2008年2月2日

呉服店からレストランへ

古い中華料理店に入ってきました。表は地下もあるコンクリートの2階建て、なかに入ると昔ながらの京都の町屋で奥の座敷でいすに座って食事をいただきました。坪庭や離れもあり、通り庭と一番奥の蔵がバーとなっていて、様々に文化が融合された空間を感じてきました。

京都の中心地では町屋を営んできた古い呉服店などが閉鎖に追い込まれていますが、同時に古い町屋はその存在を失ってしまいます。

 
しかし、京都の中心地ではこの古い町屋の価値が高まっているようで、これまでのようにつまらないマンションやビルに建て替えられてしまうのではなく、近年は主のいなくなった後にレストランやブティックが入って継承しています。もちろん町屋の歴史のなかに、新しいインテリア感覚を挿入しながら、次の文化を生み出しています。

古い町屋の持つ雰囲気が消費者に受け入れられ、経営者がその価値をやっと認識できたのではないでしょうか。壊すよりも古いもののよさを評価できたのです。一部の新しい建築が刺激を持って新たな文化を生み出しているにもかかわらず、壊した後にできる多くの新しいビルが興味をひかない、陳腐でつまらないものであって、生産性も文化性も持たないことがやっとわかってきたように感じます。建築とは装置であり、新たな価値を生み出すものです。そして、それが継承されて文化となって社会に残ってゆくものです。


かつては呉服店が新しさと古さを併せ持って、生活を生み出していたのであって、たとえ、呉服店が閉鎖されても、その時々に誰かが文化を引き継げばいいのではないでしょうか。ただ、引継ぐ視点、歴史や文化などその視点をしっかりと持っていれば、まちも同時に引き継がれるのではないでしょうか。

古い町屋だけではありません、京都では昔の古い小学校が文化センターやギャラリーとして継承されています。当時は学校も、そして呉服店も、そして京都では多い老舗のコーヒー店やパン屋さんも、心をこめて作られています。新たな精神と情熱を持って、文化を、そしてまちを刺激していたのでしょう。

まちにはマスタープランという、まちを地域ごとに性格付けし、分類しただけの区画割であるゾーニングがいまだに幅を利かせています。それには新しい精神も情熱も文化も、そして本物の歴史もない。とはいっても企業家の野心もない。

早く気がつかないとマスタープランが更新されるたびにまちが壊れてゆくでしょう。そんなプアなマスタープランが横行しています。

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