2007年8月19日

阿久悠の世界3/詞のできあがる時

阿久悠はスタジオでの録音によく立ち会ったと聞きます。歌の完成をいつと考えていたか、がよく現れている行動です。作詞家にもかかわらず、彼は声を出た瞬間に、歌ができあがるのだと考えていたのではないでしょうか。


言葉としての詞とはイメージの共有のための手段でもあり、「上野を出発し、今ともに青函連絡船で函館に渡る」というイメージを共有させられた時から、詞は、歌は、誕生するのではないかと感じるのですが、言葉の意味することだけで終わらないところがただの作詞家ではなかったと言われるひとつの原因ではないでしょうか。

言葉の本質。それは「あー」、「いー」、「うー」、「えー」、「おー」、、母音を発すること、あるいは叫ぶことと言われます。それは、また、言葉の原点です。この母音は、詞の言葉の中には表されませんが、この母音を声として発することが歌にとって重要なことではないでしょうか。

言葉やメロディによって伝えられる情景や情感などよりも、この身体の奥底の叫びのような言葉を発することが歌の本質です。その身体の奥底の叫びを聴かなければ、感じなければ、歌にならないのだと阿久悠は考えていたのではないかと思います。

それは演歌だけではなく、ポップスも彼にとっては同じことだったのです。大人の歌手には大人の叫びを、少女の歌手には少女の叫びを求めていたのだろうと思うのです。詩を作る作詞家ではなく、歌を歌わせる作詞家だったのですね。

「あなた、お願いよ~お~、席をたたないで~え~。息がかかるほど~お~、そばに居て欲しい~い~、、、」(岩崎宏美 ロマンス)

言葉を発する本当の意味を社会に伝えたかったのだと思う。それが詩ではない、詞と歌の魅力であり、それでこそ、世は歌につれと言われるのだろう。次の世を予見することは難しいが、それは今を歌うことでしか、生まれてこないように思う。

そして、この身体の叫びのなかにこそ、歌の真髄がある。建築も発想のなかから誕生しますが、それはつくってゆく現場のなかで本当の姿をあらわにしてゆきます。最後の最後までこだわりを持って、作りきることが要求されているのです。

自分のかかわることが、そこにかかわる身体と強く通じること、そこがとても大切なことだと感じます。建築づくりも、まちづくりも、ものづくりも。

2007年8月18日

町を描くことから7

地図といっても、さまざまなものがあります。町でよく見かけるのは、商店街や駅前に設置されている看板に描いた地図。方位も、道の名前や方向も、また、自分がどこにいるのかさえ、よくわからないけれど、商店の名前だけはびっしりと書いてあり、人間的な雰囲気が混在した活気ある様子はありありとわかります。地図とはその表現方法によって、まったく異なるものとなります。

単に海抜からの高さをプロットしただけでは、数字の配列したものだけでは、土地を理解することはできませんが、同じ高さの地点を結んだ地図、等高線による地形図を表すことによって、地域の地形をイメージすることができるのです。

このように何をどのように描くかによって、得られるものは違ってきます。僕はまちから感じたその実感したものをそのまま素直に描き表せないか、そこにこそ、本物の町の姿が潜んでいるのではないかと考えています。

今日は第一部、第7回 6月29日掲載分を紹介します。


「7.ウォーキングマップとは


ウォーキングマップとは住環境デザイン論演習課題の一つとして実施している「岡崎の町を描く試み」である。

それは町を歩き、その場所のデータを収集し、記録するフィールドワークと得られたデータを研究室に持ち帰り、地図に配列しながら、その意味するものを考察するワークショップの二段階のプロセスからなる。得られたデータから特別の領域や形状を認識できるまでデータ収集と考察とを繰り返してゆく。

学生たちは岡崎の町を歩くことから始めるが、彼らの多様で自由な視点をそのまま生かすため、特別の約束事は設けず、できるだけ事前の知識や先入観のない状態で町の興味のある部分を探しながら歩いてゆく。それぞれの感性によって、自らの視点を特別に持って、自らの意思で歩く。歩きながらテーマを見つけ、町の気になる場所や場面をデジカメに撮影し、歩いた道のりや特別の感情やポイント、コメントなどを地図上に記録しながら、歩いた軌跡や町の形を表わす情報をプロットしてゆく。

こうして町で得られた情報は研究室に持ち帰り、それぞれの断片をマップに配列し、その意味を考えてゆく。ワークショップ形式で、何に惹かれたのか、どこが面白かったのか、自らのマップを説明しながら、共に考えてゆくのである。最初は見えていなくても、自分自身が町に惹かれ、記録した動機は学生たち自身の中に必ずあり、そこに町の特性が隠されている。そうして、マップのテーマや現れている意味や特性が見つかるまでは何度も議論し、考察とデータ収集とを繰り返し、ウォーキングマップとして完成させる。マップづくりはプロセスと表現方法が重要である。

学生たちの、あるいは市民の柔らかで多様な視線を町に向け、町をそのまま記録することにより、生きた町の多様な姿をありのままに描くことになる。多様な視線を導き出し、取捨選択や淘汰を行わないで、むしろすべてを取り込む姿勢で町を描くことにより、そこには豊かな町の多様な姿がそのまま描かれる。それは複雑で、混沌としているように見えるかもしれない。しかし、学生たちが、あるいは市民が多様な視線を向けていければ、後はその描かれたものの中にそれらの共有性を表し出せればいいのである。多様な価値観を生かしながら、進むべき方向が見えてくる。この生きた町の姿のなかに本当の固有の特性が現れてくるのである。

