2008年3月1日

ファシリテーターの選別

偽装をしていると、消費者を単に欺いているだけではなく、その間の自分たちのやるべき手法が止まってしまいます。社会や課題の変化に対応して、真摯にトライを重ねなければならないのに、偽装で済ませているといつものやり方をいつもの場所で行なうだけでいいからです。進歩も反省も、修正もない。

ワークショップといういつも同じ手法、適当にグループに分けて、最後には出てきた意見を模造紙に自分たちの言葉で書き上げてゆきます。しかし、何が決まったのか、どの方向へ行ったかは、何もわからないのですね。そして、次の会は前のことはどこかで決められてしまっていて、また別のことをやらされてしまいます。

そのようなワークショップでは、埋もれた意見を探し出すことやともに何かを決める、といったことが重要なのではなく、彼らにとっては、あらかじめ決まった方向へ、市民を向かわせてゆくことが必要なのです。

そんなものでも「参加者の賛同が大きく、盛り上がりを感じる」などといったファシリテーターの感想が広報されていて、誰もが大いなる疑問を感じざるを得ません。市民を見ていないのか、見えていないのか。見ようとしないのか。誰もが同じようにできるわけではありませんので、これはファシリテーターの能力にも原因があるでしょう。

いつも同じやり方で市民の声でまちをつくっているなどと言って市民を欺いていると、自分自身にも見えなくなってしまうのですね。市民の声を聞き取ろうという技術も高まらないです。市民の声はそのあげ方も、出されたものも多様です。だから、それを聞くにはどうすべきかを常に努力していないと、技術も能力も、倫理観も簡単に失われてしまいます。

今社会では多くの人は自分自身を出せないのではないかと思います。そのため、多くの分野では様々な手法や取り組みが開発されてきています。しかし、人を欺く、まちづくりワークショップだけがいつもの手法を何年も繰り返しています。
だから市民は答えの出ない議論に奔走させられることになるのです。

いつも同じファシリテーターに託するのではなく、常に選別する必要があります。
失われた技術は大きいですよ。市民にとっても、ファシリテーターにとっても。そして、何よりそれを雇っている行政の損失も大きいはずです。

ファシリテーターが市民を選別するのではなく、市民が大きく目を見開いて、ファシリテーターを選別する必要があるのです。

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