2008年2月26日

ワークショップの枠組み

一般市民はうかつにワークショップに出かけて行っては危険です。独立したステイクホルダー(利害関係者)が相対しているからでも、議論が熱く沸騰しすぎているからでもありません。

中立的な立場と思われるファシリテーターが実は行政としっかり結びついていたり、利権を同じくするファシリテーターが陰で手をつないで、市民を包囲しているかもしれないからです。

何となく意見を聞けた、聞いてもらえたと思っていては大変なことになります。同じような議論をエンドレスに繰り返していたり、自由な発想を発揮できないでしまったグループも数多く、また、市民活動に決まったやり方をあてはめたり、その評価方法も数字で表そうとしたり、結論もプロセスもお決まりのものなのです。

多くの市民が彼らのお決まりのやり方に取り込まれてしまって、身動きが取れなくなってしまいます。
単なるアリバイ証明のためだったり、ガス抜きだったり、自己満足のためだったり、、、、。

本当のコミュニティシンクタンクはそうした既成の枠組みを解体し、市民活動本来の姿を提供しようとするものです。本当のワークショップとは集まる人が自由に動き、また記録も自らとって、共有するものです。

市民のやり方でやればいい、その本質を評価すればいい。そこから市民のためのまちづくりが始まるのだと思う。

2008年2月25日

まちづくりのプロ

名古屋で開かれた「商人交差点フォーラム」に参加してきました。全国の商店街組合相互の交流であり、またその中間に位置して支援するまちづくりNPOの紹介もありました。
意欲的な取り組みばかりで、「井の中の蛙ではだめだな」という思いをとても強く感じてきました。

金沢市の竪町商店街の人たちはプロでした。
http://www.tatemachi.com/cgi-bin/WebObjects/WebTatemachi

金沢駅から約2kmの立地ですが、最新のセンスで超広域マーケットを持った若い世代対象のファッションストリートであり、近年は振興組合から株式会社に転換し、経営のプロとして、自己資金を持った株式会社が独自の商店街経営を行なっています。
特に、経営と所有を分離し、オーナーは環境づくりとテナントの選別を行い、通りの通行人数の確保と店舗の新陳代謝に努めていらっしゃいます。通りの通行量とフロアのテナント賃料は密接に関連付けられているようで、ここにもきびしい環境が垣間見れます。

地元商店街と地域の行政との密接な関係は不可欠ですが、反面、狭い世界に閉ざされてしまうのではないでしょうか。社会にはきびしい環境ながら、独自性を持って取り組んでいる地域も数多く、そうした既成概念にとらわれない新しい活動に敏感である必要があります。

できないと思っていたことが、外の世界をちょっと見るだけで、いつもの関係を飛び越えてみることで「意外にやれるんだ!」と気づくことって多いです。

2008年2月22日

同人

FESCO事業企業家で友人の筒見憲三氏のブログに「同士」という言葉が書かれています。

http://hoppi.blogzine.jp/blog/2008/02/post_dbad.html


「実体験に基づいた起業論(10)
理念論(4):社員は企業理念に賛同した同志
ベンチャー企業がベンチャーたる所以は何か?
企業は人に始まり、人に終わる。つまり、ベンチャー精神を持った社員がどれだけいるかで、その企業のベンチャー度が計られる。
では、ベンチャー精神とは?多くの先達によって、語り尽されているテーマでもあるが、語り続けるべきテーマでもあろう。
何かを追い求めて、昨日よりも今日、今日よりも明日と、ひたむきに、かつたゆまぬ成長を目指すこと。その目指す先には、何があるのか?
その何かこそが、企業存立の基盤としての企業理念の実現ではないのか。
そして、その企業理念に賛同し、「志」を同じくする者達。
所謂、ベンチャー企業は、そうした「同志」の集まりなのである。」


CTTもソーシャルベンチャー として同じ夢を見ています。そのパートナーを同人と呼んでいます。

2008年2月21日

アウトソーシング

多くの行政や民間企業でもコスト削減のため、外部委託によって運営や製作を行なっています。本社や本庁の業務がスリム化、フットワークも軽くなります。

製作を行うということは同時にそれを支える人たち、素材を育てる人たち、それを消費する人たち、様々な人やものと間接的に、直接的に関係を持ちます。持たざるを得なくなります。

運営も同じです。これらの関係がつながり、繰り返されることによって、ノウハウやネットワークとして蓄積され、技術や文化や伝統となって表れてきます。そこには多くの知恵と文化、そしてたくましさがあります。そこにはその組織の本質が蓄えられるはずです。

しかも、コスト削減という一元的な掛け声だけで、アウトソーシングへ頼ることで、本当に大切なものを失うことをになります。

行政の本質はどこか、図書館の本質はどこか、。

業務をアウトソーシングしてもその本質は手放さないだけのしたたかさが必要です。

2008年2月16日

地域シンクタンク

浜松市では、行政主導でシンクタンク設立の準備が始まっているようです。

1.目的・役割
政令指定都市としての政策形成能力を確保するため、行政外部に地域シンクタンクを設置し、市民、企業、行政、専門家など、地域の様々な主体の英知やエネルギーを結集して調査研究、合意形成、課題解決を図る体制を構築する。 地域シンクタンクは、地域や行政が取り組むべき新しい政策を提言するほか、まちづくり活動への支援、情報や統計データ等の整備・提供を行い、市民の政策形成への参画を図るとともに、こうした取組みを通じて、職員の政策立案能力、市民協働能力、政策実現化能力の向上を図る。

2.地域シンクタンクの骨格 
(1)基本的性格
市民、企業、行政など、浜松地域で活動する様々な主体が地域の持続的発展に向けた課題解決や新政策の創出に取り組む拠点
(2)組織形態
行政外部の独立組織
行政外部に独立した組織として設置し、市民と行政の中間的な立場を確保
産学官民が連携する組織
産学官の協力のもと、各主体が自由に参加でき、連携しやすい組織、運営体制を構築
(3)基本的機能
機能ⅰ自治体政策に係る調査研究及び新政策の提案
機能ⅱ地域づくり・まちづくり活動への支援・協力
機能ⅲ政策関連情報の収集・加工・提供
機能ⅳ人材育成 
(4)運営体制
所長、副所長、主任研究員、研究員、非常勤研究員 ※事業の拡大に伴い体制を強化する

