まちのイメージを持つことは大切です。それは量ることや分析することではなく、抱くもの、抱いているものではないでしょうか。
今、橋下知事がメディアによってとりあげられ、大阪の疲弊した問題点が浮かび上がっています。しかし、商都大阪の知事は横山ノック知事と橋下知事を除いて、これまで官僚出身者が担ってきたそうです。ここに間違いの一因があるようです。
都市計画的にも、大阪は東京の姿を目指したのではないかと感じられます。例えば、山手線と環状線。ループによってまちを一巡りすることはとてもシンボリックなイメージを生みだします。しかし、地勢的にも、トポロジカルにも、皇居のような中心性があって、求心性に大きな意味を持つ放射状のネットワークをもった東京ではなく、均質な碁盤目状で、どこでも等価値の資本主義的都市であるニューヨークを目指すべきではなかったでしょうか。商都大阪の目標はニューヨークであったと感じます。東京を対象とするから目標や夢を間違えてしまった、あるいは目標や夢を矮小化してしまった、のではないでしょうか。
一方で地方都市は江戸期以来の藩政による独自の文化と気質が根付いています。僕は大阪で生まれ、京都で学び、東京で実践してきましたので、この地方独自の藩政の雰囲気はまったく感じ取ることができませんでした。
しかし、このすばらしさも、現代ではその多くが中央政府の気分を敏感に感じ取り、それにストレートに従うようになってしまいました。中央政府が分散化といえば、まちを拡散化し、郊外の山の上に中央病院や美術館をつくる。中央政府が中心市街地といえば再び集めだす。自治がないのです。
そして、それらの致命的なことは、それに伴い、知らないうちに歴史や文化、人の活動、、、、様々なものを解体してしまうことではないでしょうか。ここにはセンスもオリジナリティも、意地もありません。少なくとも矢祭町の自治の意気込みを感じてみましょう。
イメージもなく、マスタープランを語るから、まちの将来像が見えてこないのです。これにかかわる専門家もマスタープランという巨大で抽象的で、つかみどころのないものでしかまちを語らないから、何も伝えられないのです。イメージの貧困なところに将来は見えてこないように感じます。
お決まりのマスタープランではまちは滅びます。まちのソーシャルイメージを語りませんか。
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