2007年7月30日

教育の功罪

まちづくりにかかわりだして、「こうあらねばならない」などと宣言していると、新しい発想がわいてこないような気がしています。大きな不安を抱いています、手が動かなくなるのではないかと心配しています。

実はこのことはある作詞家のことを本にするという企画があって、彼が教育的な企画をやって以来、作詞という創作活動から離れてしまい、面白くなくなってしまったのではないかと考えたことにその発端があります。

しかし、他人事ではなくなってきました。それを自分に置き換えると、正義や不合理さを、社会に問い続けていると、知らないうちにかなりのスランプに陥っていることが、突如わかることがあります。

何かを、誰かを教育しようとするのは、もしかしたら人から発想や想像力を失わせるものかもしれません。「教え」、「育む」とはとても畏れ多いことばです。 教育の可能性があるとしたら、もっと、別な方向のはずです。

そう言えば、芸術家で教育的な人はいないですね、むしろ非教育的と言うべきかもしれません。しかし、教育的と非教育的、その境界は難しいものです。芸術家はその作品や活動によって社会を啓蒙します。僕たちはその背中を見て、古い社会に立ち向かう勇気や闘志を学ぶのだと気がつきました。

大切なことは学ぶための素直な心、共に学ぶという姿勢でしょうか。先日、まちの公園のあり方を考えていて、その方向性がすぐには見えなくて焦っていたのですが、そこでの市民のさまざまな具体的活動が見えてきたことによって、豊かな公園のあり方が見えるようになってきました。

その硬くなった考えを解きほぐしてくれるのが、多様な市民の柔らかな考えだったり、学生のどことなく頼りなさ、不安げな、しかし、何者にもとらわれない無垢な発想なのですね。

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