2008年2月27日

評価への評価

様々なところで評価を下さなければなりません。建築デザインでも実際に完成するまでは仮説によってプランを作成しながら、そのつど評価を行ないながら、進むべき案の方向を決めてゆきます。その最も重要な手法はシミュレーションを実施することです。そこにはまだ見ぬ利用者の姿を思い描くような想像力が必要とされます。

しばしば各項目ごとに◎〇△×をつけたり、5段階で比較することもありますが、正確にその評価を下すことはできないと感じます。更にそれを総計して比較したりもします。ナンセンスですね。

公共施設や市民活動にはそのような評価が今でも行なわれているのではありませんか。あるいは入館者数や貸出数だけを過大にしたり、、、、、。実は大学の授業に対するアンケート評価も同じなのです。無意味とわかっていても必要なのです。評価したという事実があればよいようです。

しかし、大学にはいつも授業に30分遅れてくる教員がいたり(ということはそれを待っている学生がいるわけですが)、板書ばかりでとてもノートが追いつかない授業があったり、やばい映像ばかり流す教員がいたり(実は僕ですが、やばいというのは最近は両面に使うらしいです)、、、そういうことが学生自身の口から直に聞こえたり、WEBサイト「みんなの授業」に書き込まれたりしています。そのような評価のほうがよほど生きた評価です。

つまらない評価を議論し、役に立たない評価を実施しているのは誰でしょうか。そして誰がどのようにそれを利用しているのでしょうか。つまらない評価を議論し、利用している人たちがいる、何より、ここが問題です。

先日のイージス艦の事故でもその後のCGによるリアルなシミュレーションによって、一連の状況が明らかにされています。その明らかになった事実が正確に評価を物語っているはずです。事実を明らかにできたとき、評価は自ずと明らかになります。評価とはやってきたことをきめ細かにシミュレーションすることであり、シミュレーションすることで評価は見えてきます。

仮説、シミュレーション、検証、評価、、、、、、設計やデザインとはこの繰り返しの作業です。何度も繰り返しながら、考えもしなかった評価を生み出すために何度も繰り返します。インスピレーションと言われるとてつもないアイデアが出るまで繰り返します。絶えず、CGやモデル化によって、そしてたいていは想像力によって検証しているのです。

評価とはこのようにして初めて、成果を上げることができるのではないでしょうか。活動を行い、それをシミュレーションし、検証する、絶えず事実を明らかにすることで評価は生きてくるはずです。

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