2008年9月28日

市民と議員の条例づくり交流会議

議会は市民の代弁者であり、、、、ある意味で、中間支援組織であるとも言えます。行政と市民の間に立って、専門家として情熱と能力と倫理観を持って、職能意識を発揮することが求められます。

この中間支援組織のありかたが地域の姿を決めると言ってもいいかもしれません。多数の市民という保守的な面からしか市民を見ることができない行政と、一方で、さまざまな思惑や権益を持った多様な市民、、、、、そこをつなぐ、組織が重要となります。

ひどい自治体ではここに目をつけ、官製に近い、おかかえ、御用NPOを立ち上げ、行政のやりたい放題を市民に押し付ける役目を彼らに担わせています。擬似ワークショップや霊感商法のような夢見心地のスライド会などが使われます。

市民は自ら為政者を選んでいるはずなのですが、、市長と市議とを別々に選ぶ必要があり、、、、ややもすると、市長選には注目が集まるが、市議選は関心が少ない、といった状況にならないでしょうか。市議の方だって、「どこどこの渋滞を解消する」なんてことを公約にするレベルでもあります。

市議会の正常化、実効化が市民には最も近い道かもしれません。

この夏、市民と議員の条例づくり交流会議2008(第8回)が開催されていました。
http://www.citizens-i.org/jourei/index.htm

「市民と議員の条例づくり交流会議は、2001年から、各地で地域の課題解決に取り組み、条例づくりをめざす、市民や議員、自治体職員や研究者らが、知恵や経験を共有し、互いに学びあい提起しあう交流の場として、毎年夏に開催してきました。

8回目を迎える今年は、市民自治体をめざした、市民と議員の政策づくりを支える仕組みづくり、自治体財政・決算の改革、議会基本条例の現在・さらなる議会改革へ向けて、二元代表制における市民・議会・行政の関係―等々について、各地の実践を共有しながら、幅広い議論・交流を行っていきます。ぜひ、ご参加ください。 」


多くの人たちが市民自治体をめざして、市民と議員の政策づくりへ向かい始めているようです。

2008年9月27日

「地方議会を立法機関に」

政策集団せんたく(地域・生活者起点で日本を洗濯(選択)する国民連合)の北川正恭代表が「全国若手市議会議員の会」の研修会で行った講演でのニュースです。

「地方分権を進めるため、国と対等な「地方政府」が必要と強調。現状では「地方議会が(行政の)追認機関になっている」と指摘し、「監視機関だけでなく立法機関でなければならない」と述べた。議員には、議会のあり方を定める「議会基本条例」などの条例制定に取り組むよう促した。」http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/43407

条例とは、憲法により自治立法権に基づき定めたもので、条例は市民の代表である議員が議会で決定したもので、規則は市長が定めるものであり、また、条例の提案権は市長に専属するものと議員に専属しているものでもあります。条例案を作成後は議会の中の委員会で審議し、公布、施行となるようです。

どの程度の立法が地方議会議員によって立案されているのでしょうか。市民の目線で立案された条例はどの程度あるのでしょうか。

条例とは、市民が選択した市長によるものであるし、また、市民が選択した議員によるものである、、、、、にもかかわらず、議会で追認、承認してしまえば、後は一人歩きの部分でもあります。市民に近いものでもないように感じられます。

日本有数の豪雪地帯、新潟県旧中里村にはかつて、「雪国はつらつ条例」という条例がありました。

目的 - この条例は、雪の障害を克服し、雪と共存するとともに、雪を資源として積極的に活用する施策の基本となる事項を定めることにより、雪対策の総合的推進を図り、もって村民生活の安定向上と活力ある地域社会の形成に寄与することを目的とする。(第1条)

基本理念 - 雪対策は、村と村民が一体となって、克雪、利雪、親雪等の施策を長期的かつ総合的に推進することにより、すべての村民がはつらつとした活力ある村づくりを目指すものとする。(第2条)

村の責務 - 村は、総合的な雪対策を策定し、その施策の実施に努めるとともに、村民が実施する雪対策に対して適切な支援及び調整を行うものとする。(第3条)

村民の役割 - 村民は、お互いに力をあわせ、雪対策に創意と勇気を持って積極的に参加し、自ら雪による支障を克服するとともに、雪の資源を活用して他に誇れる雪国づくりに努めるものとする。(第4条)

かわいい、のどかな、でも切実とした条例ですが、、、
村民の責務を描いたものでもあるようです。村民の知らないところでこんな責務が決められたとするなら大変です。

2008年9月23日

市民協働の根底

市民協働とは何か、その言葉の持つ心地よい響きとは異なり、その議論は混迷しているようです。

本来は、市民が自ら活動を行うことが地域の活性化につながり、また、その活動が、硬直化し、分断化した市民サービスを補完し、つないでゆくことにその意義があるのではないかと感じます。その大切な活動を行政がバックアップすると同時に協働して推進してゆくことが必要とされるのだと考えています。

こうした活動を通じて、本当の意味での市民としての自覚や役割も生まれてくるものだと思います。もちろん、行政マンが市民にサービスするのだという自覚と役割も芽生えてくることでしょう。

対等な関係性を築く、その方向性を円滑にし、いつでも誰でも協働できるような基盤(フォーマットやプラットフォーム)がいま求められているのではないでしょうか。

しかし、制度化することによって、自由な活動を阻害する要因にもなりかねません。ましてや、一部の市民会議の中では、、、、、市民に市民としての義務を自覚させ、行政サービスの一端を負わせるもののように変化してきたようです。

ましてや、「基本的には、あなたはこの社会の主体であり、責任持って一緒に生きていくということを問い正す条例」などと暴論が吹き荒れている状況を僕たちはどう考えればいいでしょう。
https://mobile.city.okazaki.aichi.jp/auto/www.city.okazaki.aichi.jp/yakusho/ka2605/pdf/19sikumi12.pdf

2008年9月22日

本物の市民参加とは

今、多くの地方都市では市民参加を前提とした仕組み作りを始めています。

しかし、ややもすると仕組みや制度の形式面を先行しがちです。「岡崎市協働の仕組みを考える市民会議(18年度)」の議事経過を見ていると、他地域の条例を下敷きに、既成の枠組みの中で進めていこうとする行政マンと、理念やこれまでの協働のルールをきめ細かく見ることから「地域独自の協働理念とは何か」というところへ踏み込もうとする専門家との大きな乖離が見られています。それは7回の会議による議論の後でも何も変わっていないようです。https://mobile.city.okazaki.aichi.jp/auto/www.city.okazaki.aichi.jp/yakusho/ka2605/ka2601.htm

市民協働といっても、市民と行政の間にもいつもこのような状況が現れています。行政サイドはさっさと制度を決めて、身動きならないようにしたいのかと疑わざるを得ないのです。また、制度を改善しても、制度ありきの運用ではなく、協働を促進するための本物の運用をどのように考えるかは、この基本理念を議論するプロセスから生まれてくるはずです。

でも、いつも条文ありきの議論であり、制度のための条例しか描けないようであれば、「地域独自の協働理念とは何か」などとても生み出すことはできません。自分の町の状況をしっかりと把握する想像力に欠けるのであり、それを具体化する創造力に欠けているのです。

しかし、地域独自の素晴らしい理念を形に表している町もあります。

北海道、半島の中心に位置するニセコは自然環境に恵まれた住民4600人ほどの小さな町ですが、全国に先駆けて、平成13年4月1日、自治基本条例を制定、施行しています。ニセコにとってまちづくりとは町の運営そのものであって、自治そのものです。そして、その基盤を「情報共有」と「住民参加」においています。

「世の中の動きに合わせて」程度の意識で住民参加に取り組む自治体が、情報を閉ざし、限定した状況下で意味のない、成果の見えない市民協働や市民会議を横行させてしまうのと大きな違いがあります。

ニセコ町では、基本理念は次のように表わされています。

■町の「ミニ憲法」 ~ニセコ町のまちづくりすべてにかかわる条例(自治基本条例)

この条例は、ニセコのまちづくりを進める上での町民共通ルールです。このルールは、日本国憲法や地方自治法などの法の精神に基づき、わたしたち町民がまちづくりの主役(主体)として行動するためのものです。 条例の名前にある「まちづくり」とは、道路や上下水道の整備、市街景観形成などの目に見える「ハード」の側面だけではなく、情報共有や住民参加などの仕組みづくりといった目に見えない「ソフト」の側面も含んでいます。そこから、町民が住むことそのものが誇りに思える「暮らしづくり」を発展させること、それが「まちづくり」に込められた思いです。


■2つの柱 ~「情報共有」と「住民参加」

まちづくりの大切な基盤が「情報共有」です。まちづくりにかかわる情報は、町民の共有財産です。町民の間でまちづくりに関する情報が共有されていなければ、住民参加も意味をなしません。そのため、町が積極的に自らの説明責任を常に果たしていくことが最低限必要なことです。 この条例では、「情報共有」と「住民参加」を車の両輪に同じと考え、一体のものとして、まちづくりのための重要な原則と考えます。同時に、これらにかかわる基本的な権利の保護に努めます。


■自治の実践 ~町民の主体的行動と自治の基盤

 『まちづくりは、町民一人ひとりが自ら考え、行動することによる「自治」が基本です。わたしたち町民は「情報共有」の実践により、この自治が実現できることを学びました。』(条例前文より引用) この前文では、「自治」の手ごたえを感じています。この自治をより本物の自治に発展させることが最終目的です。そのために、この条例を自治のための基本となる条例として、わたしたち自身のツール(道具)として使いながら、わたしたち自身が「市民」として主体的に考え主体的に行動します。その中では、町民のまちづくりへの参加が、自治を守り、自治を進めるものと考えています。 また、自治の発展は、町民の暮らしや経済産業の発展にも寄与すると考えます。各種統計調査においてニセコ町の人口が増加傾向にあること、起業や雇用が増えていることなどの背景には、自治の基盤が大きく影響していると考えられます。


