2007年8月5日

生物多様性論

生物多様性論は70年代より、議論が進められ、80年代に生物多様性にかかわる学問がBiodiversityと定義付けられ、92年、ブラジルでの国際会議において条約化され、広く一般化したようです。


人類は単一の種で永続できるものではなく、多くの生物が歯車のように関係しあって、永続できるのだという理念であり、だから、ちいさな虫さえ大切にしなければならない、殺生を禁ずる仏教の教えみたいなものですね。

また、それは、生物に与えるさまざまな人間の行う非人間的な対応が結局人間に戻ってくることを描いた、レイチェルカーソン著、環境問題の古典といわれる「沈黙の春」で警鐘されていることでもあります。

これは人間的な視点だけではなく、多くの生命に敬意を払うことであり、この多様な生命の姿こそが、生態系を豊かに保つ根本であることが理解されてきたのです。

かつて、今西錦司の「なるように進化する」、「なるべくして進化する」という進化論に傾倒していました。競争原理や自然淘汰によって、進化してゆくと一般に考えられるダーウィンの進化論とは違い、共存の中から、必要に応じて変わるべきときに変わるべくして変わってゆく、というのが今西理論です。つまり、それは生態系全体が必要な方向へと、一気に変わってゆくということではないかと感じています。

このように考えるとき、生物だけではなく、生物が構築する時空間を含めて問題意識として取り込むことができ、多くの問題と関係しあい、繋がってゆくのではないでしょうか。
生態系の中には生命遺伝子だけではなく、文化遺伝子、社会遺伝子があって、系の要請によって変わるべく変わるのではないかと思うのです。

人の社会も含めて、それらを生態系-系と考えることで、しくみとつながりが見えてくるのではないでしょうか。見えていない部分、繋がっていない部分をさまざまな領域からつなぎ、現す必要があります。生命や地球の問題を生態系の問題としてとらえる時、抽象的で、遠く離れた、見知らぬ問題が身近に描かれた事柄として見えてきます。

僕たちのまわりの社会を生態系としてとらえるとき、生命を支える遺伝子による世界、文化を生み出す遺伝子が示す情報、人の活動を支配する方向性をつくる社会遺伝子が、自然からコミュニティにいたるまでの一続きのストーリーとして現され、「環境」という姿が身近に、リアルに見えてくるのではないでしょうか。それこそが、「環境」と考えるものではないかと感じています。

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