2008年8月19日

情報の伝わり方

テレビのニュース番組で、真実はCMの後に、、、、というようなやり方はさすがになくなりましたが、「さて、それは何だったのでしょう」的な含みを持たせ、後で知らせてやる、といったアナウンサーはまだまだ多いです。


でも、視聴者はインターネットからの情報によって、そのことをすでに知っているのです。だから必要としているソースのありかをもっと的確に、正確に、知りたいのです。また、自分自身の判断とどこに違いがあるか、に注目しているのです。

自由に情報を得ることができるようになった視聴者から、今度は、情報を独占していたメディアがその能力を試される時代となったのではないでしょうか。

これまで、情報を持っていることがその権威のよりどころとなっていました。それはメディアだけではなく、為政者もしかり、教師もしかり、、、、、、、他の都市のサービスの内容を詳しく知ることができたり、市の基本構想に忠実でない行政マンを指摘したり、ネットの詳細情報によって小学生が教師をやりこめることもできるでしょう。地方政治の停滞、教育の腐敗、、、、、。どちらも中央からの命令に忠実でありつづけ、制度を見直すことなく、自立性を失ってしまった付けが回ってきているのではないでしょうか。これまでの権威がその情報に対する古い体制のために、疲弊しているようです。伝えるものが伝わらず、隠したいことが隠せなくなってきています。

すべてを開放し、双方向へ、、、、、、、伝え、伝えあう立場へ、管理を開放し運営しあう立場へ、教え、教えあう立場へと変貌するしか道はないのではないでしょうか。

そう言えば、旅行代理店の窓口でのやりとりもかなり変わってきましたね。詳しい航空機情報も持っているし、お勧めのホテルなどあてにしないで、WEBSITEで直接海の向こうのホテルと契約することもできるようになりました。自己責任で。

2008年8月18日

祈りの痕跡

最初に痕をつけたのは、誰か。

5000年前、シュメール人が粘土板に楔形文字を刻んだ瞬間、人間の思考、感情、芸術、科学は記録という行いによる永遠の生命を獲得した。「書く」という人類最大の発明から生まれる芸術や文化は、過去から未来に、個人から集団に伝染する軌跡の痕跡である。

21_21 DESIGN SIGHTの舞台に登場するこれらの痕跡は、現代人の意識に新たな痕跡を刻みつけるだろう。文字通り、浅葉克己が脚で探した地球発の表現を目撃するエキジビジョン。(WEBSITEより)


魂のように刻まれる、言葉やさまざまな人間の活動の痕跡に私たちは魅せられます。

会場には『西夏文字』という作品があります。 「縁者の言は剛けれど、心は日より熱く、郷主の声は柔らかなれど、心は月より冷たし」 言葉の本当の真実が試されます。

言葉やもので様々に伝えられる真実に近づくことが何より必要です。真実や真実の活動によって励まされ、刺激を受け、次の真実が生まれてくると思うのです。

2008年8月17日

価値の方向

行為やその産物に価値を見出すことが経済や営みの原点ではないかと考えています。その価値の連携がつながることにより、地域の経済や活性化は動き出します。

これまでは、自分たちのサイクルを外部に外延化して、その価値を生み出してきましたようです。外部からのフロー、外部へのフローを積極的に推し進めれば、活性化は簡単なことのようにも見えますが、、、、、、自律した活動とは言えないかもしれません。また、どこかだけが外部とのフローによって大きな利益を得ることは難しい時代になったようにも思います。

今、もう一度自らの内部のフローを動かすきっかけをつくりだす必要があるのではないでしょうか。自らの周りの、自らの地域の価値がどこにあるのか、その方向はどちらなのか、、、、、、そして、フローが回らなくなって、沈静する原因は何なのか、、、、、、。

価値がないのではなく、価値が変位しているのでしょう、、、、、、古い慣習や制度によって、フローが進まなくなる、しかし、あるところでは別の価値が生まれつつあるはずです。そして、それは地域のさまざまな関係の中から生まれているのではないかと感じています。地域の価値のフローを見直し、新たな価値へ置き換えること、地域に密着し、それらを内側から見いだすことがコミュニティシンクタンクの役割ではないかと考えています。

