2007年10月31日

商店街の公園計画

岡崎市の中心部、康生通りの中に籠田公園があります。地下は駐車場にはなっているのですが、特に特徴のない、市民の顔の見えない公園のように感じられます。

夏以来、この公園のあり方が問題になっているようで、3年生の学生の課題のテーマとしたところ、多様な視点による公園計画が提出されました。人間環境大学住環境デザイン研究室のゼミ日誌http://jkd-uhe.blogspot.com/2007/10/blog-post_25.html にアップロードしています。


建築士の専門コースを履修している学生も、デザインに興味があり、幅広い視点からデザインを学んでいる学生もいるのですが、彼らは2年生から専門教育を受けているので、1年半くらいで、公園デザインの成果を上げたことになります。こうした成果を考えると、ある程度の準備期間を設ければ市民自ら、多くの市民が協働する必要がありますが、市民によるデザインができるのではないでしょうか。


そうした市民の試みは80年代後半から行われ始め、東京都世田谷区などでは大きな成果も上げています。ヘンリーサノフ著「まちづくりゲーム」にもその実例が紹介されています。

それは、通常多くの行政で行われているような、市民の声を集めながら取捨選択、都合のいい意見だけを選別するような擬似ワークショップではなく、できるだけ多くの可能性から新たな方向を見出そうとする本当のワークショップから生まれたデザイン手法です。

市民による市民のまちづくりを目指すには市民の声と意欲が欠かせません、しかし、その方向がどのような方向へ行っても、まとめあげる能力を有し、どのような方向へ行こうともそれこそが求めるデザインなのだと、考えうる、真に市民をバックアップする本当のコーディネーターも必要となるものです。

2007年10月30日

下山学区推進委員会

岡崎市の郊外、豊田市との境に下山町はあります。近年、岡崎市と合併した額田町のなかにあり、深田正義氏が郷土の歴史をつづった「風・醸す」の最初の項に出てくる古い集落です。

来月、まちづくりに向けた講演会実施のため、2回にわたり、集落の周囲をめぐり、また地元の推進委員会にも立ち会ってきました。

岡崎市の郊外は周囲を山麓に囲まれていて、まちのすぐ、北東部に山が連なり、豊かな後背部が広がっています。緑が生き、水資源地となり、また農業や林業に携わる集落も多くあります。また、車で15分くらいの地域が自然に恵まれたセカンドハウス、避暑地のような性格を持った地域のようにも感じられます。

市街地はこうした豊かな後背地によって生み出されていると言えるのです。(写真の緑と市街地の境界線の中心が岡崎市中心部です。)

下山地区は山が広がり、まちづくりなどという手がかりなどないようにも感じられますが、たった、1時間ほどの会議の会話の中にも意気込みや手がかりを感じることができました。どこにもまちづくり、コミュニティのつながりを作っている「なにか」はあるものです。そしてそれはそこに住まう人が必ず持っているものであり、それを汲みとることがまちづくりの第1歩であるということを再確認してきました。

2007年10月29日

市民の視点と伝統

伝統とは、新しいものを付け加えてこそ伝統である、という歌舞伎役者も多い。そして、多くの(アイデアという意味で)引き出しがその新しさを支えるのですが、何より、観客の要求する目が舞台の新しさを作ると言います。

けっこう斬新なのですね。

観客の目を意識するかしないか、できるかできないか、そこに大きな岐路があります。伝統と言って閉ざしてはいけないのですね。そう言えば小泉時代の劇場型政治を揶揄する人もいますが、やはり観客の目が舞台に新しさをもたらしていたように感じられます。

観客の、そして、すなわち市民のそれぞれの目、こそ、時代を作るエンジンと思うのです。歌舞伎のような古いしきたりの世界ですら、むしろ、古いしきたりの世界だからこそ、新しさを求めて、多様な目を意識するのではないかと感じています。

市民の目、それも古いしきたりの世界を解体する契機となることでしょう。

2007年10月19日

コミュニティシンクタンクの役割

それはデザイナーの役割と同じです。

あるひらめきやインスピレーションで何か面白いもので飾ることがデザインではありません。デザインとはモノの本質を表現すること。相手の考えていることを描いて見せ、共に考えてゆくことがデザインの出発です。



