2008年6月17日

情報力

「市民シンクタンクのすすめ」の著者、高原氏は市民力とは市民の調査力であり、情報力であると書いています。

情報をどのように収集し、編集し、発信するか。情報を区切り、経路を限定することにより、市民を誘導したり、情報を隠してしまうこともできます。
一部の市民やファシリテーターにのみ情報を開示し、まちづくりを検討させておいたために、プロムナードができたら、既存の樹木も見事に伐採されてしまい、木も何もないさびしい空間ができてしまい、通りがかった市民がびっくり、ということもたびたびありますね。
しかし、そのような小さな出来事も市民の目は的確にとらえています。毎日、まちを見ている市民の目があるのです。
1.抱える問題・課題の解決にヒントとなる情報
2.潜在する問題をあぶりだて可視化し、気づきを促す情報
3.複雑に絡み合う事柄を解きほぐして対話への意欲や相互理解を促す情報
4.特定の問題にかかわる人々の「本心」
「市民シンクタンクのすすめ」では、情報の重要な内容はこの4つの視点であると書かれています。しかし、こうした視点は外部の組織による鳥瞰的調査ではとても浮かび上がらないものであり、市民自らが情報を集積することの成果であり、市民の大きな役割となってゆくでしょう。
そして、情報に組み込むべき、7つの枠組み-<時期の設定>(WHEN)、<実践主体の設定>(WHO)、<中心となるフィールド>(WHERE)、<目的や目標>(WHAT)、<実践に到った理由や背景>(WHY)、<実践の主たる対象>(WHICH)、<実践のプログラムや体制>(HOW)が語られています。それらは情報を実現するための枠組みです。
市民力による情報に、7つの枠組みを組み込むことで、情報がダイナミズム(推進力と方向性)を持ち、具体的な政策としてリアルになってゆくのではないかと期待します。市民力によって、実現化と実践力を構築する道が見えてきたように思います。
地域の自治力や市民の行政力が情報力によって生み出されてくる、市民はその入り口に立っているのですね。

2008年6月14日

コンパクトシティ

コンパクトシティと言うとすべてが許されるようになってきました。

ウィキペディア(Wikipedia)によれば、「都市郊外化・スプロール化を抑制し、市街地のスケールを小さく保ち、歩いてゆける範囲を生活圏と捉え、コミュニティの再生や住みやすいまちづくりを目指そうとするのがコンパクトシティの発想である。再開発や再生などの事業を通し、ヒューマンスケールな職住近接型まちづくりを目指すものである。」と説明されています。

雪国青森市では成功しているとも言われています。しかし、声を発する中央官庁とそれに無思慮に従う地方都市があって、人口3万人の村にも、10万人の町にも、40万人の都市にも同じように、中心市街地再活性化構想がうごめいています。

小さな独立したひとつの生活圏が自立し、まちを自ら運営してゆくことが重要なはずです。人口の拡大によって拡散した施設群をまた、旧市街地に戻すことしか考えが及ばなくて、まちの孤立化を助長することになるだけです。中心地までの交通や施設のネットワークも破壊し、旧商店街の人間的なスケールまでも壊滅に追いやってゆきます。

中心市街地の活性化はその周辺の町の豊かさによって保障されるのです。その周辺住民のことを考えずに中心だけを考えてもまちは豊かにはなりません。人も戻ってはきません。

郊外のショッピングセンターは中心市街地の古ぼけた商店街の数百倍の売り上げがあるとも言われていますが、そのショッピングセンターさえ生き残りに大変です。商店主が高齢化しようとも住民のニーズを的確に捉え、新たなマーケットを開拓していかない限り、まちは活性化しないでしょう。

国がゆとりといえば、郊外に施設を展開し、国がコンパクトといえば、それを中心地に戻す。その繰り返しを行っている限り、地方都市の未来はないと感じます。国の施策に従う地方都市、地方都市の政策に巻き込まれ、利用され、NPO団体まで結成させられる中心市街地の商店主たち。この膠着した図式からはとても自由な商業による生きた町など生まれないでしょう。

2008年6月12日

シェアードハウス

日本でも、コレクティブハウジングやコモンハウスが広がってきました。北欧ではすでに20世紀の中期から始まっていた新たな協働社会が日本でも見えてきように思います。
http://www.chc.or.jp/collective/img/20080501bp.pdf

そして、その社会のもっと先には、多様な協働が見えてきます。

友人である建築家北野氏は障害者と健常者が互いに助け合って生活するためのシェアードハウスに取り組んでいて、そこには社会全般に広がるべく本質的な、普遍的な社会が見えてきます。

障害者と健常者の協働から、福祉、高齢化、少子化、ジェンダーなどの現代の問題に向けて、個人の問題から社会で議論すべき、解決すべき多くの問題へとつながります。そこには多様な立場と価値観を大きく変換させて、ともに住まう、生きる本当の地域社会が生まれてくるはずです。

シェアードハウスからシェアードコミュニティへ。

2008年6月11日

ワークショップ難民

地方都市におけるワークショップは危機に瀕しているようです。まるで、羊飼い(ファシリテーター)が柵のなかで羊を遊ばせておくだけのように見えるのです。羊たちは機嫌よさそうに戯れていますが、声を上げると柵の外に追い出されてしまいます。

本来ワークショップとは羊の戯れにあわせて、柵を形づくるものです。また、羊の活動が活発であれば、柵など不要となってしまうかもしれません。羊の本当の姿を知り、その環境はどのようなものがいいのか、その方向を発見することが重要なのですね。

ワークショップの本質とは枠組みを緩めて、身体を使って、求めるものを体現しながら、答えを見つけようとするものです。どこへ行くか分からないけれども、本当の行く先を捜し求めようとするものです。


ワークショップはどこでも、だれでも今や数多くの機会に行われるようになりました。ワークショップはバブルの様相を呈しています。

今、迷いのない、忠実な羊飼いと、従順な羊が地方都市の中で囲い込まれています。

2008年6月10日

インスピレーションをつくる組織

組織や集団によって、何かを成し遂げる、創造行為を行うことについて考えています。

デザインやアイデアが、あるとき突然どっと生まれてくるように、組織や集団によって、ひらめきやインスピレーションのような、イノベーションを引き起こすことはできないか、そのプロセスや合意形成はどのようなものだろうと考えています。

まちづくりにおいて、多くの人の声がどのようなかたちになってゆくのか。その手段の一つとして、市民によるギャザリングを始めました。ギャザリングとは車座のようなものです。

ギャザリングとは、もちろん聴くことも大切ですが、自ら語ることで見えてくるものがあると考えています。仕事でアイデアに行き詰った時、何気なく人に語った時、それまでの疑問やつまらないこだわりが消えていったり、次のアイデアが生まれてきたりします。