2008年8月16日

市民による評価

市民のよる評価が、評価を得ています。評価を行うためにはさまざまに地域とかかわらなければならず、とても重要なことと思えます。しかし、あくまで目的は評価を行うことにより、変革や継続などの判断を下すことにあるはずです。

こうした評価の手段には、これまでの経営戦略にかかわる手段が採用されていることが多いように感じられます。CS、SWOT、4P、、、しかし、マニュアル化された分析手段はいずれも現状分析のためのものであり、多くの現状の要素から、分類や切り口を検討することで、それらがどのような方向性や価値を持っているのかを認識することです。

しかし、それらは現状分析であって、評価ではありません。ややもすると、現状を分析して、それで終わっている事例も多いのではないでしょうか。しかも、現状分析法を活用した評価法は現状を肯定するものでしかないのではないでしょうか。

しかし、経営者の手腕はむしろ、現状分析のどこに目をつけ、どのような経営戦略を構築し、コンセプトや目標を明確にするかにかかっています。これは大きな違いです。

市民による、公共施設や組織への評価は、まずそれらの経営戦略をはじめ、コンセプトや目標がどのようなものか、を多くの視点から検討する必要があります。そして、それが実行されているのかどうか、さらに、どのような結果と成果をもたらしているのか、、、、を評価しなければなりません。

評価とは、この経営上のプロセスをトレースすることから始まるのではないでしょうか。
そして、そのプロセスには考えられていなかった要素こそをとりあげて、評価しなければならないのではないでしょうか。

つまり、コンセプトや目標のないものに評価を下すことはできないのであり、また、現状にない新たな要件から評価の基準を作り上げることこそ、評価であると考えています。

2008年8月15日

学校評価

現代の学校システムや教育の現場は、
1.硬直的、画一的、柔軟性に乏しい、
2.閉鎖的、地域や保護者との連携が不十分、
3.自ら改革に取り組む意欲が不足している、  と言われています。

しかし、教育特区なども設けられ、ほんのわずかですが、少しずつ改革の道が開かれてきたように感じられます。


その原点は「顧客起点」と「成果起点」にあると言われ、それらの情報を共有するための学校評価が大切であると考えられています。こうした評価を共有するという視点は、学校だけではなく、行政や立法や市民活動においても大切な視点です。

しかし、どの分野でも特に公共的な分野では評価の客観性を大切にするあまり、定量化、指標化することが大きな問題となっているのではないでしょうか。数値化しにくい活動を評価することは永遠の課題かもしれません。数値化することが目的ではなく、課題がどこにあるのか、どのような方向に将来性があるのかを考える必要がありそうです。

ここでは、イギリスのNPMにかかわる教育改革や教育への評価と共に、ポートランドの学校と地域のパートナーシップによる学校支援と学校評価の取り組み、SUN(School Uniting Neighborhood)イニシアチブが紹介されています。


その特徴のひとつに、評価の視点として、アウトプット(結果)だけではなく、アウトカム(成果)を重視し、評価することが上げられています。それは学校教育が教室や学校の中だけではなく、コミュニティ全体の中での学校の役割を明らかにしようとするものです。


学校や図書館、、、、どのような施設や組織においても、その内部の活動や役割を評価するだけでは不十分です。自己満足に陥ることになるでしょう。もっと視野を広げて、それらの周辺にある大切なもの、それはこれまでの学校や図書館にはなかったものかもしれませんが、その大切なものこそ、焦点を当て、取り上げてゆく必要がありそうです。


そして、そのためには、学校や図書館をお決まりのものとみなすのではなく、市民自ら、それらの周辺にある大切なものを絶えずチェックしておく必要があります。それらこそが最大の評価項目となるのですから。

2008年8月10日

綿とジャズの町

岡崎市は、綿の町でした。かつて、三河木綿を産出し、郊外の農村の綿畑では綿作りが盛んに行われていたと言われます。明治以降もその歴史は続き、ガラ紡(和紡績)の工場は今もわずかですが残っているようです。