ウォーキングマップとは自ら歩いた道のりを記録した地図ではあるが、しかし、その表すものは歩くべき、進むべき道のり、すなわち、町づくりの指針を示すものとなる。今回の試みにおいても多くの町の断片が浮かび上がってきたが、この岡崎の町は特に空間的面白さ、豊かさに溢れていると感じる。この豊かな断片を、パズルを完成させるようにピースをつなぎ、組み合わせてゆくことで、それらのつながりが町のコンテクストとなって現れる。そこに町の姿が見えてくる。ウォーキングマップとはそのコンテクストを探索し、その可能性を発見する試みである。その試みは始まったばかりであるが、町を記録し、デッサンするように描くマップの可能性を発見できたのではないかと感じている。感覚や感性によって認識される町のイメージは、とらえどころのない、はかないもののように見えるかもしれない。しかし、それこそが、着実で、リアルな生きた町の姿なのである。」

2007年8月17日

町を描くことから6

思い描かれたことが書き記されることによってはっきりと自覚できることは多い。
http://community-thinktank.blogspot.com/2007/07/blog-post_20.html 
模写やスケッチもそのひとつです。その書き記したものが、自ら見た、感じたそのままを描き、表すことが必要です。しかし、ありのまま描くということが思いのほか難しいものです。

ウォーキングマップでは観察者である学生たちが、見て、感じて、ある人は聴いてきたものを、研究室の僕や仲間に語ることで、自ら見てきたもの、そのものに客観的に触れることができるのです。

今日は第一部第6回、6月28日掲載分の紹介です。

「6.町を記録する


町を記録すること-視覚化することで町の様々な姿が見えてくる。ばらばらだった姿が何かはっきりと意図を持ったものに見えてくるのである。例えば、防災マップや防犯マップなどのように描いてみて、今まで見えていなかった空間や地域の状況が改めてわかるものなど特に多い。このように視覚的に表すことで見えていなかったものが現れてくる。

絵を描く時にはまず、デッサンする。そうすることによって対象物の輪郭をなぞってゆく。輪郭をなぞりながらその形を把握してゆくと、次第に描く対象物がはっきりと見えてくるのである。町づくりにおいても実際の町の形を追いながら、町の断片を記録し、地図の上でもその姿をなぞってゆくことによって町の形をはっきり認識することできるようになる。町を巡り、それを記録してゆくことは町をデッサンすることと同じ行為である。デッサンを重ねてゆくことで、おぼろげであった町の輪郭が次第にはっきりとしてくるはずである。デッサンを重ね、次々と町を描いてゆくことにより、多様な断片が互いにつながり、それらの関係や共通の意味を表しだす。つまり、埋もれている町の形の意味するものが見え、町の隠れた構造を表しだすことができるのだ。このようにして町に視線を向けることによって、いつもは見えていない町の姿が現れてくる。

町をデッサンする、記録してゆく時、描く側は自分自身で意図を持って描いてゆく。そうでないと描けないのだ。町を描くということは多様な意図を持って、それぞれが何かを感じながら、町の多様な側面を見てゆくのである。つまり、町を記録し、町の形をなぞるという行為は様々な町の断片を集めると同時に、描く人々の多くの視点や意識までも集めることになる。

町を記録することで、町を考える視点が市民や学生など現実の町に住まう人たちすべてに移行してゆくのである。記号や数値などの抽象的な表現から人の視線によるビジュアルな表現へ、巨視的でバーチャルな視点から現実の町の現場の視点へ、無名性を表すだけの客観性から個人の感覚に基づく確かな主観性へと、すなわち抽象から実践へ、全体から個へ、そして、公から私へと町がその重心を移してゆくのである。それは町とそこに住まう人たちすべてを取り込んだ動的な町解析と言える。

今の町、町の今を表す新しい理論を、町を描いたマップから考えたい。それは身近な、自らの感性に現われた町を記録してゆくことであり、同時に、町に触れ、町を表現することでもある。また、現実の町から町独自の形を描くことが必要なのであり、自らの感覚と感性を持ち、意欲と意図を持って町を見る、探し出すというデザイン的視野が必要となる。デッサンを行うように町の輪郭を描くことが大切であり、それによって形は次第に現れてくる。

マップづくりは町の輪郭を視覚化し、町の形を具体化させる重要な機能を持っている。それは町に住まい、活動する人たち、一人ひとりに開かれた、町づくりの新たな方向性を期待させるものなのである。町づくりには市民の身近かで多様な視線を町に注ぐことが不可欠であり、この多様な視線を抽出し、どのように構築するかということが重要である。町に立ち、見えてくる町そのものを描くことが求められるのである。それには市民の多様な視線をそのまま描けばいいのであり、描くことによって町づくりは見えてくる。私たちの課題は「いかに描くか」という町を描く行為そのものの中にある。」

2007年8月16日

木を切ること、切らないこと。

大きな森のような木々を切ってしまうことがあります。鳥の糞、落ち葉、通風の悪さ、虫、いくつかの要因があると思います。木を切ってほしいという人も、切らないで、という人もいます。
好き嫌いや面倒であることで、行政は市民の言うなりになってはいないでしょうか。切ってくれといわれてはまちの財産を切り、切ってほしくないと言われて、では残す。問題の本質が見つからないまま、現実は、まちの大きな緑はこのように個人の強い情熱によって守られています。

こうした、貴重な活動をもっと共有の場に載せる必要があります。行政にとっては利害がかかわると調停、調整が難しいのだろうか、、、。しかし、調停の中にこそ、対話の中にこそ問題の手がかりがあるように思うのです。矛と盾が潜んでいるのです。両者の言い分をよく聞くことによって、利害ではなく、問題の本質が見えているはずです。それはマーケティングでもあり、コミュニケーションでもある。そこをないがしろにしたら、行政の意味がなくなってしまいます。

