2009年8月14日

シンクタンクとしての「自民党総研」

自民党総合政策研究所、その設立時は2名の常駐の研究員と9社から派遣された9名の研究員によって、しかるべき提言機能を持ったシンクタンクとしてスタートしたようです。

「大企業と自民党の癒着の代表例。とかくそうやゆされがちな自民党総研だが、産声をあげた27年前の姿は今とはまったくかけ離れていた。  「官僚依存や調整型政治から脱却し、党の政策立案能力を高める」。82年7月、総研の発足とともに発行された設立趣意書には、こんな決然とした言葉が躍る。首相、鈴木善幸の意向を受け、当時の政調会長、田中六助や幹事長の二階堂進が動いた。「目指すは米国のブルッキングス研究所やフーバー研究所だった」と関係者は語る。

「業界トップ企業の加盟は避ける」とのルールだった。政官との結び付きが強いトップ企業から情報が霞が関官僚や族議員に筒抜けとなり、提言機能がゆがめられるのを避ける狙いだった。

スタート当初の活動は活発だった。業務の根幹を成したのは「黄表紙」や「赤表紙」と呼ばれたリポートの発行だ。黄表紙は「総合政策情報」というタイトルで隔週で外交や経済、防衛など複数のリポートを掲載し、党全体に配布された。赤表紙は緊急性のある政策提言をまとめ、機密情報として首相と政調会長にのみ手渡した。

総研設立後間もない82年11月末に中曽根内閣が発足。「日本では珍しいトップダウン型の首相」と言われた中曽根康弘は当初は総研を積極活用した。いくつかの冒険的な提言は首相に実際に採用され、党内における総研の存在感も次第に高まった。中曽根が突然の新方針をぶち上げる度、驚いた党幹部や族議員らは「また総研の仕業か」と怒り狂った。」
http://netplus.nikkei.co.jp/nikkei/news/seiken/seiken/sei090813.html より)

政策中心の政治を行うためには、社会やマーケットを熟知した研究員が、利権から離れて、将来構想を策定する本来の意味を持つシンクタンクが不可欠です。

そして、そうしたシンクタンクとは情報や政策を発信する確かな場を持つことによって、その存在意味を持ち、同時に、利権や癒着の中に埋もれてしまうことで、単なるサロンと化してしまうことも記録からうかがい知ることができます。

その役割を担うもの、地方においてはそれがコミュニティシンクタンクではないでしょうか。

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