今、かつての綿のまちを再び綿畑でいっぱいにし、人々の心の中に綿を再現しようと活動が行われています。世界の綿の産地「メンフィス」にならい、「綿フィス化計画」と呼ばれています。地元の三河木綿企業家である稲垣氏に推進され、市民に広がり始めています。

成功を急ぐのならば、綿の新たな製品化を行い、かっこいい宣伝文句、キャッチフレーズで人の心に訴え、その事業の成功に結びつけるものですが、、、、、まず、地域のなかに綿を受け入れられる基盤づくりを積極的に行い、地域の人々の、木綿に対する意識が広まり、熟成することから手がけているのです。

情報発信側の掛け声だけで広がるとは限らないのが世の常です。むしろ地道に市民の目に綿畑を根付かせてゆくことの方が着実で息の長いものになるかもしれません。歴史はそのようにしてつくられていたわけですから。石油に始まる、社会の危機の中で、衣の自給率を問う中で、あるいは地方の文化を問う中で、もう一度岡崎が綿畑に埋まる日も来るでしょう。

情報の発信は、送り手側の一方的なものでは成果は限られ、むしろ受け手側の環境、基盤が整備されることが不可欠です。熟成する必要があるのです。そうしてこそ、本物の活動となる、そのしっかりとした基盤を築くことから始めることが重要なのですね。

一方、「ジャズのまち岡崎」と言われて3年。岡崎市とジャズの関係は市民である内田修氏のジャズコレクションが市に寄贈されたことにより始まります。一人の岡崎市民のコレクションを元につくられたイベントです。全国の多くの町でジャズをキーワードにまちづくりが進められています。どこも、ジャズによって、市民の一体化をはかり、お祭りとなることを目指しているようです。
どうも、ジャズは自由と多様化の象徴のように見えるのかもしれません。どこでもひっぱりだこです。
しかし、岡崎市の日常を見ていると、、、、、市民はジャズを楽しんでいるわけでもないし、音楽家を支援するわけでもない、、、、、、、、、、、、、。

「内田氏は、レコード収集を続けながら、ジャズクラブ「ナゴヤホットクラブ」をはじめ、世界でも例のない33年間150回以上の長期にわたり行われた「ナゴヤ・ヤマハジャズクラブ」を主宰されるなど、日本ジャズ界の発展に多大な情熱を傾けられました。
また、才能があってもなかなか日の目を見ない若手ジャズメンたちを応援し、ときには岡崎の病院で長期にわたる滞在をこころよく引き受けることもありました。「ドクターズ・スタジオ」と呼ばれた病院内のスタジオで、練習やリハーサルに汗を流した若き日の日本のトッププレーヤーたちも多いと聞いています。」(内田修ジャズコレクションWEBSITEより)

この内田氏の活動からは、地域での本物の活動こそが地域を刺激し、何かを行う人たちを刺激を与え、力づけるものなのですね。情報の発信者の自己満足ではなく、受信側の多様で豊かな反応が、情報の発信力として必要であることがわかります。

情報の受信側の基盤整備が、近い将来、綿のまちとして知られ、特別の風景と文化を岡崎にもたらすことになるのではないでしょうか。

2008年8月8日

市議会の代表質問から

地域のリーダー足るべき市議会議員のとるべき活動が地域の活性化に不可欠です。

市議会の記録が公開されていますが、市民病院に対する、その質問の内容からは、深い内容をうかがい知ることはできません。「お伺いします」、「お尋ねします」、「お聞きします」が延々と続きますが、議員自ら分析や提言する必要はないでしょうか。

今、岡崎市の市民病院は負債が定常化しています。詳しい内訳はわかりませんが、
        
平成17年度の収 入、15,472,880,492 、支 出 、16,500,874,041 、△ 1,027,993,549 、平成18年度の収入 15,822,965,469に対し、支出、16,841,084,314、△ 1,018,118,845、平成19年度 は収入、15,806,423,897に対し、支出、16,968,576,840 、△ 1,162,152,943 となっているようです。収支率がおおそよ93%です。(全国の病院の収支の動向についてはhttp://www.ajha.or.jp/topnews/backnumber/2004/04_12_01_1.html に紹介されています。)

