2009年6月23日

市民の現実性

政治家は現実的であると言われています。政治家自身もそのように述べて、規制の権益の中に飲み込まれてゆきます。

実は市民も現実的であると自ら言います。現実のさまざまな、目の前の権益に飲み込まれ、つながりを保とうとします。「私たちはここで生活をしているのだから、、、」だから、飲み込まれてしまうということです。行政ににらまれてはいけないし、コーディネーターと仲良くしないと、、、、。飲み込まれないあなたはよそ者、そんな意識が見え隠れします。目の前の現実性を問えば問うほど近視眼的にまちを見てしまいます。

権益や帰属意識に飲み込まれると、誰が見ても古ぼけた建て替ざるを得ない駅の改築も前に進みません。目の前の人や権益や因習に飲み込まれるから進まないのです。考えるべきはそのような権益でも帰属意識でもなく、もっと広い視野を持った、駅を総合的に考える展望です。

駅とは通勤客の単なる乗降場所ではありません。まちの玄関であり、顔であり、人々が集う居場所であります。まちそのものと言えるのです。 まちづくりも、公園づくりも、駅を改築することも、目の前の狭い現実性ではなく、地域の文化や風土、そこに集う人たちの本質を問うことが不可欠です。

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