■育てる条例 ~自治の発展

 この条例は、最低4年に1回の見直しを行います。平成17年12月にその1次見直しを終えました。 情報共有や住民参加などをとりまく考え方や社会情勢は刻々変化しています。自治のための新たな発想や枠組みも生まれています。国内外における時代の動きを常に捉えながら、その一歩先の将来を考えていくことが必要です。その意味で、町民が将来にわたり育てていく条例として、この条例を位置付けています。条例見直しのタイミングごとに、自治の方向性やさまざまな制度の点検、見直し を行うことができます。

2008年9月15日

市民の資産

市民会議なるものが開かれます。例えば、岡崎市では旧本多邸を修復し、活用のアイデアを募るという市民会議が招集されたのです。しかし、冒頭から紛糾したようです。市民会議と言えば本来は、つまり市民のための市民によるかいぎなのに何故なのでしょう。

その概要には次のように書かれています。
「目的・概要, 最後の岡崎城主子孫の自邸として昭和初期に建築され、歴史的・文化的価値も高い旧本多邸を復元し、有効活用を図ります。 」

実は現存地であった世田谷区でも保存できなかった家屋を岡崎市が譲り受けて、5億モノ費用をかけて、修復するのですが、今年度は設計と造成を行い、来年度には着工するということです。

ヴィジョンもなく、計画を進める、ヴィジョンがないからこそ、市民ではない誰かの権益で進行してしまうのでしょう。そして進んでしまったものを後から正当化しようとする。そのための市民会議なのですが、、、それゆえ紛糾してしまうのですね。

そしてお決まりのように行政直属のNPOによるワークショップを行い、お決まりの方向へ持ってゆく、、、、。小さな個人の邸宅を丘の上に移築したって、活用の内容など限られてしまいます。幻灯会などでどこか遠くの楽しげな風景を照らし出し、参加者を幻惑しているようです。多くの参加者が霊感商法のように感じています。

ガス抜きのために行われる、と考えざるを得ない市民会議ですが、不満がたまる一方です。

でも、誰が決めたのだ、ということになると行政マンは「市議会が決めたのだ」と言う。市長がトップで決定し、行政マンが実直に従ったものを3ヶ月ほどの検討で市議会は承認したのです。市議会が決めたというのは、語弊はあるのですが、、、、。しかし、議会は、市民はこの状況をどのように考えるのでしょうか。
岡崎市にはかつて繁栄したレンガ造の工場群や煙突、紡績機などが豊かに残されていましたが、この春、解体されることになってしまいました。そうした市民の資産は地域に数多く埋もれているのであり、それらは地域の風土や歴史、文化、生活を豊かに物語っています。どの地域にも数多く埋もれている、そうした資産を活用することによって、目に見える価値を再現するだけではなく、目に見えない価値にも目を向けることになります。
大切な資産を解体に追い込んでおいて、他所の土地の住宅を移築して公園の一角に残してもどれだけの意味があるのでしょう。ヴィジョンがないから、独断専行となり、市民は反対するのです。
全体構想を描いて文化資産を考えて行くとき、市民自ら一体となって価値の発掘に努めることでしょう。それが市民であり、コミュニティシンクタンクの役割のひとつであると考えています。

2008年9月10日

メディアの視線

自民党総裁候補が決まり、その報道が熱を帯びています。

あるメディアは5人の候補をそろえ、さまざま質問を投げかけます。そして、最も重要な質問であろう、市民のファックスによる質問を用意していました。「格差の大きくなる中で消費税を上げるのではなく、なぜ、一般税を上げないのか」、「地元の病院では出産できなくて、何時間もかかる大学病院へ行くことになる」、、、、、、。

そこには具体的かつ基本的な、国民の生の声があげられていたのですが、キャスターは「福祉や年金の財源はどうするのか」「消費税はいつ上がるのか」、、、、など抽象的で陳腐な質問を投げかけてしまう。抽象的で陳腐な質問にはそれ相当の答えしか返ってきません。まるで、あらかじめ、質問の内容があらかじめ決まっているかのような、報道番組でした。

一方で、隣のメディアでは候補者の姿などありませんでした、、、、、が、もっと、もっと先を見ていました。

メディアの乱立によって、情報もあふれています。

2008年8月19日

情報の伝わり方

テレビのニュース番組で、真実はCMの後に、、、、というようなやり方はさすがになくなりましたが、「さて、それは何だったのでしょう」的な含みを持たせ、後で知らせてやる、といったアナウンサーはまだまだ多いです。


でも、視聴者はインターネットからの情報によって、そのことをすでに知っているのです。だから必要としているソースのありかをもっと的確に、正確に、知りたいのです。また、自分自身の判断とどこに違いがあるか、に注目しているのです。

自由に情報を得ることができるようになった視聴者から、今度は、情報を独占していたメディアがその能力を試される時代となったのではないでしょうか。

これまで、情報を持っていることがその権威のよりどころとなっていました。それはメディアだけではなく、為政者もしかり、教師もしかり、、、、、、、他の都市のサービスの内容を詳しく知ることができたり、市の基本構想に忠実でない行政マンを指摘したり、ネットの詳細情報によって小学生が教師をやりこめることもできるでしょう。地方政治の停滞、教育の腐敗、、、、、。どちらも中央からの命令に忠実でありつづけ、制度を見直すことなく、自立性を失ってしまった付けが回ってきているのではないでしょうか。これまでの権威がその情報に対する古い体制のために、疲弊しているようです。伝えるものが伝わらず、隠したいことが隠せなくなってきています。

すべてを開放し、双方向へ、、、、、、、伝え、伝えあう立場へ、管理を開放し運営しあう立場へ、教え、教えあう立場へと変貌するしか道はないのではないでしょうか。

そう言えば、旅行代理店の窓口でのやりとりもかなり変わってきましたね。詳しい航空機情報も持っているし、お勧めのホテルなどあてにしないで、WEBSITEで直接海の向こうのホテルと契約することもできるようになりました。自己責任で。

2008年8月18日

祈りの痕跡

最初に痕をつけたのは、誰か。

5000年前、シュメール人が粘土板に楔形文字を刻んだ瞬間、人間の思考、感情、芸術、科学は記録という行いによる永遠の生命を獲得した。「書く」という人類最大の発明から生まれる芸術や文化は、過去から未来に、個人から集団に伝染する軌跡の痕跡である。

21_21 DESIGN SIGHTの舞台に登場するこれらの痕跡は、現代人の意識に新たな痕跡を刻みつけるだろう。文字通り、浅葉克己が脚で探した地球発の表現を目撃するエキジビジョン。(WEBSITEより)


魂のように刻まれる、言葉やさまざまな人間の活動の痕跡に私たちは魅せられます。

会場には『西夏文字』という作品があります。 「縁者の言は剛けれど、心は日より熱く、郷主の声は柔らかなれど、心は月より冷たし」 言葉の本当の真実が試されます。

言葉やもので様々に伝えられる真実に近づくことが何より必要です。真実や真実の活動によって励まされ、刺激を受け、次の真実が生まれてくると思うのです。

2008年8月17日

価値の方向

行為やその産物に価値を見出すことが経済や営みの原点ではないかと考えています。その価値の連携がつながることにより、地域の経済や活性化は動き出します。

これまでは、自分たちのサイクルを外部に外延化して、その価値を生み出してきましたようです。外部からのフロー、外部へのフローを積極的に推し進めれば、活性化は簡単なことのようにも見えますが、、、、、、自律した活動とは言えないかもしれません。また、どこかだけが外部とのフローによって大きな利益を得ることは難しい時代になったようにも思います。

今、もう一度自らの内部のフローを動かすきっかけをつくりだす必要があるのではないでしょうか。自らの周りの、自らの地域の価値がどこにあるのか、その方向はどちらなのか、、、、、、そして、フローが回らなくなって、沈静する原因は何なのか、、、、、、。

価値がないのではなく、価値が変位しているのでしょう、、、、、、古い慣習や制度によって、フローが進まなくなる、しかし、あるところでは別の価値が生まれつつあるはずです。そして、それは地域のさまざまな関係の中から生まれているのではないかと感じています。地域の価値のフローを見直し、新たな価値へ置き換えること、地域に密着し、それらを内側から見いだすことがコミュニティシンクタンクの役割ではないかと考えています。

2008年8月16日

市民による評価

市民のよる評価が、評価を得ています。評価を行うためにはさまざまに地域とかかわらなければならず、とても重要なことと思えます。しかし、あくまで目的は評価を行うことにより、変革や継続などの判断を下すことにあるはずです。

こうした評価の手段には、これまでの経営戦略にかかわる手段が採用されていることが多いように感じられます。CS、SWOT、4P、、、しかし、マニュアル化された分析手段はいずれも現状分析のためのものであり、多くの現状の要素から、分類や切り口を検討することで、それらがどのような方向性や価値を持っているのかを認識することです。

しかし、それらは現状分析であって、評価ではありません。ややもすると、現状を分析して、それで終わっている事例も多いのではないでしょうか。しかも、現状分析法を活用した評価法は現状を肯定するものでしかないのではないでしょうか。