また、数値に現れていること以外にも、福祉の充実した近隣都市の市民病院へ患者が流れ、また、有能な医師も離れているという見方が市民のなかで噂されています。市民自ら、地元の医療施設(市民病院ではありません)と近隣の優秀な病院との連携の重要性もすでに自覚しているのです。

かつて、地域の中心にあった市民病院を市域北部の丘の上に配置した時点で市民という視点を排除してしまったのではないでしょうか。

以下に掲載する代表質問とそれに対する事務局長の回答をよくよく読んでみると、地域の医師会の方がよほど深く深く考えていることもわかります。医療もネットワークなのですね。

平成20年3月岡崎市議会会議録第2号から

◆45番 皆さん、おはようございます。・・・・議長のお許しを得ましたので、代表質問をさせていただきます。・・・・ 私どもの会派の要望に対し御理解をいただき、丁寧な対応をしていただきました点につきまして、まずもって感謝申し上げます。
・・・・・・・・・・・    ・・・・・・・・・・・    ・・・・・・・・・・・
 4、保健・医療・福祉の充実について。
 (2)市民病院の適正規模。 本市の市民病院は、西三河南部医療圏の第3次病院としての機能を果たすとともに、病床数650床、そしてその利用率は97%以上で推移しています。十分な医療活動を続けていると思います。 本市の人口推移を見ますと、昭和35年より増加の一途であります。また、工業団地等設置により昼間人口も増加しています。そして、近隣市町の人口も同じように増加しております。本市の人口増加は平成37年まで続くと推測されております。このような状況で、現在の岡崎市民病院一つでよいのか、行政の見解を聞かせてください。 市民の中には、南部地域に総合病院が必要だとの声も聞かれております。何らかの対応、計画を立てるときが来ているのではないかと思いますが、御意見をお聞かせください。

 ◎病院事務局長 私からは、4の(2)の市民病院の適正規模ということでお答えをさせていただきます。 市民病院は、地域医療の中核的機能を果たします基幹病院として、緊急もしくは重度の患者さんを中心に、高度で専門的な医療を24時間体制で行う急性期の医療を担っておるところでございまして、現在23診療科、650床で、病床利用率では御指摘にありましたとおり97%を超える状況で運営をしているところでございます。 この規模は、37万都市である岡崎市立の自治体病院といたしましては、自治体病院を持たない市町村もあるわけですが、他市町村との比較においても一定以上の規模、レベルにはあるというふうに考えております。 そして、自治体病院の新増設に関しましては、国の状況から申しますと、国にあっては自治体病院の経営形態のあり方の検討を求めておりまして、統廃合等を促すことも含めた政策が進められておる状況下でございます。つまり、自治体の病院経営そのものの是非が問われる社会状況になっておるというふうに理解をしております。 また一方、現実に目を向けますと、勤務医不足から、病院、病棟の閉鎖が話題となっておりまして、さらに最近では看護師不足から病棟閉鎖を検討する病院も出ておりまして、実際にここ二、三日の間でも、具体的に看護師不足から100床単位の病棟閉鎖という発表もされておるところでございます。 こうした状況と考え合わせまして、当院も現状の規模、機能を維持すること自体が大きな課題となっている状況でございます。こうした状況下では、現在のところ市民病院としては大きな規模拡大は当面困難ではないかというふうに考えているところでございます。 当院としては病診連携、病病連携、つまり病院と診療所、開業医さんとの連携、そして病院と病院との連携、これを強化いたしまして、地域の医療資源を最大限に活用することに努力を傾注してまいりたいと考えております。 しかしながら、本地域においてベッド数等が充足されているかというような質問趣旨に対しましては、当院が急性期を過ぎた患者さんの転院先に苦慮していますように、必ずしも充足されていないと考えております。 また、医師会さんからも、今後は療養病床等の不足が大きな社会問題に発展するのではないかと、こういった問題提起もあったところでございます。この問題は、経営主体の問題、つまり公がするのか、民がするのかといったことを初め、基本的な多くの課題が検討、整理される必要がありまして、この検討には岡崎市全体、さらに西三河南部医療圏、こうした広い範囲ですべての医療機関と行政が参加するような形で検討を進める必要があり、最終的には国の理解も必要になってくるものと考えます。 昨年、医師会保健所が中心となりまして、地域医療全体の検討の場も設けられたところでもあります。当院としても、地域の基幹病院として、これに積極的に参加、協力をしてまいりたいと思いますので、御理解を賜りたいと存じます。

