2007年8月4日

町を描くことから3

ウォーキングマップとはいつも同じ結果を伴うかどうかはわかりません。人によって、時間によって、季節によって、異なる結果に導かれるかもしれません。しかし、それこそ「まち」ではないかと考えます。人のその時、時の視線による、本当のまちを探究、描写する手段となるはずです。



今日は第一部、第三回、6月22日分を紹介します。

「3.まちとはどこにもある

岡崎とはどこにあるのだろうか。それはどこか特別の場所のことを指しているのだろうか。

しかし、それは特別な景観ではあるが、私たちにとっては何か特別なものではない。町はいたるところに存在して、私たちの周りの空気のような存在である。普段の町は、歴史がない、重みがない、きれいでない、統一感がない、城下町らしくない、などそんな印象があるかもしれない。しかも、その岡崎は空地が連なり、また、巨大なビルと古い小さな家屋が狭間をつくるなど、空洞化の町と言われている。

しかし、それらすべて岡崎なのであり、それらが岡崎という歴史や文化を持った独自の景観をつくっているのである。空洞化と言われる場所も、建物が解体されて隣接する建築の様子がよくわかる。町の仕組みも見えてくる。空地の先には丘の稜線も見えてくる。また、昔の大きな樹木が残されていて、ひとつの大きな中庭のようにも感じられる。空洞化は町の内部に光をもたらし、風を通し、緑を充満させるものであり、新しい町の息吹さえ感じるのである。

一面だけを見ていると、岡崎は異質なものがぶつかり、混沌とした衰退の町に見えるかもしれない。しかし、古いものだけでなく、新たなものも生まれているのであり、それらは混在し、町に広がるまだら模様のように感じる。新旧、大小、粗密、直線と湾曲、光と陰など、町をつくる多様な断片の宝庫である。
これこそ都市の証である。岡崎は異質なものがぶつかってそれらが程よく全体像を形づくっている多様な価値観に溢れた町なのである。その豊かな多元的な都市の中で、一つの視点で町を見るから空洞化を嘆くのである。岡崎城、城下町、康生通り、都心などという一元的価値から、多元的な価値の溢れる都市へと岡崎は変貌しているのであり、それらの町の様々な断層や空洞化や混在性の中にこそ、町の本質が見えてくるのである。空地の大きな樹木、通りの奥の家屋の断面、視線の先の丘の稜線、緑に覆われてしまった住宅、大きなビルに隣接する古さが魅力の店舗、などなどそうしたものが重なりながら都市は成長する。

同じような建築が建ち並ぶ通り、統一されたスカイライン、刈り込まれて整然とした街路樹など逆に息がつまらないだろうか。町らしくないのではないか。空地が奥行きをつくり、大きな樹木が視線の先にあり、古い住宅の連なりが人間らしさを生み、大きな看板や目立つサインに親しみを感じる。そこには人の営みが生きている。それが岡崎の町である。多様な顔があって、表情が現れる。人間的な、襞のある、深みのある表情が浮かんでくるのであり、そこに、人の思いも感情も、そして人の滞留も生まれてくる。それが町であり、そこから様々な交流が始まるのである。それがコミュニティの姿であり、町の形である。

岡崎には多くの可能性が息づいている。それに気がつかなければ町は見えてこない。多様性の町をどのように感じるか。多様性が混在することにこそ、岡崎の面白さがある。しかし、均質化、統一化、一元化のなかでそれすらも壊されているのではないだろうか。見えない町は、簡単に壊れてゆく。生活を重ねることが空間を積み上げることになり、時間を重ねることが歴史を重ねることにつながるのであり、岡崎の町はこのようにしてつくられているのである。」

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