3.平成19年度の取組み
経済界や学術研究機関との連携のもと,産学官の共同出資による外部組織として考えられる様々な可能性(財団法人、社団法人、中間法人、株式会社、地方独立行政法人、NPO、任意団体、大学附置組織など)を検討し、平成19年度中の設立を目指す。

(1)検討事項
・設立の理念、組織形態
・機能・研究内容
・運営体制
・産学官とのネットワーク形成と役割分担
(2)事業内容
・検討委員会及び検討部会の開催
・経済界、大学、既存研究機関との調整、庁内調整
・所長、専門研究員の選定・依頼
・法人設立に関する手続き(定款作成、認可申請等)

4.平成19年度事業費  7,792千円

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地域シンクタンクとはコミュニティシンクタンクのことでしょうか。


準備に800万円もの予算があり、順調に推進できるのではないかと思うのですが、行政に構築される組織の重さのようなようなものを感じます。その原因はどこにあるのでしょうか。


市民の姿が見えてきていないように感じます。市民一人ひとりが持っているフットワークの動きが見えていないのではないでしょうか。今、大学の研究者は課題を求めて、成果を検証するため、社会に、町に出て行きます。抽象的、先進的課題より、より身近なフィールドへ飛び出していっているようです。社会の課題、市民のいろんな活動に触れることで、一気に見えてくるように感じます。

浜松での成果を確認しなければなりません。









たぶん、jここにjれているのだと感じます。



「・検討委員会及び検討部会の開催



・経済界、大学、既存研究機関との調整、庁内調整



・所長、専門研究員の選定・依頼



・法人設立に関する手続き(定款作成、認可申請等) 」

2008年2月15日

情報の発信

新しい図書館構想を協働する辻桂子さんの「真夜中の図書館」にこんなことが書いてありました。実は図書館とはコミュニティシンクタンクなのです。

テレビ討論会 http://mayoto.exblog.jp/5609218/

「今日、僕は図書館に行った。ホールで議会中継をしていた。みんな、三々五々立ち止まりテレビを見ている。議員の質問を聞きながらmemoをとる人、フリップに感想を書いて見せる人、議論を始める人と反応はさまざまだ。最近の一般質問には条例や法律に抵触すると言う問題も少なくない。議員がそんな発言をすると、すぐに条例文が広げられ、解説をする人と質問をする人がいる。議場で傍聴するよりMAYOTOでみんなで聞いたほうが楽しいし、勉強になるらしく議会中継は結構人気がある。政治は継続して見ていないと分かりにくいものだから自治に関心を持つ人が増えるのは、といても良いことだと思う。議会が終わるころには、司書が議会の問題について学ぶための本や情報を並べはじめる。借りて帰る人も多いらしい。」

このように世界が広がるところとはどんな場所だろう。大きなスクリーンがあって社会の姿を映し出し、その真実を語りかける人たちがたたずむ場所。それが情報なのですね。

情報とは真実であり、そしてそれはたえず新鮮でなくてはならないものです。たえず、新鮮で真実の情報を発信する本物の図書館、だから、本物の図書館をつくるのはとても大変で、とても大切なことなのですね。

だから、たえずやり方を検証し、見方を検証し、枠組みを問い続けることが不可欠です。それはCTTの基本理念でもあります。

2008年2月8日

メディアシンクタンク

関西のテレビ番組では午後、いくつかのコメンテーターによる番組があります。司会者と数人のコメンテーターによって、問題をスクープし、様々に批評を行ないます。次の大阪府知事もかつてはコメンテーターとして出演していました。東京では対立軸がはっきりした討論会の様相を表すのではないでしょうか、あまりないように思います。

番組の中でそのままコメントする、それは同時に社会に放映される、その影響はとても大きく、コメンテーターの資質も問われるますが、いやおうなく、社会問題も明らかにしていきます。それらはバラエティといわれるものではなく、社会や行政の問題に限られた方向性を持っています。市民の声がどこにあるかは判断が難しいですが、提言がそのまま、リビングを経由して社会に出てゆきます。その大きな影響力からは、シンクタンクと呼べるものではないでしょうか。

何事も同時進行で問題の本質を明らかにし、真実を流してゆく、そのことが重要なのです。
でも、大阪の問題大きいのかなぁ。

大阪には5兆2486億円の負債があると言われます。
一方で資産が6兆8427億円(ちょっと怪しい気もします、とらぬ狸、、、とも言います)

歳入3兆1229億円で、内税収1兆0852億、府債2427億円。

それに対する一般会計が3兆1229億円、その内、人件費が89285人に対し、9085億円。3セクも含めたたぶんココが最も厄介な部分かな。施設を売却しても人員までは売却できない、、、。
特別会計が1兆1,938億円だけど、特別事業からの収入があるのかどうか。赤字ばかりの事業にしか見えないけれど、、

ref:http://www.pref.osaka.jp/zaisei/joukyou/08baransu/baransu.pdf
http://nisimura.fugi.jp/h18-yosan.htm

でも、橋下氏の背後には強力なメディアシンクタンクがついているのです。

2008年2月6日

わからないままの議論

中国生産の冷凍食品の安全性が話題になっています。
昨年の12月28日に症状が出て後、1月28日に公表されました。1ヶ月放置されていたことも驚きですが、毒薬品がどこに付着していたのかさえ、わからないまま議論が白熱しています。場所は具と皮とパッケージしかない餃子で理解に苦しみます。当事者はすべてをわかっていて、メディアや国民を右往左往することに価値があるのかもしれません。