しかし、経営者の手腕はむしろ、現状分析のどこに目をつけ、どのような経営戦略を構築し、コンセプトや目標を明確にするかにかかっています。これは大きな違いです。

市民による、公共施設や組織への評価は、まずそれらの経営戦略をはじめ、コンセプトや目標がどのようなものか、を多くの視点から検討する必要があります。そして、それが実行されているのかどうか、さらに、どのような結果と成果をもたらしているのか、、、、を評価しなければなりません。

評価とは、この経営上のプロセスをトレースすることから始まるのではないでしょうか。
そして、そのプロセスには考えられていなかった要素こそをとりあげて、評価しなければならないのではないでしょうか。

つまり、コンセプトや目標のないものに評価を下すことはできないのであり、また、現状にない新たな要件から評価の基準を作り上げることこそ、評価であると考えています。

2008年8月15日

学校評価

現代の学校システムや教育の現場は、
1.硬直的、画一的、柔軟性に乏しい、
2.閉鎖的、地域や保護者との連携が不十分、
3.自ら改革に取り組む意欲が不足している、  と言われています。

しかし、教育特区なども設けられ、ほんのわずかですが、少しずつ改革の道が開かれてきたように感じられます。


その原点は「顧客起点」と「成果起点」にあると言われ、それらの情報を共有するための学校評価が大切であると考えられています。こうした評価を共有するという視点は、学校だけではなく、行政や立法や市民活動においても大切な視点です。

しかし、どの分野でも特に公共的な分野では評価の客観性を大切にするあまり、定量化、指標化することが大きな問題となっているのではないでしょうか。数値化しにくい活動を評価することは永遠の課題かもしれません。数値化することが目的ではなく、課題がどこにあるのか、どのような方向に将来性があるのかを考える必要がありそうです。

ここでは、イギリスのNPMにかかわる教育改革や教育への評価と共に、ポートランドの学校と地域のパートナーシップによる学校支援と学校評価の取り組み、SUN(School Uniting Neighborhood)イニシアチブが紹介されています。


その特徴のひとつに、評価の視点として、アウトプット(結果)だけではなく、アウトカム(成果)を重視し、評価することが上げられています。それは学校教育が教室や学校の中だけではなく、コミュニティ全体の中での学校の役割を明らかにしようとするものです。


学校や図書館、、、、どのような施設や組織においても、その内部の活動や役割を評価するだけでは不十分です。自己満足に陥ることになるでしょう。もっと視野を広げて、それらの周辺にある大切なもの、それはこれまでの学校や図書館にはなかったものかもしれませんが、その大切なものこそ、焦点を当て、取り上げてゆく必要がありそうです。


そして、そのためには、学校や図書館をお決まりのものとみなすのではなく、市民自ら、それらの周辺にある大切なものを絶えずチェックしておく必要があります。それらこそが最大の評価項目となるのですから。

2008年8月10日

綿とジャズの町

岡崎市は、綿の町でした。かつて、三河木綿を産出し、郊外の農村の綿畑では綿作りが盛んに行われていたと言われます。明治以降もその歴史は続き、ガラ紡(和紡績)の工場は今もわずかですが残っているようです。

今、かつての綿のまちを再び綿畑でいっぱいにし、人々の心の中に綿を再現しようと活動が行われています。世界の綿の産地「メンフィス」にならい、「綿フィス化計画」と呼ばれています。地元の三河木綿企業家である稲垣氏に推進され、市民に広がり始めています。

成功を急ぐのならば、綿の新たな製品化を行い、かっこいい宣伝文句、キャッチフレーズで人の心に訴え、その事業の成功に結びつけるものですが、、、、、まず、地域のなかに綿を受け入れられる基盤づくりを積極的に行い、地域の人々の、木綿に対する意識が広まり、熟成することから手がけているのです。

情報発信側の掛け声だけで広がるとは限らないのが世の常です。むしろ地道に市民の目に綿畑を根付かせてゆくことの方が着実で息の長いものになるかもしれません。歴史はそのようにしてつくられていたわけですから。石油に始まる、社会の危機の中で、衣の自給率を問う中で、あるいは地方の文化を問う中で、もう一度岡崎が綿畑に埋まる日も来るでしょう。

情報の発信は、送り手側の一方的なものでは成果は限られ、むしろ受け手側の環境、基盤が整備されることが不可欠です。熟成する必要があるのです。そうしてこそ、本物の活動となる、そのしっかりとした基盤を築くことから始めることが重要なのですね。

一方、「ジャズのまち岡崎」と言われて3年。岡崎市とジャズの関係は市民である内田修氏のジャズコレクションが市に寄贈されたことにより始まります。一人の岡崎市民のコレクションを元につくられたイベントです。全国の多くの町でジャズをキーワードにまちづくりが進められています。どこも、ジャズによって、市民の一体化をはかり、お祭りとなることを目指しているようです。
どうも、ジャズは自由と多様化の象徴のように見えるのかもしれません。どこでもひっぱりだこです。
しかし、岡崎市の日常を見ていると、、、、、市民はジャズを楽しんでいるわけでもないし、音楽家を支援するわけでもない、、、、、、、、、、、、、。

「内田氏は、レコード収集を続けながら、ジャズクラブ「ナゴヤホットクラブ」をはじめ、世界でも例のない33年間150回以上の長期にわたり行われた「ナゴヤ・ヤマハジャズクラブ」を主宰されるなど、日本ジャズ界の発展に多大な情熱を傾けられました。
また、才能があってもなかなか日の目を見ない若手ジャズメンたちを応援し、ときには岡崎の病院で長期にわたる滞在をこころよく引き受けることもありました。「ドクターズ・スタジオ」と呼ばれた病院内のスタジオで、練習やリハーサルに汗を流した若き日の日本のトッププレーヤーたちも多いと聞いています。」(内田修ジャズコレクションWEBSITEより)

この内田氏の活動からは、地域での本物の活動こそが地域を刺激し、何かを行う人たちを刺激を与え、力づけるものなのですね。情報の発信者の自己満足ではなく、受信側の多様で豊かな反応が、情報の発信力として必要であることがわかります。

情報の受信側の基盤整備が、近い将来、綿のまちとして知られ、特別の風景と文化を岡崎にもたらすことになるのではないでしょうか。

2008年8月8日

市議会の代表質問から

地域のリーダー足るべき市議会議員のとるべき活動が地域の活性化に不可欠です。

市議会の記録が公開されていますが、市民病院に対する、その質問の内容からは、深い内容をうかがい知ることはできません。「お伺いします」、「お尋ねします」、「お聞きします」が延々と続きますが、議員自ら分析や提言する必要はないでしょうか。

今、岡崎市の市民病院は負債が定常化しています。詳しい内訳はわかりませんが、
        
平成17年度の収 入、15,472,880,492 、支 出 、16,500,874,041 、△ 1,027,993,549 、平成18年度の収入 15,822,965,469に対し、支出、16,841,084,314、△ 1,018,118,845、平成19年度 は収入、15,806,423,897に対し、支出、16,968,576,840 、△ 1,162,152,943 となっているようです。収支率がおおそよ93%です。(全国の病院の収支の動向についてはhttp://www.ajha.or.jp/topnews/backnumber/2004/04_12_01_1.html に紹介されています。)

また、数値に現れていること以外にも、福祉の充実した近隣都市の市民病院へ患者が流れ、また、有能な医師も離れているという見方が市民のなかで噂されています。市民自ら、地元の医療施設(市民病院ではありません)と近隣の優秀な病院との連携の重要性もすでに自覚しているのです。

かつて、地域の中心にあった市民病院を市域北部の丘の上に配置した時点で市民という視点を排除してしまったのではないでしょうか。

以下に掲載する代表質問とそれに対する事務局長の回答をよくよく読んでみると、地域の医師会の方がよほど深く深く考えていることもわかります。医療もネットワークなのですね。

平成20年3月岡崎市議会会議録第2号から

◆45番 皆さん、おはようございます。・・・・議長のお許しを得ましたので、代表質問をさせていただきます。・・・・ 私どもの会派の要望に対し御理解をいただき、丁寧な対応をしていただきました点につきまして、まずもって感謝申し上げます。
・・・・・・・・・・・    ・・・・・・・・・・・    ・・・・・・・・・・・
 4、保健・医療・福祉の充実について。
 (2)市民病院の適正規模。 本市の市民病院は、西三河南部医療圏の第3次病院としての機能を果たすとともに、病床数650床、そしてその利用率は97%以上で推移しています。十分な医療活動を続けていると思います。 本市の人口推移を見ますと、昭和35年より増加の一途であります。また、工業団地等設置により昼間人口も増加しています。そして、近隣市町の人口も同じように増加しております。本市の人口増加は平成37年まで続くと推測されております。このような状況で、現在の岡崎市民病院一つでよいのか、行政の見解を聞かせてください。 市民の中には、南部地域に総合病院が必要だとの声も聞かれております。何らかの対応、計画を立てるときが来ているのではないかと思いますが、御意見をお聞かせください。