まちには個人の資産となっている大きな森が突然、ディベロッパーへと売却され、開発されてしまい、なくなってしまうことがよくあります。周辺住民は反対運動を起こし、その森を守ろうとします。でも、多くは、それまで他人の緑の恩恵を受けてきただけで、緑を大切にしていたわけではなかったのですね。木が切られるようになってようやく、コミュニケーションが生まれます。



また、木が管理者の違いによって、道路側の枝が払われてしまったり、悲壮な姿を現している場合もあります。しかし、少し視点を変えれば、これがおかしいものだという視点に立つことができれば、木を守るだけではなく、コミュニケーションが生まれるはずです。

こうした緑豊かな町並みを条例によって守ることも多々あります。共有の概念を文書化することも大切かもしれませんが、規制することではなく、まず、まちのあるべき姿を見出す必要があります。豊かな緑の土手、伝統となった桜のトンネル、大きなはぜの大木、水辺の散策路、街路の豊かな緑、、、そうした、当然の意識を共有することで、その次の緑が育ってゆくのではないでしょうか。

でも、もういい加減、緑は大切なんだというスタンスができてもいいのではないですか。木を切って鳥を追い出したら、その行為は次は僕たち人間に降りかかってくる(もうすでに降りかかっている)ということを実感できる想像力が必要です。

2007年8月15日

風景/まちの視点

岡崎の歴史家、市橋氏の父上である、画家朝井明泉氏の水彩画スケッチが絵葉書となっています。淡い水彩画で丹念に描かれた膨大な岡崎の風景はまちのさまざまなところに、かけがえのない思いが埋め込まれている証です。それらを共有することで、まちの魅力は引き継がれてゆくものです。ひとそれぞれにさまざまな視点があり、それぞれの人に目を向けるように、まちを大切にする、目を向けることはとても重要なことです。


ここには何気ない民家も、毎日通る川岸の桜の木々も、新しい施設も、もちろん木々の豊かな古いお寺もそれぞれ描かれています。驚くべきことに、普通では向けないような異なる視点を持った意外な橋の風景もあります。

こうしたまちの風景を描く試みはまちづくりのひとつの手法としてもとても重要で横浜などでも、地元の商店街や大学研究者、学生たちが協働して、町のいろいろな姿や風景を「横浜パッチワーク」や「まちづくり101の提案カード」として表わし、横浜らしさを発見する試みが行われています。

広重の「名所江戸百選」や北斎の「富岳三十六景」も、一人の浮世絵師の表現としてだけではなく、まちを共有するひとつの手法だったのではないかと思います。

先日、岡崎市民病院についてコメントいただいたmariさんに絵葉書のひとつである岡崎市民病院のものをお送りしました。古いかすかな記憶や両親への思いがあふれてきたそうです。画家朝井氏とmariさんの思いが時代と場所を越えて、ぴったり重なったようです。

一人ひとりの思いは個人的な取るに足らないもの、と思われがちですが、実はそうではなく、案外多くの人に共感を与え、共有のイメージとなっているものなのです。市民すべてのまちを見る、感じる視点を集積してみると、まちを考える視点も変わってくるのではないかと感じます。それこそが市民のまちではないかと考えています。

2007年8月14日

町を描くことから5

人は何か思いを込めて、住まいを思い描く。そうした思いが積み重なったもの、まちにはそれぞれの思いが集積し、大きな意味を持つようになった場所や場面が隠されています。そうした意味を自覚し、つなげてゆくことがまちをつくる重要な条件となることが多いのです。それはまちの形や市民の姿に現れています。それを顕在化させるのも専門家の役割です。




今日は第一部、第5回、6月27日掲載分

「5.町のコンテクスト-文脈

語りかけてくる町の表情はそれぞれ豊かな意味を持っている。岡崎という町は多様な表情が町に混在し、不規則で偶発的な、統一性のない町のように見えるが、その奥には様々な形が意味や意図を持って関係づけられているように感じられる。ばらばらに見えている道、丘、緑、寺社、などそうした様々な町の特性があるつながりを持っていて、それらが重なりあって新しい意味を持ち、複合して豊かな町を形づくっているように感じられるのだ。それらは長い間に継承されてきたものであり、今も大きな意味を持って、文化や歴史、風土や地域を物語る。それは住まう人たちに継承され、築き上げられてきた固有の、共有の町の財産なのである。それらは町をつくる様々な要因やそれらの関係を生み出す町の基本構造であって、むしろ何気ない現実の町の風景のなかにこそ隠れているのである。

私たちはこの町の構造に気づかなければならない。それは町の独自性であり、本質である。町を知るとは、町の幾重にも織り成された重なりを知ることであり、私たちはその中に潜む本当の町の特性を見つけなければならないのである。

それは町に埋め込まれた遺伝子にも喩えることができる。生命の遺伝子が人の身体に埋め込まれて世代を超えてゆくように、町の遺伝子は生活や文化や歴史の遺伝子となって町の形や空間に埋め込まれ、次代に引き継がれる。それらは町のしくみや構造、意味を組み合わせ、町の文脈-コンテクストをつくる。著された書物の膨大な言語の意味の中にそれぞれ固有のストーリーが隠されているように、膨大な町の表情や姿のなかには、固有の歴史や文化、生活や風土、習慣や人の意識が根底に流れているのであり、そこには町のストーリー、つまりコンテクストが隠されているのである。