問題のありかがどこにあるかがわからない場合は多々あります。また、それを明らかにしないまま、明らかにさせないまま議論させることも多々あります。もちろん、議論することによって、問題が現れたり、その原因を知る場合もあります。しかし、情報開示が不十分のままの議論は不毛な結果にしかなりえないのではないでしょうか。

こうした結果は僕たちの周りにもしばしば起こっていることです。

それは起こっている事象を正確に記録できないことになるのではないでしょうか。(そうでなければ、人を欺こうとするものですが、)

問題が起こった場合にその場に居合わせることのできる人は限られていますが、多くの人や分野の人たちがそれを共有することで、むしろそのことによってしか、問題の解決はないと考えています。それがコミュニティシンクタンクの原点です。

大学もその記録する能力はまったく欠けています。偽装の発覚した企業も同じようです。まちづくりにかかわる市民も同じです。自らの現場で起こっている問題を記録する、記録すれば自然と課題は明らかになると思うのです。

現場に立ち、起こっているさまをありのまま記録する、記述する、それがコミュニティシンクタンクの最初の役割ではないかと考えます。

2008年2月5日

コミュニティービジネス

コミュニティシンクタンク設立へ向けて協働している松井弘氏は「野鳥の会」会員であり、医療的ケアのできる障害者施設の設立を目指している「蕗の薹」を支援しています。多くの市民活動にも敏感なアンテナを持ち、いつも多くの情報が入ってきます。

地域住民が主体となって取り組むコミュニティービジネスを対象とし、愛知県は13の事業所を優良モデル事業者として認定したそうです。「まちづくり部門」では岡崎市の「オフィス・マッチング・モウル」が認定されています。
http://www.m-mole.com/

「オフィス・マッチング・モウルは、アートの精神を軸にした地域活性化事業に積極的に取り組んでいます。地方都市に拠点を置く私たちは、地方の抱えるさまざまな問題に日々直面しています。そして、地方の持つ可能性についても実感しています。私たちは地域の活性化にアートの持つさまざまな力――人を引き付け、人と人を結び付け、新しい視点を切り開いていく力――が役に立つと考えています。アートの力を使って、地域を活性化する方法を、地域を良くしたいと考える地元の人たちといっしょに実現していきたいと考えます。お気軽にご相談ください。対象は、行政、商工会議所、商店街など。 」(WEBサイトより)


三河・佐久島アートプラン21/佐久島体験 祭りとアートに出会う島の企画・制作・運営を担当されています。アートマネージメントによって地域にかかわる活動を行なっておられるのですね。他の地域では地域の活性化のため、すばらしいアートマネージメントが増加しつつあるにもかかわらず、愛知県にはこれまでは見られなかった分野で僕にとってはとても身近であり、期待したいです。

また、その活動内容も明快で力強いです。会社組織によるビジネスなので当然のことかもしれません。しかし、目的意識とその手段はとてもパブリックで中間性媒体となってアートにかかわっておられます。

ちょっとあいまいな、自立できない市民活動も見習う必要があるかもしれません。有限会社や株式会社が利益や利権を追い求め、NPOが社会貢献をする、、、、この自明の論理は疑う必要がありそうです。

2008年2月4日

ワークショップの課題

ワークショプとはオフィスの紙の上で考えていただけのものを、工房で皆が集まって作っていこうとするものです。様々に活用され、多くの場面で大きな効果を果たしています。大学での一般授業にも取り入れようとしています。(ところが講義ばかりしてきた教員にはそれがとても難しい。)


ワークショップとは身体を共に考え、その考えをコミュニケートする



身体性、能動性、多数性をキーワードに、自己を開示し、表現を行ない、交流を生み出し、開発を目的とするのではないでしょうか。身体性を用いて、表現をつくるのが演劇や即興音楽の世界、能動性を用いて、自己開示を行うのが芸術療法や精神療法、参加の意識がもたらし、多数による解決を図るのがまちづくりに応用されるワークショップではないでしょうか。

しかし、多くの手法として消費され、ワークショップは画一化してきたようです。当初の多様性も創造性もできないまま、自己閉鎖に向かっているような気もします。


参加者は何を成し遂げてきたのか、その記録はすべてコーディネーター、ファシリテーターに委ねられてしまいます。それはいつも自ら模造紙に書き込んでまとめられていきます。書き方、まとめ方が決まっています。せっかく集めた参加の意識も想像性ある方向も皆書く人の能力に、価値観に決め付けられてしまいます。

常に、新しい発想がワークショップの魅力であるはずが、固定化し、マニュアルに従ったワークショップが横行しているのが現実です。そこには参加の意識も、創造力もない、ワークショップとは見せ掛けなのか、あるいは運営する能力がないのか、、、。


それは結果的に参加者の意識をないがしろにすることになるでしょう。

この不毛な作業を打開させることが早急に求められています。参加者自らが記録を行ない、進んでゆくことが必要ではないでしょうか。そこにこそ、身体性と能動性と多数性とを持ったワークショップの本質があります。

そんなものはまとまらない、と言われるでしょう。しかし、最初からシナリオがあり、まとめる方向が用意されているから不毛となるのです。どうなるかがわからないからこそ、ワークショップの価値がある。
いつまでも創造力のないものを創造と詐称するわけにはいかないのです。

2008年2月3日

沈黙の春

レイチェル・カーソン著「沈黙の春」は環境問題や環境を身近に考えるための入門書としてよく知られています。周囲のさまざまな状況を化学物質で沈黙させることで人間の効率性を最大限にしてきたそのおろかさを描いています。そして、その本当の恐ろしさは数年後、数十年後、僕たちに降りかかってくることです。

この何日か、またこのレイチェル・カーソンの警句を思い起してしまいました。

これは1950年代のアメリカ、60年代の日本、そして現代の中国だけに起こっている状況ではなく、また、遠い化学物質の世界のことだけではないように感じます。

生物の多様性をダーウィンの単純な進化論のように論理で説明することなど無理なことで、簡単に処理してしまうことは難しいことです。(僕はダーウィンは信じられないですが、日本には今西錦司によるすばらしい進化論があります。)