 ◎病院事務局長 私からは、4の(2)の市民病院の適正規模ということでお答えをさせていただきます。 市民病院は、地域医療の中核的機能を果たします基幹病院として、緊急もしくは重度の患者さんを中心に、高度で専門的な医療を24時間体制で行う急性期の医療を担っておるところでございまして、現在23診療科、650床で、病床利用率では御指摘にありましたとおり97%を超える状況で運営をしているところでございます。 この規模は、37万都市である岡崎市立の自治体病院といたしましては、自治体病院を持たない市町村もあるわけですが、他市町村との比較においても一定以上の規模、レベルにはあるというふうに考えております。 そして、自治体病院の新増設に関しましては、国の状況から申しますと、国にあっては自治体病院の経営形態のあり方の検討を求めておりまして、統廃合等を促すことも含めた政策が進められておる状況下でございます。つまり、自治体の病院経営そのものの是非が問われる社会状況になっておるというふうに理解をしております。 また一方、現実に目を向けますと、勤務医不足から、病院、病棟の閉鎖が話題となっておりまして、さらに最近では看護師不足から病棟閉鎖を検討する病院も出ておりまして、実際にここ二、三日の間でも、具体的に看護師不足から100床単位の病棟閉鎖という発表もされておるところでございます。 こうした状況と考え合わせまして、当院も現状の規模、機能を維持すること自体が大きな課題となっている状況でございます。こうした状況下では、現在のところ市民病院としては大きな規模拡大は当面困難ではないかというふうに考えているところでございます。 当院としては病診連携、病病連携、つまり病院と診療所、開業医さんとの連携、そして病院と病院との連携、これを強化いたしまして、地域の医療資源を最大限に活用することに努力を傾注してまいりたいと考えております。 しかしながら、本地域においてベッド数等が充足されているかというような質問趣旨に対しましては、当院が急性期を過ぎた患者さんの転院先に苦慮していますように、必ずしも充足されていないと考えております。 また、医師会さんからも、今後は療養病床等の不足が大きな社会問題に発展するのではないかと、こういった問題提起もあったところでございます。この問題は、経営主体の問題、つまり公がするのか、民がするのかといったことを初め、基本的な多くの課題が検討、整理される必要がありまして、この検討には岡崎市全体、さらに西三河南部医療圏、こうした広い範囲ですべての医療機関と行政が参加するような形で検討を進める必要があり、最終的には国の理解も必要になってくるものと考えます。 昨年、医師会保健所が中心となりまして、地域医療全体の検討の場も設けられたところでもあります。当院としても、地域の基幹病院として、これに積極的に参加、協力をしてまいりたいと思いますので、御理解を賜りたいと存じます。

2008年8月7日

即興音楽

音楽も建築も、、、多くのものが、形や形式が構築されればされるほど、それらからずれてゆくのではないかと考えられてきました。

文学のゼロ度、4分33秒というタイトルの無音の音楽、アンフォルメルという絵の形式、、、、、、など、一旦、打ち立てられた形式や制度から逃れようとする試みは多くの分野で、多くの人たちによって試みられてきました。

そうしたなかで、即興音楽に音楽の本質を求めている人たちも多くいます。「うたの家」で活動する即興からめーる団の赤羽美紀さんと正木恵子さんたちもその活動家のひとりです。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/20080726/CK2008072602000128.html

彼女たちのさまざまな試みからは、音楽とは、自らがいるその場に存在する音のさまざまなリズムを発見してゆくこと、場に音のリズムを見出すことであるとわかってきます。

場にはさまざまなものが潜んでいるのですね。
場に混在する生活のさまざまな形を見つけ出すのが建築の新しい姿であり、(当然なのですが)

場に集まる人々のさまざまな姿や言葉から、社会の真実を見つけ出す、すなわち、新しい公共の形を見つけ出す試みだと思っています。もちろん、それがコミュニティシンクタンクの形です。

2008年8月6日

ホームスクーリング

ホームスクーリングは、学校に通学せず、家庭を拠点に在宅で学習を行うことをいうそうです。アメリカではホームスクール在学生も多く、成績もいいようです。

日本でも大学検定試験(現在は高等学校卒業程度認定試験と改定されました)を経て大学へ入学してくる学生も多くなってきました。高校生の大学AO入試に立ち会うと、高校へ通学できないでいる高校生もかなりの数に上るようです。それぞれのスタイルで多くの人が頑張っていることは一つのステレオタイプしか認めない日本では大切なことのようにも感じられます。

日本ホームスクール支援協会http://www.homeschool.ne.jp/hosa/なども設立されています。

そのうち、高校には通学する必要がなくなるかもしれません。むしろ、大学進学には高校へ行くよりもホームスクールで、社会性を学ぶのであればコミュニティスクールで学習することが一般的になるかもしれません。

では、多くの高校が進学先へ進むためのものになっている今、高校とは何でしょうか。

また、教師の存在も見直す必要もでてくるでしょう。教育とは知識や情報を伝えるもの、ではないことは明らかです。インターネットの普及で教師よりも知識や情報の豊かな生徒も数多く生まれています。

本質ではなく、制度やマニュアルを与え続けてきた結果、集団化教育や画一化教育とは、教育とは何かを見失わせるものだったかも知れません。

例えば、それは教員の意識の中にも存在しています。高校の教育とは特殊なものだという意見があります。生徒と教師と、学生と教授とは異なる関係にあるという意見です。しかし、特殊なものにしてしまって外部に目を開かないのは、旧態然とした視野の教師自らの責任なのではないでしょうか。

新しい高校のあり方を考える構想を進めていますが、それは内部から改革を進めるには難題が山積しています。しかしながら、画一化した学校教育ではなく、本物の教育を一生涯に渡って継続するという発想に立つとき、中学も高校も大学も、、、企業も地域も、、、すべてをつなげて、考え直す必要があるように感じます。そこにこそ、教育の進むべき道、改革の道があるように考えています。

2008年8月5日

ボランティアのゆくえ

多くのボランティア団体が活動しています。岡崎市でもボランティア連絡協議会に登録している団体は120ほど、3200名がボランティアを行っています。また、ここに表れない活動家も多くいるはずです。しかし、ボランティアの数はとても足らないのだそうです。

また、ボランティア連絡協議会にはボランティアへのニーズとボランティアのシーズが集まっています。しかし、そのシーズは多くのニーズに応えられず、一部のボランティアにひずみが発生していることもその一因のようです。

何故、シーズとニーズが合わないのか。 また、ニーズに対するボランティアの能力が不足しているのでしょうか、そうであれば、ボランティアに要求される特別の能力とは何でしょうか。

ボランティアとは誰でもが、意欲も持ってできるはずのものですが、今、多くのものがボランティアの手にゆだねられ、手に負えなくなっているものもあるでしょう。また、安易に委ねられているものもあるでしょう。

例えば、介護保険によって、様々な場面で有償であり、専門家による介護が行われるようになりましたが、まだまだ多くの隙間があって、その多くの隙間を埋めているのはボランティアであるようです。ある動作までは有償の専門家が介護し、あるところから無償のボランティアがサポートする。

今、行政の縦割り化によって、ボランティアの対応も縦割り化しています。いろんな部署でボランティアのコーディネートをし始めています。それぞれの部署が成果を競っています。

ボランティアの多様化と縦割り化が始っています。と同時にボランティアの役割は確実に重くなっています。

しかし、ボランティアには無償に対するプライドがあるようです。ベテランのボランティアほどその心意気は高いです。しかし、その孤高さ、融通のなさ、柔軟性のなさ、、、は現代の多様なボランティアの形に対応できていけないのかもしれません。

多くのボランティア必要とする現代では、多様な立場と境遇の人たちが共に社会を協働してゆく必要があります。それがこれからのボランティアと言えます。有償か無償かというボランティアを提供する側の論理ではなく、ボランティアを必要とする側の状況をまず考える必要がありそうです。

岡崎市では施設の清掃にまでボランティアを要求するようです。新しい図書館では本来は司書の資格を持つ人まで清掃業務に携わる、、、、、、。本物のボランティアがいなくなります。
ボランティアを受ける側のエゴも許せないなぁ。

2008年8月4日

素人の発言

大阪府の橋下知事が伊丹空港の廃止を言葉にして、元大臣から「素人が大胆なことを言わないほうがいい」と批判されているようです。

もともと、狭い住宅地の真ん中の伊丹空港の安全性や騒音問題を機に、神戸沖、泉南沖、淡路島の3つの候補地のなかから、泉南沖が当選し、現在の関空が生まれたのだと記憶しています。、、、、しかし、伊丹空港は未だ騒音を排出し続け、おまけに、神戸沖にも新たに空港ができているではありませんか。

この素人と言われる知事の素人っぽさとは何でしょう。元大臣のプロ意識とは何でしょう。

プロの政治家には色んなしがらみや利権がくっついてきます。どれだけ、多くのしがらみや利権とつなげられるか、が重要であり、そのためには、できるだけ、浅く、広く、かかわることが要求されるのではないかと思いたくなります。身近に聞く政治家の発言は、特に選挙前の多くの政治家の発言は素人の発言のように浅く、広く、本質をつかんでいないものです。

プロとは何か、、、プロの政治とは何か、、、、

ネゴシエーションでの力の関係で落ち着くところに決められてしまう結論の、その力の関係を絶えず見直すことが、プロたる政治家のプロフェッショナルな職能なのではないかと感じます。

関西には、空港は神戸沖にひとつあればよかった、、、利便性も安全性も騒音による問題も、比較すれば、最も可能性の高い空港だった、、、そんなことは当時、大阪の子供だった僕にもなんとなくわかっていた。

素人と言われる政治家のプロ意識。プロを長年やっている政治家の素人っぽさ、危うさ。そろそろ、気がつく必要がありそうです。

2008年8月3日

地域と図書館

滋賀県愛荘町愛知川図書館長渡部幹雄さんもまた地域図書館を推進する有数の図書館長です。

彼は地域と図書館の関係を、中学校区ごとに展開する図書館、これをコミュニティ図書館、生活図書館と位置づけ、それらを支援する県立図書館など中央のシステムを構築し、全国に行き渡る図書館網がはりめぐらされることを提言しています。