具体的なアイデアを介して語り合う、デザインとはそんな道具のようなものでもあります。相手の欲するもの、その声を聞きながら常に形に表してゆきます。



コミュニティシンクタンクもそのように社会の声を形にしてゆくことがその役割であり、そこに現れた形の中に社会の本質があるのだと考えています。



デザインもコミュニティシンクタンクもコミュニケーションのひとつのあり方なのです。

2007年10月18日

市民マップ

授業でいつも、世界地図を簡単に描いて、世界観を養っている高校の先生がおられます。僕自身も知多半島と渥美半島がくわがたの角のようになって三河湾があるのを思い描けるようになって、愛知県のどこにいるのか、どことつながりがあるのか、自分の居場所が正確に把握できるようになって来ました。 心理学の分野でもマインドマップやソーシャルマップが描かれ、その人のありようを具体的に知ることができるようです。

描いて表してみることが重要なのと感じています。ウォーキングマップもその一環としてやっています。

もっと、まちの地図、マップを描いてゆくべきです。 まちのマップ、その根幹を成すものは、市民活動のマップ、それは人のつながりを描くことになります。人を描くのにもマップが必要となり、それはまた、同時に町の問題のありかも示してくれることになるでしょう。

市民マップが描かれるとき、自分がどこに位置するのか、周りにどのような力になる活動があるのか、障害となるものがどのように存在するのか、自然とわかってくるのではないでしょうか。また、自分自身の居場所がどのようになっているのか自覚することで、活動の視野がもっと大きく開かれることでしょう。

それは市民に支えられたコミュニティシンクタンクの重要な働きであると考えています。

2007年10月17日

文化による活性化

文化によるまちの活性化が言われています。しかし、それは大型ショッピングセンターによる再開発が失敗に終わった後、経済か文化かという幼稚な二者択一の後、今度は大型文化センターによる活性化へとつなげようとするもので、むろん、その先は見えています。多くの町がそんなことは遠い過去に見据えているはずなのに、、、、、、。

文化とは何かというかということは難しい。文化とは何かを問い続けることが重要であるという意見もあるでしょう。しかし、そんなことをしていると市民は疲弊してしまいます。言葉を上げただけで、あとは知らないと逃げてゆくコーディネーターの無責任な発言に振り回されるのも市民です。

迷路のような哲学から逃れ、もっと肩の力を抜き、自然体でできる状況を作る必要があるようです。文化とは市民の発意による、自由で、柔らかな活動の中から生まれてくるもののような気がします。そして、そのような市民ボランティアも数多いです。その活動を規制するのでもなく、また無関心であるのでもなく、背後から支援し、時には舞台に押しあげることが必要であって、それこそがまちを作るのだと思います。

まちを運営するべき組織がやらないのなら、市民自ら行うより他ありません。

2007年10月14日

TQC

1980年代より、建設業界でもTQC(トータル・クォリティ・コントロール)が積極的に実践されました。建設業界、ゼネコンの場合には、多くの専門業者(下請けと呼ばれるものですが、世間で言われる丸投げのようなものではなく、一つ一つの異なる専門の異業種の集積によって建設会社、ゼネコンは成り立っています。)のネットワークのあらゆる部分で、それまでの経験的な現場での管理から、数値による管理へと意識が向けられていました。ゼネコンにとって、現場での不具合は会社の信頼性だけではなく、オーナーの快適性に直結する重大なことでもあったように思います。


品質の向上と同時にそこには、意識の向上が目指されていたのだと思います。それでないと一人ひとりの職員、職人の膨大な量とネットワーク自体の能力を上げてゆくことは不可能に近いからです。

一つ一つのものの品質にこだわったTQCは当然、業務や経営全体の品質向上運動であるTQM(トータル・クォリテイ・マネージメント)につながっています。

TQCやそれを成立させる基盤TQMはどの分野にも必要なものでしょう。自らが対面する一つ一つの品質を高めてゆくことでしか、全体の意識や経営の質を高めてゆくことはできません。

市民の活動の様々な場面で不満を聞きますが、どれほど深刻に伝わっているでしょうか。製造業における品質とはサービス業においては快適性であるはずです。

今、盛んに行われている市民活動、それを支援する(するはずの)行政のサービスにも、市民それぞれの快適性を指標として、それを品質ととらえるTQCの理念が必要ではないでしょうか。