町にはシンボルとなる中心性や回遊性、あるいは拠点があちらこちらに点在する多元性や多孔性が内在していることがある。また、地形や地域のつながりや逆に断層による不連続性を持っていたり、特別の方向性や軸線が人の流れや風の動きとなって現れていることもある。ひとつの特別の場所が実際の町づくりの基点となっていることもある。こうした町のコンテクストを知り、継承することで町は成り立っているであり、それは次の町づくりにつながる。町を知らないがゆえに、見えないがゆえに間違って開発してしまう。

町づくりは町を知り、その町を継承することから始まる。だからといって、古いままの町を残しておこうと言っているのではない。既存の町のコンテクストに新しい時間と今の生活空間を重ね合わせ、新たな文化や歴史を連ねるのである。そこに豊かな町が生まれてくる。

岡崎には今、その重なりが確かに見えている。私たちが始めたウォーキングマップとは町を描くことからその町の重なりを見つけ出し、コンテクストを浮かび上がらせる地図である。私たちが想像力を失わず、身近で人間的な視線を失わない限り、絶えず町と接することによって、それは目の前の町に現れてくる。私たちに語りかける町の表情はその場限りの表面的な表情ではない。その奥にはただならぬ、町の本質が隠されているのである。コンテクストとは物語の本質であり、町の本質なのである。」

2007年8月11日

町を描くことから4

僕たちが実際の町を感じるとき、自分自身から奥行きを感じながら、目の前の、少し向こうに見える家々の形を認識することになります。その奥行きや広がりとは、自身の体、手や足の一部を見ながら、道路や街路樹、壁、の実際の表情を感じながら、その距離を追って広さを感じています。とても当たり前のように感じることですが、目の前の町の姿を突然目の前に現れた、意味の持たない対象物としてとらえていることも多いようです。自分自身との関係から距離や奥行き、広がりを感じ、具体的な意味のある対象として考えることよって、町の発信する情報を感じとり、語りかけている町の姿を実感することになります。それが僕たちの町なのだと考えています。

今日は第一部、第4回、6月23日掲載分を紹介します。


「4.語りかける町

町はそれぞれ多様な表情を持っている。町を歩いていても、柔らかな家並み、入ってみようと思わせる店舗、その奥に引き込まれる路地など次々にそうした魅力ある場所がつながり、何か心地よい感情をつくりだし、全体がひとつの雰囲気に包まれることがある。凹凸、ニッチ、曲がり、ふくらみ、シンボルツリー、ゲート、パブリックアート、神社、空地、ショーウィンドウ、バス停、彫刻、民家の板塀など、それぞれに様々な表情があり、どれもが人に語りかけてくるはずである。

実際には人が町に対して働きかけているのであるが、町が人に働きかけてくる、語りかけてくると感じる。それは町から受ける印象というよりも、もっと動的な心に入ってくる感情である。
町とは動きや働きが翻訳され、場面や場所などが目に見える形として表わされたものではないだろうか。普通のなにげない風景の中に人の活動と町との接点が生まれることによって、何かを表す人と町とをつなぐ特別の景観が現れて、私たちは初めて町を気づくことができる。私たちが町と考えているのはこの人と町との接点となってつないでいる様々な広がりなのである。

私たちは2点を測るようにして距離を測定し、その広がりや奥行きを認識するのではない。町では立っているその場から、道路の形状、舗装のパターンを認識しながら視線を延ばし、空間を広げ、樹木やベンチ、電柱や電線、外壁や屋根などを実感することによって空間の広さや領域を感じとっている。また、入り口や窓、バルコニーや縁側から人の動きを感じ、明かりや看板やプラントボックス、柵や塀から町の人間らしさを感じるのである。

私たちは町を構成する具体的な一つ一つの場面をつなぐことによって実際の距離や広さを感じているのであり、また、様々に見える対象物を予め決められた機能や役割に従って行動するのではなく、その対象物が持っている意味を人本来の行動から瞬時に判断し、柔軟に活動を行うと考えるのがアフォーダンスという新たな空間認知論の方向である。町を決まったもの、あるべきものと考えるのではなく、実際に町に入って、町に接すると、膨大な町の情報がそれぞれ意味を持って語りかけてくるのがわかる。

ここに大きな意味がある。私たちが町に住まい、語りかけてくる町を感じるということはその場面の距離や広がりを感じるだけではなく、生活や文化を感じる人間のもうひとつの感覚によって、それが何を表しているか、私たちにどのような意味をもたらすか、解析しているのである。このようにして、町に住まいながら様々な断片の中に豊かな生活や文化、歴史や風土を実感し、町への親近感、共有感を獲得しているのである。そうした場所が町なのである。重要なことは町の様々な情報に気づくこと、そして、アンテナのような、人と町との接点をつくってゆくことである。現代はこの町のアンテナが急速に姿を消してゆき、そのことにより町が見えなくなってしまっているのである。人と町とをつなぐ接点を持ちうることにより町はある特別の景観となって現れるのであり、それは地域に共有され、町づくりへとつながってゆく。町の多様な表情に潜むこうしたアンテナや接点を具体的な表情の奥に発見してゆくことで生きた町が見えてくる。町が語りかけてくるのである。」

2007年8月10日

一宮市博物館

大学の同僚と一宮市へ行った帰りに僕のかかわった一宮市博物館に行きましょう、ということになって、久しぶりに訪ねてきました。閉館間際の突然の訪問にかかわらず、学芸員主査の伊藤和彦氏に丁寧に案内していただきました。 よくできた施設にはどこでも例外なく、このように熱意があり、施設を愛するスタッフがいらっしゃいます。












一宮市博物館は妙興寺に隣接し、緑あふれるものの、道路からは小さなみちを通り抜けるように配置され、町からは少し入りこんで位置していたため、大きな円弧状の展示室を二つつなげることで、人を引き込むアプローチを作っています。外部の市松模様となった凹凸状のスクラッチタイルも、内部のホール壁面を彩る絹谷幸二氏のフレスコ画もとてもきれいで完成後20年を超える建築とは思えませんでした。

内井事務所ではすべてのプロジェクトを二人で責任を持って行うというペアシステムで設計が行われていました。1985年の設計当時は一宮市博物館のほか、大きなプロジェクトが高円宮邸、熊本テクノポリスセンター、横浜市少年自然の家(宿泊棟)はじめ多数進められており、忙しさと充実さが交じり合う1年でした。僕は高円宮邸に専従しながら、時々この一宮市博物館にかかわりながら進めていたので、少なからず心に残っています。

伊藤氏によると、外装のリニューアルと同時に内部の展示方法も再検討を予定しているとのことでした。当時は毛織物の町として古い織機などを主とした常設展示が中心でしたが、市民のさまざまな活動に向けた大きな企画展示室の必要性や織機よりももっと新しい一宮の姿も紹介して欲しいという要望が高まってきたそうです。

市民が自らの町の歴史を知り、その拠点を作るという第1段階から、そこで自ら、今の町に対して活動を行う次の段階へと公共施設の役割が変わってきたようです。

このようにいい建築を作るためには、設計段階から発注運営者側に熱意のある協力的な強力なスタッフがいることが不可欠ですが、建築が完成し、運営段階においても、そのような体制が引き継がれることで、理念や情熱は引き継がれ、絶えずいい状態を保ち、町の状況の変化にも対応できるものなのです。それが愛され、長く生きながらえる建築となる手がかりなのです。

2007年8月9日

阿久悠の世界2/ホットとクール

「上野発の夜行列車 おりた時から 青森駅は雪の中 」

阿久悠さんはその代表作「津軽海峡冬景色」について、たった一文で「上野から青森へ」と舞台を進めたと豪語しています。

詞とはいきなりトップギアで全開の必要があるということであり、詞の大きな特性かもしれません。一方、曲はその多くはイントロダクションがあり、しだいに盛り上がり、エンディングを迎えることになります。

作曲家はイントロから次第に、段階的に曲の中へ引きずり込んでゆきますが、作詞家は限られた文字数の中でイメージやストーリーを伝えなければならず、一気に勝負に出ることが要求されます。紫式部であれば、五文字の枕詞で詩の舞台背景を説明できたわけですが、現代の作詞家は一気にまくし立てる必要があるのです。

いわば。作詞とはホットなのですね。

「ホットとクール」とは挑発的にメディア論に取り組んだ社会科学者であるマクルーハンが立てた仮説です。ホットとは温度、体温が高いという視点もありますが、情報が精緻であり、直接的視点を持ったメディアのことのようです。

ホットとは受け手の情報過多につながり、次第に詩性は薄れていく運命にあり、逆にクールは受け手に情報を考える余地を残し、詩性を内在しているとも考えられます。危うい、ホットな詞の直接的表現は誰にも受け入れられるポップな表現であるものの、1歩間違えば、詩ではなくなる可能性も高いのだと思います。 ホットとクールの微妙な混在の中に歌謡曲の価値があるのかもしれません。

阿久悠さんのホットな表現によって世に出てきた多くのアイドルたちは、その後、成功したその表現方法から距離を置くことになってゆきます。アイドルたちも大人への成長に合わせて、クールへ向かうのです。岩崎宏美は、ロマンス、熱帯魚、、、、思秋期  ホットからクールへ向かい、桜田淳子や山口百恵(阿久悠さんの作詞ではありませんが)は中島みゆきや阿木子へと作詞家を変えることでホットからクールへと変身する。

また、姿勢を変えなかったキャンディーズは「普通の女の子」に戻り、ピンクレディは一気に幕を下ろすことになってしまいました。

ホットとクール、たぶんその区分をはっきり区別することは難しいのだと思います。勅裁性と多義性、わかりやすさとあいまい性、距離感、言葉と行間、、、、、ホットとクールとはメディアの問題、つまり僕たち自身の関係の持ち方であり、それは同時にコミュニティのありかたの問題でもあるでしょう。

2007年8月7日

阿久悠の世界4/脱モダニズム

67年、阿久悠さんはデビューする。それは、学生の改革運動が世界的にも終わりを告げるころ、近代が終わろうとしていたころ。

ちょうど、このころクラスメートの女の子たちはフォーリーブスに夢中になっていた。そして、それから3年、スター誕生が始まり、森昌子、桜田淳子、山口百恵、岩崎宏美がデビューする。歌が軽やかに、意味を失い、歴史を吹き飛ばす。阿久悠が近代化され、自立し始めた日本の歌を一気に解体していったのだ。それは僕たち若者の歓喜の言葉が新しい歌を作り上げていったということだろう。

言葉の魔術師は実は言葉を解体し、新しいシチュエーションで展開していったのであり、阿久が通った跡には子供たちによって、新世代によって、新しい基準が生まれていっただけなのではないだろうか。

しかし、それこそ、ポストモダン。


それは主義や主張が終焉を迎え、社会が次の時代を模索していた時代でした。建築の世界でも磯崎新が、建築はこうあるべきという、近代主義思想を解体し始めたときだった時だと思います。そんな時代に阿久は登場する。

2007年8月6日

阿久悠の世界/孵化過程

作詞家、阿久悠さんが亡くなられた。5000曲を超える膨大な作詞をされ、昭和を代表する作家の一人と評されています。

「歌は世につれ、世は歌につれ。」と言われる歌謡曲の世界で、社会が渇望する、新しい時代の歌をつくるということに挑戦した作詞家です。いかつい顔にかかわらず、「あなた、お願いよ~」(岩崎宏美のロマンス)などというフレーズがでてくることに大きな違和感を感じたり、「スター誕生」というオーディションで素人同然の応募者にきつい言葉で審査をしていたことを記憶していたり、僕自身の脳裏にも焼きついている作家です。