多様性を受け入れる原理があるとすると、まず、すべてを受け入れてからその方向を考えることでしか答えは見つからないように思います。まず答えありきの、問題-解答が一元的で受け入れる前に答えを決めてしまっている今の社会のやり方は、誰かを、どこかを、排除して対処することに結びついてしまいます。

そういう固定的な考え方は、化学物質のように僕たちの身体の中にも、精神にも、まちのなかにも、社会の制度にも蓄積されてしまっていることでしょう。

2008年2月2日

呉服店からレストランへ

古い中華料理店に入ってきました。表は地下もあるコンクリートの2階建て、なかに入ると昔ながらの京都の町屋で奥の座敷でいすに座って食事をいただきました。坪庭や離れもあり、通り庭と一番奥の蔵がバーとなっていて、様々に文化が融合された空間を感じてきました。

京都の中心地では町屋を営んできた古い呉服店などが閉鎖に追い込まれていますが、同時に古い町屋はその存在を失ってしまいます。

 
しかし、京都の中心地ではこの古い町屋の価値が高まっているようで、これまでのようにつまらないマンションやビルに建て替えられてしまうのではなく、近年は主のいなくなった後にレストランやブティックが入って継承しています。もちろん町屋の歴史のなかに、新しいインテリア感覚を挿入しながら、次の文化を生み出しています。

古い町屋の持つ雰囲気が消費者に受け入れられ、経営者がその価値をやっと認識できたのではないでしょうか。壊すよりも古いもののよさを評価できたのです。一部の新しい建築が刺激を持って新たな文化を生み出しているにもかかわらず、壊した後にできる多くの新しいビルが興味をひかない、陳腐でつまらないものであって、生産性も文化性も持たないことがやっとわかってきたように感じます。建築とは装置であり、新たな価値を生み出すものです。そして、それが継承されて文化となって社会に残ってゆくものです。


かつては呉服店が新しさと古さを併せ持って、生活を生み出していたのであって、たとえ、呉服店が閉鎖されても、その時々に誰かが文化を引き継げばいいのではないでしょうか。ただ、引継ぐ視点、歴史や文化などその視点をしっかりと持っていれば、まちも同時に引き継がれるのではないでしょうか。

古い町屋だけではありません、京都では昔の古い小学校が文化センターやギャラリーとして継承されています。当時は学校も、そして呉服店も、そして京都では多い老舗のコーヒー店やパン屋さんも、心をこめて作られています。新たな精神と情熱を持って、文化を、そしてまちを刺激していたのでしょう。

まちにはマスタープランという、まちを地域ごとに性格付けし、分類しただけの区画割であるゾーニングがいまだに幅を利かせています。それには新しい精神も情熱も文化も、そして本物の歴史もない。とはいっても企業家の野心もない。

早く気がつかないとマスタープランが更新されるたびにまちが壊れてゆくでしょう。そんなプアなマスタープランが横行しています。

2008年2月1日

プラットフォーム

ロハス・ビジネス・アライアンス(LOHAS Business Alliance)はLOHAS(Lifestyles of Health and Sustainability)分野のビジネスに関わる企業に情報を提供し、交流や連携の場となる団体のようです。http://lohas-ba.org/index.html http://www.lohas.com/

「LBA 健康で持続可能な社会へ。LOHASビジネスを活性化するコミュニティ&プラットフォーム」とタイトルされる、この組織の印象がコミュニティシンクタンクCTTの組織のあり方をうまく描いているのではないかと、興味を持ちました。

そのミッションステートメントは次のように書かれています。
「LOHAS(Lifestyles Of Health And Sustainability)の価値観に基づくビジネスを活性化するプラットフォームとなる活動を通じて、LOHAS分野での事業創造・発展に寄与し、人々の健康と持続可能な社会の実現に貢献します。」

NPO?パートナーシップ?株式会社?
よくわかりませんが、会員となる企業を募り、WEBによるニューズレターを発信し、定期的にセミナー+交流会を開催、分科会と呼ぶ勉強会をコーディネートします。LOHASにかかわる起業家と支援者(ベンチャーキャピタルなど)をつないだり、ビジネスプレゼンテーションなどの企画も行われているようです。また、ソトコトなど6社のメディアがパートナーとして参画していることもおもしろいです。

会員を中心とした非常にフラットな組織で、自由性も独立性ももちろん感じられます。しかし、同時にLOHASという価値観のもとに明確なビジョンと目的意識を持ち、それが会員全体の強い志向も持っています。

何より新しい軽やかなフットワークが感じられます。
市民と行政のほどよい関係という重い課題を担わされるCTT。明るいテーマが必要だなぁ。

2008年1月31日

建築が語ること







これは僕がかかわった明治学院大学のキャンパスです。左がアトリウムのようなインナー広場、モスバーガーが入っていますし、テーブルを片付けて入学式にも使います。右側がダイニングラウンジ、厨房が閉まっても学生のラウンジとなります。営業も生協ではなく、ある民間業者がサービス重視の視点から競争によって選ばれました。
建築とはそこに活動する組織のあり方をはっきりと明示します。大学のキャンパスは大学と学生の関係を明確にあらわすものです。管理するのか、自由にさせるのか、場所を与えるのか、あるいは閉鎖するのか、、、、。
交流センターと言いながら会議室の並ぶだけの貸しホール、そこには市民の交流や協働などとても感じられないことでしょう。何も生み出さない建築こそ、外観がきらびやかだったりします。
図書館のカウンターで働く人の表情を見てみましょう。バーコードを当てるだけの単なる流通業務の場所としてしか設計されていないかもしれません。

また、環境にやさしいと謳う図書館の窓が開かないのは何のためか、職員と市民とを区切る長い長いカウンターは何のためか、その場にたたずんで十分に考えてみる必要があるようです。たたずむような気持ちになる空間かどうかも問題ですが。