声を発することで、ある意味、客観的に自分自身を見ることができるようになるのでしょう。

アイデアやインスピレーションが、いろんな試行錯誤が飽和した時、でも少し視点を変えることで、新しい何かを生み出すことができます。

また、問題を解決するためには、右か左か、盾か矛か、裏か表かというような二者択一の単純な解決方法ではなく、どちらでもない、しかも、どちらの考えとも共有し、解決できる別の第3の方向が必要となるのです。

それを生み出すのが、そこに問題を共有して集まる多くの人たちであり、彼らの持つ多くの切り口(分野や価値観、立場、情熱)が集まって、飽和して、ある新たな方向が生まれるのだと考えています。

アイデアやインスピレーションがある時、偶然生まれてくるときがあると思います。でも、本当は偶然ではなく、考えた挙句に、出尽くした後に、ちょっと視点を変えた時に新しいアイデアが生まれてくるのだと思っています。ギャザリングとは、集団でそういう創造を作る場です。

答えのないものに挑戦しているのです。だから、新しい答えを見つけるために手探りで進んでいます。

さらにギャザリングの機能につながりをつくることがあげられます。地域で活動する人たちは分野は違えどもどこかでつながっています。また、地域は遠く離れていても考え方においてつながっている場合もあります。

実はギャザリングを行って、図書館と子育てと少子化、ジェンダー、高齢化問題、そして障害を持つ人の福祉も、実は同じ根を持っているのだと思ってきました。あつまり、つながることによって、一人で取り組むより遥かにすばらしい成果が期待できるのです。また、地域で活動している人たちはそれぞれ多くの人とつながっていて、多くの人の疑問や問題を持っています。多くの市民の声を集めるというのは市民の全体集会を開くことではなく、こうしたつながり、人と人のネットワークのなかから、市民一人ひとりの声を集めることなのではないかと思っています。

コミュニティシンクタンクとはこのように課題を共有し、つながりを広げてゆくことで、次の何かを生みだす組織であると考えています。

2008年5月25日

組織による創造力


創造力とは魅力的に聞こえる言葉です。その言葉によって、自分がかかわる業務が魅力的であると思えてしまったり、魅力的な成果を生み出すのだと、勘違いし、企画書や提案書のいたるところにその言葉をばら撒きがちです。

しかし、創造力とは、個人の能力であるように考えられてきましたが、今組織にこそ、創造力が求められているようです。

組織の創造力を高めるためこと、つまりコーポレート・クリエイティビティとは特定のクリエイティビティを持っていると予測できる人材にだけを期待するのではなく、誰にでも持っている資質としてそれを受け入れる可能性が必要であると言われています。それは一部の特別な業務にだけ現れるのではなく、日常の定型業務にも、標準化された業務にも現れる、、、、。だから、クリエイティビティ、創造力ある行為は固定観念を持って、その機会を狭めることがあってはならないと、「企業創造力」には書かれています。

ここには、クリエイティビティを生みだす(というよりそれを阻害しない、というほうが適切かもしれません)6つの条件が記されています。
1.意識のベクトルを合わせること
2.自発的な行動を促すこと
3.非公式な活動を認めること
4.意外な発見(セレンディピティという造語で表現されています)を誘発すること
5.多様な刺激を生みだすこと(拡散的思考)
6.社内コミュニケーションを活性化すること

特に日本企業においては多様な刺激を生みだす、拡散的思考という視点に取り組むべきとも書かれています。

「拡散的思考」により生みだされるもの、それは「いくつもの答えを導きだす力」を持った組織ではないでしょうか。それはこれまで、ブレインストーミング、ワークショップ、、、、、など、様々な手法によって試行され、どこにもない答えが求められてきました。果たして、それらはどこまで多様性を持ち続けることができたでしょうか

これからは、いくつもの答えを共存させ、絶えず新たな答えを生みだし続けることが必要で、そのような包容力と多様性を持った組織こそが、創造性を持った次なる可能性を見出すことができるように感じています。

そして、それは一人の英雄でも天才でもなく、個人の集合から始まる「いくつもの答えを導きだす力」を持った組織こそが生みだすことができるのではないかと考えています。

2008年5月23日

冷蔵庫から

先日、明治学院大学の図書館でお目にかかった、写真家潮田登久子さんが作品集を送って下さいました。
10年間かけて、冷蔵庫を撮り続けたもので、フラットな画面から、その奥行きが感じられてきます。しかも、小さなディテールまで生々しく描かれています。彼女の作品はモノに迫るところから社会を現しだそうとするものではないかと感じられます。
明治学院大学の図書館での、書籍に迫り、全体像と細かなディテールを同時に描き出している写真からもそれはうかがわれました。
ファインダーという自由の窓から、写真家はモノの、社会の本質を描いてゆくのです。
潮田さんの写真を見ていて、対象を正方形に切り取っていることにも惹かれました。長年、レンズは円形なのに写真は何故円形ではないのだろう、また何故正方形ではないのだろうと不思議に思っていたので、とても新鮮でした。実はデジカメを使うようになって、僕のセカンドカメラであるリコーGX100は正方形の写真をとることができるのです、、。
一見不自由と思っていたファインダーという媒体ですが、そこから社会の本質が覗けるのですね。こうした媒体こそが社会を見る目を与えてくれるのかもしれません。

2008年5月18日

アップルとグーグル


PCとは、番頭さんのようなものであると考えていましたし、実際、僕の使う設計CADはマイクロGDSといってWIN上でしか動きませんので僕はWIN派でした。しかし、先日、店頭に並べられているマックを見て、かっこよさ、動きのよさ、MACとWINの共存できることなどを考え、マック派へ転向する気になってしまいました。

すでにインターネットでは検索もメールも専らグーグルを使っています。Gmailではメールをやりとりしていると、大学からのメールの横にはeラーニングなど関連するスポンサーの広告が、PCのことが書いてあるメールの横にはリナックスやサーバーのスポンサーの広告が表示されています。そのきめ細かさは脅威と感じていたので、この「アップルとグーグル」にはすぐにひきつけられました。

マーケティング戦略において、差別化が重要であると言われるなかで、アップルとグーグルは相対指向ではなく絶対指向を目指してきたと述べられています。

「本当にいい決断をするためには今の時点の常識に捉われず、本来どうあるべきかを根本から考える必要がある。アップルやグーグルは、そうした発想で、モノをつくる。」

アップルも創業者であるスティーブ・ジョブ不在でWINとのシェア争いをしていた1990年代は落ち込んでいたが、彼らは些細な違いや優越性ではなく、根本的な発想の違いによる本質を追究することで、ライバルを圧倒しているようです。日本ではいつからか、差別性ばかりを問題にし、西洋のあとを追いかけるようになってしまいました。