2008年8月7日

即興音楽

音楽も建築も、、、多くのものが、形や形式が構築されればされるほど、それらからずれてゆくのではないかと考えられてきました。

文学のゼロ度、4分33秒というタイトルの無音の音楽、アンフォルメルという絵の形式、、、、、、など、一旦、打ち立てられた形式や制度から逃れようとする試みは多くの分野で、多くの人たちによって試みられてきました。

そうしたなかで、即興音楽に音楽の本質を求めている人たちも多くいます。「うたの家」で活動する即興からめーる団の赤羽美紀さんと正木恵子さんたちもその活動家のひとりです。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/20080726/CK2008072602000128.html

彼女たちのさまざまな試みからは、音楽とは、自らがいるその場に存在する音のさまざまなリズムを発見してゆくこと、場に音のリズムを見出すことであるとわかってきます。

場にはさまざまなものが潜んでいるのですね。
場に混在する生活のさまざまな形を見つけ出すのが建築の新しい姿であり、(当然なのですが)

場に集まる人々のさまざまな姿や言葉から、社会の真実を見つけ出す、すなわち、新しい公共の形を見つけ出す試みだと思っています。もちろん、それがコミュニティシンクタンクの形です。

2008年8月6日

ホームスクーリング

ホームスクーリングは、学校に通学せず、家庭を拠点に在宅で学習を行うことをいうそうです。アメリカではホームスクール在学生も多く、成績もいいようです。

日本でも大学検定試験(現在は高等学校卒業程度認定試験と改定されました)を経て大学へ入学してくる学生も多くなってきました。高校生の大学AO入試に立ち会うと、高校へ通学できないでいる高校生もかなりの数に上るようです。それぞれのスタイルで多くの人が頑張っていることは一つのステレオタイプしか認めない日本では大切なことのようにも感じられます。

日本ホームスクール支援協会http://www.homeschool.ne.jp/hosa/なども設立されています。

そのうち、高校には通学する必要がなくなるかもしれません。むしろ、大学進学には高校へ行くよりもホームスクールで、社会性を学ぶのであればコミュニティスクールで学習することが一般的になるかもしれません。

では、多くの高校が進学先へ進むためのものになっている今、高校とは何でしょうか。

また、教師の存在も見直す必要もでてくるでしょう。教育とは知識や情報を伝えるもの、ではないことは明らかです。インターネットの普及で教師よりも知識や情報の豊かな生徒も数多く生まれています。

本質ではなく、制度やマニュアルを与え続けてきた結果、集団化教育や画一化教育とは、教育とは何かを見失わせるものだったかも知れません。

例えば、それは教員の意識の中にも存在しています。高校の教育とは特殊なものだという意見があります。生徒と教師と、学生と教授とは異なる関係にあるという意見です。しかし、特殊なものにしてしまって外部に目を開かないのは、旧態然とした視野の教師自らの責任なのではないでしょうか。

新しい高校のあり方を考える構想を進めていますが、それは内部から改革を進めるには難題が山積しています。しかしながら、画一化した学校教育ではなく、本物の教育を一生涯に渡って継続するという発想に立つとき、中学も高校も大学も、、、企業も地域も、、、すべてをつなげて、考え直す必要があるように感じます。そこにこそ、教育の進むべき道、改革の道があるように考えています。

2008年8月5日

ボランティアのゆくえ

多くのボランティア団体が活動しています。岡崎市でもボランティア連絡協議会に登録している団体は120ほど、3200名がボランティアを行っています。また、ここに表れない活動家も多くいるはずです。しかし、ボランティアの数はとても足らないのだそうです。

また、ボランティア連絡協議会にはボランティアへのニーズとボランティアのシーズが集まっています。しかし、そのシーズは多くのニーズに応えられず、一部のボランティアにひずみが発生していることもその一因のようです。

何故、シーズとニーズが合わないのか。 また、ニーズに対するボランティアの能力が不足しているのでしょうか、そうであれば、ボランティアに要求される特別の能力とは何でしょうか。

