティ・シンクタンクとは(1.3.1)
 コミュニティ・シンクタンクとは、地域や生活の現場に根ざして、生活者の視点、納税者の視点、社会的弱者の視点、地域コミュニティ再生の視点から、住民の生の声、地域内外の英知や専門知を総合編集して、地域の問題・課題を解決する政策形成力をもったシンクタンクである。
また、社会実験・協働型政策形成・政策評価・フォローアップという、結果責任を回避しない倫理感をもった実践・行動型のシンクタンクでもある。 行動のイメージとしては、住民や行政、関係者を巻き込んで試行的な実験を行いながら、政策の有効性、優先性の判断を決定するとともに、政策の立案・決定・実施に至るプロセスで行政との協働関係を構築、あるいは市民と企業、行政の協働関係をプロデュースする。
また、政策評価だけではなく政策の提案後、あるいは事業実施後も可能な葉にで(本文のまま)フォローアップを行なうというイメージである。 行政からの独立性や対等性・対抗性としては、NPOとして活動実績、テーマの先駆・先見性、住民や専門家のバックアップ力、そして提案具現化力がその担保になろう。」

また、その機能も次のように記述されています。

「2-2 機能
 コミュニティ・シンクタンクの役割と機能を整理すればおおよそ次のとおりである。

○住民、NPOの政策立案、形成力の支え(住民自治のサポーター)
・ 市民活動団体の課題解決のために行なう調査研究を、専門的な立場から支援する。
・ 住民・NPOに対する政策支援・政策形成力の強化機能
・ 地域活動、市民活動に関する情報センター、「まちづくり」センター
・ 地域の情報センター、地域学の研究所
・ さまざまな市民活動、活動人の力を総合するための舞台
○地域に根づいた政策研究機関として、公的課題(行政課題)についての調査研究を行なう。
・ 行政へのアドバイス、コンサルティング、市民的視点からの代替案の作成
・ 地方行政システム、地方行財政改革、地方分権の監査役
・ 政策に関わる情報デタベース機能
○新しい形のインターミディアリー組織(市民、企業、行政をつなぐ)
・ まちづくりをすすめる市民と企業・行政のパートナーシップのコーディネイト
・ 新しい「まちづくり」システムの開発、参加のデザイン開発
・ 議会、企業、大学、マスコミ、シンクタンクとのパートナーシップ  」

こうした本質的部分に取り組むためには、市民の声を集積しながら、いったん市民の立場を留保しつつ、代弁的な、中立的な、専門的な立場を前面に出して、コミュニティシンクタンクを運営する必要があるかもしれません。

市民活動団体についても次のように定義されています。
「市民活動団体の定義
 私たちは、NPO(NonProfit Orgnization)の日本語訳として「市民活動団体」を用います。 

ここでいう「市民活動団体(NPO)」とは、政治団体・宗教団体を除く次のような団体と考えます。

(1)目的性・公的利益性 公益(不特定多数)もしくは共益(特定多数)の寄与を目的とする団体。
(2)継続性・民間性 目的の社会的達成のため、民間により公式に設立・維持(その活動の継続性を確保)される団体。(ただし、任意団体も含み、かつ法人格は不問)
(3)自主性 有志による自発的かつ民主的な運営と、意思決定の自主性が保たれ、かつ活動に関して開かれている団体。
(4)非営利(利益不配分)性 目的達成に必要な活動資金(事業費・専任スタッフの報酬等)を得るための事業からの収益は、役員など個人に対して配分せず、本来活動のために再投資する団体。 なお、市民とは「より良い地域社会づくりに参画すべく志を持つ人々」と考えます。」

そこに住まう身の市民自ら、NPOセンターが指摘するようなコミュニティシンクタンクとして、真に中立的組織<インターミディアリー組織>となって、公的課題(行政課題)についての調査研究し、成果をあげてゆくには今しばらく熟成が必要のようです。

2009年6月20日

「アニメの殿堂どう思う?」

日本の新しい芸術分野を発信する「国立メディア芸術総合センター」(仮称)の計画に賛否が渦巻いて、政争の道具にも利用され始めました。

発信拠点か予算のムダか?(http://www.asahi.com/politics/update/0614/TKY200906130280.html

このようなステレオタイプの言葉こそが大切なものを見失わせることになります。意図的に見失わせるのではないかとも感じられます。

有能な学芸員/キュレーターが研究を行い企画を推進する美術館では絶えず発信を繰り返し、市民を、利用者を巻き込んでいきます。それは東京都現代美術館、仙台メディアテークなどの活動からも明らかです。地域の子供たちを積極的に受け入れてきた金沢21世紀美術館では金沢アートプラットフォームを立ち上げ、展示空間や活動領域を地域の中へと展開し始めています。

まず117億の建築体が先にあるのではなく、企画運営を行う組織を確立し、適切で有能な館長を確保することです。どのように芸術を支援するのか、それをどう生かすのか、コンセプトを打ち立て、それらの活動を生み出すソフトとハードを具現化する建築を企画する必要があります。

トキワ荘で社会の古い通念を解体し、新たな人間的な夢を表現してきた漫画家たちや日本では限界を感じ、海外で認められたメディアクリエイターたちをこんな固いコンクリートやガラスの箱に閉じ込めては伝えるべきものが伝わらないように感じます。

東京都現代美術館開館時には、現代アートを理解しない多くの利用者から批判も大きかったと聞きます。世界で認められていた絵が漫画だとして認められなかった、、、、。そのような国民や社会に対し、エヴァンゲリオンの社会性を分かってもらう必要がありそうです。

メディアとは常に新しい感性を身にまとってゆくものです。メディアとはいったい何なのか、本当の新しいメディアを伝えてゆくことが不可欠です。

2009年6月18日

別府現代芸術フェスティバル

湯の町別府では、「混浴温泉世界」と題し、現代別府芸術フェスティバルが6月14日まで開催されていました。湯煙の立つ町のいくつかの場所を舞台に、芸術作品をまちに入り込んでゆくひとつの接点として考えられています。アートレジデンス、ダンス、音楽、裏町散策など。

芸術とはよくわからない行為と思われているかもしれませんが、案外、まじめで素朴な視線をもって、まわりのいろいろの環境と対峙しているのです。そのまじめさが、古い利権や制度に結びついた帰属意識いっぱいのまちづくりから見るととても新鮮で、素直で、すがすがしく感じられます。そして、そのまじめさゆえに成功するのでしょう。

多くの地域や町では、芸術活動を取り込んでまちづくりへ向けた情報発信を行っています。それは創る人である芸術家を育てるだけではなく、見る人、取り込まれる人の感性を磨いています。現実に作品を創る人の真剣な姿から学ぶことはとても多いのだと思います。こうした活動が実際のまちの、地域の活性化にも大きな役割を果たしています。

そして近年、それらを支える人、パートナーと呼ばれる地元企業やサポーターと呼ばれるボランティアの人たちが注目されるようになりました。越後妻有、大地の芸術祭でも頑なだった地域をほぐし、成功へ導いたのはこうしたボランティアの真剣な姿だったと言われています。

何ものにもとらわれない、自由で独立した意識を持ち、やりたいという意欲で取り組む彼らこそが地域を真摯に見つめ、目の前の現実性によって硬く凝り固まってしまった地域性や帰属性を解きほぐし、閉じた目を大きな世界に向ける役割も担っているのではないでしょうか。

2009年6月15日

消費者の需要

ユニクロを展開するファーストリテイリング g.u.から990円ジーンズが発売されました。
「消費者の需要を発掘する」 というのが柳井氏の発想です。消費者の需要によって商品を販売する、というのとは少しニュアンスが異なります。
消費者の需要を調査することによって、売れる商品が誰にでも開発できる、ということはありません。商品開発においてマーケティングは重要な項目の一つですが、マーケティング調査とそれから得られる回答が誰にでも得られるものではないだろうと考えます。
発掘するとは、条件(コンテクストやマーケティング)を想定し、仮説(コンセプト)を立てて検証することです。その検証を独特の企業理念、経営理念で直感しているのでしょう。このことはすべての商品開発やデザインにも当てはまることです。予条件ですら公平ではありません。それは誰にでも予め、同じように与えられるものではないからです。何を発掘するするか、腕と知恵、つまり技術力と企画力にかかわってきます。

だから、消費者が求めたことではなく、経営者柳井氏が求めたことなのでしょう。

しかし、それは本当に消費者のためなのだろうか。あるいは社会のためなのだろうか。それを実現していいのだろうか。これからの企業は文化性や人間性をも織り込んだライフサイクルコスト(Life Cycle Cost)が要求されるように感じてならないのですが、、、、。
990円ジーンズが大量生産、大量消費の産物ではないことを祈るばかりです。それらは大量廃棄につながっているのではないかと考えるからです。

消費者の安ければいいという発想をどこかで打ち破る新しい価値観が必要なのですね。(もちろん、誰にでもできることではありませんが、、、誰にでも取り組めるものではあります。)

2009年6月14日

タウンマネージャー

まちづくり福井株式会社では、タウンマネージャーを募集しているようです。


「タウンマネージャー募集!福井市中心市街地のまちづくりや商業の活性化を行っていただける方を募集します 」
◇業務内容  福井市中心市街地のまちづくりや商業(個店)の活性化を支援する業務全般
◇募集人員 1名
◇雇用期間 平成21年7月~平成24年3月 (年度毎の更新となります)
◇勤務地 福井県福井市中央1丁目4-13 響のホール6階  福井市中心市街地活性化協議会(まちづくり福井株式会社)
◇応募資格 学歴不問・年齢不問 百貨店やSC等で商業やサービス業での実務経験を有する方、店舗等のマネジメントの経験を有する方
◇給与等 396,000円 (当協議会の規程によるものとします)
◇社会保険 個人負担となります
◇交通費 実費支給
◇勤務時間 12時~18時 週3日(基本出勤曜日/月・水・金)
◇応  募  【締  切】  平成21年6月10日(水)  必着
        【提出書類】 ○ 履歴書○ 職務履歴書○ レポート  テーマ 「中心市街地の商業活性化の可能性」(800字程度)

週3日×6時間でこの給与は特別待遇ものですね。


このタウンマネージャーに必要な能力とは何でしょうか。百貨店やSC等で商業やサービス業での実務能力や店舗等のマネジメントの能力があれば、地域の運営ができるのでしょうか。あるいはまちづくり会社においてその役割のごく一部を担えばいいということなのでしょうか。

このタウンマネージャーなる概念のもととなるTMO(Town Management Organization )とは有名な街づくり三法、なかでも中心市街地活性化法(中心市街地における市街地の整備改善及び商業等の活性化の一体的推進に関する法律)において定められたまちづくり機関であり、商工会、商工会議所や特定会社若くは公益法人であって政令で定める要件に該当する組織のみが対象となりました。

それゆえ、TMOとは、まちの運営を横断的・総合的に調整し、プロデュースする「タウンマネージメント」という本質的な視点からではなく、中心市街地における商業まちづくりをマネージメントするための限定的な視点から運営されているのではないでしょうか。

このまちづくり福井株式会社もTMOのひとつで自治体が50%を超える出資者となって運営されています。ここでも他の地方自治体と同じように中心市街地というごく限定的な地域を対象とした「活性化基本計画」が構想されています。


中央政府の多大な助成金が地方自治体へ、それが直接、都心再生協議会など地元の利権を背負ったTMOへ下請けされ、委託を受けた中央のシンクタンクがどこにも同じような基本構想案をでっちあげる。でっちあげられた構想案はその逆の道筋でストレートに中央政府へと上げられる。


ここにはタウンマネージメントという、本来、地域が有機的に自立し、連携し、地域全体の活性化を促すという、市民にとって不可欠な基本能力が欠如していることがわかります。通産省や建設省によって提起されたTMOではなく、まち全体、地域全体のビジョンを宿した組織と構想が必要です。

2009年6月6日

市議会傍聴報告

岡崎市議会本会議一般質問を傍聴しました。手前が市議39名の座席、正面中央が上から議長席、演壇、記録席、左右は市長、副市長はじめ40-50名程度の市長部局からなる執行機関席です。

日本の議会を見るたびに暗くて、さびしげで、なんて威圧的なんだろうと不思議に思います。ドイツの連邦議会はボンにあったときからベルリンにある今も、日差しも明るく入り、暖かい感じのする生命感あふれる会議場です。ストックホルムの市庁舎は民族の歴史や文化を感じさせるばかりでなく、ノーベル賞授賞式が開かれます。

一部に若干の私語はあるものの静かに始まりました。午前中は一人50分の質問応答時間が二人分。
一人目は野党市議。「憲法25条を暮らしに生かす市政について」をテーマに、1)高すぎる国民健康保険料の引き下げ、2)子どもの貧困をなくすこと、3)高齢者福祉の充実について、、、3つの質問です。

冒頭から早口で原稿を読み上げられるので聞き取るのが精一杯でしたが、聴衆は原稿を見ながらの確認のようで、皆がいっせいにページをめくる姿は微笑ましくもありました。

数多くの質問が投げかけられ、精力的に取り組まれていることは想像できましたが、福祉などにかかわる基準となる現状の数値を執行機関に細かに質問され、その数値の低さから問題点を執行機関に理解させ改善を求めようという意図のようでした。しかしながら、その膨大な質問量に対する時間の不足と執行機関との認識の相違からほとんど議論になりませんでした。現況数値の応答などあらかじめ公開されていれば不要のものと考えられ、実質的議論に欠けるものでした。

二人目は与党新人議員。まず挨拶に1分半。最近自転車通勤を始められたようでエコに取り組んでいるとのアピールでした。質問量ははるかに少ないものでしたが、50分で2度の質疑応答に対し、十分な議論を行うにはこの程度だなと感じさせられました。

1)芸術文化の振興について、2)伊賀川周辺水害対策について、3)消防団員の福利厚生及び健康促進について、、が質問内容です。

芸術関係のホールの一元的な企画や広報、販売方法について尋ねられました。取り組み方によっては深く、そして重要な課題です。が、担当部長からジャズやクラシックをテーマとしていること、インターネットを利用した広報や販売についての説明、ピアによる委託のこと、有識者による委員会によるスケジュール決定などが説明されました。表面的な回答で具体的な戦略に欠けるものでしたが、質問者はいたく納得され、「インターネットでの一元的広報は良く存じていました。」と応えてしまいました。知っているなら質問するな、と言いたいところでしたが、、、。

最後は10分ほど時間が余り、市長から防災についての方針が述べられましたが、原稿を読み上げるだけの議員の主張とは異なり、自身の言葉による問いかけがずっと深い意識を投げかけたように感じられました。ゆっくりとした、しかし強い意識を持った主張が必要のようです。

市議が足を使い、地域を駆け回って、大切な市民の声を集める役割なのであれば、つまり民生委員や自治会長的レベルのものであれば、もっと多くの市議が必要ですし、一人50分×39名×年間4回のやりとりでは全く不十分です。また、市議団が市民の声を集積し、十分な企画や政策を策定する役割なのであれば、少数精鋭であって、何人かの研究員や秘書も必要でしょう。あるいはグループセッションのような組織として政策に関与する必要もあるように感じます。

市議会や市議団はどちらの方向を目指すのか、国会の相似形のような、形式的な市議会にはどのような意味があるのか。ディベートすらない、ブレンストーミングなどとはとても呼べない、静かな会場が、もっとホットに、固定デスクを取り外すくらいに、実質的な議論の場となり、アイデアの宝庫となることが必要なのではないでしょうか。

2009年6月3日

GONPO

特定非営利活動法人、NPO法人とは市民活動に一定の枠組みを与えた貴重な組織形態です。それは市民自らの手によって生まれた活動団体であることを意味し、その活動が独立し、また自由であることを保証するものです。

しかし、なかには、行政が立ち上げ、あるいは密接にかかわり、支援するNPO組織も少なからず存在しています。本来、行政と市民の中間に立場をおき、市民をサポートすべき中間支援組織と呼ばれる組織に、行政サイドに立ち、なかば出先機関のようにふるまっているNPOがあります。それらはたいていは弱者である市民側には立たず、行政の意向に従い、市民の動向をある方向へ誘導しようとします。

今、社会ではそれらを官製NPO、GONPOガンポと呼び、一般のNPOとは区別する動きが始まっています。

GONPOとは、まち育て、人育てなどと言いながら、管理し、誘導し、行政側で決まっている既成の事業をあたかも市民で決めるなどと市民を集め、既定路線を追認させようとするものです。まちづくりの正義も倫理性もあったものではありません。

行政からの委託費用で運営が賄われ、行政から自立し、対等な関係にあるなどとはとても言えない、行政の出先機関のように、市民を囲い、誘導する組織です。市民はよく目を開き、偽善を見抜かなければなりません。

市民の声が行政に届かないで滞り、また行政からの情報が正確に市民に浸透せず、それらは、むしろ市民と行政が真に協働するための阻害要因とも言えるのです。真のまちづくりへの第一歩はその阻害要因を除去することのように感じられます。

このGONPOによる行政の市民管理は今後、各地に蔓延するかもしれません。行政にとって、開きたくない部分を開いているかのように見せる都合のよい組織だからです。