しかし、彼らのほうが日本的かもしれません。徹底的にこだわりを持って働き(もちろん誰もネクタイなど締めていませんが)、職場環境の質を保ち、株価が上がろうが下がろうか、株主よりも社員を大切にし、他社の性能やサービスにも心を動かされず、、、競合企業や株式市場にも振り回されない独自の姿勢を貫いています。

かつてのウォークマンを生み出したソニーや様々なマガジンを生み出したリクルートのような日本の斬新さはどこへ行ってしまったのでしょうか。

2008年5月17日

ギャザリングスタート

コミュニティシンクタンク「moco」のギャザリングがスタートしました。(内容はhttp://www.mocomoco.ws 見てください。)

ギャザリングとは市民を誘導するワークショップやコーディネートを改革すべく、新たな方向を目指したものです。

語ることで、自ら、見えてくるものがある。
聴くことで、教えられるものがある。
語り合うことで、現場の真実が見えてくる。。。と考えます。

それは、それ自身カウンセリングのようでもあり、また、それは創造の原点でもあるのだと思っています。

そうしてその場に生み出された、多くの人の思いや課題をつなぎ、共有点を見いだしてゆきます。
それは対立の場ではなく、共有の場を生みだします。

そこには多くの人の多面的な価値観が広がって、二者択一でも、多数決でもない、第3の方向を示してくれるように感じています。それは表裏を決めるのでもなく、多面体がころがるように、自由に価値を見つけてゆくことになります。

共有のなかにこそ、新しい道を見つけ出すアイデアや価値観が潜んでいるのです。たくさんの新たな道を素早く、見つけ出せることがコミュニティシンクタンクの力であると考えています。

2008年5月13日

さいたま中央図書館

図書館建築研究会の例会でさいたま中央図書館を視察しました。

JR浦和駅前、パルコの上階部分の「COMUNALE(コムナーレ)」と呼ばれる公共施設の一画にあります。

10階が講演会・コンサート・各種発表会ができる浦和コミュニティセンター、9階が国際交流センター・消費生活センター・市民活動サポートセンターが入っており、さいたま中央図書館は8階に入っています。その下階には映画館も入っています。

1フロアが約5000㎡とかなり広くなっており、空間的には若干まとまりを欠いたものとなっていました。また、先駆的に、自動書庫や自動返却仕分けシステムが導入されています。

しかし、小笠原館長から詳しく内容をお聞きすることができましたが、さいたま市の図書館行政の豊かさが実感できました。さいたま市にはこの中央図書館の他、地域図書館が23館あり、自動図書館、学校図書館と連携した図書館、書庫機能を受け持つ図書館など、、駅前の中央図書館をはじめ、それぞれが特性を持ち、相互に補完しあいながら、全体の運営が行われているようです。

図書館とはこうしたネットワークを持つものであると実感できました。また、運営も正規職員を中心に断片的に外注できる業務を外部委託しているようです。指定管理者制度などまったく話題にもなりませんでした。

自動機械化による膨大な投資を行うよりは、司書という人材を育てるべきではないかと感じましたが、
しかし、今後、COMUNALE(コムナーレ)内での共同企画や下階の映画館との連携などが図られてゆくようで大きな期待感を持つことができました。さいたま市は近年合併してできた新しい市です。そのネットワークづくりが図書館のネットワーク化、多角化を通じてすでに始められたようです。

2008年5月10日

マリオ・ジャコメッリ

マリオ・ジャコメッリは日本ではあまり知られていませんが、イタリア中部の小さな街に生まれ、多くをその地で活動した20世紀後半を代表する写真家と言われています。

先日まで東京都写真美術館で展覧会が行われていました。
これは修道院の司祭たちが戯れる日常のひとときをとらえた「若き司祭たち」シリーズ(1961-1963)という代表作品の中の一枚です。展覧会のポスターにもなっている写真でポスター作成のために背景を白く抜いて編集したのではないかと思ってしまいました。

が、そうではありません。雪の上で戯れる司祭たちの姿を的確にとらえたものです。

白い部分は写真の撮影技術でより白く浮かばせているのかもしれません。しかし、対象物に迫るその姿勢は土門拳と同じようでもあり、またまったく異なるようでもあり、しかしながら、同じ姿勢を持っているのではないかと感じました。社会を見る目が備わっているのですね。こうした、誰も持っていない目、視線はとても大切なものです。皆が写真家のようにカメラを構え、社会に向けて、こだわりと驚きをもってファインダーを向ければ、社会は必ずや変わってゆくはずです。

2008年5月4日

呼吸するお寺

今、お寺が元気のようです。もともと、かけがえのない資産である境内やひとのつながりに恵まれているので、あとはそれらを活用できるかどうかにかかっていました。

「呼吸するお寺」は大阪の上町台地、天王寺区下寺町にある應典院のキャッチフレーズです。
そのホームページhttp://www.outenin.com/index.htmlを見ると次のように説明されています。


浄土宗大蓮寺應典院塔頭

大蓮寺三世誓誉在慶の隠棲所として1614年に創建された大蓮寺の塔頭寺院です。1997年に再建される際、一般的な仏事ではなく、かつてお寺が持っていた地域の教育文化の振興に関する活動に特化した寺院として計画され、〈気づき、学び、遊び〉をコンセプトとした地域ネットワーク型寺院として生まれ変わりました。音響・照明施設を備えた円形型ホール仕様の本堂をはじめ、セミナールームや展示空間を備えており、演劇活動や講演会など様々活動に用いられています。一般に開放された玄関ホールには芝居や講演会のチラシが置かれ、文化情報の発信および人々の交流の場として機能しています。また、應典院寺町倶楽部の拠点施設として、コモンズフェスタや寺子屋トークの舞台となっています。


宗教、つまり葬送を行い、先祖を供養するという古い宗教的組織ではなく、今を生きる寺子屋の精神を持った、むしろそれ以上の人の集まる場所をプロデュースしようとする使命が見えてきます。
ホームページに記されたトピックスの数々にその見事な息使いが現れています。お寺はコンビニよりも数が多いと言われています。コンビニやお寺が町を席巻する日も近いのではないでしょうか。

2008年5月3日

ギャザリング

岡崎市東部地域で図書館活動を中心に活躍している木戸氏のつながりからミーティングを持ちました。西は岡崎市の西端の島坂町から、東は近年市に編入された額田町まで含めて、常に意識のある活動を行っている人たち10人が集まり、食事をとりながら自分たちの活動の紹介を行うだけで予定の時間が迫ってしまいました。

助成金や行政の対応(あるいは非対応)に一喜一憂しない、自由奔放なMrs鈴沖氏、学校などでの読み聞かせ活動を始め、司書の資格をとった石原氏、行政の長と職員との間に立って改革を実行するMr鈴沖氏、、、それぞれの活動を支援する特別の講師ではないですが、その人柄や姿勢に「大きく共感と勇気を覚えることができました。