その「スター誕生」とは、彼が新たな時代を嗅ぎとるためにとった一つの戦略です。一人ひとりの応募者から、新たな歌手を発掘する、選んでゆくことの過程で、自らの価値観を探し求めていたのではないかと思うのです。一人のスターを探し求めるというより、時代の精神、時代の求める方向を探し求める手段ではなかったでしょうか。
「元々、スターの基準があったわけではない。」と彼があるところで述べています。もちろん、そうした基準などあるわけはありません。だからこそ、新たな創造といえるのであり、答えのない、新たな創造を行うために常に試みられる、必要不可欠なものです。

ただ、それは簡単なことではないでしょう。「歌は世につれ、世は歌につれ。」と言われるその言葉に世の作詞家や作曲家はどれだけ苦しめられていることだろう。

しかし、世が従って行くのは何も歌謡曲や流行歌だけのことではない。われらが建築家も自分のイメージが、世を問い、世に従われるものかは非常に苦しむことになる。生みの苦しみとはどの世界にも必ず存在するものなのです。

そうした新たな創造の時に阿久悠の頼ったもの、それは一人ひとりの応募者の姿であり、総計何万という新たな世代の姿であったのだろうと感じます。「スター誕生」とは孵化過程そのものなのではないでしょうか。

2007年8月5日

生物多様性論

生物多様性論は70年代より、議論が進められ、80年代に生物多様性にかかわる学問がBiodiversityと定義付けられ、92年、ブラジルでの国際会議において条約化され、広く一般化したようです。


人類は単一の種で永続できるものではなく、多くの生物が歯車のように関係しあって、永続できるのだという理念であり、だから、ちいさな虫さえ大切にしなければならない、殺生を禁ずる仏教の教えみたいなものですね。

また、それは、生物に与えるさまざまな人間の行う非人間的な対応が結局人間に戻ってくることを描いた、レイチェルカーソン著、環境問題の古典といわれる「沈黙の春」で警鐘されていることでもあります。

これは人間的な視点だけではなく、多くの生命に敬意を払うことであり、この多様な生命の姿こそが、生態系を豊かに保つ根本であることが理解されてきたのです。

かつて、今西錦司の「なるように進化する」、「なるべくして進化する」という進化論に傾倒していました。競争原理や自然淘汰によって、進化してゆくと一般に考えられるダーウィンの進化論とは違い、共存の中から、必要に応じて変わるべきときに変わるべくして変わってゆく、というのが今西理論です。つまり、それは生態系全体が必要な方向へと、一気に変わってゆくということではないかと感じています。

このように考えるとき、生物だけではなく、生物が構築する時空間を含めて問題意識として取り込むことができ、多くの問題と関係しあい、繋がってゆくのではないでしょうか。
生態系の中には生命遺伝子だけではなく、文化遺伝子、社会遺伝子があって、系の要請によって変わるべく変わるのではないかと思うのです。

人の社会も含めて、それらを生態系-系と考えることで、しくみとつながりが見えてくるのではないでしょうか。見えていない部分、繋がっていない部分をさまざまな領域からつなぎ、現す必要があります。生命や地球の問題を生態系の問題としてとらえる時、抽象的で、遠く離れた、見知らぬ問題が身近に描かれた事柄として見えてきます。

僕たちのまわりの社会を生態系としてとらえるとき、生命を支える遺伝子による世界、文化を生み出す遺伝子が示す情報、人の活動を支配する方向性をつくる社会遺伝子が、自然からコミュニティにいたるまでの一続きのストーリーとして現され、「環境」という姿が身近に、リアルに見えてくるのではないでしょうか。それこそが、「環境」と考えるものではないかと感じています。

2007年8月4日

町を描くことから3

ウォーキングマップとはいつも同じ結果を伴うかどうかはわかりません。人によって、時間によって、季節によって、異なる結果に導かれるかもしれません。しかし、それこそ「まち」ではないかと考えます。人のその時、時の視線による、本当のまちを探究、描写する手段となるはずです。



今日は第一部、第三回、6月22日分を紹介します。

「3.まちとはどこにもある

岡崎とはどこにあるのだろうか。それはどこか特別の場所のことを指しているのだろうか。

しかし、それは特別な景観ではあるが、私たちにとっては何か特別なものではない。町はいたるところに存在して、私たちの周りの空気のような存在である。普段の町は、歴史がない、重みがない、きれいでない、統一感がない、城下町らしくない、などそんな印象があるかもしれない。しかも、その岡崎は空地が連なり、また、巨大なビルと古い小さな家屋が狭間をつくるなど、空洞化の町と言われている。

しかし、それらすべて岡崎なのであり、それらが岡崎という歴史や文化を持った独自の景観をつくっているのである。空洞化と言われる場所も、建物が解体されて隣接する建築の様子がよくわかる。町の仕組みも見えてくる。空地の先には丘の稜線も見えてくる。また、昔の大きな樹木が残されていて、ひとつの大きな中庭のようにも感じられる。空洞化は町の内部に光をもたらし、風を通し、緑を充満させるものであり、新しい町の息吹さえ感じるのである。