品質の向上と意識の向上が今不可欠です。

2007年10月10日

市民の言葉

裁判員制度が導入されることで、法廷の中の世界も変わってくるようです。市民に説明をする、理解を求める必要があることから、法曹界の言葉を視覚的に表わし、日常の言葉を使用するようになる、、、。

かつて、弁護士の書く答弁書を読んだことがありましたが、でも何が書いてあるかよく理解できません。それは事件の事実を明らかにするためのものですが、まず、書き方というものがあるらしいと感じます。

しかし、事実を追うなら時系列の比較表を作るとか、状況が複雑ならば、表やモデルする、などし書き方を、表現方法を変えれば、事実など簡単に証明できると思ったものでしたが、弁護士は既成の書き方を変えることはなかったようです。

言葉は思想そのものだし、書くこと、表わすことは思考のプロセスそのものと思うのですが、そのわかりにくさは、閉鎖性をあらわすものでしょう。組織のあり方は表現する言葉の使い方にも現れてくるようです。

しかし、その閉鎖性社会、といってもどの社会も閉鎖性を持っているものであって、他の社会と交わることで初めてその閉鎖性が実感できるものではないでしょうか。

他の社会と交わることができる柔軟性を持っているかどうか、そしてその時どのように対応できるかが、その社会の価値となることでしょう。

まちの言葉、条例や規約、あるいは通達、また本来想像性あるべき企画書なども硬く古めかしいはずである。それら、まちを語る言葉を市民の言葉で語ってみてはどうだろうか。また、市民の組織を役所の一部署として向かい入れてはどうだろうか。

必ずや、やわらかく、わかりやすく変わるはずである。市民の言葉で語り、市民のやり方を受け入れる、ここにこそ、協働の意味があり、協働の機会を生み出してゆくことこそ、コミュニティシンクタンクの役割があると考えています。

2007年10月9日

報道の大切さ

前線でがんばっている無名のジャーナリストが倒れて、はじめて真実が見えてきます。彼らによって世界には多くのまだ見えていない非合理な、非人間的な(ただ、合理的、人間的といっても様々ですが)状況があることや、また逆に僕たちの目の前から消えてしまった大切なものを知ることもできます。

ジャーナリズム、この暗部も明部も照らしてくれるジャーナリズムの精神が必要です。僕たちの遠いところでは、ジャーナリズムの使命を帯びた一握りの特別の人たちが命をかけています。

ジャーナリストの目が外に向けられてゆく中で、他方、僕たちの身近な周りの社会でも、むしろ非合理性や非人間性がいたるところで横行しています。僕たちこそ、自分たちの周りに見える、その真実を知ることが必要です。

それは一握りの特別の人たちによってもたらされるものではなくて、コミュニティにおいては、人、ひとりひとりの活動の中から生まれてくる、活動の現場の中に見えているのではないでしょうか。

市民一人ひとりが活動するなかで、様々な問題を抱え、そして、時は挫折し、また時に突き進み、社会に貢献する、その経験がまちのジャーナリズムになるのです。

そうした真実の情報は市民にとって重要なものですが、本当は行政にとってもかけがえのない情報であるはずなのです。それは真摯に耳を傾けるべき顧客の声なのですね。

その声を明らかにすること、そのために、コミュニティに潜む、このそれぞれのジャーナリズムを終結することこそ、コミュニティシンクタンクの役割ではないかと考えています。

2007年10月3日

商店街の悩み

10月1日から始まる「駐車監視員による、路上駐車取り締まり強化」があって、商店街での駐車が問題になっています。商店だけではなく、まち全体の活性化にも大きくかかわることです。

店の前には駐車スペースが買い物客に必要だという意見、対して路上駐車は数分でも迷惑で危険だという意見。、、、、、、、、、制度上、当然後者に軍配は上がります。
このように考えてゆくと、駐車場はまとめてどこかに確保するしか商店街の人たちには道はありません。現実にも、(地下も含めて)まちのある部分にまとめて大きな有料駐車場がつくられています。地方都市ではこの駐車場が不可欠でしょう。
しかし、現実と制度があっていないから悩みは尽きないかもしれません。

これはOKACOMMUという岡崎市にあるネット上のコミュニティでの議論です。とても身近な視線で議論が沸きあがり、とても心地よいです。たぶん、こうした市民による本当の意味ある議論が今必要とされているのだと思います。