ボランティアとは誰でもが、意欲も持ってできるはずのものですが、今、多くのものがボランティアの手にゆだねられ、手に負えなくなっているものもあるでしょう。また、安易に委ねられているものもあるでしょう。

例えば、介護保険によって、様々な場面で有償であり、専門家による介護が行われるようになりましたが、まだまだ多くの隙間があって、その多くの隙間を埋めているのはボランティアであるようです。ある動作までは有償の専門家が介護し、あるところから無償のボランティアがサポートする。

今、行政の縦割り化によって、ボランティアの対応も縦割り化しています。いろんな部署でボランティアのコーディネートをし始めています。それぞれの部署が成果を競っています。

ボランティアの多様化と縦割り化が始っています。と同時にボランティアの役割は確実に重くなっています。

しかし、ボランティアには無償に対するプライドがあるようです。ベテランのボランティアほどその心意気は高いです。しかし、その孤高さ、融通のなさ、柔軟性のなさ、、、は現代の多様なボランティアの形に対応できていけないのかもしれません。

多くのボランティア必要とする現代では、多様な立場と境遇の人たちが共に社会を協働してゆく必要があります。それがこれからのボランティアと言えます。有償か無償かというボランティアを提供する側の論理ではなく、ボランティアを必要とする側の状況をまず考える必要がありそうです。

岡崎市では施設の清掃にまでボランティアを要求するようです。新しい図書館では本来は司書の資格を持つ人まで清掃業務に携わる、、、、、、。本物のボランティアがいなくなります。
ボランティアを受ける側のエゴも許せないなぁ。

2008年8月4日

素人の発言

大阪府の橋下知事が伊丹空港の廃止を言葉にして、元大臣から「素人が大胆なことを言わないほうがいい」と批判されているようです。

もともと、狭い住宅地の真ん中の伊丹空港の安全性や騒音問題を機に、神戸沖、泉南沖、淡路島の3つの候補地のなかから、泉南沖が当選し、現在の関空が生まれたのだと記憶しています。、、、、しかし、伊丹空港は未だ騒音を排出し続け、おまけに、神戸沖にも新たに空港ができているではありませんか。

この素人と言われる知事の素人っぽさとは何でしょう。元大臣のプロ意識とは何でしょう。

プロの政治家には色んなしがらみや利権がくっついてきます。どれだけ、多くのしがらみや利権とつなげられるか、が重要であり、そのためには、できるだけ、浅く、広く、かかわることが要求されるのではないかと思いたくなります。身近に聞く政治家の発言は、特に選挙前の多くの政治家の発言は素人の発言のように浅く、広く、本質をつかんでいないものです。

プロとは何か、、、プロの政治とは何か、、、、

ネゴシエーションでの力の関係で落ち着くところに決められてしまう結論の、その力の関係を絶えず見直すことが、プロたる政治家のプロフェッショナルな職能なのではないかと感じます。

関西には、空港は神戸沖にひとつあればよかった、、、利便性も安全性も騒音による問題も、比較すれば、最も可能性の高い空港だった、、、そんなことは当時、大阪の子供だった僕にもなんとなくわかっていた。

素人と言われる政治家のプロ意識。プロを長年やっている政治家の素人っぽさ、危うさ。そろそろ、気がつく必要がありそうです。

2008年8月3日

地域と図書館

滋賀県愛荘町愛知川図書館長渡部幹雄さんもまた地域図書館を推進する有数の図書館長です。

彼は地域と図書館の関係を、中学校区ごとに展開する図書館、これをコミュニティ図書館、生活図書館と位置づけ、それらを支援する県立図書館など中央のシステムを構築し、全国に行き渡る図書館網がはりめぐらされることを提言しています。

彼の考える地域とは中学校校区程度の広さのコミュニティであり、このコミュニティがが全国に展開してゆくことが重要であると考えています。
ちょうど、彼の愛知川図書館が人口11500人の全国平均の中学校区の規模となるようです。

