2009年8月1日

集団行動が苦手な高校生の手紙

「集団行動が苦手」 (http://www.yomiuri.co.jp/jinsei/shinshin/20090801-OYT8T00297.htm?from=os4 より)

「16歳の女子高校生。学校へ行くのがとてもつらいです。集団行動が苦手で、社交的ではないので、親しい友達が少ないです。もっとみんなと仲良くなりたいと思っていますが、うまく話せません。

私は人と話す時、相手の顔色ばかり気にします。嫌われたくないので、話を合わせてしまいます。こんな自分がとても嫌で、前向きな気持ちになれません。もっと自分を主張できるようになりたい。・・・・・(東京・I子)

◇(精神科医 野村総一郎氏の回答)
青年期に、いや、ある程度年をとってからでも、あなたと同じ悩みで苦しんでいる人はものすごく多いですよ。私の見るところ、現代社会には「明るく元気に!」という姿勢が過度に強調される傾向があって、内向的な人が多少無理を強いられているという側面があります。

あなたも自分を主張し、楽しく騒がねばという思いが強すぎて、かえって暗くなっている。うまく話せないから皆と仲良くなれない、焦りがある。しかし、これを解決するためには自分の性格を変えねばならないと思っても、空回りするばかりではないでしょうか。

性格は変えるより、その強みを生かそうとする方が大事なのです。あなたは相手の顔色を見て、相手に合わせる。これは確かに苦しいけど、それこそがあなたの強さかもしれない。むしろこれを徹底して、相手の話をよーく聴き、誠実さで勝負してみては? おとなしく社交的でない素のあなたで十分なんです。大切なのは今のあなたを生かしたままの粘りだと私は思います。」

現代建築もオープン化、透明化へ。コミュニティは昔からおつきあいと村八分の世界。地方自治も中心市街地活性化や定住自立圏構想など中央からの一方的な通達に一面的に応えるばかり。一方向的、一元的社会が広まりつつあります。

一方で新しい有能な企業組織は個人プレーとグループセッションによる独自性を重視した業務を進めています。それは新しいアイデアや企画が必要な分野には以前より不可欠な方向でした。

人も組織も、地域も自らの特性も持っています。それを見極めることが不可欠ですが、実際は高校生I子さんのように「相手の顔色ばかり気にします。嫌われたくないので、話を合わせて」しまっているのではないでしょうか。

今精神科医による組織の分析が必要かもしれません。

4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

「集団行動が苦手な高校生の手紙」を読んで浮かんできたのは

「すべての人を傷つけないように語ることはできない。
 いや、できるかもしれない。
 しかし、そのときは真実を語ることを放棄しなければならない」です

このフレーズのある本の書評がありました、貼り付けます

小浜逸郎の過去の評論を掲載
掲載紙:東洋経済(1998年3月号)
書評 「<対話>のない社会](思いやりと優しさが圧殺するもの) 
中島義道 著    PHP新書    657円