都市を再生する建築とは何か。建築とは単なる箱物と言われるものではなく、理念も表情も能力も持って、活動を生み出す装置であり、それにかかわる建築家は多様な市民の姿をイメージしています。多様な市民の姿を受け入れられない、ワークショップとコーディネートとは異なりますね。有能な建築家もまた中間性媒体なのです。

優れた建築家ならば利用者のことも、周りの大切な樹木のことも、内部の新しい機能のことも、そして障害者を分別することなく、ユニバーサルに考えることができるはずです。

2008年1月30日

助成金の行方

岡崎市には二大ゼミがあると言われています。市民によるゼミナールの企画であり、自ら市民講座を企画し、市民を対象に実践しているもので、将来的にはもっと大きな市民大学のような生涯学習環境となることでしょう。

ひとつは中心商店街の商店主が自ら講師となって開いている「得する街のゼミナール(通称まちゼミ)」http://www.city.okazaki.aichi.jp/sisei/sisei1_15/bosyu1.htm

もうひとつが昨年は今村克彦氏をゲストに迎えて行われた「100セミ」、地元の高校キャンパスを会場に盛大に開催されています。http://100semi.jp/


しかし、助成金が半減し、その活動の可能性が危ぶまれています。助成金とは(中央政府と地方行政との関係も同じですが)金も口も出し、市民の自主、自立をないがしろにするものかもしれません。支援だけもらってあとは自由にやればいいと思うのですが、そうはできないのか、やらせてもらえないのか。


市民に任せられない行政と、行政を推量ってしまう市民との協働は無残な結果になります。行政が手を引いたとたん、その運営基盤は何だったのか、見えなくなってしまったのではないでしょうか。


助成によりどんな形であろうと、そのノウハウと課題が得られた今、市民自らが自立して企画し、活動を推進する好機でもあるように思われます。それには何事も情熱とそれを推進する仕組みの確立が必要です。組織を企画すること、それをつなぐこと、そのことにより多くの支援も可能となります。運営基盤を再び目に見える形に表せばいいのではないでしょうか。


まちゼミと100セミの行く末に、市民活動の未来がかかっています。わずかな助成で、逆にその動機や成果が縛られてしまっている多くの活動の先鞭となるためにも。

場所の力

大学の勤務地岡崎市本宿町は岡崎市と豊橋市の中間、山あいの宿場町です。新しい住宅地も広がっていますが、旧東海道を中心に古いすばらしい木造の民家やオフィスが残っています。

写真の建築は現在はほとんど使われていないようですが、元本宿公民館です。よく見ると、基礎はコンクリートの表面上に小さな砂利で保護され、化粧され、土台や柱もその上に木の板でカバーされた高い仕様です。また、ポーチの屋根の破風にもモルタル状のレリーフが施されて、高いデザイン意識で建設されていることがわかります。

周辺の豊かな古い民家もあわせて、かつては町の拠点として、活発な活動が行われ、豊かな文化と精神を保っていたと考えられます。

まちの財産として守ることが必要ですが、建築とそこで行われる活動とが一体となって、継続、継承してゆくことがなにより重要です。デザインとは表面的な美しさやかっこよさを生み出すものではなく、人やその活動を促し、推進する建築や場所をつくりだすものです。だから、豊かな場面をつくるためにデザインが必要なのですね。

この古い元公民館を再生し、市民の活動を促す豊かな場面をつくれないか、と考え始めました。

2008年1月29日

発信力

大学では多くの教員も、広報や企画に参画しなければならないことも多くなりましたが、その多くは硬い広報論や固定化した企画力しかなく、現実的な効果は難しい面を持っています。しかし、どの社会においても、この広報や企画をする能力は不可欠になってくるのではないかと思います。それは経営や運営という視点を持つことであり、個々の部分が広報力や企画力を持って、社会に発信してゆく時、それは組織全体に広がって、真に広報や企画のできる創造的な組織となるのではないかと考えています。

市民やまちを育てるといった不遜な行為ではなく、市民を看板に掲げただけのカモフラージュとしてでもなく、ある方向に駆り立てる強制力でもなく、
市民一人ひとりの発信力を受け止め、推進してゆく組織がコミュニティシンクタンクの姿ではないかと思うのです。

2008年1月28日

裁判員制度

弁護士が法廷に提出し、事の是非を争う手段が文面であり、その文面はほとんどが言葉が箇条書きに列記してあるだけです。

以前に、ある場面で、こうした事象を列記した文章による表現を、図や表に表わせば、複雑な事実関係は一目瞭然となり、関係者の真意や行動理由は明らかになると何度も弁護士に訴えたことがありましたが、聞き入れてはもらえませんでした。

彼らの書く答弁書や上告書は第一、から始まり、1,2,3、、、①、②、③、、、と文章が綿密に続けられていて、これでは、いくら読んでもその事実関係を理解することは難しいのです。


しかし、裁判員制度導入によって、言葉だけではなく、状況を図やグラフにし、パネル化することによって一般市民に伝える試みが始まっているようです。また、手振りや身振り、視線や表情まで取り入れて表現されるようです。どこの企業でも、誰でも行っていることですが、ようやく市民のやり方が法律家の非常識を変える時代となったようです。

市民がかかわることによって、法曹界の専門用語や社会認識を変えるだけではなく、こうした手順を一般化、共通化することは、社会の規範を市民の手に取り戻すことになるでしょう。

2008年1月27日

学生からの訴え

社会では様々なところから表明される訴え、その表明を受けとる当事者は自身の責任問題と認識するようです。そのためにそれが生じないようにその提出を妨げることが多々あります。どの社会も同じかもしれませんが、大学でも学生たちの訴えを事前に探知し、丸め込んでしまう場合があるのです。