彼の考える地域とは中学校校区程度の広さのコミュニティであり、このコミュニティがが全国に展開してゆくことが重要であると考えています。
ちょうど、彼の愛知川図書館が人口11500人の全国平均の中学校区の規模となるようです。

全国の図書館総数が2740館、公立小学校が23160校、公立中学校が10317校、公立高校が4093校、郵便局が24715軒、と比較しています。ちょうどその領域、広がりが目に見えてきます。ちなみにコンビニが40843店あります。滋賀県内では98の中学校区があり、43の図書館が配備され、50の自治体の中で27の自治体に中学校区ごとに図書館があるようです。
数の上からも、中学校という具体的な生活の領域の中で考えることでも、この地域の図書館の姿の、地域の中での重要な役割が見えてくるようです。
そこには、地域の信頼を勝ち取る専門職能を持った職員の養成や地域を訪れる住民の姿も見えてきます。距離を密にするだけで、考え方が変わってきます。

その評価は図書の貸出密度だけにとらわれることなく、地域住民の生活を支える役割を果たしているかが重要となる。地域資料を住民から募り、常備し、生涯教育の場として活動の場所を開放し、地域の素材を活用するプロデューサーとなる、、、それが渡部館長の考える地域図書館です。

愛知川図書館は、面積3000㎡、10万冊の蔵書を持ち、地域の伝承工芸品の展示施設、びん手まりの館が併設されています。

中央に大きな開架書架の空間、そして、隅々に読書のためのポケット的な空間が配置され、居心地のよい空間を作っています。

2008年8月2日

倍音音楽家

倍音音楽家である尾引浩志さんの演奏を門前仲町の門天ホールで聴いてきました。 尾引さんは、ロシア連邦トゥバ共和国に伝わる倍音唱方“ホーメイ”に魅せられ、1999年倍音楽団「倍音S」を結成。ホーメイ、口琴、イギル奏者であり、現在はソロでライブ、ワークショップなどの活動を展開する演奏家です。

口琴を演奏中の写真です。倍音という意味ははっきりとは認識できませんが、しかし、古い楽器であればあるほど、その奏でられる音の不思議な魅力ははっきりと伝わってきます。

人の身体を共鳴体とした彼の音楽は、最も根源的な音と言えるかもしれません。楽器を使ってはいますが、生の叫びのように聞こえるのです。

音楽が記され、奏でられることによって、音楽のその一部が失われてしまうのでしょう。彼は、それと闘っている音楽家です。

言葉も同じです。言葉にすること、文字にすることによって、多くのものが簡単に伝えられるようになりましたが、同時に多くの魂に近いものを失ったとも言えます。書物の宿命です。
生きている図書館も、その情報が生きているからこそ、真実が求められるからこそ、皆が集まると言えます。

生きているのだか、生きていないものなのか、真実なのか、真実でないのか、その判断が今、求められています。

2008年8月1日

耳マーク

名鉄、東岡崎駅で見つけた耳マークです。

聴覚障害者自身が体につけて、外見だけではわかりにくい聴覚障害を表すシンボルであり、手話や筆談などのサービスが受けられる場所を示すサインでもあります。
今、社会は多くの障害ある人のことを考えうるようになりましたが、その
状況は本当に様々です。
法律では多くの障害ある人のバリアフリーを訴えていますが、法律で支援することで、別の厄介な枠組みをつくってしまっている場合もあるでしょう。また、その枠組みの一部の中だけでバリアフリーを実践している場合もあることでしょうし、決められたことだけを行う、ハートマークをつけるだけの自己満足にもなっている場合もあるでしょう。
しかし、その基盤は障害ある人のことを知ることであり、枠組みを設け、狭い一部の領域だけでバリアフリーを推進するのではなく、広い社会の中でバリアフリーを実践する必要があります。
コミュニティシンクタンクに参加する、手と足の不自由な詩人の栗木宏美さんは心のバリアフリーを訴えます。聴覚障害を持つ羽田野裕子さんは聴覚障害の問題は高齢化の問題でもあると言います。
かつて農薬や公害の問題が野鳥や昆虫など生物の問題と思われていました。しかし、それはすぐに人間自らの問題に帰されることがわかりました。障害ある人の問題もまもなく、健常者にとっての問題でもあることがわかるでしょう。障害ある人にとっても快適な居場所がなかったり、人権を侵害されたりしてきましたが、しかし、それは健常者である多くの人にもすでに降りかかっている問題と言えます。
他人事ではなく、自らの問題として、目の前の出来事として考える想像力が今必要とされているようです。

2008年7月23日

兵庫県多可町地域協議会

平成17年11月に中町・加美町・八千代町の合併により誕生した、兵庫県多可町では、18年度より、旧町の地域特性を残しながら、3つの区(中区、加美区、八千代区)が融合したまちづくりを進めていくため、平成18年2月27日に地域協議会が発足したようです。

その機構は15名程度の地域住民で構成された、3つの地域協議会が7名の大学教員によるコミュニティシンクタンクから助言を受けながら、月1回程度会議を開き、また3つの協議会をつなぐ連絡協議会や町長懇談会などを開催し、町に対して提言を行ってゆくというものです。

小さな町ですが、だからこそ、町の様々な施設の活動状況を協働で視察するところから始め、自分たちの町を知り、具体的な活動方針を掲げ、その方向を自ら提言しているようです。

その豊かな活動の内容がホームページに記されています。
http://www.takacho.jp/chiikikyougikai/

25000人ほどの小さな町ですが、年初に書かれたであろう所信表明からは、その意気込みと真摯さが伝わってきます。http://www.takacho.jp/syuyo_sesaku/h20/sesaku_syosinnhyoumei.html

「成熟社会にマッチした町づくり」~ 多可町の基盤造りを次代への挑戦 ~

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20年度は2年半の準備期間を経て「多可町が本格的に動き出す年度」と位置づけたいと考えます。 それは、旧町からの継続事業がほぼ一段落し、多可町の住民や職員が考え、計画した事業がいよいよ動き始めるからです。 しかし厳しい時代の財政的背景は、国をして、また県をして、多可町独自の町づくりプランを自由には描かせてくれません。

・・・・・・
北海道夕張市の財政破綻の実態は、皮肉にも脆弱な自治体財政の実態を国民共通の認識にまで昇華させ、大きく関心を喚起させました。 これら行財政への関心の高まりをむしろプラスに捉える中で、すべての職員がより自らを律しつつ職務に精励し、特に役職者にあっては町の財政状況の説明責任を積極的に果たさなければならないと改めて心するところです。

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◎ 予算編成にあたって心した基本の方針は、次の3点です。 
Ⅰ. 予算総額の抑制とプライマリーバランスの好転を目指した「縮減型予算」 
Ⅱ. 真に必要な事業に合併特例債等の財源を有効に活用した「財源効率型予算」 
Ⅲ. まちづくり・環境・健康・教育など次代へつなぐ先進施策を盛り込んだ「提案型予算」   
20年度の予算編成作業においては、各分野において事業の継続を目指しながらも予算の削減を行うというアプローチで取り組みましたが、この手法が限界にきていることは、本年度の収支を10億円余りの基金繰り入れでまかなっていることを見ても明らかです。 役職者においても一層の意識改革の徹底を図り、旧町の手法や考え方にとらわれることなく、多可町として何が必要か、柔軟な発想で今のコスト構造と役場組織の対応のあり方等を果敢に変えていく必要性を強く感じております。
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2008年7月22日

街ゼミ

岡崎市中心部の商店街で、2003年から年2回開催され、この夏で11回目を迎える「街ゼミ」こと「得する街のゼミナール」が7月28日から開かれます。


http://www.okazakicci.or.jp/mirai/zemi11.html
http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20080717/CK2008071702000044.html?ref=rankhttp://www.city.okazaki.aichi.jp/sisei/sisei7_15/kouza1.htm



今回から商店主自ら立ち上げた「岡崎まちゼミの会」が中心となって企画運営するようです。


これまでは、市からの助成金を元に活動を行ってきており、広報費にその多くを必要としてきたようで、その多寡が街ゼミの成功の鍵を握ってきたようです。そのためか、市の支援や助言にとてもナーバスになってきたと思うのですが、独立した会を結成したからには、今後はどこまで自立性を増していけるか、資金の多寡ではなく、商店主たちがどれだけ、自分たちの活動の使命やその大切さに気づくか、自信を持って進んでいけるか、、、、

やりたいことを自ら進める、そして、何をやりたいのか、何をやらねばならないのか、それに気づくことであり、そこに邁進することに尽きるのではないでしょうか。

折りしも、コミュニティシンクタンクmocoのmocotomoメッセージで、高松市丸亀町の活性化の記事が掲載されています。http://cttmoco.blog25.fc2.com/blog-entry-17.html

「ここの新機軸は、土地の所有と店舗の経営を分離したことにある。 テナントは集客力を厳しく審査し、お客本位の店作りができる業者に開放する。ビルの立つ土地で昔から商売してきた人は、商店として再チャレンジするか、地権者になり切るかを選ぶ。 一般的に、伝統的な商店街は店舗の経営者が地権者でもある。再開発の権利調整は難航するのが常で、結果的に地権者である商店主の都合が優先された、お客不在の商業施設ができる例も多い。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
再開発で「所有と権利の分離」方式を採用するには、まず既得権を持つ昔からの商店主の「心の再開発」をする必要があった。全国ブランドの店舗と互角以上に戦えない店主は、地権者として生きるよう「心の整理」を迫られる。「再開発=自分の店の繁栄」という図式を否定することからすべてが始まる現実を受け入れなければならないのだ。」