一面だけを見ていると、岡崎は異質なものがぶつかり、混沌とした衰退の町に見えるかもしれない。しかし、古いものだけでなく、新たなものも生まれているのであり、それらは混在し、町に広がるまだら模様のように感じる。新旧、大小、粗密、直線と湾曲、光と陰など、町をつくる多様な断片の宝庫である。
これこそ都市の証である。岡崎は異質なものがぶつかってそれらが程よく全体像を形づくっている多様な価値観に溢れた町なのである。その豊かな多元的な都市の中で、一つの視点で町を見るから空洞化を嘆くのである。岡崎城、城下町、康生通り、都心などという一元的価値から、多元的な価値の溢れる都市へと岡崎は変貌しているのであり、それらの町の様々な断層や空洞化や混在性の中にこそ、町の本質が見えてくるのである。空地の大きな樹木、通りの奥の家屋の断面、視線の先の丘の稜線、緑に覆われてしまった住宅、大きなビルに隣接する古さが魅力の店舗、などなどそうしたものが重なりながら都市は成長する。

同じような建築が建ち並ぶ通り、統一されたスカイライン、刈り込まれて整然とした街路樹など逆に息がつまらないだろうか。町らしくないのではないか。空地が奥行きをつくり、大きな樹木が視線の先にあり、古い住宅の連なりが人間らしさを生み、大きな看板や目立つサインに親しみを感じる。そこには人の営みが生きている。それが岡崎の町である。多様な顔があって、表情が現れる。人間的な、襞のある、深みのある表情が浮かんでくるのであり、そこに、人の思いも感情も、そして人の滞留も生まれてくる。それが町であり、そこから様々な交流が始まるのである。それがコミュニティの姿であり、町の形である。

岡崎には多くの可能性が息づいている。それに気がつかなければ町は見えてこない。多様性の町をどのように感じるか。多様性が混在することにこそ、岡崎の面白さがある。しかし、均質化、統一化、一元化のなかでそれすらも壊されているのではないだろうか。見えない町は、簡単に壊れてゆく。生活を重ねることが空間を積み上げることになり、時間を重ねることが歴史を重ねることにつながるのであり、岡崎の町はこのようにしてつくられているのである。」

歌舞伎と大相撲

伝統とは何か、文化とは何かを考えさせられます。

サーフィンを楽しむ新しさを持った横綱や大学をでて新たな道を開拓した横綱、ハワイの文化を持ち込んだとても強い大関。とても新鮮で、新たな地平を開かれる思いがしたものです。世界が広がり、文化が一気に開花したように感じたものでした。

しかし、彼らはもちろんのこと、多くの新しいものは、伝統や品格、教育という言葉のマジックによって押さえつけられてきたように感じます。

はたして、伝統とは閉鎖的なものなのでしょうか。 (そういえば、太田房江府知事は土俵に上がれたのでしょうか。)

一方で、歌舞伎のニューヨーク公演の様子も入ってきます。こちらはどんなにしきたりが重くても、そしてどんな不祥事があろうと、舞台そのものの面白さで勝負できるようになった、見てもらえるようになったのではないでしょうか。古さの中に新しさを、未来を感じます。

しきたりや伝統とは何か。郷に入れば郷に従う、しかし、世界に開かれれば、世界に従う。

伝統の本質とは何か、それは舞台や土俵の上にしか、表れてこないもののように感じるのですが、、、。

音楽家が音に思いを込め、画家がその一ふりの緻筆に工夫を凝らし、作詞家はその言葉の巧みさに命をすり減らす。弓道家は心を鎮めて的の中心を射抜き、アスリートは0.1秒、0.1cmにこだわってわが身を削る。

そんなに複雑なことはないし、教育すべきこともないように感じるのです。

2007年8月3日

2002年8月3日内井昭蔵死す

今日はとても大切な日です。5年前の今日、僕の師、内井昭蔵は明治学院のキャンパスの成果を建築学会大会に発表を行うために金沢へ向かう羽田空港で突然亡くなったのです。学会での発表の成果はその前の1ヶ月、僕と内井さんとが長い間話し合って作ったものだったので、朝、死亡連絡の電話が来た時には、資料を追加するための要請の電話だと思ってしまったくらいでした。

内井さんが亡くなった半年後、17年かかった明治学院大学のプロジェクトがすべて完成し、僕は独立しました。

内井さんは愛地球博でもプロデューサーとなった菊竹清訓氏の一番弟子で、YMCA野辺山高原センターや世田谷美術館、高円宮邸や今上天皇の吹上新御所、明治学院大学や国際日本文化研究センター(日文研)などの設計担当建築家としても有名です。東海地方では一宮博物館や高浜かわら美術館を設計しています。

内井さんはいつも、スタッフの姿を見つめ、そして、建築の(もちろん町でも同じですが)主役であるそこで活動する人たちの姿から、建築空間を思い描いていました。大上段に構想や哲学を振りかざすのではなく、小さな一つ一つの部分の問題から、不合理を戒め、新しい何かを見つけるべく、徹底した個の部分からのアイデアを積み上げ、大きな構想を作り上げる建築家でした。

内井さんは葉っぱを描きながら、枝を付け加え、知らないうちに太い大きな幹を描きあげるように進めていました。葉から枝、枝から幹を、太い幹を描く類まれな建築家でした。今では、僕も葉から幹を思い描くようになっています。

また、自分の中にしっかりと答えを見据えていても、周りの意見を聴き、「ねぇ、どう思う?」が口癖でした。事務所の中でスタッフとやりとりしても、また、外部で多くの建築家をコーディネートする時も、まったく同じであったろうと感じます。

建築においてもまちづくりにおいても、「ゆるやかな統一」が内井さんの哲学でした。ゆるやかな統一の背後にある、個の自由性、独自性を生かすことこそが彼のデザインでありました。そうした彼の遺志を継ぐため、今日、8月3日はいつもにまして、仕事に励まなければと思っています。