  著者は、先に車内放送やエスカレーターのテープなど公的な騒音の「おせっかいと迷惑」にただ一人敢然と体当たりの闘いを挑んだ記録『うるさい日本の私』という衝撃的な書を著したドイツ哲学専攻の教授である。私は不勉強で、著者の専門分野での業績を知らないが、前著には痛快な刺激と日本人としての反省を味わわされた。
  前著がいわば「実践編」としての面白さで読者を引き付けたのに対して、今度のこの本は、その延長上にあって、しかも「理想編」としての骨格を備えている。ヒット作の続編を書くとボルテージが下がるという結果になりやすいが、この本は、個人的な偏奇の表白として読まれがちだった前作の限界を超えて、<対話>を圧殺する日本社会の惰性的な伝統や慣行に対する批判から、より普遍的な文明論レベルに向かって架橋するという新しい達成が見られる。批判材料も、公的な騒音だけではなく、学生や大人たちの私語、公共地域に立てられた、誰も見ず守りもしない交通安全や美化を訴える醜悪な看板、退屈で無意味な会議に誰も異議を唱えない態度、歩行者が歩けないほどはみ出した違法駐輪など、より多岐に及んでいる。
  著者によれば、日本の伝統的な会話や人間関係は、和を重んじ相互に傷つくことを避ける「思いやり」や「優しさ」の網を過度に張りめぐらせたところに成立しているため、他者どうしの対立が浮上することを極度に嫌い、その結果、真の<対話>が根づく可能性がほとんどない。だからこそ無意味なバカ放送やバカ看板やルール違反が公然とのさばり、一方で大多数の個人の黙認による自己決定・自己責任の回避と自分の言葉の喪失状況が蔓延するのだという。
  日本人は、相手の言葉の「裏読み」の美学に頼りすぎる。もう少し、表現された言葉の表層そのものを大切にすべきではないか。しかしそれは主体を離れた単なる客観的態度をとることではない。真の「対話」とは、自分固有の状況、体験、実感、感受性を丸ごと引きずりながら、しかも客観的真理を求めて語り出すところに生まれる。
  このように紹介すると、いかにもよくある欧米流の「強い個人主義」に立脚した提唱のように見えるが、著者は、欧米においてけっしてよい意味の対話が成立しているわけではないことを指摘し、欧米的な個人主義原理の極限が訴訟や銃や麻薬の充満した野蛮な社会に至り着いていることにも十分批判的な目を注いでいる。日本はその言語的な文化伝統の根深さからして、けっして欧米のようにはならない。せめてあと数%西洋的な言語観を採用すれば、もっと風通しのよい社会が実現するはずだというのが著者の主張である。
  私は、この著者の提案をまともに聞き取るべきだと思う。日本流個人主義の伸長(それ自体は不可逆な歴史的必然だが)が他者への無関心を助長し、ルール感覚の麻痺を生んでいる。この提案には、そうした危機に対する警鐘という時代的な意義が含まれているからだ。
         以上で 書評 終


 南公園(岡崎市)では数年前まで、「犬に糞をさせるな」等の警告・指示看板が氾濫していましたが、気の利く管理者が担当になられたのか、今は、十分の一程度に整理され気分良く歩けるようになりました。

匿名 さんのコメント...

「KY」が流行る国です、下のような考えは、まだ少数派のようです
障害者等との接し方など考えると微妙に難しい点があるようにも思えます


『〈対話〉のない社会』 (思いやりと優しさが圧殺するもの)   中島義道 1997年
144 ページ
   第四章  〈対話〉の敵---優しさ・思いやり
   「思いやり」が〈対話〉をつぶす

(……省略) とくにこの国では、○○のように真実を語ることよりも「思いやり」を優先する教育者が少なくないので、あえてその危険性を告発したいのだ。こういう人間教育のもとでは、若者たちは「思いやり」を尊重するがゆえに真実を語らなくなる。いや、語れなくなる。〈対話〉が成立しなくなり、みな他人への「思いやり」や「優しさ」に押しつぶされて、「なぜですか?ソクラテス」「ソクラテスよ、わかりません」という単純な言葉を発することができなくなる。真相はいつも他人への配慮の背後に隠れ、追求されなくなるのである。なんと風通しの悪い社会であろうか! そこでは、とりわけ弱者の叫び声は「思いやり」や「優しさ」という名のもとに完全につぶされ続ける。そして、○○は特別ではなく これこそ現代日本人がこぞって追求している価値なのだ。みな、真実を語らない社会、言葉を信じない社会、〈対話〉を拒絶する社会をつくりたいのである。それも「思いやり」や「優しさ」という美名のもとに。        
(注)○○ は個人名

島崎義治 さんのコメント...

いつもありがとうございます。大変有意義ないくつかのコメントをいただき、返事が追い付かない状態です。

「真実を語ることでしか存在意義がないコミュニティシンクタンク」と、「真実を語ることに躊躇する市民」、そのギャップにいささか辟易としましたが、多くの励ましにより乗り越えようと考えています。

今回コメントをいただいて、真実を語ることの重要性を新ためて感じました。

今後ともよろしくご指導ください。

島崎義治 さんのコメント...

いつもありがとうございます。
上記コメントともつながりますが、、、

「思いやり」や「優しさ」という紋切り型の葵紋の印籠に対して、郷土に対する本当の思いやりとやさしさが必要ですね。

思いやりが強く、優しすぎる市民が前衛を務めることは難しいと悟りました。前衛を務めるのはコミュニティシンクタンク、、、、。

どうぞ、よろしくお願いいたします。