金沢市で成功を収める、堅町商店街も同じような方向性を持っていました。地権者は商店街の整備を図り、行き交う人の交通量の多さでもって、施設を高く売り、店舗は消費者のニーズの少し上を行くことで利益を上げると同時に商店街の活性化に貢献する。この相互のきびしいやりとりが商店街の成功へとつながっているのです。http://www.chusho.meti.go.jp/shogyo/shogyo/shoutengai77sen/idea/4chuubu/2_chuubu_17.html


街ゼミは、行政からの自立を果たして、次の一歩を歩みだしました。行政のシステム化と商店街の活性化とは相容れないもののはずです。行政の発想からは商業など育つことはありませんし、ましてや助成金を求めて、彼らに媚びながら広報しても競争力を持った営みには決してならなかったでしょう。

今度は彼らの多くが自ら自立し、魅力ある店舗を次々と展開してゆくことに成功の鍵はあるのではないでしょうか。同じ志を発掘し、つないでゆくことが、望まれます。旧来のやる気ある店主と地域で新しい店を展開し始めた若者たちが、共に意識を共有することで大きな発展につながるのではないでしょうか。

共有のために、協働のために、古い心を変えなければなりませんね。

2008年7月21日

昇任試験

「名古屋市役所の係長の昇任試験を受ける職員が減り続けている。98年度に1357人いた「行政事務」分野の受験者数は、07年度には522人と、ほぼ3分の1に落ち込んだ。出世より、自分の時間を優先する生活スタイルの変化が大きな理由と市はみている。
「昇任試験のための受験勉強より、子どもとの時間を持ちたい」 ある管理職は部下に係長試験の受験を勧めたところ、こう断られた。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・50歳代のある幹部は「最近の若手は責任を負わなければいけないということにばかり目がいくのかもしれない」とこぼす。市が懸念するのは、市全体を引っ張ろうという職員と、それ以外とで二極化してしまうと組織力が落ちるのではないか、という点だ。」http://www.asahi.com/national/update/0714/NGY200807140003.html?ref=rss

職場こそが実践の場として最も大切な場であると考える人も多いのではないかと思います。仕事を自ら遂行することで、PCDAという仕事のサイクルや、「準備」、「熟成」、「啓示」、「検証」というクリエイティブなプロセスを体験することで、自分でできることを増やしてゆく、、、、山を見つけ、山を乗り越えることで、また、次の大きな山を乗り越える能力が身につくのであり、そして、社会の矛盾を正面から見据えることができるようになるのだと思います。それがキャリアの向上と考えてきました。

昇任試験は与えられた答えを一元的視野で身につけることにつながりませんか?

昇任試験に合格して、幹部と言われる職員が社会に、地域に、何を貢献しているか?、、、、、、、若い世代はそれに気がついているのではありませんか?

それを「生活スタイルの変化」と推測するのは的がはずれていませんか。

社会へ出ても、役所に入っても、決められた答えのある試験が必要なこの特別の社会、、、、、この旧態然とした制度を改革し、本当にやる気と実力ある人が意欲を持って働き、その能力を認めていかないと、お役所仕事は改まっていかないのではないでしょうか。

「市民が本を盗まないように窓が開かない図書館」を推進する職員(うそのような話ですが、、、、、)、「15mもの大きなはぜの木や土手の大きな桜並木」をいとも簡単に伐採し、30年たったら同じような大木に育つと言い切る職員、企画書の「想像性」という言葉を「創造性」の間違いだと言い訳する職員(想像力のないものに創造性など生まれるはずはないと思いますが、、、、、)、「一部の市民に広場の樹木がうっとおしいと言われたら、すべての樹木を伐採してしまおう」と考える職員、「根回ししないで大切な樹木を5月に移植しようとする」職員(季節と準備を考えないで移植が成功するはずがありません)、、、、、、彼らも昇任試験は合格しているのかもしれませんね。

地域の何が大切な価値かを知り、どこに価値が眠っているかを知ろうとする、、、それを守り、発掘し、継承する、、、、その役割を魂に刻むことが、、、、行政マンのプロたる職能だと考えます。

(ポジティブシンキングしなくては、、、、、)

2008年7月20日

誇大広告と美化

今、キャンパスのあり方を考えています。 15年間、明治学院のキャンパスの再開発に携わり、次代の教育空間とは何かを考え、あり方を模索しているのです。もうそろそろ、戦後の復興期に開発された横並び式のキャンパスの次を考えなくてはなりません。(しかし、信じられないことですが、文科省の推奨プランは今でもそのようなものなのです、、、)

キャンパスを考えるには教育そのものを考える必要があり、高校生と高校教員の本当の関係、、、、それを新たにする必要があります。そのためには古い教員や制度も同時に改革する必要があるかもしれませんが、それが、内部から改革が起きない原因なのでしょう。

しかし、地域との連携の中で、地域の人たちが学校に入ってきます。高大連携が叫ばれ、新たな高等教育が始まります。常に改革を進めるための可変性を持った豊かな空間が必要になります。その可変性が実力ある教師を選別します。エコロジカルな社会に向けて、人と人、人と自然、人と社会の関係が社会生態系の中で混在してゆくはずです。

文科省の推奨する横並び式の制度とキャンパスは近いうちに、このような外部の力によって瓦解することでしょう。

そんなことを考えながら、学校教育を考えていたら、以下のようなサイトに出会いました。どこでも現状を肯定することで、瓦解を防いでいるようです。 教育も、まちづくりも同じですね。

「誇張や美化はやめましょう  (教育 / 2008-07-19 )」
http://blog.goo.ne.jp/madographos/e/7bd16681be1cbca2edaaf47f450c1df6

学校から発信する文書に,誇張や美化はありませんか?
学校の姿を,本当に見えている姿以上によく描いてはいませんか?
学校がこぞってホームページを開設し,色刷りのパンフレットを作成します。そこにも商業主義の波が押し寄せます。誇大広告になっていませんか?

ことばは,大切にしなければなりません。できるだけ,真実を包み隠さず伝えなければなりません。それがたとえ,学校にとって不利なことであったとしても。ただ,残念なことに,今の世の中では,誇張や美化のない誠実な学校に,生徒は集まらないのです。

2008年7月19日

PCDAからの脱却

PDCAサイクルは、第二次大戦後に、品質管理を構築したウォルター・シューハート(Walter A. Shewhart)、エドワーズ・デミング(W. Edwards Deming)らによって提唱された。PDCAサイクルという名称は、サイクルを構成する次の4段階の頭文字をつなげたものである。
Plan (計画):従来の実績や将来の予測などをもとにして業務計画を作成する。
Do  (実施・実行):計画に沿って業務を行う。
Check(点検・評価):業務の実施が計画に沿っているかどうかを確認する。
Act (処置・改善):実施が計画に沿っていない部分を調べて処置をする。
この4段階を順次行って1周したら、最後のActを次のPDCAサイクルにつなげ、螺旋を描くように一周ごとにサイクルを向上(スパイラルアップ、spiral up)させて、継続的な業務改善をしていく。

(『ウィキペディア(Wikipedia)』より)


コミュニティにかかわる運営や業務の形態を調べていて、コミュニティビジネスやコミュニティシンクタンクなどにおいても、このサイクルが援用されていることが多いことに気がつきました。


それは、とにかく、「DO」、何かを一方向的に進めることになりがちではないでしょうか。効率性や管理性においては、その方向でいいかもしれませんが、現代の多様で、複層的な事象を進めてゆくには、もっと、DOの部分を真剣に取り組む必要があるかもしれません。

「クリエイティブ資本論」では、社会をクリエイティブという視点からその趨勢を解明しています。


クリエイティビティとは統合する力。情報と知覚と素材を取捨選択して新たな価値を生み出す組み合わせを表すものであり、一人の天才の領分ではなく、普通の力、、、、つまり、気づくこと、聞くこと、言葉を理解すること、そして共通点を見出すことである、、、

それは、これまでの時代においても生産性や成長をもたらしてきたものであるが、技術革新や新しいビジネスの分野だけではなく、多元的、多面的なものであり、現代の時代においては創造の過程は個人的なものだけではなく、社会的なものであり、創造する組織が必要とされる説く。クリエイティビティを促す新しい構造が生まれつつあるというのです。

クリエイティブな思考は4つの段階、「準備」、「熟成」、「啓示」、「検証」、から生まれ、
「準備」では意識して課題に取り組み、正攻法で論理的に取り組む、、、「熟成」段階は意識下の精神と無意識がつくる方法によって問題について熟考、(つまり、想像力のことかな、)、、そして啓示段階でひらめき、新しい統合が見える段階となり、、、「検証」はその評価と修正となる。

ちょうど、それはデザインや創造行為と同じプロセス、しくみです。社会の多くの事業や活動においても、実際にはこのように神の啓示を待っているようです。技術も経済も、芸術も皆同じなのであり、さらに言えば、僕はまちづくりにおける集団的活動もPLAN-DO、そしてACTのような直線的方向ではなく、共有による創造性が大切だと考えてきました。それが啓示であり、共有する課題の発見につながります。

まちづくりという多数による集団による創造行為もまさにこのような熟成から啓示を待っている。PLAN-DOなど、ベルトコンベアに乗っかったような、それを検品するような、単純なサイクルでは、現代の複雑な社会や多数の市民や、新たな答えを求める活動にはむしろ、ブレーキとなるものではないかと感じます。