それらは自分の活動を行う上でうまくいかない人たちを直接、ある方向へ向かわせるものではないかもしれないけれど、しかし、しっかりとした考えを改めて考えさせられ、陰ながらしかるべき方向へ向かわせる力を持ったミーティングでした。

最初からどのような結果がえられるかも、目指すべき方向も持っていなかったけれども、しかし、互いに語り合うことによって、しかるべき方向へ、しかるべきところへ、向かわせるギャザリングの姿を垣間見るようなミーティングでした。

2008年5月2日

政策とは

政策とは何か。しばしば、政策が語られるが、それは何を示すのであろう。

それは夢や言葉だけのものではないはずです。思いや理念を表現するだけではなく、具現化するためのものであるはずです。

それは立法、法律のことなのでしょうか。絶えず理念を掲げ、実現のための方策、現在の日本では、それは法律となるのであろうか、、、。

地方においては、政策を語るそうした行政や議会(それが立法府となるのかどうか。)と市民とはとても近い立場にあって、直結しているのではないでしょうか。だから、市民の意識高まることに意義のある場合が多いのではないかと感じられます。論理的な方策でも具体的なシステムでもなく、市民の意識、雰囲気が重要になるのではないでしょうか。

しかし、地方では政策の主体がはっきりしません。しないと感じられます。知事と市民との間のもやもやした、あいまいな、中間的存在。地方議員や議会の役割、、、それは地方の旧来性を最も背負った部分かもしれません。

2008年5月1日

大学図書館の試み

専門図書館としての特性が大きく、また利用者が特定多数(主に学生)に限られることから、大学図書館の運営は比較的落ち着いたものと考えていました。しかし、僕が設計にかかわった明治学院大学図書館の松岡氏、宮城氏と話をする機会があり、大学図書館の印象が一気に変わりました。


明治学院大学図書館は1990年に大枠の設計を終えているので、ほぼ20年前の仕様なのです。そのため、今後の課題にどう対処するか、相談を受けて、現状の問題を話し合いました。


松岡氏は20年前、大学本館の設計時に大学の諸部門を隅々までまわり、それぞれの関係性を新たに構築した方であり、また宮城氏は学長室から広報、図書館と多くの企画にかかわってこられ、楽しく交流させていただいた方です。二人とも、もともと図書館の専門職ではありません。しかし、そのため、発想が新しいのです。

彼らは図書館に人を集めたいと言います。才津原さんと同じ発想です。

当日も「写真集・冷蔵庫」で有名な写真家の潮田登久子氏が書物を「もの」として撮影していました。また、東京都写真美術館に展示資料を提供したことがきっかけで、自らもそうした展示イベントを開催する企画を持っています。

僕たちが高層の建築の中の6層分を占有する図書館を設計するときに、利用者の活動の大きな手がかり、シンボルになるようにデザインしたエントランスホールの吹き抜けに、潮田氏の作品が展示されています。


また、明治学院卒業生の著書の紹介など、企画が目に見える形で展開されています。活動する職員のセンスや姿さえそこには見えてきます。


20年前の設計思想でつくられた図書館です。「書斎」をつくろうという色あせない本質的な部分もありますが、閉じ込めるだけの「グループ閲覧室」、ノートPCなどなかった時代の個人専用の「AVコーナー」、 利用者を区切る「大きくりっぱなカウンター」など、変わるべきものも数々あります。
大学図書館も変わりだしたようです。

2008年4月22日

コミュニティシンクタンク「moco」誕生

6人の同人と準備を進め、4月からその活動を正式スタートさせたコミュニティシンタンクが次第に姿を現してきました。

コミュニティシンクタンク「moco」と組織の名称を決定し、5月から月2回、第2および第4金曜日夜にギャザリングと名づけた定例会を行います。また、6月22日には「岡崎の再生とは」をテーマに岡崎市竜美丘会館でシンポジウムを開催します。ぜひ、ご参加ください。

「moco=もこ」とは、三河地方の古い方言で「水が地下水道を通って出てくる所」を意味します。地層の豊かな水が溢れでてくるように市民やその豊かな活動と交流してゆきたいと考えます。

また、「moco」はMothership of Community /地域の母体機能を担う拠点として、市民のネットワークを築き、市民と市民、市民と行政や社会との間に立って連携し、協働する中間性触媒組織として活動します。

「moco」とはコミュニティシンクタンクです。その設立の理念は次のように考えています。

「岡崎市では多くの市民活動が活発に行われ、豊かな町であると実感しています。しかし、その多くは具体的な成果が見えなかったり、まちづくりに生かされていなかったり、また、活動そのものが困難な状況に追い込まれています。それは市民にとってはもちろん、行政や企業にとっても不幸なことと言えます。

私たちはこの豊かな市民活動を行政や社会に直結した有意義なものとし、その豊かな活動や柔らかな発想を大切にし、多様で人間的なまちづくりを実現したいと考え、私たち市民が自ら立ち上がり、市民と行政や社会とを真に、有機的につなぐコミュニティシンクタンク「moco」を設立しました。

私たち「moco」は市民や市民活動団体と交流し、支援し、その活動を推進させる触媒的組織、コミュニティシンクタンクです。これまでのような最大公約数としての市民でもなく、地方という画一的視点でまちを俯瞰するのでもなく、一人ひとりの市民の視点から地域の多様な課題を探求し、市民自らその解決する方向性を発見できるよう協働します。

私たちは「岡崎からコミュニティを考える市民グループ」です。社会の課題を地域から発信します。」

2008年4月8日

琵琶湖の小さな島の小学校

「琵琶湖・沖島の滋賀県近江八幡市立沖島小学校に新学期から、開校以来初めて、6年生1人が同市内から転校し、船で通学を始める。同市教委が、児童数が激減した同小に、新年度から通学区域を緩和して転校を認めることにした。船通学の転入生により、8日に始業する同小は、久しぶりに児童数が2ケタを回復した。」(asahicom)


古い環濠の残る豊かな町である滋賀県近江八幡市は宣教師であり建築家であったヴォーリズによる近代建築もまた数多く残されています。また、周辺の豊郷町には近年その保存が期待され大きく取り上げられたヴォーリズ設計の小学校が残されています。


沖島小学校は写真に現れているように木造のすばらしい、堂々とした建築です。松本市の開智学校のような先進的な雰囲気も感じられます。沖島は琵琶湖に浮かぶ小さな島のようですが、こんなところにも当時の教育に対するまちの意欲や先進性が窺われます。

