2009年8月6日

身体的空間としての建築

建築の基盤となる考え方、場所性と身体性。どちらも大切なものですが、現代は場所性優位の時代と言えるかもしれません。

妹島和世さんから始まった、透明感あふれる建築の姿。そこに生きる人の活動を融合し、展開してゆくすばらしい建築です。そうした有機性を持った建築を僕も目指しています。

しかし、ガラスあふれる、がらんどうの現代建築の多くは似ているようですが、彼女の建築とは全く異なります。多くの組織事務所や建設会社、あるいは建築家が、オフィスビルや学校や図書館さえも、流行のごとく、表層的な側面だけ彼女を追随しました。

フラット、透明感、軽やかさ、言葉さえもう消費しつくされたかもしれません。後を追うことはつくるのも考えるのも簡単です。

20世紀のはじめ、ミース・ファン・デル・ローエにより構想されたガラスの摩天楼は彼自身の設計によってレイクショアドライブ・アパートメントやシーグラムビルなどとなって具現化され、それらがその後、経済至上主義の建築に流用され、無機質なオフィスビルとなって世界の都市を席捲してしまったように、ちょうど今つまらないガラスの、がらんどうの、軽く見せる建築ばかりになってしまっています。

そうした建築は現代の人を蝕んでいないでしょうか。 それらは元気で明るく、活動的で多様な活動志向を持った人を想定し、動的な建築として設計されてはいないでしょうか。

しかし、現代では多くの人が精神的に病んでいるようにも見えます。子供も青年も、そして高齢者も。現代の建築は彼らにとっても、とても厳しく、また危険なものになってしまいました。

本当のバリアフリーとは何かを考える必要があります。それは、車いすを使う市民も、白いつえを突く市民も、明る過ぎて、遮るものがなくて、音が響き過ぎて、紫外線が入り過ぎて、精神的な圧迫感を感じている市民にも、誰でもが心安らかに佇める居場所となる空間のことではないでしょうか。

バリアフリーと言って、単に平坦であったり、スロープで代用したりするだけ、本当のバリアフリーは考えていないのです。ガラスによる内外の透過性は本当のコミュニケーションを考えたものではありません。

それこそ本当に軽さを持った、人の衣服のようなフィット感とやさしさを持ったインテリアのような建築であり、そのような人を支え、包むような空間が必要のように感じています。

それは人の身体性を豊かなものであると考え、それらによって形作られた意味によって作られた建築です。多くの意味を持ち、それを多様な人たちに読み取らせる(アフォーダンスと言いますが)仕掛けのある建築です。そこにこそ建築家の職能があるのではないかと考えています。

もう一度、一つひとつ空間の意味を身体性から創りださなければなりません。ポストモダニズム、30年前にロバート・ベンチューリやチャールズ・ムーアが始めたこの運動を今私たちもやらねばならないのかもしれません。真剣な真のバリアフリー空間をめざして。

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