受け入れて改革へ向けてゆくべきと思うのですが、、、、、。

企業では製品の不備に対する訴えをリコールとして評価し、確立してきました。当事者と消費者の接点がマーケティングとしての情報が渇望されているのです。

また、もっと身近な部分でも、カスタマーサービスとしてその存在が重要視されるようになりました。ただ、そのサービスも「お客様受付係り」がマニュアルに沿って異常なほど慇懃に、丁寧な対応をし、肝心の対応を回避しているような場合もあります。

この消費者と当事者の接点を苦情係り、苦情対策と考えるか、大切なマーケティングと考え、それを活用できるかどうか、担当者には相当の能力が必要でしょう。こここそ、マニュアルになど頼ることは難しいと感じられます。

この現場に発生する問題を情報として受けいれる能力が必要とされるのであり、むしろ御用聞きのように問題を聞いて回るくらいの姿勢が必要ではないでしょうか。消費者の声、そして市民の声、たとえそれが苦情であっても、苦情であればあるほど、その真意を理解する想像力が必要とされます。

2008年1月25日

マニュアル化

今年も大学入学センター選抜試験が終わりました。全国一斉に同じ時間に同じ条件で、同じ進行で試験が実施されています。とても大変なことです。ヒアリングの不具合が問題になっていますが、よくその程度の症例で収まってるな、というのが実感です。


そして、この全国同時進行のために膨大なマニュアルが一人ひとりに渡され、精細な進行がト書き付で用意され、また非常時の問題に対応するため、クレーム対策も懇切丁寧に表記されています。

受験生も大変ですが、僕たち監督員もとてもいやな気分、恐ろしい気分になるのです。マニュアル化せざるを得ないのです、非人間的にならざるを得ないのです。

でも、僕の周りだけかもしれませんが、教員とはマニュアル化し、監視するのが得意な人間でもあります。ちょっとしたことに厳しい反応をします。

マニュアル通り進行するのなら教師など必要ないはずです。誰でもいいはずです。

柔軟に対応するからこそ、その微妙な判断を行うため、生きた「人」が必要とされるのです。
しかし、これらの受験生がマニュアルを暗記するような類型化した試験問題によって淘汰され、将来、この教員たちのなかに入って教育されるのかと思うと憂鬱になってきます。

2008年1月24日

750円/時

コミュニティシンクタンクを協働する松井氏より、MLがまわってきました。


「13日と20日の求人広告に、額田図書館の求人がありました。求人元は、豊田市の人材派遣会社です。本の貸出・返却受付等 週3日出来る方希望人員  パート 2名勤務地   岡崎市額田図書館時間    8:30~17:15休日    月+ローテーション制時給    750円~   」


現在のアウトソーシングの状況でしょう。もちろん、司書の資格が必要だというわけでもなさそうです。

貸出返却業務をバーコードの読み取りくらいに考えていれば、コンビニのレジ打ちよりも簡単かもしれませんし、ファーストフードのカウンター業務よりも無表情でいいかもしれません。
ただ、誰でもいいのです。機械が読み取ることをその補助をするだけになってしまっているのです。

こうした昔ながらの本を貸し出し、静かに読めるだけの図書館ならば、社会に必要とされることは少なくなってゆくかもしれませんが、本を棚に返したり、整理をしたり、本の返却を受け付けたり、基本となる業務を機械的にできると思っているとますます、図書館は社会から離れてゆくのではないかと思います。

社会が変化しているからこそ、(社会は絶えず変化しているものですが)、図書館も、たぶん市民センターや地域の交流センターも状況は同じはずですが、コンビニやファストフードのようでいいと考えるのか、それとも、ここだけは人の英知が生きる分野にしようとするのか、、、大きな岐路に立っています。

しかし、コンビニもファーストフードもその背景には大きなビジネス戦略と理念によって新たな社会をつくり出してきました。

そう言えば、ちかごろの郵便局は、自営業の店主のようにうるさいです。僕の持っている郵便物がどのような種類のもので、どの程度の確実さがいるかなど読み取って、いろいろうるさいくらいにアドバイスします。郵便局にもその戦略と理念ができてきたようです。

2008年1月23日

パブリックリソース

コミュニティシンクタンクの形を思い描いていて、パブリックリソースセンターという組織に行き当たりました。
「この法人は、非営利活動の推進に必要な経営資源すなわちパブリックリソースの開発をめざし、専門的人材のネットワークを活用して、非営利活動にかかる調査研究、新規事業の企画、実施及び支援、コンサルテーション、人材育成、情報交流、政策提言などを行い、もって市民社会の形成に寄与することを目的とする。」(パブリックリソースセンター定款より)

非営利活動の推進に必要な人材、資金、情報などの経営資源をパブリックリソースととらえるものです。今このパブリックリソースという視点からNPOの経営能力を強化、支援してゆこうとする、シンクタンクやコンサルティングが現れてきたのです。

行政と企業と市民の協働と連携の場所がパブリックリソース開発の領域であり、またその先に新たな市民社会が生まれるのだと考えられています。

ターゲットは市民活動やNPOだけではなく、企業や行政へも視野に入れられているのではないか、つまり、企業や行政のサイドにおいても市民と協働することが不可欠になりつつあるのだと感じられます。

ボランティア意識と非営利主義組織に支えられてきた市民活動がすでに協働という地点にたっていて、
そこに新たな市民社会というものの到来が近づいているような気がしました。

しかし、市民という言葉のなかに存在する「中間性媒体」を忘れないようにして。

2008年1月22日

リエゾンオフィス

先日も東京藝術大学で音楽療法に取り組む音楽家を通じて、音楽学部アートリエゾンセンターと足立区リエゾンセンターを知りました。
http://www.ayomi.co.jp/kiji/200609/200609kiji/007.htm
地域が場所を、大学が研究活動を提供するという地域と教育活動の連携、協働です。

リエゾンオフィスという言葉、組織をよく耳にします。
それは近年、大学などが産学官連携や地域連携のために設置する事務所や研究所です。大学の研究体制を地域や企業との連携の中から展開してゆこうというもので、1998年に「大学等技術移転促進法」が施行されることによって、大学の知的財産権を積極的に民間企業へと展開するようになりました。