近江地域は古い街並みが残り、また図書館行政もとても豊かで先進的な地域です。ヴォーリズのようなすばらしい宣教師のもたらした新しい文化を受け入れ、またその次に現れる新たな価値に目を開く力を持っていたのではないかと感じられます。社会や地域が豊かであるためには価値を共存させる力、絶えず新たな価値を掘り起こしながら古いものと新たなものを共存させる、想像力と先見性が不可欠です。

先進性とはすべてを解体して、新たな開発することではないのですね。

2008年4月7日

市民によるコミュニティバス

「多くの学校で新学期が始まった7日、東京都東村山市の学校と駅を結ぶ新しいバス路線ができた。地元の酒店の一人息子、山本宏昭さん(44)が9年前、「夢だけで作った」という小さなバス会社「銀河鉄道」の初の独自路線だ。大手会社も苦戦している路線バス事業。それでも自分で思い描いた道の上を走りたいと、自らもハンドルを握る。地域を元気にするという大きな夢も乗せて、発車オーライ。」(asahi com)



多くのまちでコミュニティバスという名のバスが運行され始めていますが、その多くは行政が運行会社に補助金を与えて運行させたり、委託したりすることによるもので大きな違いが明確にはなっていないように感じられます。また、一般の路線バスでも経営が難しいなか、コミュニティバスの企画はどのような方向へ向かうのでしょうか。



この場合のコミュニティとは「地域限定の」、「地域独自の」というような意味を持ったものかもしれません。しかし、既存の路線と競合する部分を避けたり、市役所を発着点にこだわることなどによって本当に必要な部分にバスを走らせることができない事例も多いのではないでしょうか。名前や形だけのコミュニティバスであり、目的は市民の利便性や地域の活性化などを真剣に考えたものとは別のところにあるような気がします。


本来の地域のなかを小さなバスが縫って走るというきめ細かなケースはどれだけあるのでしょうか。



金沢市では観光のための金沢駅と中心地とをつなぐループ状の路線に加えて、地域のための「ふらっとバス」なるコミュニティバスが配備されています。



それは中心地の周辺に3つの環状ルートを持つものであり、それぞれが相互につながりながら、既存の路線とも融合しているように感じられます。病院や美術館、公共施設や市場をつなぎ、さらに地域の商店街の中にまで入ってゆくようです。



また、金沢市では、これらの計画を更に一歩踏み込んだ形で車に依存しない新たな社会システムの試み:パークアンドライドシステムが実践されています。

それは、郊外の自宅から車でコミュニティバス路線までアクセスし、市中心部周辺の所業施設などの駐車場(Kパーク)に駐車し、そこから割安のバス定期によってコミュニティバスを利用できるシステムで、市中心部の交通システムと通勤システムを根本から考えようとする意欲と真摯な姿勢が見えてきます。

そこには規制のバス路線との妥協のなかから生まれるものではなく、そのような既成のシステムなどつくり変えてしまうような新たな交通システムが社会に要求されているのだと感じます。それが真に利便性を与え、経営が困難と言われるバス経営をも再生し、まちに活気をもたらすものとなるのではないでしょうか。

2008年4月4日

地方議会の役割

矢祭町では議員の報酬が議会開催期間だけ支払われるようです。では、議員の役割とは議会に出席している時だけのものなのでしょうか。そうであるならばその役割とは、政治とは大きく隔たりのあるものであるように感じてなりません。

政治とは社会のしくみを考え、つくりあげることです。それは法律の文面、と社会の意識を作り上げることによって成し遂げられるものではないでしょうか。

地方議員の議会での役割とは何でしょうか。質問権や議決権行使、動議の提出など、首長や行政のチェック機関としての機能しか見えてこないようにも感じられます。

また、議員の活動を見ていると、中心地域再活性化などについては、地域の状況や歴史に関わらず、政府が一律に声高に唱えることが地方にとって大きな問題となっているのに、批評なく中央政府の宣言をそのまま掲げている人も見かけられます。現実が見えていません。

また、地域の人のネットワークづくりに腐心し、地域の現実に目を向けている人も多いです。しかし、その声をマスタープランとして、政策としてどのように具現化しようとしているのか。構想力、戦略がいまいち見えてきません。

矢祭町議会の現実は地方自治にはチェック機関としての議会のみを必要とし、立法政治を行なうための議員は不要なのではないかと感じざるを得ません。

地域の自治とは、案外創造性を欠如したものかもしれません。

2008年4月3日

CTTの組織化

準備に約1年かかりましたが、4月より、コミュニティシンクタンクCTTが正式に活動を始めました。6人の市民有志が同士となって、つまり同じ目的と情熱を持ち、独立性と自由性を有した個人の集団として進めて行こうと考えています。

市民活動団体の中心に位置すべく、まず、5月よりギャザリングを開催することによって、それぞれの問題点や成功体験を共有することを試みます。何かを指示するわけでも、支援するわけでもなく、それぞれが、自ら自覚することによって、その方向性を探求し、発見してゆくものです。
このギャザリングという集会(月例会)がCTTの基盤をなすものとなります。その広報を始めたのです。


ただ、名称と具体的な組織化が目下の検討事項ですが、、、

その組織化の方向が最重要課題です。僕たちは自らソーシャルベンチャーたる立場を確立しようと考えているのですが、またベンチャーたりえない限り、CTTなど運営できないと考えていますが、NPO法人化を想定すればするほど、組織が見えなくなってしまいます。


僕たちは6人の個人が自立して連携し、協働する集まりです。それはNPO法人の理事でも、事務局でもありません。それを同人と呼び続けています。NPO法人が適当なのか、LLPやLLCが適当なのか、その組織のかたちは確定できていませんが、同人の自由な集まりをかたちにした組織化を模索中です。

しかし、こうして活動の理念をかたちにするべく考えていると、世のNPO法人は組織化がうまくいっているのやらと心配になってきます。果たして、NPO法人とは形骸化した理事の集まりなのか、あるいは理事に仕える、理念や倫理を捨てた事務局員の集まりなのか、、、、、。

もちろん、どちらにも流れないようにしなければなりません。

2008年3月27日

答えを求めるということ

何かを成し遂げるには一般的にまず、前提条件を先に決めねばなりません。その条件から導き出される答えを探求することになるのです。多くの場合、その条件は調査や研究によりきめ細かく、論理づけられています。


しかし、実際には答えを求めながら、前提となる条件を捜し求めているように思います。条件とは決まったものではありません。条件もまた多様にあり、そのなかから、どこに価値を見出すのか、どれが最適なのか、、むしろ、答えを求めるよりも、条件を求めています。

こうして、複数の答えと、また複数の条件が出揃ったとき、そして、それらに対する既成概念が解かれたとき、新たな組み合わせが生まれてきます。それがひらめきと言うのかもしれませんし、創造と呼ぶものかもしれません。

