2007年8月19日

阿久悠の世界3/詞のできあがる時

阿久悠はスタジオでの録音によく立ち会ったと聞きます。歌の完成をいつと考えていたか、がよく現れている行動です。作詞家にもかかわらず、彼は声を出た瞬間に、歌ができあがるのだと考えていたのではないでしょうか。


言葉としての詞とはイメージの共有のための手段でもあり、「上野を出発し、今ともに青函連絡船で函館に渡る」というイメージを共有させられた時から、詞は、歌は、誕生するのではないかと感じるのですが、言葉の意味することだけで終わらないところがただの作詞家ではなかったと言われるひとつの原因ではないでしょうか。

言葉の本質。それは「あー」、「いー」、「うー」、「えー」、「おー」、、母音を発すること、あるいは叫ぶことと言われます。それは、また、言葉の原点です。この母音は、詞の言葉の中には表されませんが、この母音を声として発することが歌にとって重要なことではないでしょうか。

言葉やメロディによって伝えられる情景や情感などよりも、この身体の奥底の叫びのような言葉を発することが歌の本質です。その身体の奥底の叫びを聴かなければ、感じなければ、歌にならないのだと阿久悠は考えていたのではないかと思います。

それは演歌だけではなく、ポップスも彼にとっては同じことだったのです。大人の歌手には大人の叫びを、少女の歌手には少女の叫びを求めていたのだろうと思うのです。詩を作る作詞家ではなく、歌を歌わせる作詞家だったのですね。

「あなた、お願いよ~お~、席をたたないで~え~。息がかかるほど~お~、そばに居て欲しい~い~、、、」(岩崎宏美 ロマンス)

言葉を発する本当の意味を社会に伝えたかったのだと思う。それが詩ではない、詞と歌の魅力であり、それでこそ、世は歌につれと言われるのだろう。次の世を予見することは難しいが、それは今を歌うことでしか、生まれてこないように思う。

そして、この身体の叫びのなかにこそ、歌の真髄がある。建築も発想のなかから誕生しますが、それはつくってゆく現場のなかで本当の姿をあらわにしてゆきます。最後の最後までこだわりを持って、作りきることが要求されているのです。

自分のかかわることが、そこにかかわる身体と強く通じること、そこがとても大切なことだと感じます。建築づくりも、まちづくりも、ものづくりも。

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