2008年1月31日

建築が語ること







これは僕がかかわった明治学院大学のキャンパスです。左がアトリウムのようなインナー広場、モスバーガーが入っていますし、テーブルを片付けて入学式にも使います。右側がダイニングラウンジ、厨房が閉まっても学生のラウンジとなります。営業も生協ではなく、ある民間業者がサービス重視の視点から競争によって選ばれました。
建築とはそこに活動する組織のあり方をはっきりと明示します。大学のキャンパスは大学と学生の関係を明確にあらわすものです。管理するのか、自由にさせるのか、場所を与えるのか、あるいは閉鎖するのか、、、、。
交流センターと言いながら会議室の並ぶだけの貸しホール、そこには市民の交流や協働などとても感じられないことでしょう。何も生み出さない建築こそ、外観がきらびやかだったりします。
図書館のカウンターで働く人の表情を見てみましょう。バーコードを当てるだけの単なる流通業務の場所としてしか設計されていないかもしれません。

また、環境にやさしいと謳う図書館の窓が開かないのは何のためか、職員と市民とを区切る長い長いカウンターは何のためか、その場にたたずんで十分に考えてみる必要があるようです。たたずむような気持ちになる空間かどうかも問題ですが。

都市を再生する建築とは何か。建築とは単なる箱物と言われるものではなく、理念も表情も能力も持って、活動を生み出す装置であり、それにかかわる建築家は多様な市民の姿をイメージしています。多様な市民の姿を受け入れられない、ワークショップとコーディネートとは異なりますね。有能な建築家もまた中間性媒体なのです。

優れた建築家ならば利用者のことも、周りの大切な樹木のことも、内部の新しい機能のことも、そして障害者を分別することなく、ユニバーサルに考えることができるはずです。

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