このリエゾンオフィスという概念を聞いたのは20年ほど前でした。フランス語の言葉が、子音と母音がつながるこのリエゾンという名前が新鮮に思えたものです。実際にも、もっと広い意味で、起業組織やSOHO的組織に援用されていたのではないかと思います。当時先進の企業が改革を目指して、プロフィットセンター化やプロジェクトチーム化による企業内の様々な部門をつないでいたのですが、本来は、企業の再構築の手法でもあったのですね。今、連携と協働を行うコミュニティシンクタンクの基本構造として注目しています。

2008年1月14日

公民館法

岡崎の周辺地域で図書館支援活動を行っているグーチョキパーというグループの方々と交流しました。額田町という、市中心部からは少し離れた山間部でいつもの活動場所を紹介していただいたり、2週間に1回、定期的に読み聞かせなどの活動を行っている東部市民センターなどをまわりました。

岡崎市の周囲に広がる山間部は、距離的には都心の郊外ほどの距離のところに、人の気配と自然の気配がうまく融合し、来るたびにとても豊かな地域だと感じます。樹齢数百年という、こんな大きな樹木のある民家で交流会も開いているそうです。

市民センターでは館長の強力な協力のもとに、市民活動が行われているようです。しかし、市民センターは公民館法に基づき運営されており、自由に気楽に市民が集まってきて交流をするという場所ではなく、それゆえ、やりたいことが100パーセントできているわけではないようです。

公民館法とは昭和24年設立の古い法律で、市民グループで講師を招聘し、講座や会合を開くことが中心になっており、市民が自らぶらっと訪れて、休息したり、談話したり、飲食したりすることは禁止されています。仲間をつくる場所ではなく、仲間が集まって何か協働で活動を行うところであると感じました。
それは今の時代にどこまであったものでしょうか、現在の市民活動を円滑に、魅力的に進めるにも障害になっているような気がします。

しかし、東部市民センターの岡田館長は、公民館法で規制する前に先ず市民を暖かく向かいいれることを第一にされているようです。文面だけですべてを規定できないでいるのはどの法律でも同じであり、その運用を必要以上に規制するか、適宜解釈し円滑に援用するかによってかなり変わってきます。何のためにセンターが存在するのか、それは誰もが考えなければならないことなのに、運用する館長の手腕によって変わってくるのです。

ただ、市民グループが活動できる場所は限られています。多くはないようです。
活動する市民のための場所、その場所のあり方を考えねばなりません。

2008年1月9日

四角いふうせん

新年明けましておめでとうございます。遅ればせながら、新しい年に向けて邁進したいと思います。
岡崎の市民の有志のかたがたと始めたコミュニティシンクタンクの姿が具体化し、また、新たな次代の図書館企画構想の実働が始まります。本年もよろしくお願いします。

新たな気持ちになるために、新年早々ぜひ見たいと思っていたのが、東京都現代美術館で行われている「SPACE FOR YOUR FUTUR アートとデザインの遺伝子を組みかえる」です。http://www.sfyf.jp/#   気になるキュレーター長谷川祐子氏の企画です。
なかでもこの「四角いふうせん」に注目していました。金属の四角いボックスが大きな空間の中に浮かんでいます。
大きな船が海に浮かぶ姿には驚かなくなって、大きな飛行機が空に浮かぶ姿にも驚かなくなってしまった、この精神をもう一度鍛え直してくれます。
1辺5mほどの若干ゆがんだ金属の立方体ですが、実はヘリウムが充填されて、浮力で浮かんでいます。ゆらゆら飛んでいかないように監視員が時折引っ張っています。当然ですが、かる~くです。

2007年12月21日

誰のためのマネージメント

かの前首相が参院選に敗れた後は、「野党のみなさまの声をよく聴いて議論を重ねてゆきたい」と述べるようになっていました。次の首相もそのように述べ、述べざるを得なかったのでしょう。しかし、この言葉は野党が小数であるときにこそ述べねばいけない言葉ですね。それがリーダーの資質でしょう。

また、先日不祥事を起こした老舗料亭が「先代に怒られる、申し訳ない」と悲痛な叫び声をあげられていましたが、小さな声を聞き逃していたために、起こった事件でもあったように思います。大きな力が小さな、しかし、現場から起こる声を逃してしまったのです。

もっとも、それ以前に国民や消費者があることは当然ですが、、、。

長久手まちづくり研究会の渡辺さんの経験から、役所へ陳情に行くと、「あなたは市民の代表者ですか」と言って断わられることが多いそうです。代表とは何か。多数を占めることなのか、その多数の声の一面的な方向を見据えることなのか。大きな声は聞くが小さな声は知らないと言うのか、、、、。

大きな声にはへりくだり、小さな弱い声には、それがどれだけ価値あるものか、吟味さえできないでいます。マネージメントの末端も中枢もその資質が問われています。

小さな声を聞き取るアンテナ、陳情をマーケティング資料と考える想像力、個人だとできることが組織の枠にはまるとできなくなる、組織の資質が問われているとも言えます。

一人の市民に対して、あなたは市民を代表しているのかと問うことは、あなたが組織を代表しているのかと逆に問われているのです。   しかし、そのあなたこそが組織を代表しているのです。そう考えることが責任を持ったいい仕事につながるはずです。代表しているのは市長でも、社長でも、上司でもなく、市民一人ひとり。

2007年12月20日

賞味期限

07年最大の話題かもしれません。そして、今後日本の重大な課題のようにも感じられます。


かつては自ら、あるいは年長者に聞きながら、恐る恐る判断していたものをこのデッドラインのおかげではっきりと自信を持って判別できています。しかし、はたして、それは正しいのでしょうか。あるいは正確なのでしょうか。



