2008年8月10日

綿とジャズの町

岡崎市は、綿の町でした。かつて、三河木綿を産出し、郊外の農村の綿畑では綿作りが盛んに行われていたと言われます。明治以降もその歴史は続き、ガラ紡(和紡績)の工場は今もわずかですが残っているようです。

今、かつての綿のまちを再び綿畑でいっぱいにし、人々の心の中に綿を再現しようと活動が行われています。世界の綿の産地「メンフィス」にならい、「綿フィス化計画」と呼ばれています。地元の三河木綿企業家である稲垣氏に推進され、市民に広がり始めています。

成功を急ぐのならば、綿の新たな製品化を行い、かっこいい宣伝文句、キャッチフレーズで人の心に訴え、その事業の成功に結びつけるものですが、、、、、まず、地域のなかに綿を受け入れられる基盤づくりを積極的に行い、地域の人々の、木綿に対する意識が広まり、熟成することから手がけているのです。

情報発信側の掛け声だけで広がるとは限らないのが世の常です。むしろ地道に市民の目に綿畑を根付かせてゆくことの方が着実で息の長いものになるかもしれません。歴史はそのようにしてつくられていたわけですから。石油に始まる、社会の危機の中で、衣の自給率を問う中で、あるいは地方の文化を問う中で、もう一度岡崎が綿畑に埋まる日も来るでしょう。

情報の発信は、送り手側の一方的なものでは成果は限られ、むしろ受け手側の環境、基盤が整備されることが不可欠です。熟成する必要があるのです。そうしてこそ、本物の活動となる、そのしっかりとした基盤を築くことから始めることが重要なのですね。

一方、「ジャズのまち岡崎」と言われて3年。岡崎市とジャズの関係は市民である内田修氏のジャズコレクションが市に寄贈されたことにより始まります。一人の岡崎市民のコレクションを元につくられたイベントです。全国の多くの町でジャズをキーワードにまちづくりが進められています。どこも、ジャズによって、市民の一体化をはかり、お祭りとなることを目指しているようです。
どうも、ジャズは自由と多様化の象徴のように見えるのかもしれません。どこでもひっぱりだこです。
しかし、岡崎市の日常を見ていると、、、、、市民はジャズを楽しんでいるわけでもないし、音楽家を支援するわけでもない、、、、、、、、、、、、、。

「内田氏は、レコード収集を続けながら、ジャズクラブ「ナゴヤホットクラブ」をはじめ、世界でも例のない33年間150回以上の長期にわたり行われた「ナゴヤ・ヤマハジャズクラブ」を主宰されるなど、日本ジャズ界の発展に多大な情熱を傾けられました。
また、才能があってもなかなか日の目を見ない若手ジャズメンたちを応援し、ときには岡崎の病院で長期にわたる滞在をこころよく引き受けることもありました。「ドクターズ・スタジオ」と呼ばれた病院内のスタジオで、練習やリハーサルに汗を流した若き日の日本のトッププレーヤーたちも多いと聞いています。」(内田修ジャズコレクションWEBSITEより)

この内田氏の活動からは、地域での本物の活動こそが地域を刺激し、何かを行う人たちを刺激を与え、力づけるものなのですね。情報の発信者の自己満足ではなく、受信側の多様で豊かな反応が、情報の発信力として必要であることがわかります。

情報の受信側の基盤整備が、近い将来、綿のまちとして知られ、特別の風景と文化を岡崎にもたらすことになるのではないでしょうか。

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