新たな創造、、それは難しいものではなく、「普通の力、、、、つまり、気づくこと、聞くこと、言葉を理解すること、そして共通点を見出すことである」ことのようです。

2008年7月18日

条例か機構か

条例などをいくら立法しても市民によるまちづくりは推進できないでしょう。まず、条例を制定することではなく、まず、市民中心の組織やしくみを考え、試行してみることです。法律は後からついてくるものではないでしょうか。首長も議員も法律をつくれば、いいと思っているようでなりません。そんな記事とブログに出会いました。法律をつくってから、しくみの検討なんてありえないだろうと、、、、、、どこでも行われていることなのでしょう。

「花巻市は、四月一日に施行したまちづくり基本条例に基づいて市民参画・協働推進委員会を設置した。委員十五人を決定し、十四日に初会合を開く。市民による市政への参画と協働のまちづくりに向けた環境づくりのほか、参画の方法や参画状況の評価など市民参画の具体的な仕組みについての検討がスタートする。 

同条例は、市政運営の基本ルールを定めたもので、市民が主体となって参画し行政や議会と協働してまちづくりを進める内容をルール化。同委員会の設置は十五条で規定されており、市民の市政への参画や協働が適正に推進されるよう活動する。メンバーは団体からの推薦者や学識経験者、公募委員の計十五人。 

条例には、市政への参画方法としてまちづくりにかかわる重要な計画の策定や条例の制定には、意向調査やパブリック・コメント(意見公募)、ワークショップ、意見交換会などを行って、市民の意見が反映されるよう配慮することを明記している。

委員会では、実施した市民からの意見吸い上げの方法が良かったかどうか評価するなどしながら、より良い市民参画の在り方を模索していく。初会合となる十四日は、市側が委員会の役割などについて説明するほか、今年度の市民参画と協働の推進方策について意見交換する。」
(岩手日日新聞社より:市民主体のまちづくり 委員15人を決定~花巻市 (07/07))

新聞社という公共の組織が本当に物事の本質をつかまえているのか、、、、、。記者のジャーナリストとしてのプロ意識はどこへ行ったのか。誰が真実を伝えるのか、、、、。
市民によるまじめな報告(ブログ)の方が真実を率直に明らかにしているように感じてならないのです。

こんなことは全国で行われているのだろう。どうしたら、本当の民主主義が生まれるのか、、、、、。市民受けを目指す市長と利権の代表で表面だけを理解する議員とルーティンワークをこなすだけの職員からは生まれないだろうな、、、、、、、、、、、、、。

この市民参画・協働推進委員会は3回だけ、開かれるようです。

市民のブログより⇒
花巻市役所本館303号室。午後2時~午後4時半。第一回「花巻市市民参画・協働推進委員会」の見学に行ってきました。委員の出席は、15名のうち、大学の勉強があるからとの理由で2名欠席の13名。傍聴人は6名。報道機関から2名。市からの出席は3名。

委員15名のうちわけ。市からの要請で、農協代表、商工会代表、福祉協議会代表、PTA代表、老人クラブ代表、婦人会代表、区長代表の7名と、学識経験者3名の10名。公募委員はわずか5名。そのうち2名が授業のために欠席なので、いわば本当の意味の市民代表は3名だけだった。

市長挨拶で、「この委員会は、まちづくり基本条例の実質的な推進のエンジンになる・・・自分達の町は自分達のもの、自分で作っていくまちづくりの意識を、多くの市民が持てば持つほど良くなっていく・・・そういう市民を育てるのが・・・批判だけのオンブズマンだとかの市民じゃなく、自分達で町を作っていく、行政と一緒になって作り上げていく。そういう市民を・・・・・」と。

Q:公募委員のMさん(前回の基本条例作成の委員長)  2人の委員は、学業のため欠席、と言いましたが学生さんですか?今回は仕方ないとしても、今後も出席できないのであれば、早めに他の応募して落選した人に変わってもらった方がいいのではないですか?

Q:公募委員のSさん 委員を募集してる記事を見て、応募したが。募集しているという事しか、情報がかかれていなくて、いつ頃、何回あるのか、(交通費とかの)手当ては出るのかそれとも無償のボランティアなのか、どういう内容を審議する委員会なのかが、探したがまったく情報がなかった。こういう情報の無い公募は、応募しようとすると負担が大きくてためらってしまうが、わざと情報公開しないでのは無いのか。市に近い、委員会の情報を持っている人以外を排除するために、情報公開しないでの公募は、一般市民を締め出す一種のフィルターがけじゃないのか、と思ってしまう。


この委員会の目的について、市の説明「花巻市市民参画・協働推進委員会」の目的第2条 委員会は、次に掲げる事項について、執行機関の諮問に応じ調査及び審議し、または執行機関に意見を述べるものとする。
(1)市政への参画方法の研究や改善に関する事項(ここが一番大切な部分です。の説明あり)
(2)市民参画と協働の推進に関する事項
(3)市民参画の評価に関する事項(この3つがこの委員会の協議の核心部分ですの説明あり)
(4)条例の見直しに関する事項第3条 委員の構成について(略)第4条 委員長・副委員長について(略)第5条 委員会は、委員長が招集する。第6条 庶務は地方振興部で処理する市の説明の中で、市政への参画方法の研究や改善、について審議すると最初に言いながら、審議する回数は年3回のみ。次回は10月、その次は2月の3回のみ。

そしてできれば今日、平成20年度市民参画手続き6案件、
「国土利用計画花巻市計画の策定」
「花巻市公共交通実施計画の策定」
「花巻市都市計画マスタープランの策定」
「花巻市高齢者保健福祉計画・第4期介護保険事業計画の策定」
「第2期花巻市生涯福祉計画の策定」
「岩手中部地域水道ビジョンの策定」
を審議(承認?)してもらいたい、と言うので、

M委員が質問。
Q1 年3回では(1)市政への参画方法の研究や改善に関する事項ができない
Q2 市民参画手続き6案件 は、1つ案件に1日かけて良いのではないのか。市民へのアンケートやパブリックコメントにどう言う意見が寄せられてるか、それらがどう反映されているか検証するには、1案件に1日かかると思うが。

A1 3回というのは目処で、増やすのは委員長の考えでいくらでもできますが。みなさん忙しそうなので、多くする事はできないと思います。
   Q:M委員 委員長の一存で増やせるそうですが、委員長どうでしょうか?
   A 委員長は、市の職員の席を見るが、返答はなし。
A2 市の回答なし。かわりに公募委員のHさんが、市民参画手続き6案件については、市がアンケートをとり、パブリックコメントを集め、各種委員会の有識者に意見を聞いてまとめたものを、もう一度審議するというのは、市に対して失礼じゃないのか、と意見を述べた。

市政への参画方法の研究や改善に関する話し合いと言いながら、実際は市民参画手続き6案件をドサクサ紛れに通してしまおう、というわかりやすいたくらみにはあきれる。

M委員:10点 市の推薦委員からの攻撃の孤立無援の中で、市側の隠された本音を引き出した活躍は、満点だろう
推薦委員7名:残念ながら3点 何より、基本条例も、参画条例も知らないで出てきたのが分かる。今回は顔合わせだけだろうと思ってきた人が多いみたいなので、分からなくても仕方の無いところもあるが、発言も無く質問も無いのは、いないのと同じ。メモをとってる人もほとんどいなかった。明らかに、来たくは無いが仕方なく時間つぶしに来た、としか見えなかった。 ただ、婦人会の代表は、女性の議員とこういう委員会に女性を増やすために来た、という積極さは見えたので4点。
学識経験者:4点 言動から、基本条例や参画条例について分かっている事は明らか。ただし、発言がほとんど無かったし質問も無かった。いくら頭がよく、知識が豊富でも発言が無いのはいないのと同じ。学識経験者を委員に入れるのは、豊富な知識と頭のよさで委員会を良い方向に誘導してもらいたい意図があるのに、リーダーシップもとれずただ座って時間つぶしをしていたので、4点。
委員長:4点 市の職員の顔色ばかり気にして、リーダーシップが取れなかった。H委員:6点 基本条例・参画条例について分かっていないで来たのは明らかだが。積極的な発言が多く会議を活性化させた、ので6点。
S委員:7点 今回の委員会で、積極的な発言をしたのは公募委員の3名だけだった。S委員は、基本条例・参画条例についてよく勉強していたし、会議を良い方向に導こうとしての発言が目に付いた。欠席学生2名:0点 言うまでもないが、勉強している他の公募した人たちが落とされ、意見を言う機会を奪われたのですから、欠席は自分だけの問題ではないのです。2回目の委員会で、委員の皆さんがどれほど勉強しなおして来るか、楽しみです。

2008年7月17日

市民研究員募集します。

「吹田市は平成20年6月、まちの個性や魅力を発揮するため、先進的で実現性の高い政策提言を行う「吹田市まちづくり創造政策研究所」を設立しました。市民を中心に学識経験者、市職員が「研究チーム」を結成し、市政を取り巻く課題の解決に一丸となって取り組みます。」

行政主導の市民参加型のまちづくり活動がまた、ひとつ生まれたようです。どのように運営されているのか、市民の立場と権限、自由はどのように与えられているのか、、、、興味がつきません。

その吹田市まちづくり創造政策研究所が市民研究員を募集しています。
市民研究員が5 つテーマからなる研究チームを構成し、運営されるようですが、それ以外の詳しい活動内容は公表されていません。

