2007年6月8日

客観的な視点を持った純粋な中間性媒体

先に紹介したRSDSCのMLで長久手町のまちづくりを紹介いただいた渡辺氏とのやりとりのなかで
「仮に目的や目標は大きく異なっても、どこも同じ問題、課題を共有しているのではないかと、私自身は考えています。少なくとも岡崎の内部ではいろんな活動がありますが、共通した問題がいつも横たわっているように感じています。それを示すことこそ、シンクタンクの役割であり、またそこにこそ、まちづくりの方向性が発見できると思っています。客観的な視点を持った純粋な中間性媒体こそが目指すところです。RCEもそのように僕は考えています。」と書いたところ、中部RCEの設立に奔走されている中部大学の古澤氏より興味と疑問を提示していただいたので、少しまとめてみました。
「大変興味深く読ませていただきました。特に、「客観的な視点を持った純粋な中間性媒体」の部分です。・・・・・・・・が。RCEには膨大な数の”地域”の人々がかかわることになります、その中で、「客観的な視点を持った純粋な中間性媒体」ということになると、その客観的な視点は、どのように生み出されるものなのでしょうか。そして、どのように「客観性」が確保される(あるいは確保されたと人々がある程度認める)のでしょうか。 、、、むずかしい問題だと思いますが。。また、中間性媒体というのは、そういった組織、という意味でしょうか?」



さまざまに行われている市民の活動を支援し、問題解決を共有化し、その問題を提言(発言)していこうと考えています。提言先は行政や企業や、あるいは自らの地域や社会全般ということもあるかもしれません。それはシンクタンクであり、フォーラムであり、ジャーナリズムの機能を持つものです。多くの問題を共有化するために、それぞれの地域で活動する団体、(あるいは個人)の活動の中間に位置し、「それぞれ」とつながる組織を考えています。
しかし、市民活動団体相互に利害関係が生じる場合もあるでしょうし、各地にできている都心再生活動のように視野を限った活動もあるでしょうし、また行政や企業に利用され、地域の弊害となっている活動もあるでしょうし、(もちろん、行政や企業、市民同士が共存できている活動も数多いと思いますが)それぞれに必要な視点を公正性、全体性、独立性、などと考え、まとめて、「客観性」という言葉で表現しました。誰かが主体となって間に立って、振舞わなければならないですので純粋な客観性というものは基本的にはありえないのですが、地域を真に活性化させるためにはこうした公正性、全体性、独立性が不可欠と考えました。
ただ、つなぐといっても無色透明な関係で、ビジネスライクな関係でつながることができればいいのですが、実際は地縁や人のつながりが必要にならざるを得ないと思いますので、中間性という位置付けは画一的なものではないと思っています。ですので厳密に、数値的に中間性や客観性というのは表現できないですが、アメーバーのようなものです。ただ、特に立ち上げ時には、地域の活動家たちの支援やつながり、意欲がないと進まないので、とかく一部の活動団体と積極的につながらざるを得ませんが、それが客観性を失い、一部の利益につながったり、後に続く団体から評価されなくなるのではないかと危惧します。難しい舵取りです。
ですから、僕は、地域で自分たちの活動を行っている"地域"の活動団体は基本的には中間性媒体とは考えていません。膨大な数の活動団体の間に媒体が入り込むのです。そしてつなぐのです。数の多さは基本的な問題ではありません。(多くなれば問題は複雑化、多面化しますが)、だからこそ媒体なのだと考えています。
それゆえ、中間性媒体の存在意義のためにも、客観性が必要と考えました。純粋な中間性媒体はありえないですが、数値では計れない高度の客観性、中間性が必要とされると考えるので、「純粋な」という装飾的表現としました。市民活動をコーディネートしたり、活性化したりする、公的な活動(RCEや今描いているシンクタンク組織)には不可欠だと思っています。

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