明確なデッドラインなど設定できるということは、たぶん、昔の手作りの品から、工業製品のように精度の高い、均質の商品になってしまったのかもしれません。


牛乳もかつて手づくりの生の品だったものが、ホモジニアスな、均質な加工乳になって、多くの人に親しまれるようになったようです。また、卵も工場のような人工環境の下で鶏を生む機械のようにして製造され、鶏肉もブロイラーから均質な肉を生産されています。しかし、そのホモ牛乳もノンホモ牛乳が望まれ、本当の自然の卵や鶏肉も望まれるようになっています。それらは季節や牛や鶏の体調によって品質が変わってくるようです。


あいまいな人間的なよさを持った生の品を工業製品のように扱えてこそ、デッドラインも意味あるものとなります。言い換えれば生のあいまいなものい厳密なデッドラインを設定することに問題があるように感じます。

むしろ、生の手作りの良さが特性だった日本の様々なものが、どこかの基準のみを取り入れているだけに過ぎないようにも感じられます。

そして、その明確な基準は僕たち消費者のためのものというよりも、むしろプロ意識を失った流通業者、店頭販売者のための基準ではないかと思われるくらいです。すなわち、それは見る目を失ったただの人へのマニュアルなのですね。

そして、それはPL法に縛られた工業製品にも見られるようになってしまいましたし、ISOの認可に走る組織にも同様に見られるでしょう。マニュアルがないと判断できない社会になってきたようです。

そして、そのマニュアルさえも裏切られようとしています。

2007年12月19日

市民の声

市民とはさまざまです。右も左も、前も後ろも、、、、。そうしたなかで「まちづくりとは鍋物のよう」だと言うのは簡単なことです。しかし、実際には鍋物をつくってもひとつの好きな具だけをつまんでいることが多いのです。さもなくば、鍋をかき混ぜているだけです。

ただ、市民の声を聞くとは、真摯に考えると非常に難しいですね。
学校現場では「運動会を開催するなら自殺する」という児童の声に敏感に即応して、運動会を取りやめています。しかし、同時に「運動会を開催しないなら自殺する」という声があがったら、どうするのでしょうか。

だから、声は聞かないのだという態度なのかもしれません。

どちらの声も同時に聞くことはできないと言って声を聞かないのではなく、どちらの声にも耳を傾けることが必要なのではないでしょうか。そうすることによって、右でもなく、左でもなく、はたまた中道でもなく、前でも後ろでもない、もっと新たな道筋が見つかるのではないかと考えています。

そこにこそ、想像力-関係あるものとはとても思えなかったものが突如、その強い関係性を気づかせる-想像力が必要なのだと感じます。

2007年12月18日

民度

「ミュージアムが都市を再生する」(上山信一+稲葉郁子)のなかで、民度やソーシャルキャピタルの重要性が述べられています。「民度」とは地域住民の自治参加意識の高さを示す言葉であり、「ソーシャルキャピタル」とは、アメリカでの民主主義の土壌のひとつのして上げられているように、社会で自由に様々なグループをつくることで形成されるとのこと。


本来の民主主義から生まれた市民の活動やその蓄積、資産と日本という地域性を持った閉鎖的な自由主義におけるものとは自ずから異なってしまうかもしれません。


民度が高い、あるいは低い。それらは市民の豊かさ、まちの豊かさを表すものだろうか。市民の民度とは何かを考えようとして、筆が進まなくなってしまったのです。約1ヶ月。

地域には様々なつながり、結びつき、その痕跡があります。それらをマネージメントする力を失わないことが重要のようです。単なる多数決を推進してゆくと答えは簡単です。右か左か、白か黒か、答えを出さずに、新たな別のとるべき方向性が発見することが必要なのだと思います。そうしたマネージメント力こそが民度なのではないでしょうか。表面的な民主主義ではなく。

2007年12月8日

まんが図書館

「広島市南区の比治山公園に市まんが図書館ができて十年。三カ月で十万人が来館した当初ほどではないものの、土、日曜は家族連れなどで閲覧席は満杯で、立ち読みや床に座り込んで読むような状況が続いている。」

かつて、新しい図書館をいかに活用してゆくかをテーマとしたシンポジウムで、「若者たちにもぜひ、来て欲しい、世代を超えた交流をしたい。」と言った会場の年配の参加者に対して、今の若者文化を許容できますか、と逆に聞いたことを思い出しました。そうした相手の文化や習性を受け入れない限り、言葉だけの「交流」になるからです。

この広島市の例だけではなく、京都の都心の小学校をリニューアルして、オープンしたマンがミュージアム(というライブラリーのような施設)も同じように盛況でした。
若いエネルギーが溢れているように感じました。もちろん若者だけが集まっているわけではありません、老若男女が皆、活気に溢れているのです。

このエネルギーはマンガの読みやすさだけではないように感じます。その場で立ち読みしたり、階段に座ったり、決まった読み方などもない、本は整然と並べられていますがいたるところに置いてあります。その上、マナーは一般図書館よりずっといいようです。

管理から、静粛から、読み方から、そろそろ、決まった既成概念から逃れる必要がありそうです。

2007年12月7日

試行錯誤

12名のゼミ生とともに岡崎六供町の調査を進めています。岡崎市商工会議所が運営している岡崎大学懇話会の助成による調査、研究であり、12月8日がその中間発表で、来年2月19日に最終発表です。

彼らと活動を共にするとき、作業の活動の中から見出すものだということを常に自ら実感しています。それは若干時間のかかることですし、もしかしたら思わぬ方向へ行ってしまうかもしれないこと。しかし、そこをはっきり肝に銘じ、こちらの受け皿を大きく広げておく必要があります。
試行錯誤によって、ファジーさも多様性も幅広さも受け取ることができるように感じられます。どこへ行くかはわからないけれど、それこそが本当の答えなのだと感じています。


まちもひとも教え、育む、など狭い了見でできるものではなく、決められたストーリーではなく、フォーマットやマニュアル、思い込みもいったん緩め、もちろん答えもなく、共に試行錯誤を繰り返し、そのなかから同じ方向を発見するしかないようです。