2007年7月8日

場所の力

岡崎のすばらしい景観の一つ、伊賀川畔の土手に桜のトンネルがあり、また周辺には大きなはぜの大木などが残っていました。この景観が今危機に瀕しています。

場所とはこれまでの積み重ねの中にいろんな意味が隠されたもので、それをどのように読み解いて価値を見出すか、が大きな鍵となります。それはこれまでも空間的要素の位置的、接続的関係を示す大地のトポロジーとも言われます。現実のまちにはこれに生きている意味的関係が付加されます。

地元の建築家、北野氏は次のように語ります。

伊賀川の桜には特別の思い入れがあります。
その1 川べりは、異界が垣間見せる場所。勝手野放図が許される場所。治外法権の場所でした。世界の歴史ある都市に、川のないところを探すのは容易でありません。都市は川によって生かされている共同体です。
その2 自動車世界No1企業の掟に、「桜をはじめ樹木の一本たりとも殺めるな」というものがあるそうです。工場内駐車場整備のために、桜の木を一本切った管理職が、突然いなくなったそうです。社員の間で、あの人はどうなっただろうかと、しばらくうわさになったそうです。 最悪、木がじゃまになる時は、費用を度外視して移植する。
その3 岡崎公園の伝説の場所が危機に瀕しています。これも駐車場関連ですが、浄瑠璃姫のお墓と、三州ばけ猫騒動(東映)の坂道が取り壊されます。城郭史の上からも意義のある遺構だそうです。 周りには大木が繁っています。史跡公園のひとつの史跡が、行政によって壊されようとしています。 
その4 三年ほど前、安城の炭焼き校長先生のお話を聞く機会を得ました。先生は、鹿乗川支流の土手に桜を植えようとしたところ、行政から禁止されたそうです。「治水上堤防は、舗装も植樹もしてはいけない場所」と、説得を受けたそうです。伊賀川をたとえに上げたところ、行政との合意はあって、例外事例のようだったとのことでした。

その5 さて伊賀川の桜 敗戦後一人の篤志家が個人で植えた桜がその起源です。私が高校生のころ、その篤志家が亡くなられました。桜の満開のころでした。むかし、火葬場は伊賀川の上流の稲熊にありました。井田小学校の近くで、煙突の煙を見るごとに、また一人と、小学生心に感じていました。 いまもむかしも伊賀川は、火葬場への道筋にあります。 川辺の満開の桜達が、最後のお見送りをしたと思ったことがあります。 中学生時代、葵中学の夏の行事に、伊賀川の草刈りがありました。全校一丸、鎌で草を刈り、リヤカーやオート三輪に乗せ、学校まで運び、堆肥を作る。1日授業を中断したイベントでした。汗をかき、苦しい思いをして、大変な一日でした。

と、さまざまな繋がり、物語がまちをつくっているのです。

0 件のコメント: