市民による市民のまちづくりを目指すには市民の声と意欲が欠かせません、しかし、その方向がどのような方向へ行っても、まとめあげる能力を有し、どのような方向へ行こうともそれこそが求めるデザインなのだと、考えうる、真に市民をバックアップする本当のコーディネーターも必要となるものです。
人と人、人とまわりのさまざまなものとの関係をつくることからデザインは生まれ、それらが場面や場所となってつながり、建築となり、まちとなる。さらに積み重ねられて歴史となって現れ、文化として伝えられるのだ。 COMMUNITY-THINKTANKとはそうした人やそのさまざまなつながりを考え、見えてくる、市民の、地域の共有の場ととらえている。 「まちづくりは現場で起きている。」そうした認識のもとに、建築、まち、大学、歴史、文化のことなど、気軽に語り、書き記してゆきたい。 島崎義治//YoshiharuShimazaki/
岡崎市の郊外は周囲を山麓に囲まれていて、まちのすぐ、北東部に山が連なり、豊かな後背部が広がっています。緑が生き、水資源地となり、また農業や林業に携わる集落も多くあります。また、車で15分くらいの地域が自然に恵まれたセカンドハウス、避暑地のような性格を持った地域のようにも感じられます。かつて、弁護士の書く答弁書を読んだことがありましたが、でも何が書いてあるかよく理解できません。それは事件の事実を明らかにするためのものですが、まず、書き方というものがあるらしいと感じます。
しかし、事実を追うなら時系列の比較表を作るとか、状況が複雑ならば、表やモデルする、などし書き方を、表現方法を変えれば、事実など簡単に証明できると思ったものでしたが、弁護士は既成の書き方を変えることはなかったようです。
言葉は思想そのものだし、書くこと、表わすことは思考のプロセスそのものと思うのですが、そのわかりにくさは、閉鎖性をあらわすものでしょう。組織のあり方は表現する言葉の使い方にも現れてくるようです。
組織に大切なもの。それは活動をある方向へ促すもの、すべてが同時に合理的に、効果的に動いてゆくための戦略ではないでしょうか。私たちはクライアントから期待を受けます。だから、クライアントのニーズを実現することが業務であるかのように思われます。もちろん、クライアントの利益は守る必要がありますが、そのニーズに従うというより、「ニーズを発見する」ことが重要なのではないかと考えます。それは既知のニーズだけではなく、まだ見ぬ新たなニーズが求められているのだろうと思うのです。
それはクライアントの今に存在するというより、少し未来に隠れていると言えるでしょう。
まだ見ぬものを具体化することはとても困難なことで、想像力が不可欠ですね。だからこそ、そのためにはクライアントの声を徹底して聞く、ことが必要となるのです。聞いて、今の自分が取捨選択するのではなく、未来の自分が考え、未来のクライアントが評価するのだということを想像すべきなのです。
それはまちにも同じようにいうことができるでしょう。まちの今を語るためには、まちの少し未来を見極める必要があるのであり、そこに想像力という見えていないものを描く力が要求されるのです。しかし、その見えないものとはクライアントのすぐ後ろに隠れているものなのではないかと考えています。
僕たちにとって、まちにとって、クライアントとは人そのものと言えます。
彼にとっては、図書館とは仮想の動物園であり、同時に仮想のさまざまな可能性を持ったものなのです。入り口としての図書館の向こうには膨大な世界が広がっている、使いようによっては膨大な活動の場所となるのですね。
すべてのものに、こうした入り口を考えてゆくとき、多様に積み重なった豊かな図書館の働きが見えてきます。今、仮想の膨大な可能性を自ら狭めるのではなく、広げてゆくことが必要のようです。
社会と自分との接点はいろいろとあります。社会へ入る入り口、をみつけること、そして用意しておくことがとても重要なことです。そのひとつが動物園である。
でも動物を語りだす時の彼の熱意は、それはもしかしたら図書館の司書ような役割を持ったものと感じられました。
読むための図書館ではなく、「語ること」 そこにこそ図書館の使命があるのではないでしょうか。
言葉の本質。それは「あー」、「いー」、「うー」、「えー」、「おー」、、母音を発すること、あるいは叫ぶことと言われます。それは、また、言葉の原点です。この母音は、詞の言葉の中には表されませんが、この母音を声として発することが歌にとって重要なことではないでしょうか。
言葉やメロディによって伝えられる情景や情感などよりも、この身体の奥底の叫びのような言葉を発することが歌の本質です。その身体の奥底の叫びを聴かなければ、感じなければ、歌にならないのだと阿久悠は考えていたのではないかと思います。
それは演歌だけではなく、ポップスも彼にとっては同じことだったのです。大人の歌手には大人の叫びを、少女の歌手には少女の叫びを求めていたのだろうと思うのです。詩を作る作詞家ではなく、歌を歌わせる作詞家だったのですね。
「あなた、お願いよ~お~、席をたたないで~え~。息がかかるほど~お~、そばに居て欲しい~い~、、、」(岩崎宏美 ロマンス)
言葉を発する本当の意味を社会に伝えたかったのだと思う。それが詩ではない、詞と歌の魅力であり、それでこそ、世は歌につれと言われるのだろう。次の世を予見することは難しいが、それは今を歌うことでしか、生まれてこないように思う。
そして、この身体の叫びのなかにこそ、歌の真髄がある。建築も発想のなかから誕生しますが、それはつくってゆく現場のなかで本当の姿をあらわにしてゆきます。最後の最後までこだわりを持って、作りきることが要求されているのです。
自分のかかわることが、そこにかかわる身体と強く通じること、そこがとても大切なことだと感じます。建築づくりも、まちづくりも、ものづくりも。
今日は第一部、第7回 6月29日掲載分を紹介します。 「7.ウォーキングマップとは
ウォーキングマップとは住環境デザイン論演習課題の一つとして実施している「岡崎の町を描く試み」である。
それは町を歩き、その場所のデータを収集し、記録するフィールドワークと得られたデータを研究室に持ち帰り、地図に配列しながら、その意味するものを考察するワークショップの二段階のプロセスからなる。得られたデータから特別の領域や形状を認識できるまでデータ収集と考察とを繰り返してゆく。
学生たちは岡崎の町を歩くことから始めるが、彼らの多様で自由な視点をそのまま生かすため、特別の約束事は設けず、できるだけ事前の知識や先入観のない状態で町の興味のある部分を探しながら歩いてゆく。それぞれの感性によって、自らの視点を特別に持って、自らの意思で歩く。歩きながらテーマを見つけ、町の気になる場所や場面をデジカメに撮影し、歩いた道のりや特別の感情やポイント、コメントなどを地図上に記録しながら、歩いた軌跡や町の形を表わす情報をプロットしてゆく。
こうして町で得られた情報は研究室に持ち帰り、それぞれの断片をマップに配列し、その意味を考えてゆく。ワークショップ形式で、何に惹かれたのか、どこが面白かったのか、自らのマップを説明しながら、共に考えてゆくのである。最初は見えていなくても、自分自身が町に惹かれ、記録した動機は学生たち自身の中に必ずあり、そこに町の特性が隠されている。そうして、マップのテーマや現れている意味や特性が見つかるまでは何度も議論し、考察とデータ収集とを繰り返し、ウォーキングマップとして完成させる。マップづくりはプロセスと表現方法が重要である。
学生たちの、あるいは市民の柔らかで多様な視線を町に向け、町をそのまま記録することにより、生きた町の多様な姿をありのままに描くことになる。多様な視線を導き出し、取捨選択や淘汰を行わないで、むしろすべてを取り込む姿勢で町を描くことにより、そこには豊かな町の多様な姿がそのまま描かれる。それは複雑で、混沌としているように見えるかもしれない。しかし、学生たちが、あるいは市民が多様な視線を向けていければ、後はその描かれたものの中にそれらの共有性を表し出せればいいのである。多様な価値観を生かしながら、進むべき方向が見えてくる。この生きた町の姿のなかに本当の固有の特性が現れてくるのである。
ウォーキングマップとは自ら歩いた道のりを記録した地図ではあるが、しかし、その表すものは歩くべき、進むべき道のり、すなわち、町づくりの指針を示すものとなる。今回の試みにおいても多くの町の断片が浮かび上がってきたが、この岡崎の町は特に空間的面白さ、豊かさに溢れていると感じる。この豊かな断片を、パズルを完成させるようにピースをつなぎ、組み合わせてゆくことで、それらのつながりが町のコンテクストとなって現れる。そこに町の姿が見えてくる。ウォーキングマップとはそのコンテクストを探索し、その可能性を発見する試みである。その試みは始まったばかりであるが、町を記録し、デッサンするように描くマップの可能性を発見できたのではないかと感じている。感覚や感性によって認識される町のイメージは、とらえどころのない、はかないもののように見えるかもしれない。しかし、それこそが、着実で、リアルな生きた町の姿なのである。」
今日は第一部第6回、6月28日掲載分の紹介です。