条件が動かないまま、議論しても、努力しても、解答を探しても見つからないでしょう。常に答えと条件とをいくつも用意しながら、進める必要があるのです。

内井昭蔵事務所での建築デザインはいつもそのようなものでしたし、先進的な多くの企業でもまた同じなのではないでしょうか。

地域のワークショップも、公共の計画も答えが一つしかないから出口がなくなるのです。すべて同じ原理で進んでいるのですね。他のいくつもの道を提示すると、行政マンからは「きびしい意見」と言われることになります。それは「きびしい」のではなく、「やわらか」なのです、、、、、。この硬いやり方で文化だの、創造だの、交流だの、と言ってもできるわけがありません。

これからの時代、どれも素敵な答えをいくつも用意しながら、邁進するほかありません。それをオルタナティブデザインと呼んでいます。

2008年3月26日

市民立法

地方行政で気になる点の一つが立法府の不明確さです。最近、何人かの市議会議員の人たちと知り合うことができ、その活動も目にしてきましたが、それでもなお、はっきりしません。また、司法はそれ以上に意識することはないので、地方に来ると行政のみが、市の職員のみが地域の政策に関わっているように思えてなりません。

だから地方行政は専横的になってしまうのでしょうか。もちろん議会は運営されていますし、そこでの様々なチェックは行政の最も気になる部分ですが、、、、、。ただ、単なるチェックだけでは限界もありますね。

地方では影の薄い立法府のあり方を模索する動きもあります。

それが市民立法機構です。
「現状の社会と既存の制度には大きなズレが存在しています。このズレを修正するはずの本来の立法活動が停滞しているために、ズレから生じる様々な問題が噴出しています。
 そこで、この停滞する立法活動を活性化させる手段として、市民がみずから政策およびその具体化である法・条例を提案していく方法が〈市民立法〉です。市民立法機構は、市民が各自治体、そして国政へ主体的に参加していく流れと仕組みを応援し、21世紀を“多様な世紀”“平和の世紀”“環境の世紀”と呼べる、新しい市民社会として築き上げていくことを目指します。」

地方行政にはそれを推進する核心が見出せなかったのだけれども、その課題が見えてきたように感じます。それを担うのが、議会なのか、行政マンなのか、あるいは市民なのか、地方自治を市民の立場から考える時期が来たようです。

2008年3月24日

市民活動の視線

市民活動は真摯な個人の姿勢が基盤となります。自らの能力を社会へ還元するという姿勢です。いま、行政の業務が硬直化するとき、この市民の多様で真摯な活動は次代の社会を形成するものとなるでしょう。

行政も市民活動との連携に興味を抱くようになりました。その真意はどのようなものかはわからないですが、業務を人的に支援し、助成金を供出し、また、活動の主催者になって名前を出すこともしばしばです。連携し、協働することは不可欠ですし、つかず離れずその微妙な対応も市民活動が真に自立するためには大切なことと考えます。

しかし、今問題と考えられるのは、市民活動が、市民のため、社会のためというより、行政との協働や支援されることの方に目が向いていることではないでしょうか。本来市民の方へ向くべき視線が分断され、むしろ行政へ向きつつあるのではないかと危惧します。自己満足的活動です。

市民に向かわない自己満足的な活動は自分たちの狭い領域のなかで閉じてゆきます。それも心地よいことかもしれませんが、、、しかし、市民相互が開き、交わることで互いに大きな社会とつながることができます。活動が次の活動を生み出し、活動の成果は社会に還元されてゆきます。

地域で独自に自らの活動を展開している市民ボランティアは驚くほど数多くいらっしゃいます。行政の近くにいて行政のお仕着せのコーディネートやわずかの助成金で動いているボランティアではなく、地域で活動する彼らこそがまちの資産となり、活力となって真の市民社会をつくるのです。市民活動は自立し、社会へ目を向けてゆかなければならないのではないでしょうか。

2008年3月23日

共有型の組織へ

行政とは市民へのサービス業務が中心となりますが、現況に柔軟に対応すること、明瞭ではない将来像を明確にすること、と考えられます。

すなわち、過去を継承しながら、市民の現在とまちの将来とを同時に描くことといえます。そのためには市民一人ひとりの状況を深く理解し、対応できる組織形態が必要であり、それは例外や多様化に対応できる組織といえます。民間の企業の一般的な組織とは異なる、特異な形態が必要になるはずです。

しかしながら、どこの都市も同じような組織形態をとって、どれも縦割り行政と言われます。縦割りにして、部門ごとに集中することは、本来、責任の明確化へつながるはずなのですが、、、、。どこも均質化するのは中央政府の指導があるからでしょうか?

部門化しすぎていることによって、それに当てはまらない業務が出てくること、その部門化が重複していることによって、責任が明確ではないこと、業務に無駄が出ることが生じています。
小さな都市公園ひとつ整備するにも、複数の部署が連携できず、協働する市民の声は分断されてしまっています。

同じような部門が重なり、責任は明確にならず、市民がたらいまわしになることもしばしばです。また、説明責任が他の部門の責任になり果たされないこともしばしばです。この硬直化した業務形態は働く職員にとっても、サービスを受ける市民にとっても、不本意なことではないでしょうか。

内部においても問題が噴出しているはずなのですが、、、。組織のリデザインが、センスある再配分が不可欠のようです。事業の分野を中心に配置され、それを継続することは重視されていない。しかし、その分野は社会の変化に伴い、絶えず変化するのですから、対応できないのは当然です。

縦割りではなく、水平に考えてゆくことが必要であり、それに合わせて直線的な昇任制度を廃すべきと考えます。

地方中核と言われる37万人都市の岡崎市の行政組織です。地方に権限が委譲される時、何となく動くいている組織ではなく、確固としたブレインが必要となるはずです。

■企画政策部
企画課 政策推進課 秘書課 広報広聴課 IT推進課
■総務部
総務文書課 行政改革推進課 人事課 防災課 契約課
■財務部
財政課 財産管理課 市民税課 資産税課 納税課
■市民文化部
市民課 市民協働推進課 安全安心課 文化国際課 青少年女性課 国保年金課 額田支所(総務課・市民生活課・維持管理課)
■福祉保健部
福祉総務課 社会福祉課 児童家庭課 保育課 長寿課 介護サービス課 健康づくり拠点推進室 保健所総務課 生活衛生課 保健予防課 福祉事業団 社会福祉協議会
■環境部
環境総務課 環境保全課 自然共生課 廃棄物対策課 ごみ対策課
■経済振興部
商工労政課 観光課 農務課 農地整備課
■土木建設部
技術管理課 土木用地課 道路維持課 道路建設課 公園緑地課 河川課
■都市整備部
都市計画課 高規格道路推進室 区画整理課 組合指導室 建築課 市営住宅課 建築指導課
■下水道部
下水総務課 下水施設課 下水工事課
■岡崎市民病院
額田宮崎診療所 額田北部診療所 看護専門学校
■消防本部
総務課 予防課 消防課 通信指令室 中消防署 東消防署 西消防署
■水道局
総務課 営業課 工務課 浄水課
■出納室
出納室
■議会事務局
総務課 議事課 議員控室
■教育委員会
総務課 施設課 保健給食課 学校指導課 スポーツ振興課 生涯学習課 康生地区拠点開設準備室 中央図書館
■その他
監査委員事務局 農業委員会事務局

