2008年2月3日

沈黙の春

レイチェル・カーソン著「沈黙の春」は環境問題や環境を身近に考えるための入門書としてよく知られています。周囲のさまざまな状況を化学物質で沈黙させることで人間の効率性を最大限にしてきたそのおろかさを描いています。そして、その本当の恐ろしさは数年後、数十年後、僕たちに降りかかってくることです。

この何日か、またこのレイチェル・カーソンの警句を思い起してしまいました。

これは1950年代のアメリカ、60年代の日本、そして現代の中国だけに起こっている状況ではなく、また、遠い化学物質の世界のことだけではないように感じます。

生物の多様性をダーウィンの単純な進化論のように論理で説明することなど無理なことで、簡単に処理してしまうことは難しいことです。(僕はダーウィンは信じられないですが、日本には今西錦司によるすばらしい進化論があります。)

多様性を受け入れる原理があるとすると、まず、すべてを受け入れてからその方向を考えることでしか答えは見つからないように思います。まず答えありきの、問題-解答が一元的で受け入れる前に答えを決めてしまっている今の社会のやり方は、誰かを、どこかを、排除して対処することに結びついてしまいます。

そういう固定的な考え方は、化学物質のように僕たちの身体の中にも、精神にも、まちのなかにも、社会の制度にも蓄積されてしまっていることでしょう。

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