しかし、このようにCO2の削減量だけにとらわれていいのでしょうか。私たちは騙されていないでしょうか。私たちは世界を欺いていないでしょうか。
これはデンマーク、コペンハーゲン中央駅から電車で20分ほどの住宅地です。
世界に目を向ければ、ユーロッパもアメリカも都市さえ豊かな自然環境を保っています。東アジアも豊かな水田地帯を持ち、都市も少ないながら身近な緑を大切にしてきました。
今議論していることは日本の貧しい都市環境には全く触れず、目の前の排出ガスのことばかりで、エネルギーの合理化、省エネルギー化のことです。CO2で語られることは私たちが住まう生態系にかかわる仕組みを論じているものではなく、エネルギーをどれだけ最小にできるかという経済の仕組みそのものと言えるからです。それはエコロジーのことではなく、エコノミーにつながることなのではないでしょうか。
一人ひとりの価値観が変わってゆくことは大切なことですが、CO2削減がゲームのように単なるエコノミーにかかわることであれば、コスト削減による余剰のコストはどこかで使われ、CO2に変化します。また、それを規制すると世の中のキャッシュフローが滞り、不況となって、政府の対策としてキャッシュが出回り、またそれもCO2に変化するのではないでしょうか。どちらにしてもエコノミーの領域である限り、CO2から逃れられないのでは?
一方、計算上はマイナスばかりを集計するのですから、日本の削減量は素晴らしいものになるはずですが、、、、、しかし、実態はそうはうまくはいかないのではないでしょうか。国民が躍るだけになりはしないでしょうか。残るのは貧しい都市環境ということになります。
環境への視点とは生きた生態系の中で様々なつながりを想像することです。農産物の生産量を上げるために農薬を使う、そのために虫や鳥や生物までもいなくなる、当然それは人間の生命にも及んでくる、、、、社会はつながっているのです。それがレイチェル・カーソン「沈黙の春」での貴重な提言です。
CO2だけにとらわれると、
原子力発電の少ない中部電力が東京電力より削減率が悪くなり、車や冷蔵庫などはわずかな省エネ商品への買い替えに走り、こうこうと眩しくまた、ちらちら目が疲れる蛍光灯ばかりになって水銀の廃棄処理に困ってしまったり、、、、、、。
CO2ばかりに目を向け、独り歩きをし、数値目標に徹底して取り組む側面は日本人の得意とするところですが、どこかに間違いがあるのではないでしょうか。
1 件のコメント:
島崎さん
筒見です。お久しぶりです。
ブログへの投稿ありがとうございます。
ご指摘のように、確かにCO2削減がゲームにようになっていることは否めないですね。
ただ今後人類は、「低炭素社会」に向かっていかなければならないことだけは、確かなのではないでしょうか。それは10年や20年のスパンではなく、おそらく50年スパンだと思います。
そうしないと地球温暖化により、美しい都市も田舎も、自然環境が破壊されることになるというのが、現時点における大半の科学者の見解です。なかなか実感はできませんが。
この事実?をどう捉えて、今具体的にどういう行動を取るかだと思っております。
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