2008年3月22日

企業家精神

停滞した企業のあり方に企業家精神が必要であることはかなり前から言われています。それは80年代、日本企業躍進に影響を受けた巨大なアメリカ企業に示されたものでしたが、企業家精神というその言葉はどこにも、いつの時代にも、そしてどのような組織にも必要のように思います。

この企業内における企業家精神を賞賛したこの本は内井昭蔵事務所に所属しながら、独自にコンペや独立意識を持たせてくれた貴重な啓蒙書です。

いまやその意識は企業よりも、ソーシャルベンチャーたる市民活動に不可欠なものであり、同時に豊かな社会の基盤を担う行政に不可欠なものといえます。


行政と企業家精神、そこにこそ、未だ複層的なピラミッド型組織を形成する行政組織のこれからのあり方があるのではないかと思えます。

企業家精神とは戦略的思考が必要です。つねに目の前に意味を見出し、方向を見定めてゆくあり方です。

ここには、組織の階層を少なくし、遊撃的で独立した、連携を持てる組織をつくること、組織を安定させるべき制度を組織から切り離し、個人に独立したものとすること、経営資源を分割、分類するのではなく、共有化へ向かうことが示されています。

立法府のあり方があいまいで、外部にシンクタンクを持たない地方行政は中央政府よりもずっと官僚化が進んでいるのではないでしょうか。戦略なき戦術を展開する地方行政にはこの企業家精神による組織改革が不可欠ではないでしょうか。

そこには行政にかかわる専門家が個人レベルにおいて、政治性を持って、戦略的に行政に参画することが必要なのであり、コミュニティシンンクタンクこそが彼らに政治性と思想性を与えるものなのではないかと考えています。

2008年3月21日

連携と協働のダイナミズム

市民連携のダイナミズムはボトムアップにより、一つ一つがつながりをもつこと。自由な個の集団がイメージをかきたて、大きな渦をつくり、新たなソーシャルイメージを確立してゆくことから始まります。


つまり、つながりが解体を生み出し、また新たなつながりを導くように、次第に大きく展開することでしょう、それがダイナミズムです。運動力学、市民活動の力学ではないかと考えます。

そのためには市民が独自性を持って、独立した意識を持って、個々のつながりを築きながら、集結することが必要になります。それがコミュニティシンクタンクの基本的な姿です。

それは社会のありようを決めてゆきます。そこには市民だけではなく、行政にかかわる職員や専門家それぞれが、個々の立場を持ってつながってゆくことも必要になります。それがコミュニティシンクタンクの次の目標であり、そうした人的資源を有効に活用、引き込むのがその先の、もうひとつの姿なのです。

先日文化財課でおきた自由なワークショップのような意見の交流から感じ始めたことですが、行政サイドを市民のなかに巻き込んで、僕たちの真っ正直な、熱い議論の中にいったん取り込んだことがきっかけで、協働の本当の目指す方向が見えてきました。

協働や連携とは、市民活動と職員としての、職務としての表面的業務が問題なのではなく、個人として参画し、社会のなかで協働することが真に求められていることではないでしょうか。組織に所属しながら、個々の個性のつながりを持ち、個の力を、能力を社会に還元するのです。それは市民にも行政にも求められることです。

このように一人ひとりを巻き込みながら、渦を巻き起こしてゆくことがコミュニティシンクタンク形成へのスタートになります。それは戦術と戦略、管理と企画、今と未来、とが混在した行政のシステムをゆるやかに解体へと向かわせ、真の創造意的組織へと引き上げるに違いありません。

2008年3月14日

価値のフロー

地域の経済において、本来持つべき価値を生産することが地域ファンド、地域フィナンシャルの大きな役割であり、キャッシュフローを生み出す必要があるのです。多くがキャッシュフローのために地域を活性化に向けて活動しているといって過言ではありません。

しかし、経済とはある意味で搾取である、だから、地域、コミュニティにおいては、利益を生まないもの、ないしは利益は社会に還元するというのが基本的姿勢とされているのではないでしょうか。NPOの趣旨もそこにあります。(たまにコミュニティで搾取が行われる場合もありますが、、、、、。)

先日、地域の市民図書館企画を持ち込んで、銀行マン(といっても地域の政策にかかわる銀行の職員でしたが、)からあっさりと断られてしまいました。そこには多様な価値よりも単純な方程式が必要とされていたのです。利益を生むか生まないか。回収-投資=利益となる、、、これが地域ファンドと思われている金融ファンドの基本姿勢です。

繊維工業で発展してきた地域がその紡績工場を閉鎖する。その業績が下火になったからといって、簡単に解体し、新たにショッピングモールをつくる。利益は生みだされるかもしれませんが、そこに価値は生まれるのでしょうか。でも数年で最新のショッピングモールは古びてゆきます。単純な方程式では価値が下がってゆきます。

地域には、キャッシュフローではなく、価値のフロー、価値が価値を生み出す新しいしくみが必要なのではないでしょうか。

それは金融や銀行に所属する人たちとは異なるデザイナーの、イノベーターの直感が必要となります。それは価値の発見と言えるでしょう。

地域においては、価値を見いだすことができるかどうか、そこが問題です。もう一度価値のフローを廻し始めなければならないのです。薄っぺらな倉庫のようなショッピングモールではなく、重厚なミュージアムのような倉庫、ここにこそ価値の新たな転換が生まれてくるのです。

町の進むべきイメージと、その素材、、、そこにギャップがあってもいけないし、思い込みがあってもいけない。まちづくりとはそれらの再生だと言えるでしょう。価値のフローと再生。そこにコミュニティシンクタンクの役割があり、本当の地域ファンドを生み出す可能性もあるのではないかと考えます。

ソーシャルイメージ

まちのイメージを持つことは大切です。それは量ることや分析することではなく、抱くもの、抱いているものではないでしょうか。

今、橋下知事がメディアによってとりあげられ、大阪の疲弊した問題点が浮かび上がっています。しかし、商都大阪の知事は横山ノック知事と橋下知事を除いて、これまで官僚出身者が担ってきたそうです。ここに間違いの一因があるようです。