横浜に元町という有名な商店街があります。小さな道路に面しただけの商店街だったのですが、彼らも活性化のために、30年前からいろいろな試みを行ってきました。








彼らはまず、自分たちの店の1階部分だけを削って、歩道をつくりました。2階はそのままなので雨にぬれない歩道です。すべての商店が同じように歩道を提供しないといけないので、簡単なことではなかったと思いますが、この安全な歩道は商売を進める上で不可欠のことだったようです。

その後、道は一方通行となり、歩道に面して片側にパーキングメーターが置かれ、周囲にはベンチやストリートファーニチャーが整備されました。パーキングとファーニチャーが交互に置かれ、車で来て、店の前で降りてショッピングする、周辺も歩いたり、休んだりでき、楽しいみちの空間が生まれています。

ひとつのきっかけでまちは生まれ変わると思います。その意見を切り捨てないことですね。路上駐車をさせるかさせないかのような画一的な議論ではなく、それらを総合する、総合して新たな方向へ進む必要があるようです。
この総合性を展開できる柔軟さと想像力がまちには求められているのだと思います。市民の柔らかな議論からは何かが必ず生まれるに違いありません。

2007年10月2日

指定管理者という名の公営化

指定管理者制度とは、また、きめ細かなサービスや人間的なマネージメントを市民に提供するのがその本来の理念であり、同時にそのことにより、民間企業や市民運動の活性化も達成されるのです。

しかし、その理念から果てしなく遠ざかるような制度の運用がどこでも見受けられます。本来の豊かな業務を実践するためではなく、コスト削減のためだけに行われているのだと批判もされていますが、もっと隠された大きなデメリットもあるのではないでしょうか。


それは民営化といい、指定管理者制度をとりながら、管理や運営を行政の外郭団体や行政と見まごうNPOに委託されています。

市民ホームや公民館、市民センターなど、まちにはコミュニテイの拠点となるべき施設が数多く点在しています。しかし、こうした施設のそれほどの部分がまちやコミュニティの自治として、運営されていることでしょう。


こうした方向は運営資金も不透明だし、ましてや拠点としての積極的な使命などどこにないだろう。

管理といって、ほとんどが日常的なメンテナンスだけを行い、新たな業務をつくりだしていないのではないでしょうか。



こうした、怠慢がコミュニティの運営力、企画力、実行力を衰退させ、まちを解体して行くのです。一方でまちの自治を衰退させ、一方で市民協働の名の下に市民活動をあおり、管理下におく。

市民とまち、本来の理念を目指すことができれば、必ずうまくゆくのではないでしょうか。

2007年10月1日

指定管理者という名の民営化

東京では多くの、そして多様な劇場が開館を迎えているようです。


中でも、杉並区高円寺に300席の小劇場を備えた「杉並芸術会館」は2009年春に開館の予定ですが、区内在住の演劇人による非営利組織(NPO)が指定管理者となり、「杉並ならではの文化的個性を備えた劇場」を目指すようです。


これまで公的施設においては行政やその外郭団体により運営が行われてきたわけですが、管理運営制度が改革されて、行政から指定を受けた民間の法人にも公的施設の管理運営を委託されるようになりました。

高円寺会館のような新しい演劇空間には柔軟な運営と豊かな企画力が不可欠であり、総合的な事務的能力ではなく、また、舞台装置や照明装置の管理など専門的な能力でもなく、新しい企画や展開性をつくりだせる能力とセンスが必要とされるからではないでしょうか。


このように劇場では企画や運営を期待されて、新たな民営化組織が要求されてきている一方で、逆に図書館の民営化とは、これまで管理運営を行ってきた司書という専門職員を排除して、大手の販売管理会社への丸投げであることが多いようです。


劇場と図書館、この違いはどこにあるのでしょうか。

図書館を本の管理を行う専門的業務の場と考えるからではないでしょうか。だから、本の管理会社でいいのだという安易な考えが生じしてしまう。

劇場が舞台装置や照明装置の管理場所でないように、図書館も本の管理の場所ではありません。そう考えるとき、司書という独自の豊かなオリジナリティを持った職能が見えてくるはずです。


そのオリジナリティを見つけることこそ、公募することこそ、民営化のもっとも大切なことではないでしょうか。