2007年8月16日

木を切ること、切らないこと。

大きな森のような木々を切ってしまうことがあります。鳥の糞、落ち葉、通風の悪さ、虫、いくつかの要因があると思います。木を切ってほしいという人も、切らないで、という人もいます。
好き嫌いや面倒であることで、行政は市民の言うなりになってはいないでしょうか。切ってくれといわれてはまちの財産を切り、切ってほしくないと言われて、では残す。問題の本質が見つからないまま、現実は、まちの大きな緑はこのように個人の強い情熱によって守られています。

こうした、貴重な活動をもっと共有の場に載せる必要があります。行政にとっては利害がかかわると調停、調整が難しいのだろうか、、、。しかし、調停の中にこそ、対話の中にこそ問題の手がかりがあるように思うのです。矛と盾が潜んでいるのです。両者の言い分をよく聞くことによって、利害ではなく、問題の本質が見えているはずです。それはマーケティングでもあり、コミュニケーションでもある。そこをないがしろにしたら、行政の意味がなくなってしまいます。

まちには個人の資産となっている大きな森が突然、ディベロッパーへと売却され、開発されてしまい、なくなってしまうことがよくあります。周辺住民は反対運動を起こし、その森を守ろうとします。でも、多くは、それまで他人の緑の恩恵を受けてきただけで、緑を大切にしていたわけではなかったのですね。木が切られるようになってようやく、コミュニケーションが生まれます。



また、木が管理者の違いによって、道路側の枝が払われてしまったり、悲壮な姿を現している場合もあります。しかし、少し視点を変えれば、これがおかしいものだという視点に立つことができれば、木を守るだけではなく、コミュニケーションが生まれるはずです。

こうした緑豊かな町並みを条例によって守ることも多々あります。共有の概念を文書化することも大切かもしれませんが、規制することではなく、まず、まちのあるべき姿を見出す必要があります。豊かな緑の土手、伝統となった桜のトンネル、大きなはぜの大木、水辺の散策路、街路の豊かな緑、、、そうした、当然の意識を共有することで、その次の緑が育ってゆくのではないでしょうか。

でも、もういい加減、緑は大切なんだというスタンスができてもいいのではないですか。木を切って鳥を追い出したら、その行為は次は僕たち人間に降りかかってくる(もうすでに降りかかっている)ということを実感できる想像力が必要です。

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