都市計画的にも、大阪は東京の姿を目指したのではないかと感じられます。例えば、山手線と環状線。ループによってまちを一巡りすることはとてもシンボリックなイメージを生みだします。しかし、地勢的にも、トポロジカルにも、皇居のような中心性があって、求心性に大きな意味を持つ放射状のネットワークをもった東京ではなく、均質な碁盤目状で、どこでも等価値の資本主義的都市であるニューヨークを目指すべきではなかったでしょうか。商都大阪の目標はニューヨークであったと感じます。東京を対象とするから目標や夢を間違えてしまった、あるいは目標や夢を矮小化してしまった、のではないでしょうか。

一方で地方都市は江戸期以来の藩政による独自の文化と気質が根付いています。僕は大阪で生まれ、京都で学び、東京で実践してきましたので、この地方独自の藩政の雰囲気はまったく感じ取ることができませんでした。

しかし、このすばらしさも、現代ではその多くが中央政府の気分を敏感に感じ取り、それにストレートに従うようになってしまいました。中央政府が分散化といえば、まちを拡散化し、郊外の山の上に中央病院や美術館をつくる。中央政府が中心市街地といえば再び集めだす。自治がないのです。

そして、それらの致命的なことは、それに伴い、知らないうちに歴史や文化、人の活動、、、、様々なものを解体してしまうことではないでしょうか。ここにはセンスもオリジナリティも、意地もありません。少なくとも矢祭町の自治の意気込みを感じてみましょう。

イメージもなく、マスタープランを語るから、まちの将来像が見えてこないのです。これにかかわる専門家もマスタープランという巨大で抽象的で、つかみどころのないものでしかまちを語らないから、何も伝えられないのです。イメージの貧困なところに将来は見えてこないように感じます。

お決まりのマスタープランではまちは滅びます。まちのソーシャルイメージを語りませんか。

2008年3月13日

講堂の保存活動に向けて

昨日、岡崎市教育委員会生涯学習課文化財班へ有志で宣言した嘆願書を持って、岡崎市の日清紡工場地内の旧愛知二中、ならびに近代的建築群の保存交渉に行ってきました。

切迫感と危機感、だめもと感で交渉の場に立ったのですが、先方にも事前に検討を加えていただいており、なんとか保存に向けて第一歩を踏み出せたようです。
文化財班での交渉では担当の河合氏も交え、具体的なアイデアが飛び交い、さながら自由なワークショップのようでした。膠着化した交渉ではなく、専門化が夢を語り合う場となり、修復工事の実践的な事例、タービンなどの織物工業機材の展示計画、資料館群としての計画、倉庫のレンガの解体利用、保存から活用計画への展開、、、、、、、、今後の展開もすこし予感することができました。また、僕たち有志5人が専門家としてチームを組んで今回の課題に取り組める体制もお願いしてきました。ここが最も重要なポイントかもしれません。
ただ、理論的には大成功でしたが、実践的にはまだまだどうなることか、開発計画の工程は迫っており、予断はまったく許しませんが、ひとまず次の段階の具体的な戦略にとりかかり始めました。

次は、企画とプレゼンテーションにその成果がかかっています。魅力的なプランでもって先方のコンセンサスを得てゆくことができるか、、、、、そして、どれだけ市民の価値を引き出せるか。

新しいアイデアを醸成し、市民を巻き込んでゆきたいと考えています。

2008年3月12日

イマジネーション

想像力=イマジネーションとは、何かと何かをつなぐことであって、思わぬ何かがつながっていることに気づくことではないかと思います。

この自由な発想とは突然、あるひらめきのようにわが身に降りかかってくるのものです。それがイノベーションやデザインをうみだす素なのではないでしょうか。

絶え間のない、無限のような、無尽蔵な発想の中から、、、いったん、既成の枠組み、しがらみ、規制、自制を開放することで何かが動き出します。こうした無尽蔵の発想のなかから、規制の枠組みをいったん留保するときにこれまでにないアイデアが浮かび、またそこに新たな価値を見いだすのです。遊びのなかから新たな発想が得られるのもこの転機によるものです。(現象学的哲学でアポケー(判断停止、ポケーっとすること)と言いますが)

現代社会で必要とされているのはこうしたイノベーションやデザインを一人の天才ではなくて、集団として、遂行できる組織体なのではないでしょうか。規制の枠組みを視野に入れながら、その視野を大きく広げることのできる、自由性が不可欠です。そこに新しい祖機体の存在価値があるようです。

それは一人だからやりたいようにやれる、のではなく、一人でも集団でもコンセンサスを得ながら、でも新たなトライを進めてゆくのです。そうした自由な発想の集合体が今必要とされています。ワークショップも本当はそのひとつです。不特定多数による創造です。(いつも言っていますが今の行政などのワークショップは枠組みを解放するものではなく、押しつけるものになっています。)

コミュニテシシンクタンクとは柔らかな、集合による想像力をもち、そうしたイノベーション(新しいしくみづくり)とデザイン(新しいかたちづくり)をうみだす集団的創造組織なのです。楽しくなくてはいけません。

2008年3月11日

政策連携

政策連携Public-Private Partnerships とは、上山信一氏の言葉です。

ここでは、単なる組織の連携ではなく、また市民運動でもなく、次代の組織のあり方を提案されています。

その構成は、組織ではなく個人、つまり、エンジニアやコンサルタント、弁護士や会計士、ジャーナリストや研究者など、、、専門的スキルを持ったプロ意識を持った専門家に帰すものであり、自身の所属する組織にも所属しながら、独立した意識を持って、個人の自由な発想を引き出す環境を持つものであるという。

問題解決のために自由な才能が集まりあうイメージです。

一般には組織は「継続的にまちづくり活動のできる、自律した組織として活動し、かつ各セクターとの連携の下、 一体的な事業の推進を行うべく、、、、」という一般的かつ陳腐な方向へと向かい、たいていは継続的事業推進のためにNPO法人化されることになる。それは、長老などを理事に迎え体裁を整えることになる、、、だいたい筋書きは決められています。

「それは問題の解決策が決まっているとき、単なるロビーイングのときには有効であるが、問題の分析はできても解決策を持ち得ない。しょせんは既得権益の擁護機関であり、イノベーションに不可欠な現状否定能力を持たないからである。」というのが既存組織に対する上山氏の発想であります。

上山氏の説く政策連携はとても専門的で大きな領域を考えておられるようです。しかし、専門家という個人を真摯に活動を行なう市民に置き換えてみることが必要のように感じます。市民も一人の専門家としての経験と、そして倫理観と誇りを持っています。

このように考えてゆくとき、上山氏の政策連携Public-Private Partnerships は僕たちの考えるコミュニティシンクタンク、つまりCommunity Partnershipをつくりあげる組織に形を変えてゆきます。

広い意味での専門家としての個人が自由に、そして同じ志を持って、やわらかな価値観を統合することがコミュニティシンクタンクのかたちです。それは市民政策集団とも言えるものになるはずです。