2007年8月2日

町を描くことから2

ウォーキングマップはまちを身近な、主観的な目で見るための、道具であり、目そのものです。これまで、主観的な研究は排除されてきました。研究とは客観性を持ち、領域を限定し、成果の上に立脚しなければならなかった、これまでの概念ではなく、より実践的で、誰にも開かれ、自身の意思が表れるような方向を目指しています。しっかりと、まとめる時期にきたのではないかと考えはじめました。


今日は第一部、第2回、6月21日掲載分を紹介します。

「2.岡崎らしさ

岡崎の町を横断する名鉄本線に乗っていると、田園風景から住宅地へと次第に街並みが変わり、ある地点から岡崎らしさが突然見えてくる。町が独自のものと感じられる領域に入るのだ。町は様々な顔を持ち、多様性を持つものであるが、そうした町にも明確に感じとれる境界線が出現する。そこには岡崎らしさを持つ固有の町の姿、すなわち岡崎の町の風景が確かに感じられるのである。

それは、単に川を渡る橋が町のゲートの役割を果たしているからではない。また、岡崎城というシンボルが見えてくるからでもない。住まいが集まり、うごめき、寄り添ってできる集住の形全体が醸し出す、何か特別の景観を感じるのである。田畑を開発してできる町の構造から人の住まいが重なる町へと変わり、様々な人の営みが織りなされた町の姿が見えてくるのである。様々な痕跡が、人の生活や活動の痕跡が積み重なって、周辺の地域とは違った町の形やしくみをつくっているのである。そこには岡崎らしい景観と言えるものが確かにある。

それは象徴としての岡崎城でも、城下町でも、康生というかつての繁華街でもない。生活の重なり、時間の重なりが生み出す雰囲気こそ、町であると感じるのである。それが岡崎らしさを与えるのだと思う。そこが面白いのである。

歴史ではなく、時間の重なり。場所ではなく、空間の重なり。それらが町を形づくる。

学生たちは東岡崎駅前を「さびれた地方観光都市の風景」と言う。また、その中心と言われる地域を岡崎市民自ら空洞化の町とも呼ぶ。しかし、それは近視眼的な見方である。むしろ、岡崎城を町のシンボルとしてみなすから、康生通りを中心市街地再生の目標とするから、また、豊かな生活の場を観光都市と位置づけるから町が見えなくなってしまうのである。岡崎城、中心市街地、観光都市など、こうしたお決まりの言葉が町を見えなくしているひとつの要因ではないだろうか。それらは現実の町を見ないで作られた概念としての町の姿である。そこには現実感はないし、市民も不在である。

しかし、岡崎の町はとても面白いと感じる。初めて訪れた時からその確信がある。長い名鉄本線沿線においても、岡崎は他とは違う何か魅力を感じ、興味深い、ある特別の景観持った町なのである。そうした魅力は何から生まれてくるのだろうか。

現実の町を見る以外にそれを感じるすべはない。しかし、実際は見ているようで見えていないものある。自分の町をよく見て欲しい。それは自分たちの生活の場面であり、活動の痕跡なのである。町とは人の営みが形になったそれぞれの生活の場面や場所であり、それらは積み重ねられ、また新たな活動の源泉となる。そこには人の姿がつくる様々な形が溢れていて、それらが互いに親密に関係しあって、町を形づくる。

町とは住まう人たちが作る時間や空間の重なりである。そこに町の形がにじみ出してくる。岡崎はそうした人の営みが時間的にも空間的にも幾重にも積み重ねられた厚みのある町なのである。それが他とは違う魅力を感じる特別の景観をつくり出しているのだ。そうした住まう人たちの視点から町を考えることで町はより豊かさを持つ。岡崎らしさを重ねてゆく時、その中心となる地域は元気を取り戻し、シンボルが生き、他の町から多くの人たちが魅惑されて訪れる町となる。」

建築とファッション

東京、六本木の新国立美術館http://www.nact.jp/で「スキン+ボーンズ/1980年代の建築とファッション」展が開催されています。新国立美術館は数年前、黒川紀章事務所や僕が所属していた内井昭蔵事務所などが指名プロポーザルに参加を要請されて競っていたプロジェクトです。結果は残念ながら黒川事務所が選ばれたのですが、、。

新国立美術館は収蔵作品を持たず、大きな巨大な空間を持った展示空間がその大部分を占める貸館的美術館です。巨大な展示空間を確保することが第1の条件であり、そこへ多数の搬入者動線をスムーズに、明快にすることが第2の条件であり、一般者の動線の条件が最後になるのですが、それも多数の展覧会へくるそれぞれの訪問者が混乱しないように明快に区別できるようになっています。とても、巨大でシステマティックで単純な建築なのです。

空間の領域を作る、スキンをどのように考えるか、考案するかの歴史がつづられている展覧会でした。

領域を囲い込むこと、環境を取り込むことが建築であり、ファッションですが、同時に、それによって形作られたスキンは自分自身に代わって、何かを表現しだします。ファッションと建築というその規模や形状、存在する時間が異なろうとも、その部分に葛藤するデザイナーの意識に違いはないようです。

たぶん、自由で何でもできると思われているファッション-服飾デザイナーはむしろ規範を求めてさまよい、1枚の布に多くの意味を持たせていったのであり、一方、習慣や制度、素材や制作など従来の規範に我慢がならない建築家は、柔らかで、はかなく、ゆらめくようなスキンをつくりあげてきました。建築は今や、その骨格となるボーンにまで柔らかさを展開し始め、建築の考え方を根底から覆そうとしています。重力からの乖離であり、同時に、そこで活動する人々への目線を強めているのです。

今、僕も古い小さなビルの外装リニューアルを行うために、金属のメッシュ(金網)で幾重にも覆い、柔らかで、透けるようなデザインを行っています。