全国の図書館総数が2740館、公立小学校が23160校、公立中学校が10317校、公立高校が4093校、郵便局が24715軒、と比較しています。ちょうどその領域、広がりが目に見えてきます。ちなみにコンビニが40843店あります。滋賀県内では98の中学校区があり、43の図書館が配備され、50の自治体の中で27の自治体に中学校区ごとに図書館があるようです。
数の上からも、中学校という具体的な生活の領域の中で考えることでも、この地域の図書館の姿の、地域の中での重要な役割が見えてくるようです。
そこには、地域の信頼を勝ち取る専門職能を持った職員の養成や地域を訪れる住民の姿も見えてきます。距離を密にするだけで、考え方が変わってきます。

その評価は図書の貸出密度だけにとらわれることなく、地域住民の生活を支える役割を果たしているかが重要となる。地域資料を住民から募り、常備し、生涯教育の場として活動の場所を開放し、地域の素材を活用するプロデューサーとなる、、、それが渡部館長の考える地域図書館です。

愛知川図書館は、面積3000㎡、10万冊の蔵書を持ち、地域の伝承工芸品の展示施設、びん手まりの館が併設されています。

中央に大きな開架書架の空間、そして、隅々に読書のためのポケット的な空間が配置され、居心地のよい空間を作っています。

2008年8月2日

倍音音楽家

倍音音楽家である尾引浩志さんの演奏を門前仲町の門天ホールで聴いてきました。 尾引さんは、ロシア連邦トゥバ共和国に伝わる倍音唱方“ホーメイ”に魅せられ、1999年倍音楽団「倍音S」を結成。ホーメイ、口琴、イギル奏者であり、現在はソロでライブ、ワークショップなどの活動を展開する演奏家です。

口琴を演奏中の写真です。倍音という意味ははっきりとは認識できませんが、しかし、古い楽器であればあるほど、その奏でられる音の不思議な魅力ははっきりと伝わってきます。

人の身体を共鳴体とした彼の音楽は、最も根源的な音と言えるかもしれません。楽器を使ってはいますが、生の叫びのように聞こえるのです。

音楽が記され、奏でられることによって、音楽のその一部が失われてしまうのでしょう。彼は、それと闘っている音楽家です。

言葉も同じです。言葉にすること、文字にすることによって、多くのものが簡単に伝えられるようになりましたが、同時に多くの魂に近いものを失ったとも言えます。書物の宿命です。
生きている図書館も、その情報が生きているからこそ、真実が求められるからこそ、皆が集まると言えます。

生きているのだか、生きていないものなのか、真実なのか、真実でないのか、その判断が今、求められています。

2008年8月1日

耳マーク

名鉄、東岡崎駅で見つけた耳マークです。

聴覚障害者自身が体につけて、外見だけではわかりにくい聴覚障害を表すシンボルであり、手話や筆談などのサービスが受けられる場所を示すサインでもあります。
今、社会は多くの障害ある人のことを考えうるようになりましたが、その
状況は本当に様々です。
法律では多くの障害ある人のバリアフリーを訴えていますが、法律で支援することで、別の厄介な枠組みをつくってしまっている場合もあるでしょう。また、その枠組みの一部の中だけでバリアフリーを実践している場合もあることでしょうし、決められたことだけを行う、ハートマークをつけるだけの自己満足にもなっている場合もあるでしょう。
しかし、その基盤は障害ある人のことを知ることであり、枠組みを設け、狭い一部の領域だけでバリアフリーを推進するのではなく、広い社会の中でバリアフリーを実践する必要があります。
コミュニティシンクタンクに参加する、手と足の不自由な詩人の栗木宏美さんは心のバリアフリーを訴えます。聴覚障害を持つ羽田野裕子さんは聴覚障害の問題は高齢化の問題でもあると言います。
かつて農薬や公害の問題が野鳥や昆虫など生物の問題と思われていました。しかし、それはすぐに人間自らの問題に帰されることがわかりました。障害ある人の問題もまもなく、健常者にとっての問題でもあることがわかるでしょう。障害ある人にとっても快適な居場所がなかったり、人権を侵害されたりしてきましたが、しかし、それは健常者である多くの人にもすでに降りかかっている問題と言えます。
他人事ではなく、自らの問題として、目の前の出来事として考える想像力が今必要とされているようです。