地方都市の場合は、市民を巻き込みながらも、しかし、制限を設けたり、管理性を強くし、一定の枠の中に押し込め、形だけは市民参加を謳うことが多い中で、大都市近郊の吹田市で、様々な思惑を持った市民をどのように惹き付けてゆくか、巻き込んでゆくか、どのように提言してゆくのか、注目したいと思います。

http://www.city.suita.osaka.jp/var/rev0/0001/1524/guide2008.pdf

2008年7月15日

ひつまぶし

名古屋の神宮前でひつまぶしを初めて食しました。名古屋のうなぎは関西系?と感じました。味の濃さは関東系?、、、ゼミの学生はマイたこ焼きプレートでパーティをします。となると、関西系ですね。

関西で育ち、学び、東京へ出てきたときに、多くの文化の違いに驚きました。西と東、常に2元的に語られてきましたが、関西にとっては2元論でも、東京から見れば多元論の一つであったのです。

今、愛知から社会を見るようになっています。その視点はいくつかの2元論が混在しているようにさえ感じられます。

名古屋では愛地球博以来、市民活動の活発な動きがそのままの勢いを保っているようにも見えます。この市民活動を統括してRCE、つまり、持続可能な開発における教育の拠点を名古屋に作ろうとして、ユネスコに認められたようです。しかし、その内実は、アカデミックと企業との先導の上に生まれ、上からの統制はうまく展開できないようです。

僕は京都のようなアカデミック中心でもない、東京のような企業の利益中心でもない、第3の方向性、すなわち、市民自ら、自らをつないでゆく、自立的組織を提案したのですが、、、、、。大きな力を必要と考え、先を急ぎたい人たちにはまったく見えなかったようです。

名古屋という都会でありながら、ちょっと田舎っぽい、それだからこそ、その特性をもっと強く表し、2元論からの脱却を図る必要があるのではないでしょうか。洗練された2元論ではなく、その泥臭い多元的発想が次代をつくるはずですが、、、、、。

次は名古屋のモーニングセット。と思っています。

2008年7月14日

まちづくり市民委員会

釧路市総合計画の策定等の基本的事項に関し、広く市民から意見を求めるため、釧路市まちづくり市民委員会が市長の要請のもとに開設されていたようです。

平成18年2月に、開会のための委員会が開催され、8月にはまとめの委員会が開かれ、要請者である市長に提言を行っています。また、委員会は公募を中心とした100人ほどの市民を中心に運営され、産業経済・都市基盤、市民生活・健康福祉、都市整備・生活環境、教育文化・生涯学習、市民交流・地域づくり、の5つの分野において、2月から7月にわたり月2回程度、7回の小委員会が開かれています。

100人の市民が集められ、短期間にどのような提言が行われたのか興味のわくところです。
コミュニティシンクタンクも、次第に輪が広まってゆくときには、どのように意見を集約し、どのように提言してゆくか、同じような問題を抱えてゆくことになるでしょう。

その運営は次のように説明されています。ここでも多数決が採用されています。民主主義といえば簡単に同意が得られるものかもしれませんが、、、また、未来を語ると言っても、今の社会の本質を見抜けないと、未来さえわからないものなのですが、、、、。果たして、成果はいかがなものなのでしょうか。

(1) 貴重な時間を大切に
 ・「市民100人委員会」は、委員皆さんの貴重な時間で成り立っていますので、会議に遅刻や欠席をする場合は、必ず事前連絡をお願いします。
 ・もしも、ひとりの委員が長話をはじめてしまうと、貴重な時間が直ぐに無くなってしまいますので、発言は要点をまとめて手短にお願いします。
 ・また、スムーズな会議進行のため、議題にそった発言をお願いします。
(2) 他人の夢も大切に、譲り合いの精神で
 ・「市民100人委員会」は、それぞれの委員が釧路市の将来に対する夢を語り、それを実現するための計画を作るものですので、相手の意見を良く聞くことはもちろん、相手の夢を否定したり、相手を問い詰めたりしてはいけません。
 ・また、議論が白熱したときも、常に冷静にお互いを尊重し、譲り合いの精神を忘れないようにお願いします。
(3) 将来につながる発言を
 ・「市民100人委員会」は、委員の自由な発言や発想を最大限尊重しますが、同時に発言の「言いっぱなし」をするのではなく、問題点の解決に向けた対策も検討できるような会議を心がけてください。
(4) 意見がまとまらないときは
 ・「市民100人委員会」は、たくさんの委員の集まりで、それぞれの委員の思いがあり、一つにまとめることは難しいと思いますので、委員会の意思決定は、多数決の原理を基本とします。
(5) 市民に開かれた会議に
 ・「市民100人委員会」は、市民みんなのものですので、会議は原則公開とします。
(6) 委員と行政はまちづくりのパートナー
 ・「市民100人委員会」は、委員と行政が対峙するするのではなく、お互いが「まちづくりのパートナー」という意識を持って会議を進めます。

2008年7月13日

生きている図書館

今、「生きている図書館 Living-Library」が話題です。http://living-library.org/readers-reports.html

元マフィア、移民、性転換者、、、、。市民が普段近づきにくいと感じている人たちを図書館に招き、話を聴きたい入館者に「本」として貸し出す。「生きている図書館」と名づけられた活動が欧州から世界各地へ広がっている。

偏見や人権と言った視点からの本物の教育活動かもしれませんが、実はあまり驚きませんでした。

それは、東近江市図書館長だった才津原哲弘さんが展開していた図書館は一人ひとりの利用者を見つめ、彼らに本の背後の世界、本当の世界を提供するために、様々な人たちを図書館に招き、講演や講座、展示会など、多様な生きた図書館の姿を作っていたからです。

日本には本物の図書館はほんの数パーセントと言われています。その他は本を並べてあるだけの施設になっています。生きた情報や世界として、それらを提供しようとする意識に欠けているのです。

「図書館の自由に関する宣言」には、
「図書館は、基本的人権のひとつとして知る自由をもつ国民に、資料と施設を提供することをもっとも重要な任務とする。この任務を果たすため、図書館は次のことを確認し実践する。
第1 図書館は資料収集の自由を有する
第2 図書館は資料提供の自由を有する
第3 図書館は利用者の秘密を守る
第4 図書館はすべての検閲に反対する
図書館の自由が侵されるとき、われわれは団結して、あくまで自由を守る。」と宣言されています。

どこにも書物とは書かれていません。つまらない既成概念によって、自ら枠を決めてしまっているのです。書物の本当の姿とは、紙の上のインクのしみ(文字のことですが)のことではなく、読まれることにより、浮かび上がるその背後の豊かな世界のことであると思います。

そして、予算が削られようと、職員が不安定で不合理な非常勤職員で占められようと、指定管理者制度が導入されることにより業務が丸投げされようと、、、、、すなわち、自由が侵害されようと、それと闘う館長はごくわずかです。そのごくわずかの本物の館長だけが本物の図書館をつくっているのだと言えます。

「生きている図書館」はコミュニティシンクタンクだと感じました。図書館の社会的役割はコミュニティシンクタンクが担ってゆくのでしょう。

2008年7月12日

社会の縮図

コミュニティシンクタンクの役割のひとつに市民活動を行う人々によって地域の課題を共有することがあげられます。そこには課題を解決する何かを求めて、多くの人たちが集まります。どれだけの課題が共有できるかがコミュニティシンクタンクの能力であり、また発信力となります。同時に推進力にもなるのです。

彼らは目の前の現象に真摯に取り組んでいます。しかし、それだけだは、自らの活動はスムーズに進んでいきません。彼らの多くは、地域の風土や歴史だけではなく、現実の社会の制度やしばりによって、その活動を制限されていることもわかってきます。彼らの背後には社会のしくみが見えてくるのです。そのしくみから課題を発信してゆく必要があると考えています。

ボランティアセンターで、ニーズとボランティアをつなぐコーディネーターの背後には、ボランティアの不足という表に現れる現象の陰に上部組織の意識の少なさが見えてきます。

市民と制度をつなぐもの、あるいは縛るもの、それは制度を定義する法律だけではなく、むしろ、それを運用する機構であると考えられます。ここにすべての人材と資金がフローしてゆきます。社会のありようを決めるもの、そのひとつが、様々な形で存在する中間支援的機構であり、大きな役割を担っています。

ある地方都市の福祉機構の現況と事業予算を取り上げてみます。職員の少なさと役員の多さに驚かされますが、、、また、事業予算にも驚かされます。この機構の5億3500万円もの事業計画20項目の内、1000万円以上の事業項目を予算の順に並べてゆくと、、、、、。

「岡崎市社会福祉協議会は、岡崎市福祉会館(岡崎市朝日町)及びぬかた会館(岡崎市樫山町)に事務所があり、職員47名、役員48名(平成19年5月31日現在)で構成されています。
(事務局)
会 長-事務局長-事務局次長-
・庶務係  庶務・経理等
・地域組織係  ボランティアの育成・啓発 等  手話通訳・要約筆記者派遣事業 等
・介護支援推進係 (地域福祉サービスセンター) (在宅介護支援センター)  在宅介護の相談・地域生活自立支援事業 等
・介護サービス係  ホームヘルパーの派遣、ケアプラン作成 等
・額田支所  額田地区内各種事業(相談、訪問等)  ふれあいデイサービス事業 等」

19年度事業予算項目です。(上から順に1000万円以上を列記)
1 法人運営 148,561,000
2 介護保険サービス事業 133,616,000
3 地域福祉サービスセンター事業 58,560,000
4 共同募金配分金 48,420,000
5 障がい福祉サービス事業 28,487,000
6 老人介護支援センター事業 22,942,000
7 ボランティア事業 22,147,000
8 退職金積立事業 20,888,000
9 福祉サービス利用援助事業 10,907,000